四時間目の終わりのチャイムが鳴り、年配の教員が教科書を閉じて教室を出ていった。その足音が遠ざかるのと入れ替わりに、教室中の空気が一気に緩んだ。椅子の脚が床を擦る音や、弁当箱の袋が擦れ合う音がざわざわと広がっていく。
俺は小さく息を吐いて背筋を伸ばし、開いたままだったノートを閉じて筆記用具をペンケースに収めた。ふと窓際に目をやると、普段ならチャイムと同時に大あくびをしているはずの席が空いている。
城ヶ崎の席は、今朝の朝礼からずっと空いたままだった。
少し前の放課後に聞いたが、どうやら親戚の法事らしい。特訓のスケジュール的に、休養日として設定していた日だ。問題はないだろう。
だから今日は昼休みの中庭での軽いキャッチボールも、放課後に河川敷で行う個別特訓もない。
今日はあいつも休みだし、のんびりした昼休みになりそうだ。そう思いながら、スクールバッグの底からタッパーを取り出そうとしたときだった。
「姫宮さん! 今日は城ヶ崎君いないし、一緒にご飯食べよ!」
前の席から、大原さんが勢いよく椅子ごと振り返ってきた。手には可愛らしい花柄の包みが握られている。
大原さんは自分の机をぐるりと反転させ、俺の机の前にぴたりとくっつけた。
隣の席から、横山さんがのっそりと立ち上がってくる。
「ふぁあ……四時間目の現国、ほんま眠かったわ。先生の声、子守唄にしか聞こえへんかったもん。お腹すいて力入らへん……」
横山さんは深くため息をつきながら、自分の机の前へと回り込んだ。そして腰を丸めて天板の端を掴み、うんしょと力任せに持ち上げようとした。
金属の脚が床に引っかかり、ぎぎっと鈍い嫌な音を立てる。横山さんの腰のあたりが不自然に折れ曲がり、背骨に無駄な重みがかかっているのが見て取れた。
「横山さん、待って」
俺は咄嗟に立ち上がり、横山さんの手元に歩み寄った。
「そんな持ち方したらダメだよ。腰を丸めたまま腕の力だけで持ち上げたら、今は良くてもそのうち腰を痛めちゃうよ」
「え? でも、机運ぶのにこれ以外の持ち方あるん……?」
「持ち上げる時は、まず膝を曲げて腰をしっかり落とすんだ。身体を荷物に近づけて、足の力で持ち上げるの」
言いながら俺は横山さんの机の横に回り込み、軽く腰を落として重心を低く構えた。そして天板の下を手のひらで支え、太ももの踏ん張りでひょいと真上へ持ち上げた。
空いた片手で椅子を持ち上げ、大原さんの机の隣へ静かに下ろす。カツン、と小さな音を立てて八本の脚が床に揃った。
「……はい、これで大丈夫」
息一つ乱さずに振り返ると、大原さんと横山さんがぽかんと口を開けたまま固まっていた。
「……え」
横山さんが丸い目をさらに丸くして、俺の顔と机を何度も見比べた。
「な、なぁモモ……いま姫宮さん片手で机運んだよね? うちの見間違いちゃうよね?」
「うん、片手だったね。あたしもバッチリ見ちゃった……」
大原さんが引きつった笑いを浮かべながら、俺の肩から腕のあたりを凝視してくる。
「姫宮さん……この机は教科書めっちゃ入ってるから、結構重いんだよ? それを片手でひょいって……何かの手品?」
「手品じゃないよ。ちゃんと重心の近くを支えて、足腰の力で持ち上げれば力なんてそんなにいらないんだよ。腕だけで持ち上げようとするから重く感じるだけ」
「いやいや、理屈はそうかもしれないけどさ……」
大原さんが眉を八の字にして肩を竦めた。横山さんも呆気にとられた表情のまま、運んでもらった机の前に腰を下ろす。
「姫宮さんって見た目はほんまに細くてお人形さんみたいやのに、時々めちゃくちゃ怪力発揮するよね。前も体育倉庫のマット一人で担ぎ上げとったし……うち、ほんまびっくりするわ」
「怪力じゃないってば。身体の使い方だよ」
自分の席に戻り、椅子に腰を落ち着けた。
前世では簡単に持ち上がったものも、今世では正しい持ち方でないと持ち上がらない。体を効率よく使って物を動かすのは、今世では息をするのと同じくらい当たり前の動作だ。
それに腕だけで踏ん張るほうがよっぽど体に悪いし、無駄に疲れる。
「ま、運んでもらえたんやからええわ。ありがとうな、姫宮さん。腰やらかさんですんだわ」
「どういたしまして」
三つの机が合わさり、簡易的な食卓が出来上がった。教室のあちこちでも同じように机を寄せ合うグループができており、賑やかな談笑が響いている。
大原さんが花柄の包みを解き、二段重ねのプラスチック製の弁当箱を開けた。上段にはプチトマトと卵焼きが彩りよく並び、下段には梅干しの乗った白いご飯がぎっしりと詰まっている。いかにも手作りといった、温かみのある見事な弁当だ。
続いて横山さんも巾着袋から取り出したアルミの弁当箱の蓋をパカッと外した。ふわりと甘辛い醤油の匂いが広がる。俵型の海苔巻きおにぎりの脇には、タコさんウインナーが四匹行儀よく並んでいた。
そして、俺もスクールバッグから自分の昼食を取り出した。
透明な本体に、白い蓋のタッパーだ。
タッパーの蓋をパチンパチンと外して開けると、中身が白日の下に晒された。
半分に詰められているのは、ふりかけ一つかかっていない白米。もう半分には、薄い塩水で茹でてから手で細かく割いた鶏のむね肉。隙間を埋めるように、これまた塩茹でしただけの濃い緑色のブロッコリーがぎっしりと詰め込まれている。
大原さんと横山さんは、何度も見ているはずの光景に揃って深い吐息を漏らした。
「……出た」
大原さんが額に手を当てて天を仰ぐ。
「今日も今日とて、安定の白と緑だね。見事なまでに一切の妥協がないというか……」
「ほんまにブレへんなぁ、姫宮さんは」
横山さんも箸を止めて、俺のタッパーをまじまじと見つめてきた。感心しているような、心底呆れているような目つきだ。
「高校生女子の机の上に並ぶ光景ちゃうよ、これ。白いご飯に鶏とブロッコリーだけで、可愛いおかずもゼロ。なんべん見てもすごいわ。ストイックすぎて、うち見てるだけで胸焼けならぬ胸すっきりしてくるもん」
「そうかな。手軽に用意できるし、すごくいいお弁当だと思うんだけど」
俺は竹の割り箸を割りながら、至って平然と答えた。
俺にとって、食事とは基本的に『身体を作るための作業』だ。
前世で限界まで腕を振り抜いて故障したとき、肉体の脆さを嫌というほど思い知らされた。どれだけ才能があっても、それを支える体が弱ければ最後は負担に負けて壊れる。だから女の体に生まれ変わってからは、体を作るための食事だけは一切妥協せずに続けてきた。
余計な甘いものや脂っこいもので胃を疲れさせるくらいなら、体を作る米と肉と野菜だけを過不足なく入れるのが一番だ。そこに味のバリエーションや見た目の華やかさなど、端から求めていなかった。
「いいお弁当って……姫宮さん、それ美味しいと思って食べてるの?」
大原さんが箸の先で自分の顎を突きながら、信じられないものを見るような顔で聞いてくる。
「美味しいというか、普通だよ。味付けは茹でる時の薄い塩味だけで十分だし、噛めば素材の味もするしね」
「そうやけどさ! むね肉茹でただけって、パサパサして飲み込むの大変やんか。なんで皮も取っちゃうん? 美味しいとこ全部捨てとるやん。タッパー開けた時のワクワク感とか、そういうの求めへんの?」
「ワクワク感はないかな。お腹が空いたから、必要な分を胃に入れるだけだし」
「完全に機械の燃料補給の発想やん……」
横山さんが両手で頭を抱えて唸った。
一般の女子高生にとって、お弁当とは開けた瞬間に気分が弾むものでなければならないらしい。
「そんなに気になるなら、一口食べてみる? まだ箸をつけてないから、端のほうを少しあげるよ」
俺がタッパーを少し前へ差し出すと、二人は顔を見合わせた。
「え、いいの? ……じゃあ、ちょっとだけ味見させてもらおうかな。そこまで毎日食べてるんだから、実は何か秘密の隠し味とかあるのかもしれないし」
「うちももらうわ。話のタネに一度食べてみたかったんよね」
大原さんと横山さんは、それぞれ割り箸で鶏むね肉の小さな一片を慎重につまみ上げた。そして、恐る恐る口の中へと運ぶ。
二人同時にもぐ、と口を動かした。
一秒、二秒。
咀嚼が始まると同時に、二人の表情からすうっと生気が抜けていった。
「「…………」」
完全に動きが止まる。
大原さんの目が点になり、横山さんの頬が引きつっている。二人とも顎を必死に動かしているが、飲み込むのに難儀しているのがありありと伝わってきた。
横山さんが慌てて自分のステンレス水筒の蓋を開け、冷たい麦茶を喉の奥へ一気に流し込んだ。ごくんと大きく喉を鳴らし、ぷはっと息を吐き出す。
大原さんも自分の水筒を煽り、胸をトントンと叩きながらようやく息を吹き返した。
「……っはぁ! びっくりした……!」
「の、喉の水分が一瞬で全部持っていかれたわ……!」
横山さんが机に突っ伏しそうになりながら、涙目で俺を見上げてくる。
「ほんまに塩味しかせぇへん! 隠し味どころか、旨味すらどこかへ逃げ出していったようなパサパサ感やんか! 肉汁あふれるハンバーグの逆で、噛めば噛むほど肉に水分が奪われてくわ……!」
「こんなの毎日食べてたら心が枯れちゃうよ!」
大原さんも激しく頷いて同意した。
「あたし、一口食べただけで午後の授業を乗り切る気力が半分消し飛んだよ。姫宮さん、これ本当に毎日飽きずに食べてるの? 霞を食べてる仙人のほうがまだ水分摂ってるよ!」
「大げさだなぁ。慣れれば普通だよ。よく噛んで食べれば顎の運動にもなるし、消化にも悪くないんだから」
「顎の運動って……お昼ご飯にそんな筋トレみたいな要素求めてないから!」
大原さんがぷりぷりと怒ったように唇を尖らせる。その様子がなんとも可笑しくて、俺は思わず小さく吹き出してしまった。
茹ですぎて肉が縮んだわけでもなく、火の通り加減は至って普通だ。皮を剥いだむね肉を塩だけで茹でて、冷めたところをタッパーに詰めただけ。それなのに、甘い卵焼きや味の濃いおかずに慣れた二人の舌にはどうしても耐えられない味らしい。不思議だなと思いつつも、大げさに騒ぐ二人の反応が面白い。
価値観の違いを眺めながら、俺はタッパーの端を箸でつついた。
「あかん、見てられへんわ」
横山さんが自分のアルミの弁当箱を引き寄せると、箸で赤ウインナーを器用に持ち上げた。丁寧に切れ込みが入れてあり、足が八本綺麗に開いているタコさんウインナーだ。
「ほら、姫宮さん。これ一個あげるわ」
「え、いいの? 横山さんの大事なおかずでしょ」
「ええよええよ、四匹もおるから一匹くらい里子に出したる。塩茹で肉ばっかり食べとったら、舌が退化してまうで」
「あたしもあげる!」
大原さんも負けじと自分の弁当箱から、黄色い卵焼きを一切れつまみ上げた。断面から出汁が滲み出ていて、見るからにふっくらと柔らかそうに焼き上がっている。
「これ、今朝あたしが自分で焼いたんだから。ちょっと甘めの味付けだけど、パサパサのお肉より絶対に美味しいから。ほら、タッパーの蓋に置くね」
二人は俺のタッパーの蓋を裏返した溝の上に、タコさんウインナーと卵焼きをちょこんと乗せてくれた。
真っ白な蓋の上で、鮮やかな赤と黄色がぽつんと光っている。
ウインナーの脂に、卵焼きの砂糖。普段の食事なら避ける組み合わせだが、このくらいの量なら特に問題もないだろう。
目の前では、大原さんと横山さんが早く食べてみてと促すように屈託のない笑顔を向けてきている。せっかく分けてくれた好意を、野暮に断る理由もなかった。
「……ありがとう。じゃあ、いただきます」
俺は割り箸で、まず大原さんの卵焼きを一口かじる。
噛んだ瞬間、優しい甘さと出汁の香りが口いっぱいに広がった。丁寧に巻き重ねられた卵の層が、舌の上でほろほろとほどけていく。
「……あ」
思わず、小さな声が漏れた。
「どう? 美味しい?」
大原さんが心配そうに、でも少し誇らしげに顔を覗き込んでくる。
「……すごく、美味しい」
嘘偽りのない、素直な感想だった。
甘い。確かに砂糖の甘さなのだが、くどさが全くない。出汁の塩気と旨味が卵の濃厚な風味を引き立てていて、噛むたびにじわじわと舌の奥へ染み渡っていく。
続いて、横山さんのタコさんウインナーを口に放り込む。
皮がぷちんと弾け、燻製の香りと濃いめの塩気が広がる。チープな味なのだろうが、普段塩気しか口にしていない俺の舌には目が覚めるような刺激だった。
「美味しいよ、二人とも。びっくりした」
「ほんまに? よかったわぁ」
横山さんがほっとしたように胸を撫で下ろす。
「甘いものや脂っこいものって、たまに食べるとこんなに味が濃いんだね。大原さんの卵焼き、焼き加減がすごく上手だよ。外はしっかりしてるのに、中はすごく柔らかい」
「えへへ、ほんと? 毎朝お母さんに作り方を叩き込まれてる甲斐があったよ」
大原さんが嬉しそうに頬を緩めた。
自分の作った料理を誰かに褒められるというのは、やはり嬉しいものなのだろう。その表情を見ているだけで、こちらまで心が和んでくる。
筋肉をつけるためでもなく、骨を太くするためでもない。ただ純粋に舌を楽しませ、誰かと笑い合うためだけに食べる一口。
何の役にも立たない、身体作りの観点から見れば非効率な時間だ。
だがいま胸の奥に広がっているこの緩やかで温かい空気は、決して嫌なものではない。むしろ肩の荷がふっと下りていくような、奇妙な心地よさがあった。
タッパーの鶏肉をもぐもぐと咀嚼していると、大原さんがむくっと顔を上げた。その瞳には、どこか面白がるような光が宿っていた。
「ねえ、ヒロ。あたし最近ずっと思ってたんだけどさ」
「ん? なんや、モモ」
「姫宮さんの仕草ってさ、見てるとじわじわこない?」
「じわじわ?」
突然話を振られ、俺は鶏むねを噛みながら眉を寄せた。
「そう、じわじわ。最初はね、大人しくて清楚な美少女が入学してきたなーって思ってたわけ。声も綺麗だし、姿勢もいいし。でもね、一緒に過ごせば過ごすほど中身から滲み出てくる挙動がおかしいの」
「あー、分かるわ!」
横山さんが膝を打った。
「さっきの机の片手運びもそうやけど、動作の一つ一つに迷いがなさすぎるんよね」
「……? ボクは至って普通に過ごしてるよ」
「普通じゃないから言ってるの!」
大原さんが指を一本立てて、勢いよく身を乗り出してきた。
「たとえばね、先週の体育の授業のとき! グラウンドで先生の話を聞くために、みんなで地面に座って集合したじゃん?」
「ああ、あったね。準備体操のあとでしょ」
「そう! あのとき女子はみんな、足を揃えて横座りするか体育座りしてたの。それなのに姫宮さんは、一番前の列のど真ん中で一人だけどっしりあぐらをかいてたでしょ!」
「あぐらのほうが腰が据わるよ」
「しかもただのあぐらじゃないの。腕組みして眉間に深ーいシワを寄せて、グラウンドの向こうをじーっと睨みつけてたの!」
大原さんが目配せすると、横山さんは待ってましたとばかりに靴を脱いで椅子に上がり、スカートの裾を押さえながら見事なあぐらをかいた。
そして胸の前で力強く腕を組み、眉間を思いきり寄せて鋭い眼光で前方を睨みつける。
「……次の回はスクイズで一点もぎ取るぞ、みたいな顔」
横山さんが低く押し殺した声で呟いた。
その再現度の高さに、大原さんが机を叩いて大爆笑した。
「そう! それ! まさにその顔!! 甲子園のベンチに座ってる名将の顔だったんだよ! 隣のクラスの男子たちなんて、姫宮さんの迫力にビビって誰も近づけなくなってたんだから!」
「あれは次のダッシュでどう地面を蹴るか考えていただけだよ。それに地面に直接座るなら、あぐらが一番体に負担がないんだ。体育座りは腰痛や肺の圧迫につながるし、横座りは姿勢が歪むでしょ」
淡々と理屈を並べると、横山さんが呆れたように首を振った。
「それだけやないよ、普段の授業中もそうやんか。姫宮さん、後ろから二番目の席やから目立たんと思って油断しとるやろ。授業中ふと見たら、背筋はピーンと伸びとるのに両膝が拳三つ分くらいパッカーン開いとる時あんねん」
「膝を開いたほうが腰が立って、背骨が自然なS字を描くんだよ」
「馬上の武士みたいな堂々たる座り方になっとんねん。でな、こないだそれを見た隣の列の男子がどうなったか知っとる?」
「どうなったの?」
「隣の列の真面目な男子がな、それが目に入った瞬間に顔真っ赤にしてピキーン固まっとったんや。授業終わるまで一ミリも首動かせてへんかったもん」
大原さんが腹を抱えて椅子の上で転がりそうになっていた。
「あっははは! あの子、災難すぎる! 目のやり場に困ったんだろうねぇ!」
「何で困るの? ボク、スカートの下にちゃんと黒のスパッツ穿いてるよ。何も見えないんだから問題ないでしょ」
何が男子をそこまで追い詰めたのかさっぱり分からず首をかしげると、大原さんは涙を拭いながら人差し指をちっちっちと振って見せた。
「姫宮さん、男心が分かってないなぁ。見えなきゃいいってもんじゃないの!」
「そうやで」
横山さんも我が意を得たりと頷く。
「中身が見えへんからセーフ、ちゃうねん。あんな可憐な美少女が男前すぎる座り方をしとるギャップに、男子の脳みそがショートしとるわけ。風情とか恥じらいってものが、姫宮さんの辞書からは綺麗さっぱり抜け落ちとるんよ」
「風情より骨盤の健康のほうが大事だと思うんだけど」
「それが一番タチ悪いわ!」
二人揃って大げさに天を仰ぐ。体に負担のない姿勢を取っているだけなのに、なぜここまで言われなければならないのか。俺には二人の言い分がさっぱり理解できなかった。
「でもさ」
大原さんが笑いすぎて上気した顔で、息を整えながら微笑んだ。
「あたし、そういう姫宮さんのことは全然嫌いじゃないよ。っていうか、むしろ見てて飽きないしすっごく面白い」
「そやね」
横山さんも自分の席に座り直し、おにぎりをぱくりと口に放り込む。
「気取って澄ましとる女子より、よっぽど一緒にいて楽やわ。動作がちょっとおっさんっぽいけど」
「おっさんって言うな」
俺が抗議すると、また二人で顔を見合わせて笑い出した。
教室の喧騒の中、三人の笑い声が重なり合って空気に溶けていく。
俺は自分のタッパーに視線を落とし、まだ半分以上残っている鶏むね肉をつまみ上げた。
「まだたくさんあるけど……二人とも、もう一口食べる? 少しなら分けてあげるよ」
さっきおかずをもらったお返しにと、親切心から差し出したのだが。
「「それは大丈夫!!」」
大原さんと横山さんの声が、教室の雑音を突き破るほど見事にハモった。
二人は両手を激しく胸の前で振り、顔を引きつらせて全力で拒絶の意を示している。そのシンクロっぷりがあまりに見事で、俺は思わず吹き出してしまった。
「そこまで嫌がらなくてもいいでしょ」
「嫌がるよ! さっきの一口で十分思い知ったもん!」
「午後の授業、睡魔と戦う前に砂漠で遭難した気分になりたないわ!」
文句を言い合いながらも、二人の口元には楽しげな笑みが浮かんでいた。
楽しい会話というものは、時間が過ぎ去るのを早く感じさせる。そんなこんなで三人で話しているうちに、五分前の予鈴が鳴り響いた。
「あ、もう五分前じゃん。急いで片付けなきゃ」
大原さんが慌てて弁当箱の蓋を閉め、ハンカチで包み直す。横山さんも最後のおにぎりを口に放り込んで、アルミの弁当箱を巾着袋へと滑り込ませた。
俺も残っていた鶏むね肉とブロッコリーを口の中へ放り込み、タッパーの蓋を閉めた。
三人で寄せ合っていた机を元の列へずりずりと引き戻していった。金属の脚が床を擦るけたたましい音が、教室中のあちこちから重なって聞こえてくる。
机の上に一人分の空間が戻り、教室が授業前の落ち着いた気配へ切り替わっていく。
五時間目のノートを取り出したとき、ふと口の奥に何かが残っていることに気がついた。
舌の上を転がる淡く優しい甘みと、香ばしい塩気。
大原さんの卵焼きと、横山さんのタコさんウインナーの味だ。
普段ならとっくに消えているはずの微かな味が、喉の奥にじんわりと残っていた。