第16話:城ヶ崎のプレゼント
ホームルーム前の教室は、週末の出来事を報告し合う笑い声で適度にざわついていた。窓から差し込む五月の朝日が白く埃を照らしている。
そんな教室の中で、俺の席のすぐ前にやけに異様な光景があった。
大原さんの机の前に、大きな身体を窮屈そうに折り曲げた城ヶ崎が立っていた。いや。立っているというより、両手を胸の前で合わせて深々と頭を下げている。今にも床に膝をつきそうな勢いだった。大原さんと横山さんが、面白くてたまらないといった顔で城ヶ崎を見上げている。
何を朝から拝んでいるのか。あいつの頭の中は本当に読めない。
呆れ半分で歩み寄り、城ヶ崎の広い背中に声をかけた。
「おはよう、城ヶ崎君。朝から大原さんと横山さんを拝んで、何かのお祈りでもしてるの?」
声をかけた瞬間、城ヶ崎の肩がビクッと跳ね上がった。
「うわっ……ひ、姫宮……!」
弾かれたように振り返った城ヶ崎は、後ずさりして後ろの机に腰をぶつけた。顔の赤さは一段と増し、視線があちこちへ泳ぎまくっている。まるで悪事の現場を現行犯で押さえられた子供そのものだった。
「な、なんでもない! なんでもないって! ちょっと二人にその、頼み事をしてただけで……!」
「頼み事?」
首を傾げる俺の横から大原さんが机に頬杖をつきながら、楽しげに口を挟んできた。
「隠さなくていいじゃない、城ヶ崎君。別に悪いことしてるわけじゃないんだし」
「ちょっと大原さん……!」
必死に小声で制止しようとする城ヶ崎を涼しい顔で受け流し、大原さんは俺に向かって事も無げに言った。
「城ヶ崎君からね、姫宮さんに長ズボンの私服を見繕ってくれないかって真剣にお願いされたのよ。今度の休みにあたしたちで姫宮さんを買い物に連れていって、似合う服を選んであげてほしいんだって」
横山さんも口元に手を当て、肩を揺らしながら小さく笑った。
「朝イチでうちとモモの席に来て、頭下げられたんよ。もう、彼女に服をプレゼントしたいなんて、殊勝な心がけやん」
「なっ……! か、彼女とか彼氏とかじゃないって! 変な冷やかしはやめてくれよ、横山さん!」
城ヶ崎は両手をぶんぶんと振って必死に否定した。顔の赤さは限界を突破して、首筋まで茹で上がった蛸のようになっている。
だが俺には、あいつが何を慌てているのかさっぱり分からなかった。
「ボクに長ズボンの私服? なんで城ヶ崎君が大原さんたちにそんなことを頼むのさ」
俺が純粋な疑問として問いかけると、城ヶ崎は途端にしどろもどろになって視線を落とした。
「それは……その……」
「ほら、城ヶ崎君。あたしたちも理由が気になるわ! もうバレちゃったんだし、早く言いなさいよ!」
大原さんに促され、城ヶ崎は観念したように重い口を開いた。
「……この前の夜のことだよ。部活が終わったあと、街へスパイクを買いに行った帰り……駅前でさ」
「ああ、あのときか」
駅前で城ヶ崎を待っているときに、金髪の男が絡んできた件だ。しつこく腕を引かれそうになったから、反射的に制圧しただけのことである。
「姫宮がさ、ナンパしてきた男を腕ひしぎ十字固めで押さえ込んだだろ」
城ヶ崎の言葉が出た瞬間、大原さんと横山さんの動きが完全に静止した。
教室のざわめきが二人を取り巻く空間からふっと消え去り、まばたきすら忘れたような顔で城ヶ崎と俺を交互に見つめている。
数秒の完全な沈黙ののち、横山さんが机に突っ伏して腹を抱えた。
「ちょっ……腕ひしぎ!? 駅前で!? スカートのまま!?」
大原さんも堪えきれずに吹き出し、両手で顔を覆って笑い転げた。
「嘘でしょ姫宮さん! 駅前でナンパ男に十字固め決めたの!? 何それ、強すぎるにも程があるでしょ!」
「ちょっと、二人とも笑い事じゃないって!」
城ヶ崎が真剣な顔で割って入る。その目は少しもふざけておらず、切実そのものだった。
「あのときの姫宮、学校の制服だったんだぞ。スカート履いたまま、地面に男を引き倒して腕を極めてたんだ。スカートで寝技なんて危なすぎるだろ。見てるこっちの心臓がもたないって。せめて長ズボンならあんなにヒヤヒヤしなくて済むのにって……だからお願いしたんだ」
城ヶ崎の必死の訴えに、俺は心外に思って口を挟んだ。
「城ヶ崎君は大げさなんだよ。相手の腕を両足でしっかり挟んで押さえてたんだから、スカートがめくれる隙間なんてなかったよ。技の邪魔にもならないし」
「ほんまに?」
横山さんが面白そうに目を細め、いたずらっぽく城ヶ崎の肩を小突いた。
「どういう技かめっちゃ気になるわ。城ヶ崎君、ちょっと姫宮さんにかけてもろてや」
「はぁっ!? な、なんで俺が……!」
「いいじゃない、城ヶ崎君。自分の目で見て危ない危ないって言ってたんだから、確かめなきゃ説得力ないでしょ」
「大原さんまで何を……!」
城ヶ崎が慌てて後ずさりしたが、俺はすんなり納得して頷いていた。説明するより、一度体感してもらったほうが話が早い。
「うん、それが一番分かりやすいね。痛くはしないから、ちょっと力を抜いて床に横になってみて」
「ま、待てって姫宮! ここでやるのかよ!?」
「すぐ終わるから。はい、手を出して」
教室の後ろの空いたスペースへ城ヶ崎を連れていき、床に仰向けに寝かせる。城ヶ崎のガッシリした右手首を両手で掴み、胸の上へ右脚を跨がせ、頭の上側へ左脚を渡す。そのまま腰を深く落として後ろへ倒れ込んだ。
城ヶ崎の右腕を両太ももでしっかりと挟み込む。もちろん相手は大事な投手だ。万が一にも肘を痛めないよう、関節が極まるずっと手前で完全に力を止めている。ただ腕を胸に抱え込んでいるだけだ。
ただ技の支点を安定させるため、俺の左の太ももは自然と城ヶ崎の頬からこめかみにぴったりと密着していた。あの駅前の男のときはここまで密着させる必要はなかったが、城ヶ崎は体が大きすぎる。今の俺の小柄な体格では、限界まで体を密着させて遊びをなくさないと、太い腕を完全に抑え込めない。
「ね? こうすれば、相手は頭を起こして逃げられないんだ」
解説しながら見下ろすと、視界のすぐ下で城ヶ崎が呼吸を止めて完全に石化していた。
耳の先まで真っ赤を通り越して赤黒くなり、見開かれた目が真上にある俺の顔と、至近距離に迫る制服のスカートの間を激しく彷徨っている。
ふと視線を上げると、教室の後ろ半分が信じられないほどの静寂に包まれていた。
大原さんは両手で頭を抱えて口をあんぐりと開け、横山さんは腹を押さえて膝から崩れ落ちそうになっている。近くの席の男子生徒たちに至っては、全員が気まずそうに、しかし視線のやり場に困って一斉に天井を見上げていた。
「……アウトーッ!」
静寂を破ったのは、大原さんの悲鳴のような絶叫だった。
「完全に一発退場! 姫宮さん、今すぐ脚をどけて! 城ヶ崎君の頭から離れて!」
「え、でもまだ逃げ方の説明してないよ?」
「逃げ方とかどうでもええから! 城ヶ崎君の顔に太ももがめり込んどる! 息止まって気絶しそうやんか!」
横山さんに悲鳴交じりで急かされ、俺は渋々脚を解いて立ち上がった。スカートの裾をパパッと払う。
床に残された城ヶ崎は、両手で顔を覆ったまま海老のように丸まり、震える息を小さく吐き出していた。
「でも、ちゃんと技はかかってたよね?」
「「そういう問題じゃない!」」
二人の声が、見事なまでに重なって教室の後ろに響いた。
「姫宮さん、技がかかるかどうかなんて誰も聞いてないの!」
大原さんが眉を吊り上げて、ビシッと俺を指差した。
「女の子がスカートで男の人を締め上げること自体がアウトなの! だいたい姫宮さんは、休みの日になんで制服で出歩いてるのよ」
「え? だって、制服とジャージしか持ってないし……」
大原さんが目を丸くし、横山さんは呆れたように天井を仰いだ。
「昨日の練習試合も、そのあと城ヶ崎君の家に行ったときも制服だったよ。学校がある日はお風呂に入るまで制服のままだし。何を着ていくか迷わなくていいからね」
「城ヶ崎君の家……!? それは一旦置いておくとしても! 姫宮さん、本当に可愛い私服を持ってないの……!?」
大原さんが机をドンと叩いた。
「決まりね。今度の土曜日、三人でお買い物に行くよ。あたしとヒロで、姫宮さんにちゃんとした私服を一式揃えてあげる」
「ええね、それ。うちも賛成。姫宮さんに似合う服、うちらで探したるわ」
「いや、ちょっと待ってよ。服なら間に合ってるし、わざわざ買いに行かなくても……」
俺が断ろうとすると、それまで縮こまっていた城ヶ崎が勢いよく身を乗り出してきた。
「服の代金は俺が出す! 俺が頼んだんだから、俺が出すのは当たり前だ!」
「城ヶ崎君、何を言ってるのさ。ボクが着る服なんだから、どうしても買うなら自分のお金で出す。城ヶ崎君に出してもらう筋合いなんてないよ」
「ダメだって! 俺が長ズボンを履いてくれってお願いしたんだから、俺が払わなきゃ筋が通らないだろ! 昨日、初登板のお祝いだって父さんと母さんから小遣いもらったんだ。一万円。それで買ってくれよ」
「……悪いよ、そんなの。じゃあ、こうしよう。グラブとスパイクで貸してるお金から、一万円引いておくってことで」
「それもダメだ! 借金は借金で、ちゃんと全部返す。これは俺からのプレゼントなんだよ。一緒にすんなって」
頑固なやつだ。一度言い出したらテコでも引かないことは、今までの付き合いでわかっている。結局、長い押し問答の末、俺のほうが折れることとなった。
そんな城ヶ崎の気迫を見て、大原さんがにんまりと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「へえ、お祝い金を丸ごと出してくれるんだ。頼もしいじゃない、城ヶ崎君。一万円かあ。上下そろえるにはちょっと厳しいけど、そこはあたしたちの腕の見せどころだね。任せて」
「お、おう……。じゃあ、金曜日に大原さんに預けるよ」
初めてのマウンドのご褒美を、俺の私服に回すつもりらしい。もっと自分のために使えばいいのにと思ったが、大原さんと横山さんはすっかり乗り気だ。土曜日の待ち合わせ場所と時間を、テキパキと決め始めている。
こうして休日の私服調達計画は、俺の意思とは関係のないところで着々と進んでいったのだった。
***
迎えた土曜日の朝。
五月の晴れた日、俺は数駅先の大きな駅に直結したファッションビルの前で立ち尽くしていた。
ガラス張りの建物は空に向かってそびえ立ち、自動ドアの向こうからは微かに甘い香水の匂いが漂ってくる。普段の俺なら足を踏み入れるどころか、視界にすら入れないような空間だ。
「姫宮さーん!」
人混みの向こうから、聞き慣れた声が響いた。
手を振りながら小走りで近づいてきたのは、大原さんと横山さんだった。
私服姿の二人は、毎日教室で見ている姿とはまるで別人に見えた。大原さんは短めのスカートに清潔感のある薄手のブラウスを合わせ、髪も綺麗に巻いている。横山さんは全体的にゆったりとしたシルエットのシャツとパンツを組み合わせていて、どこか大人びた都会的な雰囲気を漂わせていた。
そして二人は俺の全身を見るなり、ピタリと足を止めた。
「……ちょっと、姫宮さん」
大原さんが眉間に皺を寄せ、信じられないものを見るような目を向けた。
「やっぱり制服なのね……」
「だって動きやすいし。ある程度フォーマルだから、失礼にもならないよ」
横山さんが吹き出し、口元を押さえて肩を震わせた。
「もう、ほんまにこの子は……。まあええわ、分かっとったけど」
大原さんは大きなため息をつくと、小さなバッグから白い封筒を取り出してひらひらと振ってみせた。
「ほら、これ。昨日の放課後、城ヶ崎君からしっかり預かってきたよ。きっかり一万円入ってる」
「城ヶ崎君、本当にお祝いを全部渡してきたんだ……」
「『よろしくお願いします』って、ものすごい顔で頭下げられたんだから。城ヶ崎君、今日は朝から部活なんだってね。自分のいないところで姫宮さんの服が選ばれるのが、よっぽど心配だったみたいだけど」
「心配って、何が心配なんだか。服なんて着られれば何でも同じなのに」
俺が肩をすくめると、二人は顔を見合わせて「これだから……」と呆れたように首を振った。
「いい? 今日の任務は、姫宮さんに最高に似合う長ズボンのコーディネートを完成させること。城ヶ崎君のお財布の犠牲を無駄にしないためにも、気合入れていくよ!」
「おーっ、うちも腕が鳴るわ」
二人のすごい熱気に押されながら、俺たちはビルの自動ドアをくぐった。
冷房の効いた涼しい空気が肌を撫でる。
一階のエントランスを抜けると、フロアの右手に青と白を基調とした大きな店舗があった。ショーウインドウの向こうには、最新のランニングシューズやトレーニングウェアがずらりと並んでいる。大手スポーツ用品店だった。
俺の足は、吸い寄せられるようにその店へと向かっていた。
「あ、見てよ二人とも。あそこの棚、すごくいいのが置いてあるよ」
陳列棚に並んだ黒い衣類を手に取り、俺は二人に振り向いて熱弁を振るった。
「これは運動用のタイツなんだけど、関節をサポートする機能があるんだって。汗をかいてもすぐ乾くらしいよ。急に走っても平気だし、長ズボンの代わりにこれで出歩くのが一番じゃないかな。ちょっと試着してみようよ」
我ながらいい提案だと思った。長ズボンという条件も満たしている。
だが大原さんと横山さんの表情は、極北の氷河のように冷え切っていた。
「……ヒロ」
「……モモ」
二人は無言で目配せを交わすと、左右から俺の二の腕をガッチリと掴んだ。
「ちょっと、二人とも何するの」
「スポーツタイツを買いに来たんちゃうねん!」
「連行! エスカレーターへ直行よ!」
文句を言う間もなく、俺はスポーツ店から引き剥がされて上りエスカレーターへ乗せられてしまった。運動用のタイツが遠ざかっていくのを、俺は名残惜しく見送るしかない。あんなに機能的なのに、もったいない話だ。
三階に到着すると、そこは視界の端から端まで女性向けのファッションブランドで埋め尽くされていた。
柔らかな照明の店内には、色とりどりの服が整然とハンガーに掛けられている。店員さんたちの穏やかな声が響き、買い物客たちが楽しそうに服を手に取っていた。
「さあ、着いた。まずはここから見ていこう」
大原さんが意気揚々とラックの間へ入っていった。横山さんも慣れた手つきでハンガーを滑らせ、次々に服を吟味している。
俺も突っ立っているわけにはいかないので、近くにあったラックから一本のパンツを手に取ってみた。薄茶色の、少し細身のパンツだった。
両手で生地を掴み、左右に軽く引っ張ってみる。
「……全然ダメだな」
「何がダメなのよ」
背後から大原さんが首を突っ込んできた。
「生地が横に全然伸びないよ。しゃがんだら太もものところで突っ張るし、階段を一段飛ばしで上がるのもきつそう。それに腰にゴムが入ってないから、いちいちベルトを締める必要があってトイレのとき手間だよ」
大原さんの顔から表情が消えた。
俺は気にせず、隣のラックから別のパンツを手に取った。足首に向かってラッパのように大きく広がっている、ゆったりとした薄手のパンツだ。
「これも却下だね」
「今度は何が気に入らないの」
「裾が広すぎる。走ったら脚にまとわりつくし、雨の日は裾が濡れて重くなりそう。ゆっくり歩くことしか考えてない作りだよ」
「……あのね、姫宮さん」
大原さんが深いため息をつき、片手を額に当てた。
「誰が服屋で、階段の一段飛ばしを前提に服を選ぶの? 誰が走る前提でパンツの裾幅を決めるのよ」
「いや。でも、急に走らなきゃいけないときに足が動かない服を着ていたら困るでしょ」
「困ってるのはあたしたちのほうよ!」
横山さんも寄ってきて、笑いをこらえながら首を振った。
「あかんわ、モモ。この子に服選ばせたら、最後はジャージに戻ってくるで」
「うん、完全に理解した」
大原さんはすっと背筋を伸ばし、真剣な面持ちで俺の目を見据えた。そして、人差し指をピシッと突きつけて宣告した。
「姫宮ほのか選手。あなたに本日付で戦力外通告を言い渡します」
「せ、戦力……外……?」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥を鋭い衝撃が貫いた。
目の前の景色が一瞬だけ揺らぎ、遠い過去の記憶が脳裏をかすめた。
もう二度と全力で右腕を振ることはできない、と告げられた日。ユニフォームを脱いでグラウンドを去った、あの日の冷たい空気が肌によみがえる。
喉の奥がヒュッと鳴る。急に呼吸が浅くなって胸元をぎゅっと掴むと、膝から力が抜けてその場に崩れ落ちそうになった。
「えっ、ちょ、姫宮さん!? 大丈夫!?」
「ちょ、モモ、この子めっちゃ顔色悪い! 息して!」
大原さんと横山さんが慌てて両脇から抱き留めた。周りの買い物客が何事かと不審そうに振り返る中、俺は二人に引きずられるようにして試着室前のソファへ運ばれた。
背中を叩かれ、ようやく大きく息を吐き出す。
「……ご、ごめん。ちょっと立ち眩みが……」
「ほんと、無理しないでね?」
「大丈夫……? 体調悪いならちゃんと言いや?」
大原さんと横山さんは心配したような顔で俺を見つめていた。前世の記憶がフラッシュバックしたなどと言えるはずもない。
「ごめん。申し訳ないけど、二人で服を選んでいてもらえないかな? ボクはしばらくここに座って休んでるよ」
「……わかった。しっかり休んでてね」
肘を壊した日のことを、まさか服屋のど真ん中で思い出すとは夢にも思わなかった。
幸いなことに、体調はすぐに落ち着いてくれた。ふかふかの革張りのソファは座り心地こそいいが、手持ち無沙汰でどうにも落ち着かない。
大原さんと横山さんは気を取り直したように、鋭い目つきで売り場へと散っていった。二人はあちこちのラックを巡ってはひそひそと相談し、時折こちらを見て頷き合っている。俺は完全にまな板の上の鯉だった。
十分ほど待ったところで、二人が両腕いっぱいに服を抱えて戻ってきた。
「お待たせ! じゃあ姫宮さん、第一弾いってみよう!」
大原さんから手渡されたのは、細身のデニムパンツと白いカットソーだった。
「これに着替えればいいの?」
「そうよ。試着室に入って、着替えたらカーテン開けて出てきてね」
言われるがままに試着室の中に入り、分厚いカーテンを閉めた。
ブレザーとブラウスを脱いで、渡されたカットソーに袖を通す。そして制服のスカートを脱ぎ、デニムパンツに足を通した。
脚を入れた瞬間、生地が肌にピタッと吸い付くような感覚があった。ウエストのボタンを留め、ファスナーを上げる。
試着室の姿見に自分の姿が映った。
鏡にはろくに目もくれず、膝を少し曲げてみる。曲がらないことはないが、やはり布地の張りが膝に直接当たってくる。
「姫宮さん、着替えられたー?」
カーテンの外から横山さんの声がした。
「うん、着替えたよ」
カーテンをシャーッと開けて外へ出た。
その瞬間、ソファの前で待っていた二人の息を呑む音が聞こえた。
「…………っ!」
「うわ……!」
大原さんが両手で口元を押さえ、横山さんは目を丸くして固まっていた。
「な、何? やっぱり変かな」
「変なわけないでしょ! ちょっとヒロ、見た!? 脚、細っ! モデルさんみたい!」
「ほんまや……! 顔が小さいから、身長低くてもスタイルが良くなるんやな! デニム履いただけでこんなに化けるん!?」
二人が一斉に駆け寄ってきて、俺の周りをぐるぐると回り始めた。
「これ、めっちゃ似合ってるわ! シンプルやのに足のラインが綺麗すぎて見惚れてまう!」
「でしょう!? あたしの目に狂いはなかったわ!」
大騒ぎする二人をよそに、俺はその場で軽く膝を屈伸させた。
「でもこれ、膝を深く曲げるとちょっと突っ張るよ。しゃがむたびにきつそうだし、生地が厚いから汗をかいたら乾きにくそう」
「デニムは汗をかくほど動く日に履くものじゃないの! はい次、第二弾いくよ!」
次に手渡されたのは、明るいグレーのワイドパンツと淡いピンクの薄手のニットだった。
再び試着室に入り、着替える。
今度のパンツはさっきのデニムとは打って変わって、肌に触れる感覚がさらりとしていて軽い。太ももやふくらはぎの周りに十分な空間があり、布地が揺れる。
着替えを終えてカーテンを開けると、今度は横山さんが両手を打ち鳴らした。
「おおーっ! めっちゃええやん! 一気に大人っぽいお姉さんになったで!」
「すごい、上品! 淡いピンクのニットとグレーのパンツがすごく合ってる。清楚で、ちょっとお出かけするのに最高じゃない!」
二人は大絶賛だったが、俺は足元を見下ろして首を傾げた。
「すごく軽くていいんだけど……裾がゆらゆらして走ったら足に絡みそうだよ。それにこのニットは柔らかすぎて、洗濯機で洗ったら一回で伸びちゃうんじゃないかな」
「だから! 誰もその格好で走れなんて言ってないし、ニットは手洗いするの!」
大原さんが眉を八の字にして叫んだ。
「どうして姫宮さんは、走れるかどうかと洗えるかどうかの話しかしないのよ! もっとこう、可愛いとか着心地がいいとかないわけ!?」
「着心地はすごくいいよ。さらさらしてて気持ちいい」
「ならよし! 次、いこうか……って、あれ?」
大原さんが言葉を途中で止め、隣の横山さんを見た。横山さんはハンガーの陰から、ニヤニヤと怪しい笑みを浮かべながら何かを取り出していた。
「なあモモ、これ見てみ。さっきラックの隅で見つけたんやけど、めっちゃ可愛くない?」
「ちょっとヒロ、何それ! 長ズボンに合わないじゃない!」
横山さんが両手で広げてみせたのは、黒いミニ丈のワンピースだった。
細い肩紐がついたデザインで、二の腕のところだけがふんわりと膨らんでいる。胸の下からふわりと広がる可愛らしい形だ。
「いやいや、長ズボン買いに来たんやけどさ。姫宮さん、スタイル抜群やし肌白いから、こういうの着たらどうなるんか気にならん?」
「気になる……! めっちゃ気になる……!」
大原さんの目がギラリと光った。
「待ってよ。さっきも言ってたけど、長ズボンを履くような服じゃないんじゃない? それに上半身には無駄な布が多くて重そうだし、絶対に買わないと思うよ」
「買う買わないは後! お願い、一回だけでいいから着てみて!」
「着るだけ! 着るだけタダやから!」
二人に背中を押され、俺は逃げる間もなく試着室へ放り込まれてしまった。
ため息をつきながら、渡された黒いワンピースに袖を通す。
細い肩紐で支えられた胸元は大きく開き、両肩から鎖骨にかけてがすっかり剥き出しになっていた。二の腕を覆う袖はふんわりと膨らみ、胸の下で切り替えられた生地は、裾に向かってゆったりと広がっている。
丈は太ももの半ばまでしかなく、少し動くだけでちらちらとスパッツが見える。
「姫宮さん、着替えられたー?」
「……着替えたよ」
カーテンをゆっくりと開けた瞬間、ソファの前に立っていた二人が、完全に呼吸を止めて固まった。
「…………っ」
「うわ……マジか……」
大原さんは両手で口を押さえ、目を信じられないほど見開いている。横山さんは顎が外れそうなほど口を開け、まばたきすら忘れて俺を凝視していた。
「変?」
「変なわけないでしょぉぉぉっ!!」
大原さんが悲鳴のような声を上げて駆け寄ってきた。
「ちょっとヒロ、見た!? 鎖骨と肩! 袖のふわふわと細い腕のギャップがやばいし、脚、細くて長っ! お人形さんみたい!」
「ほんまや……! めちゃくちゃ可愛いやん! 清楚な感じやのに、肩も脚も出とって破壊力ありすぎやわ!」
二人が俺の周りをぐるぐると回りながら、黄色い声を張り上げて大興奮している。
「買わないのにあまり長く着るのはよくないよ。もう脱ぐね」
「待って待って!」
横山さんが突然、ポケットから携帯電話を引っ張り出した。画面を開き、カメラをこちらへ向ける。
「なあモモ。これ、城ヶ崎君に送ってみぃへん?」
「送る!! 絶対に送る!!」
「部活中だし、邪魔しちゃ悪いって」
俺が止めようと手を伸ばした瞬間、カシャッと乾いたシャッター音が響いた。
横山さんが素早い指さばきで携帯のボタンを連打し始める。
「ええねんええねん、ちょうどお昼休みに入る時間やろ。一万円も奢ってもらうんやし、お礼せな。『今日の姫宮さんです、長ズボンやなくてこれ買うかも』って書いて、送信っと!」
横山さんは得意げに携帯を掲げ、大原さんと顔を見合わせて悪戯っぽく笑い合った。
「あはは、城ヶ崎君、どんな顔するやろな!」
「部活の疲れなんて一瞬で吹き飛ぶわよ、絶対に!」
二人の反応が不思議だ。たかが写真一枚に期待し過ぎではないだろうか。
「二人ともどうしてそんなに城ヶ崎君に見せたがってるの? まあ、とりあえず着替えるね」
俺が試着室のカーテンを閉めようとした、まさにその瞬間だった。
ブーッ、ブーッ、ブーッ!
静かなフロアに、横山さんの携帯の着信バイブが激しく鳴り響いた。
送信から一分も経っていない。部活中のはずなのに、尋常ではない速さだった。
「うわっ、もう返信きた!」
横山さんが目を丸くして画面を開く。大原さんも横から画面を覗き込んだ。
次の瞬間、二人が同時に吹き出し、床に崩れ落ちるようにして笑い転げた。
「ぎゃはははははっ!! ちょっと、これ見て!!」
「息が……っ、お腹痛い!! 早すぎるし文面がヤバい!!」
二人が腹を抱えて涙を流している。何が書いてあるのか気になり、俺は試着室の隙間から首を出した。
「なんて返ってきたの?」
横山さんが笑いすぎて震える手で、携帯の画面をこちらに向けて見せてくれた。
『かわいすぎるけどだめ!!!
それはだめだ ながずぼんかってくれ たのむから』
変換もろくにできていない、ひらがなだらけの短い文面。
「変換すらしてないじゃない!」
「絶対一瞬で打ったやつやん! グラウンドの隅で叫びながら連打しとる姿が目に浮かぶわ!」
二人は手を取り合って、まだ肩を震わせている。俺は深いため息をつき、露骨に呆れた目を向けた。
「だから言ったでしょ……。部活中だし、あまり長い間携帯を触るわけにはいかなかったんだよ」
「ごめんごめん! でも最高の一枚が撮れたわ。これはあたしたちの宝物にしとく!」
大原さんが満足そうに頷き、ようやく服のラックから本命の一着を引っ張り出してきた。
「さ、城ヶ崎君の心臓を守るためにも、ちゃんとした長ズボンを着ましょ。最後、第三弾!」
手渡されたのは、落ち着いたカーキ色のカーゴパンツと上半分が白、下半分が黒のジップアップパーカーだった。
太もものあたりに程よいゆとりがあり、生地も柔らかい。両脇には大きなポケットがついていて、物を入れるのにも便利そうだ。脱いでおいた制服のブラウスを着直して、パーカーを羽織り、前のファスナーを少しだけ上げる。
カーテンを開けて外に出ると、大原さんと横山さんがパッと顔を輝かせた。
「……あ、これめっちゃいい」
大原さんがしみじみと呟いた。
「うん、めっちゃ似合っとる。カジュアルでスポーティーやけど、ちゃんと女の子らしくて可愛いわ。姫宮さんのサッパリした雰囲気に一番しっくりくるんちゃう?」
横山さんも大きく頷いている。
俺自身、この組み合わせには驚くほど違和感がなかった。
その場で深くしゃがんでから、軽く跳んでみる。膝の曲げ伸ばしにも全く引っかかりがなく、脚の付け根もすんなり動く。足首のところは適度に絞られているので、早足で歩いても裾が絡む心配がない。
「あ。これ、すごく動きやすいね。しゃがんでも突っ張らないし、走っても裾が邪魔にならないよ。ポケットも大きくて使いやすそうだし、洗濯機で気にせず洗えそう」
「もう。最後まで動きやすさなんだから……でも、気に入ってくれたならよかったわ」
大原さんは満足そうに頷き、腕を組んで考え込んだ。
「さっきのグレーのワイドパンツとピンクのニットも、捨てがたいんだよね。あっちの上品な感じも本当に綺麗だったし……ヒロ、計算してみて」
「ええと……カーゴパンツが五千九百円で、パーカーが三千九百円。合わせて九千八百円やね。ワイドパンツとニットまで足したら、どう見ても無理やわ」
「だよねえ。じゃあ今日はこっち。あっちはいつか、姫宮さんが自分のお小遣いで買うんだからね」
「そうなの?」
「そうなの! 今日は城ヶ崎君の初登板プレゼントだから、これでおしまい。城ヶ崎君に感謝ね!」
大原さんは誇らしげに胸を張り、俺に向かってウインクしてみせた。
レジへと向かい、城ヶ崎が託した封筒からお札を取り出して支払いを済ませる。
綺麗に包まれた服の入った紙袋が、俺の手に渡された。思っていたより重みがある。あいつの初めてのマウンドのご褒美が、こうして一組の私服へと姿を変えたのだ。そう思うと、なんだか不思議な感慨が湧いてくる。
「……疲れた……」
店を出て通路のベンチに腰を下ろした瞬間、思わず心の底からの本音が口から漏れ出た。
柔道の試合を一日中戦ったときより体力を削られた気がする。ただ服を脱いで着るだけのことが、どうしてここまで疲れるのか。
「あはは、姫宮さん完全にへばってるやん」
「もう、これからお茶でもしようと思ってたのに。でも、いい買い物ができたから大満足よ!」
横山さんが笑い、大原さんが満足そうに胸を張る。
俺は膝の上の紙袋を見下ろした。
もし一人で来ていたら、間違いなく一階のスポーツ店でタイツを買って満足して帰っていただろう。
けれどあの二人が真剣に選んでくれた服は、着てみると不思議なくらい体に馴染んだ。
疲れたけれど、これはこれで悪くない。
ずっしりとした紙袋の重みを感じながら、俺は胸の奥で確かな満足感を噛み締めていた。