六月半ばの日曜日、西高のグラウンドは梅雨の晴れ間の白い陽光に照らされていた。湿った黒土の匂いが熱気に乗って立ち上り、金属バットが球を捉える音が時折響く。
夏の本大会に登録される十八人の枠を賭けた、選考のための紅白戦だ。グラウンドの空気は、普段の放課後の練習とはまるで違っていた。三年生にとっては最後の夏であり、下級生にとっては上級生の座を奪い取るための唯一の関門だった。張り詰めた糸のような緊張感が、バックネットから外野の端まで張り巡らされている。
俺は制服のまま、バックネット裏から一塁側へ抜ける通路脇の、古びたベンチに腰を下ろしていた。
座っている場所は、バックネットの太い支柱と鉄骨の陰になっていて、グラウンド側からは目立ちにくい位置だった。わざわざこちらを探そうと目を凝らしでもしない限り、ベンチからもマウンドからもまず気づかれない。
今朝、家を出る前の城ヶ崎に携帯のメールで伝えてあった。今日は見に行けないから自分の力を信じて投げておいで、と。
あいつは極端に緊張しやすい。ただでさえ三年生の最後の夏が懸かった大一番だ。バックネット裏に俺の姿が見えれば、格好をつけようとして余計に力むのは目に見えていた。自分一人で戦わなければならない状況の方が、かえって無心になれるはずだ。そう踏んでの嘘だった。
夏の大会のメンバーにほぼ決まっている三年生中心の主力組と、ベンチ入りを狙う下級生中心の挑戦組。その試合は、すでに四回を終えようとしていた。
スコアボードには、一対〇という数字が並んでいる。挑戦組の先発を務める二年生の投手が一回から四回まで投げて一点を許し、主力組が一点をリードしていた。
主力組のマウンドを守っているのは、背番号一を背負ったエースの成瀬先輩だ。
成瀬先輩の球は、以前ネット越しに助言したとおり低めへ丁寧に集まっていた。際立った球威や打者の手元で消えるような変化球があるわけではないが、打者の膝元へきっちりと制球されている。低めの枠へ正確に落とし続ける制球は、公立校にはもったいないほどの一級品だ。この精度があれば、県の強豪を相手にしても堂々と試合を組み立てられるだろう。
視線を挑戦組の一塁側ベンチへと向ける。
ベンチの一番端の屋根の影に、城ヶ崎が座っていた。
膝の上に置いたキャメル色のグラブを両手で強く抱え込み、グラウンドをじっと見つめている。その背中は普段よりも小さく縮こまって見えた。
六月の最初の週に選考の話を聞いて以来、俺たちは部活のあとの河川敷で二人だけの練習を重ねてきた。
踏み込んだ左膝が外へ逃げる城ヶ崎の悪癖は、この二週間でほとんど見られなくなっている。左の壁が崩れなくなり、城ヶ崎の放つ球は別物へと化けた。ミットの位置を見るだけで、自然と狙ったコースへ白球が吸い込まれるようになったのだ。
河川敷で作り上げた投げ方をそのまま出せれば、主力組の打線とも互角以上に渡り合える。それだけの怪物を、俺は育て上げたという確信があった。
そして五回の裏、ついに城ヶ崎は二年生の投手からマウンドを引き継いだ。
主力組の捕手を務めるのは、重厚な防具を身につけた堂本キャプテンだ。対する挑戦組の城ヶ崎の球を受けるのは、二年生の控え捕手だった。
白いプレートの前に立った城ヶ崎を見て、俺は思わず息を呑んだ。
歩き方からしておかしい。足取りが重く、ぎこちない。マウンドの傾斜を上がる際、スパイクの刃を土に引っ掛けそうになっていた。
ロジンバッグに手を伸ばした城ヶ崎の指先が、遠目にも分かるほど震えている。両肩が耳の横まで吊り上がり、首回りの筋肉が強張っていた。顔からは血の気が引き、土気色になっている。
三塁側の主力組ベンチから、控えの三年生たちの野次が容赦なく飛んだ。
「おいおい、一年坊主がガチガチじゃねえか!」
「足が震えてるぞ! ストライク入るのかよ!」
「楽に打たせてもらおうぜ!」
三年生たちに悪気があるわけではない。夏の背番号を争う真剣勝負だからこそ、下級生の動揺を誘うのは勝負事の常套手段だ。
だがその声が飛ぶたびに、城ヶ崎の身体は目に見えて縮こまっていった。
投球練習が始まる。一球目。城ヶ崎が足を上げた瞬間、俺はベンチで小さく舌打ちをした。
早すぎる。下半身に体重が乗り切る前に、上半身が焦って前へと倒れ込んでいた。踏み出した左足の膝が、着地と同時に外側へと大きく割れる。逃げた膝のせいで腰の回転が止まり、右腕だけが取り残されるように遅れて振り下ろされた。
すっぽ抜けた白球は、キャッチャーの頭上を越えてバックネットの金網に激突した。激しい金属音がグラウンドに木霊する。
二球目も同じだ。今度は叩きつけるように腕を振り、ベースの数メートル手前の土を掘り返すような大暴投になった。
河川敷で毎日繰り返した、あの滑らかな連動が完全に消え去っていた。
恐怖と緊張に呑まれ、腕の力だけで何とかストライクを入れようとしている。それでは球が指にかかるはずがない。
俺が見ていなければ緊張しないはずだという目論見は、完全に外れていた。
あいつは俺が見ているから力むのではない。自分の背中に掛かっているものの重さに、たった一人で押し潰されていたのだ。見守る者がいないマウンドで、孤独に怯えていた。
読み違えた、と俺は奥歯を噛み締めた。これなら最初からバックネット裏で睨みつけていた方がまだましだった。
試合が再開された。五回の裏、主力組の攻撃は一番打者からだ。
セットポジションに入った城ヶ崎は、グラブを胸よりも高く構え、呼吸も浅くなっていた。
初球、外角へ大きく外れるボール。二球目、引っ掛けて内角低めのワンバウンド。三球目、高めに浮いて完全に外れる。四球目も腕が縮こまり、全く勝負にならないままストレートの四球を与えてしまった。
続く二番打者に対しても、城ヶ崎の動揺は収まらない。
さっき左足の膝が外へ逃げた失敗を怖がったのだろう。今度は踏み込みが狭くなって置きにいった球が高めに抜ける。カウントを悪くして投げ込んだ球もコースを外れ、四球が続いた。
ノーアウト一、二塁。ストライクが一つも入らないまま、傷口を広げていく。
主力組のベンチはお祭り騒ぎのような歓声を上げ、打席には三番打者が向かおうとしていた。その後ろには、ネクストバッターズサークルで素振りを繰り返す堂本キャプテンの姿がある。
マウンドの城ヶ崎は帽子の庇の下で視線を泳がせ、立ち尽くしていた。まるで足元の土が崩れていくかのように、グラブを抱えたまま動けないでいる。
見かねた挑戦組の捕手が立ち上がり、両手を広げて球審にタイムを要求した。
捕手が小走りでマウンドへと向かう。内野手たちも集まろうとしていた。
だが二年生の捕手が何を言ったところで、あのパニック状態に陥った城ヶ崎の耳に届くとは思えなかった。一度狂った身体の感覚は、言葉で説明されて戻るようなものではないのだ。
思わず目を伏せ足元へ視線を落としたとき、ベンチの隅で静かに土をかぶっているボールが目に入った。
俺は迷わずに立ち上がり、そのボールを右手で拾い上げた。
革の感触。指先に馴染む縫い目の出っ張り。
死角のベンチから歩み出て、フェンスの切れ目から白線の手前へ足を踏み出した。制服のスカートが風に揺れる。
マウンドへ向かっていた捕手や内野手たちはまだたどり着いておらず、立ち尽くす城ヶ崎の周りにはぽっかりと空間が空いていた。選手たちも打者も、突然現れた制服姿の女子に気づいていなかった。
俺は息を深く吸い込み、腹の底から声を張り上げた。
「城ヶ崎っ!」
静まり返りかけていたグラウンドに、甲高い声が真っ直ぐに突き刺さった。
マウンドの上で項垂れていた城ヶ崎が、弾かれたように顔を上げた。
驚愕に目を見張り、信じられないものを見るようにこちらを凝視してくる。その目は、恐怖に怯えきっていた。
「ふざけるなよお前!」
叫びながら、俺は右足を後ろへと引いた。
制服のブラウスの窮屈さなど、どうでもよかった。
左足を高く引き上げ、軸足の右足一本で地面をしっかりと掴む。体重を乗せ、下半身から力を練り上げる。
左膝を相手に向けたまま、決して外へ逃がさない。胸の開きをぎりぎりまで我慢する。踏み出した左足が地面を捉えた瞬間、腰を鋭く回して右腕を前へ振り抜いた。
河川敷の夕暮れの中で、あいつの目の前で何度も見せてきた投げ方だった。
空気を切り裂く鋭い音が鳴り、手元を離れた白球が一直線の軌道を描いて放たれた。
通路の白線からマウンドまでの距離は、三十メートル以上あるだろうか。
ボールは女子が投げたとは思えない唸りを上げ、地を這うような低さのまま伸びていく。
マウンドの上にいた城ヶ崎の胸元へ、吸い込まれるように飛んでいった。
城ヶ崎の構えたグラブの真ん中に、乾いた音を立てて球が収まる。
グラウンド中の全ての動きが止まった。
捕手も打者もヤジを飛ばしていた三年生たちも、全員が目を見開いて立ち尽くしている。
静まり返った中で、城ヶ崎だけがグラブの中のボールと俺を交互に見つめていた。
あいつの吊り上がっていた両肩が、すっと落ちた。
震えていた指先が止まり、青ざめていた頬にじわりと血の気が戻っていく。
グラブを抱え直した城ヶ崎が、泣きそうな顔のまま力を込めて叫んだ。
「目が覚めたよ、姫宮!」
その声を聞き届け、俺は何食わぬ顔で踵を返した。
ざわめきが広がっていくのを背中で感じながら、元の死角のベンチへ戻る。
腰を下ろすと、右腕の奥に投げた後の熱い感覚がじんわりと残っていた。ブラウスの肩口が少し突っ張っていたが、投げ方自体に狂いはなかったはずだ。
グラウンドでは、我に返った審判の先生がマウンドに投げ込まれた余分な球を拾わせて回収し、それから試合の再開を促していた。捕手はマウンドの城ヶ崎に一言二言声をかけ、不思議そうな顔で元の位置へと戻っていった。
城ヶ崎が再びプレートに足をかける。
その立ち姿は、先ほどまでの怯えた獣のような姿とはまるで違っていた。
両足でしっかりとマウンドの土を踏みしめ、背筋がすっと伸びている。グラブを胸元に構え、打席の三番打者を真っ直ぐに見据えていた。
ノーアウト一、二塁。依然として絶体絶命のピンチであることに変わりはない。
だが城ヶ崎の瞳からは、迷いが完全に消え去っていた。
三番打者がバットを構える。
城ヶ崎が左足を静かに、だが力強く引き上げた。
右足の上にどっしりと体重が乗り、頭の位置が全くぶれない。踏み出された左足はホームへ向かって一直線に伸び、左膝は寸分も外へ割れることなく地面の衝撃を正面から受け止めた。
腰が鋭く回り、遅れて出てきた太い右腕が振り下ろされる。
ドバァァァンッ!
破裂音のような捕球音が、バックネット裏の鉄骨を震わせた。
内角低め、ストライクゾーンの端をかすめるような直球。打者はバットを出すことすらできず、見逃しのストライクを取られて呆然と固まっていた。
「……ひゃ、百四十四キロ!」
本部席のテントの下でスピードガンを構えていた生徒が、裏返った声を張り上げた。
その瞬間、グラウンドの空気が完全に凍りつく。
百四十四。公立高校の一年生が、六月の時点で投げていい数字ではない。
主力組のベンチにいた三年生たちが、総立ちのまま言葉を失っている。先ほどまで飛び交っていたヤジは跡形もなく消え去り、誰もが信じられない面持ちでマウンドの城ヶ崎を凝視していた。
死角のベンチに座る俺の口元から、思わず乾いた笑いが漏れた。
たった二週間だ。体の使い方を教えて膝の割れを直しただけで、こいつはこの領域まで軽々と届いてしまう。俺が前世で肘をすり減らしてようやく辿り着いた球速に、あっという間に迫ってみせたのだ。
才能の差をこれほど無邪気に見せつけられては、笑う以外にどうしようもない。
胸の奥で燻る熱いものを押し込め、俺はグラウンドの攻防に目を戻した。
二球目、同じ腕の振りから外角低めへズバッと決まる直球。打者はかろうじてバットを出したが、球威に完全に押されてファウルグラウンドへと転がった。
そして三球目。外角高めのボールゾーンへと吊り上げるような剛速球。打者のバットは空を切り、三球三振でワンアウト。
打席に向かったのは、四番の堂本キャプテンだった。
がっしりとした体をゆっくりと右打席に入れる。主将としての意地と三年生の矜持が、その構えから滲み出ていた。
城ヶ崎を最も近くで見てきた堂本キャプテンだ。この怪物がどれほどの球を投げるのか、誰よりも理解しているはずだった。力負けするつもりは微塵もないという気迫で、バットを指一本分短く握り直している。
城ヶ崎もまた、その気迫を真っ向から受け止めていた。
初球、真ん中低めへ突き刺さるような剛球。堂本キャプテンのバットが豪快に振り抜かれたが、球の勢いに押されてバックネットへのファウルになった。
二球目、内角胸元を突く厳しい直球。堂本キャプテンは身体を仰け反らせながらも見極め、ボールとなる。
三球目、外角低めいっぱいへの直球。堂本キャプテンが食らいつき、三塁側のファウルグラウンドへ鋭く弾き飛ばした。
ツーストライク、ワンボール。
捕手がミットを構えたのは、高めのボールゾーンだった。
城ヶ崎が腕を鋭く振り抜く。放たれた白球は打者の手元でホップするかのような錯覚を覚えさせる軌道で、堂本キャプテンの胸元へと突き進んだ。
堂本キャプテンのバットが唸りを上げて振られる。
だがバットが通過した数センチ上を、白い閃光が駆け抜けていった。
空振り三振。
堂本キャプテンの身体が一回転しそうになり、膝に手を突いて息を吐く。悔しげに唇を噛み締めながらも、その目にはマウンドの後輩に対する確かな驚嘆の色が宿っていた。
二アウト一、二塁。続く五番打者に対しても、城ヶ崎の勢いは止まらない。初球の内角直球で詰まらせ、力のないピッチャーゴロに打ち取った。
自ら打球を処理し、一塁へ軽々と送球してスリーアウト。
連続四球で招いたピンチを、城ヶ崎は無失点で切り抜けてみせた。
一塁側ベンチへ引き揚げてくる城ヶ崎を、挑戦組の仲間たちは信じられないものを見る目で迎え、やがてその驚きが歓声に変わった。
ベンチに戻る際、城ヶ崎はふと視線をバックネット裏へと走らせた。だが、駆け寄ってきた仲間に背中を叩かれ、肩を抱かれるようにして引っ張られる。あいつはなんとかこちらに小さく手を振り、連れ去られるようにベンチの奥へと消えていった。
六回の表、城ヶ崎の気迫に当てられたのか挑戦組の攻撃陣が粘りを見せた。
成瀬先輩の低めの変化球を右へ流し打ち、連打で一死二・三塁。内野ゴロの間に三塁走者が生還した。
一対一。試合は同点に追いつく。
主力組のベンチでマウンドを降りた成瀬先輩が汗を拭いながら、自分の右手をじっと見つめている。その表情には、城ヶ崎の球速を見せつけられた動揺が隠しようもなく滲んでいた。
六回裏は、緊張が解けた城ヶ崎の独壇場だった。味方の守備の乱れで走者を一人背負ったものの全く動じることなく、二つの空振り三振を奪って後続をきっちりと断ち切る。
城ヶ崎は野球を始めて二ヶ月の初心者だ。紅白戦までの練習で実戦レベルにまで仕上げられたのは直球のみ。
だが、その直球が崩れない。
二年生の捕手が構えるミットの位置を正確に見据え、高低と内外のコースを丁寧に突いていく。外角低めでカウントを稼いで胸元で上体を起こさせ、最後は高めの釣り球で空振りを奪う。
何より大きかったのは、球数が重なっても投げ方が一切乱れないことだった。
脚から正しく力を伝える投げ方は、肩や肘に無理をかけない。がむしゃらに腕を振り回していた頃なら、三十球も投げれば球が浮き始めていただろう。だが今の城ヶ崎は七回を迎えても、勢いの落ちない球を投げ込み続けていた。
主力組の打者たちは、手も足も出ない。
直球一つに狙いを絞っているのに、打者は手元で伸びてくる白球に振り遅れるしかなかった。
七回裏を三者凡退、二つの三振で抑え込み、試合は一対一の同点のまま終盤へもつれ込んだ。
そして、八回の裏。主力組の攻撃は、四番の堂本キャプテンからだった。
二度目の対決。五回に空振り三振を喫した主将は、静かな闘志を全身から漲らせて打席に入った。
城ヶ崎が初球を投げ込む。外角低めいっぱいを削る百四十四キロの剛球。
だが堂本キャプテンのバットは、迷いなくその軌道へと振り抜かれた。
乾いた打球音がグラウンドに響き渡る。
球威に負けずに芯で捉えた打球は、右中間を深々と破っていった。
堂本キャプテンはヘルメットを押さえながら一塁を蹴り、悠々と二塁へ滑り込む。
ノーアウト二塁。
一打勝ち越しの好機に、塁上の主将が拳を握り締め、主力組のベンチが大きく沸き立った。
だが、死角のベンチに座る俺の胸に焦りはなかった。むしろ、目の前の光景をどこか冷めた目で見つめていた。
堂本キャプテンが二塁打を放てたのは、普段からブルペンで城ヶ崎の球筋を目に焼きつけており、バットを振る鋭さも県内指折りだからだ。
主力組の並びは伊達ではない。県大会の上位でも十分に渡り合えるだけの鋭い振りを備えている。それでも、百四十キロ台半ばの直球を初見で捉えきるのは至難の業だ。
あの速度の球が指先を離れてから手元を通過するまでの時間は、ほんの〇・五秒にも満たない。普段からその速度を見慣れていなければ、どれほど構えを固めて待っていても身体の反応がどうしても追いつかない。
並の打者なら手も足も出ない城ヶ崎の球を、堂本キャプテンは技術と意地で芯に乗せてみせた。だがあの鋭いスイングを即座に再現できる打者が、公立校の選手層で何人もいるはずがない。
打席に入った五番打者に対し、城ヶ崎は初球から真ん中高めの剛球を投げ込んだ。
打者は完全に振り遅れ、バットの先で空を切る。
二球目、外角低めへの直球で見逃しストライク。
そして三球目、高めのボールゾーンへと吊り上げるような剛速球に、五番打者のバットはあえなく空を切り、三球三振でワンアウト。
続く六番打者も、外角低めの球威に腰が引けて見逃し三振。
そして七番打者に対しても、胸元を抉る直球で見逃しを奪ったあと、最後は外角低めいっぱいに突き刺して空振り三振。
無死二塁の危機を、城ヶ崎は圧巻の三者連続三振で平然と切り抜けてみせた。
グラウンドを包む空気は、もはや選考の紅白戦という枠組みを越えている。誰もが一球ごとに息を呑み、一人の怪物が誕生する瞬間を見届けていた。
だが、成瀬先輩も背番号一の意地を譲らなかった。六回に同点の一点を奪われて以降、低めを突く丁寧な投球はさらに研ぎ澄まされ、挑戦組の打線に好機らしい好機すら作らせない。
互いのエースが相手打線を封じ込め、一点も許さないまま回が進んでいく。一対一。息の詰まるような緊張感を保ったまま、試合は九回へと進んだ。
そして、九回の裏。同点のまま迎えた最終回。
城ヶ崎はマウンドに上がり、最後の力を振り絞るように右足をプレートに擦り付けた。
下位打線からの攻撃だったが、城ヶ崎は一切の手を抜かなかった。
八番打者を外角低めの直球で三振。
九番打者には内角に食い込む厳しい球を投げ込み、手を出させないまま見逃し三振に取る。
そして、打席には代打の三年生が入った。この夏が最後になる、控えの先輩だ。
打者はバットを短く持ち、何とかバットに当てようと打席の後ろ寄りに立っていた。
城ヶ崎は二球で追い込んだ。
城ヶ崎がセットポジションに入る。
深く息を吐き出し、胸の前でグラブを静止させた。
足が上がる。地面を噛む右足と、真っ直ぐに踏み出されて割れない左膝。溜め込まれた力が腰の回転とともに腕へと伝わり、今日一番の鋭い腕の振りとなって解き放たれた。
放たれた白球は捕手のミットが微動だにしない位置、真ん中低めのコースへと突き刺さった。
バシィィンッ!
打者のバットが空を切ったのは、球がミットに収まった後だ。
「ストライク、バッターアウト! ゲームセット!」
審判の声が響き渡り、試合の終わりを告げた。
一対一の引き分け。五回から五イニングを投げた城ヶ崎は、被安打一本、堂本キャプテンに許した二塁打のみで十二個の三振を奪った。失点はゼロ。
最後の三振が決まった瞬間、挑戦組の選手たちがマウンドへ駆け寄って城ヶ崎をもみくちゃにした。頭を叩かれながら、城ヶ崎は照れくさそうに何度も頭を下げている。
両チームがホームベースを挟んで整列し、礼を交わす。
整列が解けた後、防具を外した堂本キャプテンが城ヶ崎の元へと歩み寄った。
「城ヶ崎」
「は、はい! キャプテン!」
「いい球だった。……ミーティングの後、話がある。残っておけ」
「……っ! はい!」
城ヶ崎が大きく背筋を伸ばし、直立不動で返事をした。
わざわざ主将が試合直後に呼び止める理由なんて、一つしかない。夏のベンチ入り枠。あいつの背中に縫い付けられる数字が決まったのだ。
ほどなくして、グラウンド整備が始まった。
下級生たちが木製のトンボを手に散り、スパイクの刃で荒れた黒土の走路を丁寧に均していく。上級生たちはベンチ周りに散らばった捕手防具やヘルメットをコンテナに収め、本部席の白いパイプテントを畳み始めていた。
城ヶ崎もマウンドの傾斜に沿ってトンボを滑らせていた。額に張り付いた汗まみれの髪を手の甲でぬぐった拍子に、ふとこちらへ視線を向ける。
通路の脇、バックネットを支える鉄骨の影。
まだ同じベンチに腰を下ろしていた俺の姿を、あいつの目が捉えた。
すぐに周りの先輩たちを窺うように視線を落としたが、土を均す手を一瞬だけ止めた。体ごと向きを変え、死角を作るようにして、抱えていたキャメル色のグラブを胸の前に当てて小さく顎を引く。
俺もまた、誰にも見咎められない程度に首を縦に振って返した。
あいつが押さえたグラブの革色を見つめているうちに、肌の奥がじりじりと粟立つような感覚があった。
照りつける日差しと、土埃の混じった乾いた風。指先の皮が擦り切れるまでボールの縫い目を押し込み続けた、あの夏の輪郭が勝手に引きずり出される。
指先から弾き出されるあの球も、右腕にずっしりとかかっていた重みも、足裏から立ちのぼるマウンドの熱も、今の俺の体には何ひとつ残っていない。細い指にも、薄い肩のどこにも、かつて確かに宿っていたはずの感触は影も形もなかった。
あいつはそれを今、手に入れ始めている。