紅白戦の翌日。六時間目が終わり、教室に湿った熱気と解放感が一気に満ちた。
窓の外からは、梅雨の晴れ間に照りつけるじっとりとした日差しが差し込んでいる。
ぎしり、と前の席の机がきしむ音がした。
顔を上げると大原さんが器用に椅子をくるりと反転させ、背もたれに両腕を乗せてこちらを覗き込んでいた。そのすぐ隣ではすでにスクールバッグを肩にかけた横山さんが、机の端に腰を軽く預けるようにして身を乗り出してきている。
「朝から教室の後ろの方、すごかったやん。男子らがずっと昨日の紅白戦の話で大騒ぎしとったで。城ヶ崎君がすごい球投げて、三年生の先輩たちから三振バシバシ取ったんやって?」
「あたしも聞いたよ。ほら、隣のクラスの野球部の子がいるじゃん。お昼休みに購買のパン買いに行ったとき、興奮気味に話してたもん。昨日の一年の投げっぷり、マジでやばかったって。五回から最後まで投げて、一点も取られなかったんだってね」
二人の言葉を聞きながら、俺は胸の内で静かに息を吐いた。
「うん。昨日の城ヶ崎君は、すごく落ち着いて投げられていたよ。今までやってきた練習の動きが、ようやく一つの形になって繋がったんだと思う。右足にしっかり体重を乗せて、焦らずに腕を振れるようになってきたからね。あの球が投げられるなら、三年生の打者でもそう簡単には打てないよ」
手応えを噛み締めながら頷くと、大原さんと横山さんが示し合わせたように吹き出した。
「ほら出た。姫宮さん、それ完全に監督の喋り方だよ」
「ほんまそれやわ。同級生が三年生抑えて喜んどるんやなくて、育てた選手が結果出して満足しとる名将の顔になっとるもん」
「えっ、そうかな……? そんなつもりはないんだけど」
「あるある、大ありだって。普通の女子はそんな的確なコメント言わないからね」
大原さんにけらけらと笑われ、俺は少し頬を掻いた。前世の記憶と経験が染み付いているせいか、どうしても物の見方が教える側のそれになってしまうらしい。
昨日はあれだけの投球を見せたのだ。試合の後に堂本キャプテンが城ヶ崎に声をかけていたから、何かしらの動きはあるはずだと思っていた。今日は紅白戦の翌日ということで野球部の全体練習は休みになっているが、本人は今頃どうしているだろうか。
そんなことを考えていた、まさにその瞬間だった。
教室の後ろの引き戸が、ガラガラッと勢いよく開け放たれた。
「ひ、姫宮っ……!」
飛び込んできたのは、息を切らして耳の先まで真っ赤に染めた城ヶ崎だった。
城ヶ崎は教室を見回して俺の姿を見つけるなり、一直線にこちらへと突進してきた。教室に残っていた数人のクラスメイトたちが、何事かと驚いて視線を向ける。
「どうしたの城ヶ崎君、そんなに慌てて。走ってきたの?」
「は、走った……! 部室から、ずっと走ってきた……!」
城ヶ崎は俺の机の前に辿り着くと、膝に両手を突いて荒い呼吸を整えようとした。制服の白いシャツの襟元が汗で張り付き、胸元が激しく上下している。
そして右手を膝から離し、制服のポケットに突っ込んでいたものをおもむろに引き抜いた。
「これ……! これ見てくれ、姫宮!」
机の上に広げられたのは、一枚の白い布だった。
硬い布地に、太い黒糸ではっきりと数字が刺繍されている。
十。
公式戦でユニフォームの背中に縫い付ける、正真正銘の背番号だった。
「背番号……十番……!」
大原さんが小さく息を呑んで身を乗り出した。横山さんも目を丸くして、その白い布を見つめている。教室のあちこちから、男子たちのどよめきが上がった。
「さっき堂本キャプテンに呼ばれてさ……部室で正式に手渡されたんだ。夏の大会の登録メンバー十八人の中に、俺が入ったって……! 一年生の中で、選ばれたの俺一人だけなんだぞ!」
城ヶ崎の声は震えていた。大きな瞳をこれ以上ないほど見開き、じっと俺の顔を見つめてくる。
公立の西高とはいえ、野球部は伝統があって部員数も決して少なくない。三年生にとっては最後の夏であり、ベンチ入りすら叶わずにスタンドへ回る者も大勢いる。その中で入部してわずか二ヶ月余りの一年生が、十番を勝ち取ったのだ。高校野球ではエースの次に頼られる投手が背負うことの多い、重みのある番号だった。
俺は広げられた布へ、そっと指先を伸ばした。
指の腹に触れる厚手の綿の質感と、盛り上がった刺繍の硬い感触。
かつて俺自身が血と泥にまみれながら背負い続けたものと同じ重みが、そこには確かに宿っていた。
「……よかったね」
「姫宮……」
「おめでとう。これはね、誰かのおかげでもまぐれでもないよ。城ヶ崎君が毎日逃げずに練習して、昨日のマウンドで自分の力で勝ち取った番号だよ」
布の縁をなぞりながら言うと、城ヶ崎の垂れ目がじわりと潤んだ。大型犬が尻尾を千切れんばかりに振っているような、くしゃくしゃの笑顔が広がる。
「う、うん……! ありがとう、姫宮! 俺、本当に嬉しいよ……!」
教室の男子たちが何人か駆け寄ってきて、城ヶ崎の広い背中をバシバシと叩いた。絶対見に行くからな、と口々に囃し立てる。城ヶ崎は照れながら頭を下げ、それから真剣な面持ちで俺の方へ向き直った。
「あ、あのさ……姫宮」
「ん? 何?」
「その……せっかくメンバーに入れたし、そのご褒美ってことでさ」
城ヶ崎はポケットに手を突っ込み、何かを確かめるように指をもぞもぞと動かした。すぐ目の前に大原さんと横山さんがいるのも忘れたかのように、首筋まで真っ赤に染め上げて言葉を絞り出す。
「この後……俺と、夕飯を食べに行かないか? 駅の近くの店とか、姫宮の行きたいところでいいから」
消え入りそうな声だったが、まっすぐ向けられた瞳は必死そのものだった。
ふと視界の端に目をやると、大原さんと横山さんが口元を手で覆いながら顔を見合わせ、にやにやと肘でつつき合っていた。二人は遠慮がちにそっと身を引いてこちらの様子をうかがっている。
わざわざ夕飯に誘ってくるなんて、よほど背番号をもらえたのが嬉しくて、ご褒美として誰かに祝ってほしいのだろう。
せっかくの晴れの背番号なのだから、みんなで賑やかに祝ってやるのが一番だ。
「そんなに気負わなくていいのに。でも、お祝いなら大賛成だよ。城ヶ崎君が背番号をもらったんだから、パーッと楽しくやろうよ」
俺は笑顔で頷き、それからすぐ目の前で固まっている大原さんと横山さんを振り返った。
「ねえ、大原さんも横山さんも一緒にどう? みんなで行った方が絶対に楽しいよね!」
城ヶ崎の顔から、さっと血の気が引いていくのが見えた。
「えっ……あ、いや……」
城ヶ崎は何かを言いかけ、がっくりと両肩を落として小さく天を仰いだ。
一方、向かいの大原さんと横山さんはというと、目を見開いたまま静まり返っていた。二人は無言のまま顔を見合わせ、信じられないものを見る目で俺と城ヶ崎を交互に見ている。
「……は?」
横山さんの喉から、小さく乾いた声が漏れた。
大原さんは引きつった笑いを張り付けたまま、机の上で指をわなわなと震わせている。二人の視線が俺の無邪気な笑顔を突き刺し、それから硬直して彫像のようになっている城ヶ崎へと移動した。
「ちょ……姫宮さん、今、なんて言うた……?」
「だから、大原さんと横山さんも一緒に行こうって言ったんだよ。人数が多い方がお祝いの席も盛り上がるし、城ヶ崎君も嬉しいでしょ?」
俺が何の裏もなくそう言うと、大原さんが頭を抱えて深いため息をついた。その表情には、呆れを通り越して本気の戦慄が浮かんでいる。
「姫宮さん……それはさすがに……」
「うち、ちょっと城ヶ崎君がかわいそうになってきたわ……」
横山さんが心底から同情しきったような視線を城ヶ崎に投げかける。
城ヶ崎は魂が口から抜け出しかけたような顔で、床の一点を見つめたまま微動だにしない。
「何がかわいそうなの? クラスメイトに応援してもらえるのは良いことでしょ」
「そ、そういう問題やないねん……! 姫宮さん、ほんまに……なんちゅうか、恐ろしい子やな……」
横山さんが額を押さえながら首を横に振る。
大原さんは慌てて自分の鞄を肩にかけると、城ヶ崎に向かって両手を合わせ、拝むような仕草をしてみせた。
「あ、あたしたちはほら! 今日はちょっと用事があるっていうか! 門限が厳しいし、あんまり遅くなるとお母さんに怒られちゃうから!」
「そやそや! うちらは今度でええから! 今日は二人で行ってきぃな! なっ、モモ!」
「うん! じゃあね姫宮さん、城ヶ崎君! 背番号本当におめでとう! じゃっ!」
二人はまるで何かの災厄から逃げ出すかのような猛スピードで教室を飛び出し、廊下を小走りで去っていった。あっという間にその足音は遠ざかる。
俺は腕を組み、開け放たれた扉を眺めながら首をかしげた。
「なんだろう。急に慌てて帰っちゃったね」
「…………」
「城ヶ崎君?」
声をかけると、城ヶ崎はようやく我に返ったようにビクッと肩を跳ねさせた。
その顔は、安堵したような、それでいて深い痛手を負ったような、なんとも形容のしがたい複雑な表情をしている。
「あ……いや……用事なら、仕方ないよな……」
「そうだね。まあ、二人とも忙しいんだろうね。それじゃあ二人で行こうか。お店は考えてあるの?」
「えっと……その、女の子って、ケーキとかパフェとか、そういう甘い店が好きなんじゃないのか? 駅の近くに、女子が好きそうなカフェがあるって聞いたことあるけど……」
城ヶ崎がおずおずと、探るようにこちらの顔色を窺ってくる。
俺は即座に眉をひそめた。
「パフェ? そんな砂糖と油の塊を、身体作りの大事な時期に胃袋へ放り込んでどうするの。百歩譲ってオフの日の気分転換ならまだしも、背番号をもらったばかりのアスリートが口にするものじゃないよ」
「えっ……でも、姫宮は……」
「ボクのことはいいの。行くなら肉だよ、肉。タンパク質を大量に補給して、昨日の登板で疲れた体を回復させなきゃいけないんだから。駅前に、チェーンの焼肉食べ放題があるでしょ。あそこに行くよ」
「や、焼肉……? お祝いなのに、食べ放題でいいのか?」
「食べ放題だからいいんだよ。値段を気にせず、必要なだけの赤身肉を胃袋に詰め込めるんだから。ほら、荷物を持って。席が混み合う前に行くよ」
「う、うん……!」
城ヶ崎は言われるがままに自分の荷物を背負い、まだ少し放心したような足取りで俺の後ろをついてきた。背番号十の布を、壊れ物でも扱うかのように学生カバンの中へ大切そうに押し込みながら。
校舎を出ると、夕方の空には、まだ強い西日が差していた。
校門を抜けて駅へと続く緩やかな坂道を、二人で並んで歩く。
城ヶ崎は時折、隣を歩く俺の様子をチラチラと盗み見ては、目が合いそうになると慌てて正面の電柱やアスファルトに視線を逸らしている。
駅前のロータリーを抜け、雑居ビルが立ち並ぶ通りを歩く。
目指す焼肉店は、古びた商業ビルの地下にあった。階段を下りていくと、換気扇から吐き出される焼けた肉と甘辛いタレの匂いが鼻腔をくすぐる。
自動ドアをくぐると、チリンチリンと控えめな鈴の音が鳴り、威勢のいい店員の声が迎えてくれた。
店内は夕食時が始まったばかりで、まだ席には余裕がある。仕切りの高いボックス席が並び、網の敷かれたガスロースターの上から、銀色の排煙ダクトがずらりと天井へ伸びていた。
「二名様ですね、こちらの席へどうぞ!」
案内されたのは、通路の奥にある四人掛けのテーブル席だった。
城ヶ崎が奥のソファ席に腰を下ろす。体格が大きいため、背もたれに収まると座席が少し狭そうに見えた。俺も向かい側に座り、鞄を足元に置く。
テーブルの上には、ラミネート加工された大きなメニュー表と、注文を書き留めるための小さなメモ用紙、そして一本の鉛筆が置かれていた。
「えっと……九十分の食べ放題コースでいいんだよな?」
城ヶ崎がメニュー表を広げ、指先でコースの欄をなぞる。
「うん、真ん中のスタンダードコースで十分だよ。一番上のコースはサシの入ったカルビとか脂身の多い部位が増えるだけだからね。身体作りにはタンパク質が大事だから、今日は脂っこすぎない肉を中心にしよう。脂ばっかりだと、胃がもたれてたくさん食べられないからね」
「な、なるほど……」
「まずはロースを四人前、それからハラミを三人前。あ、レバーとハツも頼もう。鉄分やビタミンをしっかり補給しておかないと、夏場のスタミナ切れにつながるからね。あと、キムチとサンチュ。野菜の食物繊維を先にお腹に入れておけば、血糖値の上がり方も緩やかになるから」
俺がスラスラとメモ用紙に鉛筆を走らせていると、城ヶ崎は目を丸くしてそれを見つめていた。
「姫宮って……本当に何でも知ってるんだな。焼肉の頼み方まで野球のトレーニングみたいだ」
「食べたものがそのまま筋肉と骨になるんだから、口に入れるものに無頓着な選手は一流にはなれないよ」
俺は卓上の呼び鈴を鳴らした。澄んだ金属音が鳴り響き、すぐにエプロン姿の店員が伝票を持ってやってくる。メモ用紙を渡して注文を告げると、店員は手際よく復唱して厨房へと戻っていった。
しばらくして、火の入ったロースターから熱気が立ち上り、銀色の皿に盛られた肉と野菜が次々と運ばれてきた。
赤身の綺麗なロース、厚みのあるハラミ、艶のあるレバー。
「うわ、すげえ……! 美味そうだな!」
城ヶ崎が顔を輝かせ、トングに手を伸ばそうとした。
その瞬間、俺は素早く向かいから手を伸ばし、あいつの手からトングをひったくった。
「待った。トングは渡さないよ」
「えっ? なんでだよ」
「主役が手を動かしてどうするの。君はただ座って、ボクが最高の状態で仕上げた肉を胃袋へ放り込むことだけに集中しなよ」
俺はトングの先を器用に操り、まずはロースの薄切りを熱せられた網の中央へと滑らせた。
ジューッという小気味よい音が立ち上り、香ばしい煙が排煙ダクトへと吸い込まれていく。
「ロースは焼きすぎちゃダメ。表面に肉汁がじんわり浮いて、いい焼き色がついてから裏返すんだ。裏返したら中までしっかり火を通す。ただし焼きすぎない。そのほうが水分が抜けすぎなくて柔らかいんだから」
肉の縁がわずかに縮み、表面に透明な肉汁が滲み出た刹那、俺は手首を返して肉を裏返した。火の通りを見届けてから生肉用とは別の取り分け用トングへと持ち替え、手早く城ヶ崎の取り皿へと運ぶ。
「はい、まず一枚。タレは砂糖も塩も多いから、レモン汁で食べなよ」
「お、おう……いただきます……」
城ヶ崎は圧倒されたように箸を動かし、皿の上のロースを口へと運んだ。
咀嚼した瞬間、あいつの目がパッと見開かれた。
「う……うまっ! 柔らかっ! なんだこれ、いつも家で食べる肉と全然違うぞ!?」
「焼き方ひとつで肉の水分量はまるで変わるんだよ。はい、次も焼けた。冷めないうちにどんどん食べなよ」
俺は網の温度を見極めながら、火力の強い中央部にはハラミを、火の弱い端の方にはじっくり火を通す必要のあるレバーとハツを配置した。
次から次へと最適な火入れを施し、城ヶ崎の取り皿へと肉を積み上げていく。
「次はレバー。レバーは中心までしっかり熱を通さなきゃダメだけど、焼きすぎると水分が抜けてパサパサになっちゃうからね。中までしっかり火が通った今が食べ頃だよ」
「あ、熱っ……! でもうまい……! 全然臭みがないな!」
「ほら、肉ばっかりじゃなくてサンチュも巻きなよ。野菜も一緒に食べて、栄養の偏りを防がなくちゃ」
「は、はいっ!」
城ヶ崎は言われるがままにサンチュに肉を巻き、大きな口を開けて頬張っている。
最初は美味そうに目を輝かせていた城ヶ崎だったが、皿の上の肉が減るそばから俺が新しい肉をポンポンと追加していくため、次第にその表情が必死なものへと変わっていった。
「ひ、姫宮……ちょっとペース早くないか? まだ口の中に残ってるんだけど……」
「噛む回数は一口につき三十回。よく噛めば胃腸への負担も減るからね。ゆっくりでいいから、手だけは止めないで。たくさん食べられる体を作るのも練習のうちだよ」
「れ、練習……」
「そうだよ。城ヶ崎君の体格なら、長い目で見れば、あと五キロくらいは体重を増やせる。下半身にしっかり筋肉の鎧をまとわせなきゃ、夏の過密日程で百四十キロの球を投げ続けられるわけがないでしょ」
俺は大真面目に説きながら、さらにハラミを追加で網に乗せた。
城ヶ崎は山のように盛られた肉と野菜を前に、ほとんど味わう余裕もなさそうに、必死の形相で顎を動かし続けている。もはや自分が何のお祝いに来たのかすら忘れているような顔つきだった。
そこへ、店員が大きなお椀に入った白米を運んできた。
「お待たせいたしました、大盛りライスになります」
「あ、城ヶ崎君の前に置いてください」
ドン、と置かれたのは、日本昔話に出てくるような見事な山盛りの白米だった。
城ヶ崎が息を呑み、どんぶりと俺の顔を交互に見つめて引きつった声を上げた。
「お、大盛り……!? 姫宮、これ何合あるんだよ……!」
「せいぜい一合半くらいでしょ。お米を食べないと、練習で使うエネルギーが足りなくなるし、せっかく摂ったタンパク質までエネルギーに回されちゃうんだよ。この米を一粒残さず食べ切って、初めて今夜の食事は完成するんだ」
「い、一粒残さず……」
「大丈夫、君の体格ならね。ほら、肉汁のついたロースをワンバウンドさせて食べなよ。ご飯が進むでしょ」
「う、ぐ……! 俺、食うよ……!」
城ヶ崎は腹を括ったようにどんぶりを持ち上げ、ガツガツと白米をかき込み始めた。
巨大な身体を丸め、汗を流しながら肉と米を貪り食うその姿は、まるで飢えた猛獣のようだった。だが、それでいい。食える選手は強くなる。どれだけ技術があっても、食が細くて身体を維持できない選手は生き残れないのだ。
そんな城ヶ崎の奮闘を満足げに眺めながら、俺も自分の取り皿に焼けたハラミを一枚取った。
肉質は悪くない。ただ、小さく一口かじっただけで妙に腹が満ちてしまい、残りを皿に戻してトングを握り直した。まあ、焼き役に専念しろということだろう。ガスの火力を微調整しながら、網の上の肉をテンポよく裏返していく。
「ほら、まだどんぶりに半分以上残ってるよ。肉も追加で頼むからね」
「ま、まだ来るのか……!?」
「当たり前でしょ。まだ目標のタンパク質量の七割くらいしかいってないんだから。次はミノとハツを中心にいくよ。脂が少なくてしっかり栄養が摂れる部位だからね」
「ま、まだ七割なの……」
城ヶ崎は絶望的な呻き声を漏らしながらも、再び箸を握り直した。
文句を言いながらも決して匙を投げず、出されたものを全部平らげようとするその実直さは、あいつの最大の美点だ。マウンドの上でも、この泥臭い粘り強さが必ず活きてくるはずだった。
九十分の制限時間が告げられる頃には、テーブルの上の皿は綺麗に空になり、城ヶ崎はソファの背もたれにぐったりと身体を預けていた。
お腹周りが目に見えてパンパンに膨らみ、額にはびっしりと汗をかいている。
「く……苦しい……。もう一歩も動けない……」
「よく食べたね。偉いよ、城ヶ崎君。こうして食べたものが、明日の君の体を作ってくれるんだからね」
「姫宮……俺、途中から肉の味が全然しなかったよ……」
「薬だと思えばいいんだよ。アスリートにとって、食事は身体を造るための補給作業なんだから」
俺は手元の紙ナプキンで口元を拭い、伝票を手に取って立ち上がった。
「よし、それじゃあ出ようか」
「あ、待ってくれ! 自分の分くらいは自分で払うから!」
城ヶ崎が慌てて重たい身体を起こし、ズボンのポケットから財布を取り出そうと身を乗り出してきた。
「今日は俺が姫宮を誘ったんだ! 自分の分くらい出さなきゃ筋が通らないだろ!」
「何を言ってるのさ。背番号をもらった主役が財布を出すわけないでしょ」
俺は伝票をひらひらと揺らし、城ヶ崎の手を軽く制した。
「お祝いっていうのはね、祝福する側が奢るものなんだよ。主役はただ堂々と奢られて、その分の結果をマウンドで返せばいいの」
「だ、ダメだって! グラブとスパイクの代金だって、俺、姫宮に五万三千四百円も借金してるんだぞ!? これ以上姫宮に払わせたら、俺、本当に顔向けできなくなる!」
城ヶ崎が必死の形相で食い下がってくる。
相変わらず借金の額を正確に覚えている生真面目さに、俺は苦笑いを禁じ得なかった。
「主役に金を払わせるような無粋な真似できないよ。ほら、早く立たないと他のお客さんの邪魔になっちゃうから」
俺は城ヶ崎の制止を完全に無視し、早足でレジカウンターへと向かった。
店員に伝票を渡し、鞄から財布を取り出して紙幣を滑り込ませる。釣銭を受け取り、レシートを財布にしまう頃になって、ようやく城ヶ崎が重たい足取りで追いついてきた。
「ごちそうさまでしたー」
店員に軽く頭を下げ、自動ドアが開くのを待って外へ出る。
夕方の生温い風が、火照った頬を撫でていった。
後ろからついてくる城ヶ崎は、完全に打ちひしがれた様子で項垂れている。その背中は、背番号をもらったばかりの高校球児とは思えないほど丸まっていた。
「……また奢られちゃったな……」
「お礼なら、さっき見せてもらった背番号十で十分もらったよ。君がベンチに入ってくれたことが、ボクにとっては何よりの報酬なんだから」
俺がそう告げると、城ヶ崎はハッと顔を上げ、驚いたように俺を見つめた。
傾いた西日が、その大きな瞳を照らし出している。
「姫宮……」
「それに、ここからが本番でしょ。背番号をもらったってことは、夏の大会で実際にマウンドに上がる可能性があるってことだ。浮かれてる暇なんてないんだよ」
俺たちは並んで住宅街への道を歩いていた。
六時を少し回ったところで、駅前の通りには足早に家路を急ぐ人たちの姿があったが、通りを一本外れると、あたりは急に静まり返っていく。
隣を歩く城ヶ崎の歩幅は、行きと比べて明らかに狭くなっている。
普段なら大股でずんずん先を歩いてしまう男が、今は重たい足を引きずるようにして、俺の半歩後ろをそろそろとついてきていた。ワイシャツの腹のあたりがはち切れんばかりに張り出し、左手を腰に当てて、重心を後ろに逃がすような姿勢になっている。少しでも前かがみになると、詰め込まれた大量の牛赤身肉が喉元までせり上がってくるのだろう。
「大丈夫? 少し歩くペース落とそうか」
「い、いや……平気だ。これくらい歩かないと、本当に胃袋が破裂しちまう……」
城ヶ崎は額に脂汗を浮かべながら、掠れた声で答えた。呼吸のたびに胸板が上下し、口から微かに熱い呼気が漏れている。
あれだけ食べたのだから無理もない。ロースにハラミにレバー、それに山盛りの白米。最後の方は箸が止まりかけていたが、俺が網に乗せる肉をあいつは律儀に全部平らげた。あれだけのタンパク質と鉄分を一気に胃へ流し込んだのだから、内臓がフル稼働で悲鳴を上げているのは当然だった。
住宅街の交差点で、俺たちは自然と足を止めた。
ここでお別れだ。ここから先は、俺と城ヶ崎の帰り道が左右に分かれる。
「じゃあ、帰ったら上半身を起こして、しばらく安静にしてなよ。胃腸に血液が集まってるから、頭も回らないでしょ。消化が落ち着くまでは無理に動かないこと」
「うん……分かった」
城ヶ崎は素直に頷いたものの、自分の家の方へ歩き出そうとはしなかった。
鞄の持ち手を右手に持ち替え、空いた左手を鞄の中へと滑り込ませる。もぞもぞと指先を動かし、そこから四つ折りにされた白い布を取り出し、鞄を足元に置いた。
さっき教室で見せてもらった、背番号十の布だ。
端の糸が少しほつれたその布を、城ヶ崎は両手で包み込むようにして、胸の前に抱えた。爪の先がわずかに白くなるほど、強い力が入っている。
「あのさ、姫宮」
「ん?」
「俺、今日……堂本キャプテンからこの背番号をもらったとき、すっげえ怖かったんだ」
静かな住宅街に、城ヶ崎の声だけが低く沈んでいた。
伏せられた視線は、両手の中の白い布に落とされている。
「俺よりずっと長く野球やってる二年生の先輩たちもいるのに、入部して二ヶ月の俺がこの番号をもらっていいのかって。昨日の紅白戦だって、姫宮がいなきゃストライクすら入らなかったし、サインの見方だってろくに覚えてない素人なのにさ」
あいつの手の中で、背番号の布がくしゃりと小さく音を立てた。
普段の練習では見せない、剥き出しの不安だった。
「でも……堂本キャプテンに言われたんだ。お前の球なら甲子園だって目指せるんだって。俺達を甲子園に連れてってくれって」
城ヶ崎は息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。
その眉は八の字に下がっていたが、濁りのない黒い瞳の奥には、確かな光が戻っていた。
「俺、決めたんだ。夏の大会、絶対に勝ち進んで、甲子園に行く。先輩たちを甲子園に連れて行くし……俺をここまで引っ張り上げてくれた姫宮を、絶対に甲子園に連れて行く」
真っ直ぐで、飾りのない言葉だった。
高校に入ってまだ二ヶ月ちょっとの素人が口にするには、途方もない大言壮語だ。周囲の強豪校が聞けば、鼻で笑うかもしれない。
だが、俺には笑う気なんて起きなかった。
あいつの指先から放たれる球の威力を、俺は誰よりも近くで見てきた。指にかかったときの唸りを上げるような回転と、ミットを押し込んでくる尋常じゃない重み。あんな球を投げられるやつは、そうそう転がっているものじゃない。これから練習を重ねていけば、県大会の並み居る打線など力で押し切れるだけの力がある。
「期待してるよ。君の球なら、夢物語なんかじゃない」
俺がそう返すと、城ヶ崎は目を丸くし、それからぎゅっと唇を結んだ。
その場に立ち尽くしたまま、あいつは布を強く握りしめ、何かを懸命に喉の奥から押し出そうとするように口をもごもごと動かした。
「あ、あのさ……姫宮」
「なに?」
「その……もし、本当に甲子園に行けたらさ」
城ヶ崎が一歩、こちらへ踏み出してきた。
いつもより距離が近い。大きな体を強張らせ、あいつは右手を胸の前に掲げた。
「その時は……俺と、つ……」
そこで言葉が途切れた。
耳まで赤くなっていた城ヶ崎の顔が、みるみるうちに青白く変わっていく。喉元をひくつかせ、カッと見開かれた目が宙を彷徨った。
「つ?」
「ぐっ……げふっ……!」
城ヶ崎は背番号の布を鞄に押し込み、両手で口元を塞いでくの字に腰を折った。
腹を抱え込んで脂汗を流す姿を見て、俺は合点がいった。
「つって……詰め込みすぎ、食べさせすぎって言いたいの? ボクだって鬼じゃないんだから、文句があるなら早い段階で言ってくれたら考慮したのに。でもね、強い球を投げるにはまず体を大きくしないと――」
「ちがっ……げふっ、そうじゃ……っ!」
城ヶ崎は真っ赤な目をして必死に首を振った。
何かを言い返そうと口を開くたび、せり上がってくる胃の中身と戦う羽目になっている。喉仏が激しく上下し、脂汗がぽたぽたと地面に落ちた。
「無理して喋らなくていいから。ほら、ゆっくり深呼吸して」
「お、俺は……っ、姫宮と……つ……っ、うぐっ」
言い切ろうと腹に力を込めた瞬間、限界を迎えたのか、城ヶ崎はその場に膝をつきそうになった。
青ざめた顔で口を押さえ、情けなそうに涙目をこちらへ向ける。これ以上声を出したら大惨事になると、本能で悟ったらしい。
あいつは数秒の間、必死に喉の暴走を抑え込み、やがて力尽きたように肩を落とした。
「……っ……ふぅ……。……やっぱ、いい……」
「え? 何が?」
「……なんでも、ない……。今のは……忘れてくれ……」
城ヶ崎は力なく項垂れ、お腹をさすりながら背中を丸めた。大柄な身体がずいぶん頼りなく縮んで見える。
やはり肉を詰め込ませすぎたらしい。体重を増やして球速を上げるには手っ取り早い手段だが、いきなり限界まで放り込むのは胃腸に厳しかったか。消化器官の受け入れ量を計算に入れていなかったのは俺の落ち度だ。
「ごめんね、無理させすぎちゃった。近くのコンビニで胃薬でも買ってこようか? 水くらいなら飲めるでしょ」
俺が財布を取り出そうとすると、城ヶ崎は口を押さえたまま必死に首を横に振った。
声も出せない状態らしい。下手に喋れば上がってきてしまうのだろう。
「そう? ならいいけどさ。吐きそうなら我慢しないで出しちゃいなよ。せっかくの栄養がもったいないけど」
城ヶ崎は涙目のまま、力なく首を振った。意地でも腹に収めておく気らしい。
身体作りは誰だって最初は泥臭いものだ。俺も前世で身体を大きくしようとしていた頃は、毎食吐き気と戦いながら白米を胃袋へ流し込んでいた。
「ほら、無理そうなら家の前まで肩を貸すから」
城ヶ崎は片手をひらひらと小さく振って返事をすると、もう片方の手で胃のあたりを押さえ込んだ。そして、そのまま前屈みの姿勢で分かれ道から自宅の方へと去っていく。
大きな背中が見えなくなるのを見届けてから、俺は小さく息を吐いた。
住宅街の屋根の向こうには、まだわずかに明るさの残る夕暮れの空が広がっている。
次の練習では消化器の負担を考え、ダッシュより軽めのキャッチボールから入るよう先輩方に言っておこうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、俺は自分の家へと続く道へ向かって、ゆっくりと歩き出した。