六月に入ったばかりの月曜日は、朝から湿り気を含んだ風が吹き込んでいた。
放課後の終礼を告げるチャイムが鳴り終わると、教室の中は一斉に机を引く音や鞄のファスナーを開け閉めする音で騒がしくなった。部活動に向かう連中が足早に出ていき、残った生徒たちも、だるそうに荷物をまとめ始めている。
俺が机の横に掛けてあった通学鞄を持ち上げたとき、ぬっと大きな影が覆いかぶさってきた。
「姫宮。ちょっとだけいいかな」
城ヶ崎だ。周りを気にするように少し首をすくめ、普段より一段低い声で話しかけてくる。
「どうしたの?」
「……土曜の練習が終わったあと、堂本キャプテンに呼ばれたんだ」
「キャプテンに?」
俺が聞き返すと城ヶ崎は真剣な顔を寄せ、こくりと重そうに頷いた。
「夏の大会のベンチ入りのことなんだけどさ。十八人の枠を、六月半ばにある紅白戦で決めるって言われたんだ。一年生だからって遠慮すんな、結果を出したやつをベンチに入れるから準備しとけって」
「そう。堂本キャプテンらしいね。年功序列じゃなくて、今の実力と結果で夏を戦う気なんだ」
納得のいく話だった。今のうちの野球部は決して選手層が厚いわけではない。夏の予選を勝ち上がるためには使える戦力は一枚でも多くベンチに置いておきたいはずだ。この前の練習試合で、城ヶ崎は八回と九回を投げて無失点、三振を四つ奪ってみせた。堂本キャプテンの目に留まらないはずがなかった。
「それでさ、姫宮。これから紅白戦まで、河川敷でまた特訓に付き合ってくれないか」
城ヶ崎は自分の大きな右手をじっと見つめ、それからぎゅっと握り拳を作った。
「この前の練習試合、マウンドに立って投げたときさ。バッターが俺の投げた球に全然合わなくて、思いっきり空振りしただろ。バットが空を切ったときの風の音とか、ミットにズドンって入ったときの音とか……あの瞬間が、頭から全然離れないんだよ。あんなに心臓がバクバクして、すげえって思ったこと、今まで生きてきて一度もなかった。俺、もっといい球を投げて、もっとバッターから三振を取りたい。紅白戦で抑えて、絶対にベンチに入りたいんだ」
口下手な男が、自分の内側にある熱を零さないように、懸命に言葉を選んで伝えてくる。借り物の言葉ではなく、マウンドの上に立った経験からの言葉だ。
俺は少しの間、城ヶ崎の顔を見つめていた。
「いいよ。付き合う」
「本当か! よかった……!」
城ヶ崎が目に見えて破顔し、胸を撫で下ろす。だが俺はすぐに人差し指を立てて、浮かれかけたあいつを制した。
「ただし、条件がある」
「条件? 何でも言ってくれ! 姫宮のためなら俺、なんでもするよ!」
「河川敷で投げていい全力の球は、一日につき数球だけ。それ以上は絶対に投げさせない。これが守れないなら、ボクは付き合わないよ」
城ヶ崎はきょとんと目を丸くしたあと、不満そうに眉を寄せた。
「えっ……一日数球だけ? それって練習になるのか……? もっといっぱい投げ込んで、ガンガン肩を作らないとダメなんじゃないのか?」
「いっぱい投げるから肩ができる、なんてのは素人の思い込みだよ。君は部活を始めてまだ二ヶ月足らずだ。肩も肘も、投げるための身体になりきっていない。そこで焦って全力投球の数を増やせば、夏を迎える前に肩か肘を壊して終わりだね。そんな無意味な自爆をするために特訓するの?」
「壊すって……俺、体だけは丈夫だし、どこも痛くないぞ」
「痛くなってからじゃ手遅れなんだよ」
俺は冷たいと言われそうなほど、きっぱりとした声で告げた。
「正しい体の使い方を覚え込んで、その動きの中で質の高い球を数球だけ指先から放つ。それで十分。ボールを握って何十球も力任せに腕を振るのが練習だと思っているなら、ボクは今すぐ断るよ」
城ヶ崎は俺の気迫に圧倒されたように息を呑み、それから納得したような顔で頷いた。
「……分かったよ。姫宮の言う通りにする。数球だけで我慢する」
「よろしい。じゃあ、部活が終わったらそのまま河川敷に来て。ボクは一回家で着替えてくるから、六時半集合ね」
「うん、分かった!」
城ヶ崎は慌ただしく教室を飛び出していった。大きな足音が廊下に響き、階段の方へと遠ざかっていく。
これまでは、あいつに野球を嫌いにならせないことばかりを考えていた。
急激に重い負荷をかけて逃げ出されないように、ボールを投げる楽しさだけを味わわせるように、慎重に距離を測りながら付き合ってきたのだ。道具を揃えさせ、フォームの極端な崩れだけをそっと整えて、マウンドの楽しさを知ってもらえればそれでいいと思っていた。
けれど、あいつは自分の口で勝ちたいと言った。
もっとうまくなりたいと、あのマウンドの快感をもう一度味わいたいと。自分の意志でそう望んできたのだ。
……あんな目をされたら、もう子供扱いはできないな。
とは言え、張り切りすぎた投手ほど肩を壊すのも早い。前世の俺がまさにそうだった。
怪我をしないよう、俺がしっかりと手綱を引かなければならない。
そう思った俺は、校門を出る前にグラウンドへ少しだけ足を向けた。
金網越しに見るグラウンドではすでに選手たちが整列し、ウォーミングアップのランニングを始めているところだった。黒土の上を砂埃が舞い、乾いた掛け声が夕方の空気に響いている。
倉庫の前でボールの入ったカゴを運んでいた堂本キャプテンが、歩み寄る俺の姿に気づいて足を止めた。
「姫宮さんか。どうした、何か忘れ物でもしたのか?」
堂本キャプテンが首から提げたタオルで額の汗を拭いながら聞いてくる。
「いえ、ちょっとキャプテンに今週の練習の予定を聞いておきたくて。どんなメニューを組んでいるのかなって」
「今週の予定か?」
「特に城ヶ崎君がブルペンに入る日や、シート打撃で投げる予定を知りたいんです。放課後に少しだけ城ヶ崎君の自主練習を見ることになったので、部の練習と重なって投げすぎにならないように調整したくて」
俺がそう告げると、堂本キャプテンは感心したように息を漏らした。
「なるほどな。城ヶ崎のやつ、さっそく姫宮さんに泣きついたか」
堂本キャプテンはタオルを肩に掛け直し、苦笑した。
「あいつ、夏の選考の話をしたときから目の色が変わっちまってな。やる気があるのは結構だが、空回りして肩を壊さねえか心配だったんだ。姫宮さんがブレーキ役になってくれるなら、俺たちとしても安心だよ」
堂本キャプテンはカゴを地面に下ろし、指を折りながら続けた。
「火曜と木曜はシート打撃をやる予定だ。打席にバッターを立たせて、実戦に近い形で球を打たせる。で、水曜はグラウンド全体を使ってシートノックと守備の基礎だな。金曜はサインプレーとランナーを置いた場面の確認に時間を割くつもりだ」
「なるほど。シート打撃は火曜と木曜ですね。分かりました、ありがとうございます」
「あいつの面倒、いつもすまねえな」
「いえ、ボクが勝手にやってることですから。お邪魔しました」
短く頭を下げ、俺はグラウンドを後にした。
火曜と木曜に実戦形式の打撃練習が入るなら、そこで城ヶ崎も何人かのバッターに対して投げることになるだろう。つまり、シート打撃の日の夕方は、肩と肘を休ませなければならない。夕方の特訓で球を投げさせるわけにはいかないし、走らせるメニューも考え直す必要がある。
頭の中で一週間のカレンダーを組み立てながら、俺は自宅への道を急いだ。
家に帰り、制服のブレザーとプリーツスカートを脱ぎ捨てて、ジャージの上下に着替えた。
部屋の隅に置いてある革製のグラブを手に取る。小学生の頃から手入れを続けながら使っている、飴色に深く染まった小ぶりな硬式用グラブだ。今のこの小さくなった手にもすんなりと馴染み、指を通すと革が吸い付くように手のひらを包み込んでくれる。
俺はカバンにそのグラブと硬式球を放り込み、河川敷へと向かった。
六月上旬の午後六時半過ぎ。太陽はまだ西の空の低い位置に留まっており、あたりはまだ十分に明るかった。草の青い匂いと、川面の湿った風が混ざり合って頬を撫でる。
集合場所にはすでに城ヶ崎が立っていた。部活から直行してきたらしく、土で汚れた練習着のままだ。そわそわとした様子で腕を振り回したり、ストレッチをしながら待っている。
「姫宮! こっちだ!」
カバンを草むらに置き、俺は飴色のグラブを左手にはめた。パチンとポケットを右手で叩いて感触を確かめ、城ヶ崎から十数メートル離れた位置に立つ。
「じゃあ、軽く肩を回したあと、キャッチボールからね。相手の胸元にふわりと投げること。いい?」
「おう!」
距離と強さを少しずつ上げながら、山なりのボールを投げ合って肩を十分に温めた。革の擦れる微かな音と、パチンという捕球音が夕暮れの河原に小さく響く。張りや違和感はなさそうだ。
「よし、肩は温まったね。じゃあ、まずは一球、思い切って投げてみなよ」
俺はその場に腰を落とし、構えを作った。
「いきなり投げていいのか!?」
「いいよ。今自分が持ってる一番いい球を投げてごらん」
「よし、いくぞ!」
城ヶ崎が息を吸い込み、胸の前でグラブを構えた。
長い手足が大きく伸び、右腕が鋭く空を切り裂く。だが、気合が空回りしたのか、リリースの瞬間に指先からボールがわずかにすっぽ抜けた。
バシュッ、と風を裂く乾いた音がして、白球が俺の構えた位置よりも高く浮いた。
俺は咄嗟にグラブを上へと伸ばし、立ち上がりざまに捕球した。パンッ、と小気味のいい捕球音が鳴る。ボールの勢いはあったが、大きく外れたわけではない。胸の高さから少し外れた程度だ。
「あちゃあ……浮いちゃったな。ごめん姫宮、もう一球!」
城ヶ崎が照れくさそうに頭を掻く。だが俺はボールを返さず、グラブに収めたまま立ち尽くした。
「もう一球、じゃないよ。いったん投げるのはやめて」
「えっ!? 今の一球で終わりなのか!?」
「全力投球は一日数球だけって言ったでしょ。今ので一球消費だよ」
「そんなあ! 今のはすっぽ抜けただけなんだからノーカウントにしてくれよ!」
「試合でバッター相手にすっぽ抜けて、審判にノーカウントにしてくれって頼む気? そんなの通用しないよ。ほら、こっちに来て」
俺が手招きすると、城ヶ崎は大型犬のように耳を垂らしながら、とぼとぼと歩み寄ってきた。
「城ヶ崎君。君のフォームは、もう土台の部分はできてるんだよ」
俺はカバンから、練習試合の記録をつけたノートを取り出して広げた。あの日、ネットの外から書き殴った文字が並んでいる。
「前に河川敷でやった、踏み出した左膝が外側へ逃げる癖。あれは練習試合でもちゃんと抑えられていた。左足がしっかり壁になっている。だから、明らかにフォームが崩れている段階はもう過ぎたんだ」
「……じゃあ、俺、ちゃんと投げられてるのか?」
「土台はね。でも、ここから先はただ投げるだけじゃダメなんだ。試合で勝つための形を身につけないといけない」
俺はノートの端に赤ペンで太く書き留めてあった一行を、指先でトントンと叩いた。
「セットポジションでの、足のタメ。これが今の君の最大の課題だよ」
大きく振りかぶるワインドアップは、両腕を頭の上まで上げて、全身を大きく使って投げる形だ。勢いはつけやすいが、動きが多い分だけ形が崩れやすい。だから城ヶ崎には、胸の前でグラブを構えていったん止まり、そこから小さな動きで投げるセットポジションでの投げ方だけを教えてきた。動きが少ないほうが、初心者でも同じ形を繰り返しやすいからだ。
ただ振りかぶらない分、後ろの右足に体重を溜める間はどうしても短くなる。
「セットのタメ……? タメって、あの投げる時に軸足にちょっと体重を残すやつか?」
「そう。セットは動きが小さいから、足を上げてから投げるまでの間が短くなりやすい。あの試合も、右足に体重が乗りきる前に、上体だけで前へ突っ込んでいたことが多かった。球が少し浮いたのも、そのせいだよ」
城ヶ崎は胸に手を当てて、試合の記憶を掘り起こすように目を瞬かせた。
「言われてみれば……早く投げなきゃって、なんか焦ってたかも……」
「そうでしょ。六月半ばの紅白戦は実戦形式なんだから、ランナーを背負う場面も山ほどある。どんな場面でも同じ形で、低めへ強い球を投げ続けられないと、簡単に打ち崩されるよ。勝てる投手になりたいなら、セットポジションを自分のものにしなきゃダメだ」
「セットポジションを自分のものに……。どうやればいいんだ?」
「形を体で覚えるんだよ。ボールは持たなくていいから、そこに立って」
俺は城ヶ崎を土の上に立たせ、横を向かせた。
「走者が一塁にいると思って。胸の前でグラブと右手を合わせて、構えてみて」
城ヶ崎が言われた通りに構える。膝を軽く曲げ、静止した。
「そこから、左足をゆっくり上げて。……はい、そこで止まって」
城ヶ崎の左足が胸の高さまで上がったところで、俺は歩み寄った。
軸足である右足の太ももに手を伸ばし、外側から内側へと手のひらでぐっと押さえ込む。
「右足の付け根に、自分の体重を全部乗せるんだ。お尻に力を入れて、腰を少しだけ前に傾ける。足の親指の付け根で地面をぐっと掴んで、外側に体重を逃がさない」
俺はさらに踏み込み、城ヶ崎の腰の横に手を添えて、腰の傾きをほんの少しだけ正しい位置へと押し戻した。前世で嫌というほど繰り返した、下半身のエネルギーを逃がさないための最適な角度だ。
「ここ。この位置で体重を受け止めるんだよ。ほら、まだ腰が引けてる。もっと深く沈み込ませて」
腰と太ももをしっかりと支え、正しいタメの形を作らせる。
すると、添えていた手のひら越しに、城ヶ崎の筋肉が一瞬でカチコチに強張ったのが伝わってきた。
「……っ!」
「どうしたの? 力を抜いて。太ももとお尻の奥は力を入れるけど、肩と背中は脱力するんだよ」
「い、いや……その……」
城ヶ崎が上擦った声で呟き、首を反対側に向けたまま固まっている。
見上げると、城ヶ崎の耳の先から首筋にかけて、見る見るうちに真っ赤に染まっていく。顔の筋肉をぎゅっと引きつらせて、呼吸まで止まっている。
「……何やってるのさ。顔が真っ赤になるくらい力んでたら、球なんて浮くに決まってるでしょ」
俺は呆れてため息をつき、城ヶ崎の腰から手を離した。
「そんなにガチガチになってどうするの。フォームの確認なんだから、リラックスしなよ。緊張して力んじゃう癖、早く直さないと」
「あ、ああ……そうだな! 力んでた! ものすごく力んでた! よし、深呼吸する!」
城ヶ崎は大きく息を吸い込み、わざとらしく胸を叩いて息を吐き出した。耳の赤さはまだ引いていなかったが、ひとまず身体の強張りは解けたようだ。本当に手のかかる男だ。
「いい? もう一回やってみるよ。左足を上げたら、さっきボクが触った右足の付け根にお尻を沈める。そこで一瞬、時間が止まるくらいしっかりタメを作ってから、前へ踏み出す。腕の力で投げるんじゃない。右足に溜まったエネルギーが、左足を踏み出した勢いで勝手に指先へ伝わるんだ。今は感覚をつかむための練習だから大げさにやるけど、試合ではほんの一瞬でいい。ランナーがいるのに長く止まってたら、走られちゃうからね」
「右足に乗せて……勝手に伝わる……」
「そう。じゃあ、ボールを持って。さっきの構えから投げてごらん。狙うのはボクの膝の高さ、低めだけだよ」
俺は数歩下がり、再び地面に低く腰を下ろした。
西の空はうっすらと朱に染まり始めており、川面を渡る風が少し冷たさを帯びてきている。
城ヶ崎が胸の前でボールを包み込み、息を静かに吐き出した。
左足をすっと引き上げる。
先ほど俺が直した通り、右足の付け根の奥へと重心が深く沈み込んだ。上体は突っ込まず、軸がぶれない。ほんのコンマ何秒のわずかなタメだが、その一瞬の静寂の中に、強靭なバネが限界まで巻き上げられるような凝縮された重みがあった。
次の瞬間、城ヶ崎の体が低く前へと解き放たれた。
左足が土を噛み、右腕が一拍遅れて振り抜かれる。
シュッ、と空気を切り裂く鋭利な音が響いた。
放たれた白球は、夕暮れの空気を真っ二つに裂くような軌道を描いて一直線に伸びてきた。高めに浮く気配など微塵もない。糸を引くような低軌道のまま、俺の左膝の前に差し出したグラブの芯へと吸い込まれていく。
静かな河川敷に、破裂音のような捕球音が響き渡った。
グラブの革を通して、手のひらの肉にずしりと重い衝撃が突き刺さる。回転のよく効いたボールが、ポケットの奥で鈍く跳ねて止まった。
「う……うわあぁぁっ!」
投げ終えた場所で、城ヶ崎が自分の右手を呆然と見つめたあと、飛び上がらんばかりに叫んだ。
「なんだ今の!? すっげえ! 腕に全然力を入れてないのに、ボールが勝手に走ったぞ! 指先からパチンッて弾けたみたいに飛んでった!」
子供のように目を輝かせて、城ヶ崎が駆け寄ってくる。
「姫宮、見たか!? 今のめちゃくちゃ低めに行ったよな!? 手応えが今までのと全然違ったぞ!」
「……うん。見事な球だったよ」
俺は立ち上がり、グラブからボールを取り出した。
勝手に走った、という城ヶ崎の言葉が、頭の奥で鈍く反響していた。
……勝手に走る、か。
前世の俺が、血反吐を吐くような努力を重ねてやっと手に入れた感覚だ。
あの頃の俺が喉から手が出るほど欲しかったそれを、こいつは教えられたその日のうちに、いともあっさりと体感してしまう。
「姫宮? どうしたんだ、手が止まってるぞ」
「なんでもないよ。いい球だったから、ちょっと見惚れてただけ」
俺は息を吐き出し、ボールを城ヶ崎へと軽く放り投げた。
「今の感覚を忘れないうちに、あと二球だけ投げて。今日はそれで本当におしまいだからね」
「うん! 今のタメだな、右足に乗せるんだよな!」
城ヶ崎は嬉々として元の位置へ戻り、再び胸の前でグラブを構えた。
二球目はわずかに外側へ外れたが、球の勢いと低さは維持されていた。三球目は再びグラブの真ん中を射抜き、小気味のいい破裂音を夕暮れの川辺に響かせた。
「はい、おしまい。グラブを片付けて」
「ええっ、もう終わりか……。まだ全然投げ足りないのに……」
「約束でしょ。これ以上投げたら、明日のシート打撃に疲れを残しちゃうよ。はい、撤収」
俺は有無を言わさず荷物をまとめ、名残惜しそうに足元の土を見つめる城ヶ崎を促して、河川敷の草むらを後にした。
土手を上がり、舗装された道路を並んで歩く。
街灯がぽつぽつと灯り始め、川沿いの虫の声が夜の訪れを告げていた。練習終わりの汗が冷え始めたのか、練習着姿の城ヶ崎が小さく肩をすくめている。
「明日はシート打撃だから、河川敷はお休みね。帰ったらちゃんと寝ること」
「うん。……姫宮、今日はありがとな」
それからの日々は、めまぐるしく過ぎていった。
シート打撃がある日は、河川敷での特訓を休ませた。打席に立った先輩たちから、城ヶ崎は力のある球で何度か空振りを奪っている。けれど走者を置いた場面になると時折球が上ずり、打席に入った成瀬先輩に、浮いた球を外野まで一直線に弾き返されることもあった。課題は、まだはっきり残っている。
雨の日は、体育館脇の渡り廊下で、ボールを持たずに構えてから踏み出すまでの足運びだけを繰り返させた。地味で退屈極まりないシャドーピッチングも、城ヶ崎は文句ひとつ言わずに百回以上続けた。足の裏がつりそうだと顔をしかめながらも、その目から集中力が途切れることはなかった。
そして、紅白戦が近づいたある日の放課後。
夕方の河川敷には、初夏の乾いた風が吹き抜けていた。
空はどこまでも高く晴れ渡り、西に傾いた太陽が川面を黄金色に染め上げている。
河川敷での投球練習と、雨の日の渡り廊下での足運びの反復。その成果を、紅白戦の前に全力の球で確かめる日だった。
俺は飴色のグラブを手にはめ、河川敷の草むらに低く腰を下ろした。
十八メートルほど先で、城ヶ崎が胸の前でグラブを構えている。
構えるのは、右打者を想定した外角の低め、俺の右膝の高さ。特訓を始めた頃なら、三球に一球は浮いていたコースだ。
城ヶ崎の視線が、俺の構えたグラブのポケットに鋭く焦点を結ぶ。
あいつが息を吸い、左足を静かに引き上げた。
右足の付け根へと体重が淀みなく沈み込む。何百回も繰り返した足運びが、意識せずとも自然な動作として連動していた。軸は寸分もブレず、時間が一瞬だけ止まったような濃密なタメが生まれる。
次の瞬間、踏み出された左足が鋭く土を捉えた。
下半身から汲み上げられた力が腰の回転を経て、一拍遅れて出てくる右腕へと無駄なく伝達される。
空気が弾けるような音がした。
放たれた白球は、低く、鋭く、地面を這うような弾道で一直線に伸びてきた。
俺が微動だにせず構えていたグラブのその真ん中へと、吸い込まれるように飛び込んでくる。
乾いた捕球音が、夕暮れの河原一面に木霊した。
構えた位置から一ミリも動かす必要がない。グラブを押し込んでくる重さは、特訓初日の一球よりはっきり増していた。
グラブを下げ、ボールを取り出す。
城ヶ崎は投げ終えた位置で立ち止まり、息を整えながらにかっと笑った。
「姫宮! 今の、どうだった!?」
「……うん。完璧」
俺は短く答えて、ボールを胸元へと投げ返した。
続けて投げさせた二球も同じ高さに来た。狙ったところへ、重い球を続けて投げ込める。
試合で勝つための実戦的な投げ方が、あいつの身体に深く根を下ろし始めていた。
その日の夜。
自室で、俺は机に向かってスタンドライトの明かりをつけていた。
窓の外からは初夏の虫の声がかすかに聞こえてくる。
机の上には、城ヶ崎の投球データを書き留めたノートが開かれていた。
特訓を始めてから投げた球数、球筋のブレ、そして今日見せたあの低めへの制球力。それらをつぶさに振り返りながら、俺は紅白戦までの調整の段取りをシャープペンシルで書き連ねていた。
たった今日までの期間で、あいつはあのタメを自分のものにしつつある。
あいつの吸収力は、俺の予想を遥かに超えていた。投げれば投げるほど、乾いた砂が水を吸い込むように技術を血肉に変えていく。
……俺が見込んだ通り、あいつはまだ伸びる。
紅白戦どころじゃない。あいつのあの右腕なら、夏の大会でマウンドに立ち、県内の強豪校のバッターたちを力でねじ伏せることだってできるはずだ。
いや、それだけじゃない。もっと上へ、もっと遠い場所へ、駆け抜けていくことができるだろう。
頭の中でマウンドに立つ城ヶ崎の姿を描いた瞬間、胸の奥から何かが一気にせり上がってきた。
ペンを握る右手の指先に、知らず知らずのうちに強い力がこもる。
ぱきり、と乾いた音がした。
ノートに突き立てたシャープペンの芯が根元から折れて、白い紙の上を転がっていく。
「……っ」
俺はペンを机に置き、熱を持った自分の右手をじっと見つめた。
……気合が入りすぎたな。
息を吐いて、折れた芯を指先でつまんでゴミ箱に捨てた。カチリとノックを押し、新しい芯を少し出す。
俺は机に向き直り、再び紅白戦までの段取りを書き進め始めた。