六月も終わりが近づいたある日、終礼の号令が終わると同時に、教室がざわめきに満たされた。
窓の外からは本格的な夏を告げるような熱を含んだ風が吹き込んできて、薄いカーテンを頼りなく揺らしている。梅雨明けを思わせる強烈な日差しが校舎の壁を白く照らし、耳を澄ませば遠くの木立から蝉の声すら混じり始めていた。
クラスメイトたちが足早に教室を出ていく中、窓際の席から地獄の底から響くような呻き声が聞こえてきた。
「……俺の夏、始まる前に終わった……」
声の主は城ヶ崎だった。
大きな身体を窮屈そうに丸めて、机の上に突っ伏している。
近づいてみると、突っ伏した城ヶ崎の腕の下からしわくちゃの紙切れが二枚覗いていた。
一枚は、来週から始まる一学期期末試験の日程表。
そしてもう一枚は、今日の昼休みに返却されたばかりの数学の小テストだった。
赤いペンで容赦なく殴り書きされた数字は、二十四。
れっきとした百点満点のテストに刻まれた、まごうことなき二十四点だった。
「城ヶ崎君、どうしたの。机と一体化しそうな勢いだけど」
俺が声をかけると城ヶ崎は机に頬を押し付けたまま、恨めしそうに片目だけをこちらに向けてきた。その目は涙目で、完全に光を失っている。
「姫宮……終わったよ……俺の高校野球、一学期で強制終了だ……」
「大げさだなあ。たかが小テストでしょ。本番の期末試験で取り返せばいいでしょ」
「取り返せるわけないって……! これ、期末の範囲の基本問題なんだよ……? 基本が二十四点なのに、本番で点が取れるわけないよ……!」
城ヶ崎はがばりと顔を上げ、頭を両手で抱え込んで激しく左右に振った。
「さっきさ、終礼の前に堂本キャプテンに呼び出されたんだよ……。お前、勉強の方は大丈夫なんだろうなって。うちの学校は期末で一つでも赤点を取ったら追試が終わるまで部活禁止で、夏の大会のベンチにも入れないんだってさ……!」
「ああ、西高の伝統の足切りルールね。文武両道を掲げてる公立校だから、三十点未満を一つでも取ったらアウトっていうやつ」
「そう、それ! キャプテン、すごい真顔でさ。『城ヶ崎、お前の球は今のチームに絶対に必要だ。だが、赤点を取ったら容赦なく試合には出さないからな』って……! 俺、背番号もらったばっかりなのに……せっかくみんなと一緒に甲子園目指せるって思ったのに……!」
城ヶ崎は再び机に額を打ちつけ、ごんと鈍い音を響かせた。
紅白戦で素晴らしい投球を見せ、嬉しそうに背番号十を広げてみせた男の姿はどこにもない。
無理もない話ではあった。
高校に入学して野球部に入ってからというもの、こいつの日常は野球のことで埋め尽くされていた。放課後の練習はもちろん、昼休みは中庭で俺とキャッチボールをして家ではストレッチだ。
「うちの高校、そこは結構厳しいからね。赤点を取ると大会期間中だろうと練習参加すら認められないし、スタンド応援どころか学校の自習室送りになるよ」
「そんなの絶対に嫌だ! 試合に出られないなんて耐えられないよ……!」
城ヶ崎が半泣きで答案を机に押し付けたとき、教室の前扉の方から、パタパタと小走りの足音が近づいてきた。
「ちょっと、城ヶ崎君! 城ヶ崎君もやっぱりヤバかったの!?」
飛び込んできたのは大原さんだった。手に英語と古典のプリントを抱え、前髪を汗で額に張り付かせている。その後ろから、細身の体を揺らしながら横山さんが、眉を八の字にしてついてきた。
「うちもあかんわ……。物理の小テスト、見事に五十四点やった。公式の文字が多すぎて、どの式を使ったらええんかさっぱり頭に入ってこーへん」
「あたしも英語の構文が壊滅的だし、古典の助動詞なんて呪文にしか見えないのよ。このままだと期末、確実に赤点コースまっしぐらだわ。夏休みが丸つぶれになる!」
大原さんは息を荒らげて俺の前の机に両手を突き、すがるような目で俺を見上げてきた。
三者三様に必死な顔を見比べ、俺は小さく息を吐いて肩をすくめた。
城ヶ崎が赤点で試合に出られないなどという事態は、チームにとっても俺にとっても論外だ。せっかく背番号十を勝ち取ったあいつの球を、こんなくだらない失格でマウンドから奪わせるわけにはいかない。
「今日から試験の前の日まで、放課後は図書室で特訓だよ。ボクが三人まとめて面倒を見てあげる」
俺が言うと、三人はぽかんと口を開けた。
「姫宮さん、教えてくれるん……? でも、姫宮さん自身の勉強は大丈夫なん? 人のこと教えてて自分の点が落ちたら意味ないやん」
「ボクのことは心配しなくていいよ。一学期の範囲は全部頭に入ってるから」
「ほんとに……? 姫宮、勉強得意だったっけ……?」
城ヶ崎がおずおずと尋ねてきた。
「先月の実力テスト、学年三位だったよ」
「「「学年三位!?」」」
教室の壁を震わせるような三重奏の絶叫が上がった。
城ヶ崎が椅子から転げ落ちそうになり、大原さんは筆箱を取り落とした。
「うそでしょ!? 一年って三百人くらいいるじゃん! その中の三番!?」
「姫宮さんって普段あんなに大人しくノート取っとるだけやのに、そんなバケモンやったん……!?」
「うん、まあ、それなりにはね」
前世の高校時代、肘を壊してからは大学進学のため、それなりの大学へ潜り込める程度には机に向かっていたのだ。
高校一年の基礎的な学習範囲など、一度通った道に過ぎない。前回の実力テストも、授業の復習を軽くして臨んだら自然とその順位に落ち着いただけだった。
「まあでも助かったわ……!」
「うち、もう一生姫宮さんについていくわ」
「姫宮、本当にありがとう……!」
三人は一斉に安堵の声を漏らし、まるで神に祈るかのように俺のことを拝み続けるのだった。
大原さんと横山さんには先に図書室で待っていてもらい、俺は城ヶ崎を連れてグラウンドへと向かった。土煙が舞うグラウンドには、部員たちの大声が響いている。
足を止めて事情を聞いてくれた堂本キャプテンは、話の筋が呑み込めるなり情けない後輩の頭を拳で軽く小突いた。その次の瞬間には俺の方を向いて表情を引き締め、地面に額が届きそうな勢いで頭を下げて礼を言うのだった。
その間、大柄な城ヶ崎は借りてきた猫のように背中を丸め、終始俺の背後に隠れようと縮こまっていた。
放課後の図書室は、普段よりも少しだけ利用者が多かった。期末試験を一週間後に控えているとはいえ、まだ本格的に席が埋まる時期ではない。窓際の奥まった自習スペースには、四人がけの木製テーブルがいくつか空いている。
開け放たれた高窓からは生温い風が吹き込み、時折遠くのグラウンドから野球部の掛け声や打球音が乾いて響いてくる。城ヶ崎はその音にピクリと反応してグラウンドの方へ顔を向けたが、机の上に数学の教科書とノートを広げると、覚悟を決めたように唇を真一文字に結んだ。
向かいの席に大原さんと横山さんが並び、俺の隣には城ヶ崎が座る。
俺はまず、隣に座る城ヶ崎の数学から見ることにした。
「平方完成で符号がプラスになったりマイナスになったりして混乱するんだよね」
「そうなんだよ……! エックスの二乗の係数で括ったあと半分にして二乗を引くとか足すとか……何のためにやってるのか分からなくて、数字が迷子になるんだ……!」
「数字の迷子か。じゃあ、式の変形として見るのをやめよう」
俺はシャープペンシルを手に取り、白紙のノートにすっと一本の放物線を描いた。
「城ヶ崎君、マウンドからキャッチャーに投げたボールはどういう軌道を通る?」
「え? そりゃ……ピュッと行って、少し落ちてミットに入るけど」
「そうだね。重力がある以上、ボールは必ず下へ引っ張られる。山なりに投げれば、横から見た軌道は綺麗な放物線を描くんだよ」
俺は放物線の頂点に、小さな丸を書き入れた。
「二次関数のグラフっていうのはね、城ヶ崎君が投げたボールの軌道そのものなんだよ。上に凸のグラフは、ボールを投げ上げたときの軌道。下に凸のグラフは、その逆だね。横の軸を時間、縦の軸を高さにするとね、問題が求めている頂点の座標は、ボールが一番高く上がる瞬間の時刻と、そのときの高さになるんだよ」
「一番、高いところ……」
「そう。山なりの球を投げたとき、どこが一番高くてどこから落ち始めるかを知りたい。その最高到達点を探し出すための作業が、平方完成なんだよ」
城ヶ崎の目が、かすかに見開かれた。
教科書の無機質な文字の羅列だったものが、自分の知っている野球の光景と結びつき始めたのだ。
「じゃあ、この括弧の中を見てみて。マイナス、エックス引く二の二乗、プラス三。この式を見たとき、城ヶ崎君はなんでマイナス二なのに右に二つ進むのか不思議だったんでしょ?」
「そう! マイナスなら左に行きそうなのに、なんで右なんだよって!」
「これはね、ボールを投げるタイミングが二秒遅れたと思えばいいんだよ」
「投げるタイミングが……遅れた?」
「うん。スタートの時間を右へ二秒ずらしたんだ。だからボールが一番高く上がる瞬間も、二秒右へずれるでしょ? 元のグラフをそのまま右へ二つ平行移動させたから、引く二になるんだよ。逆に二秒早く投げたら左へずれるから、足す二になる」
「あ……!」
城ヶ崎の喉から、小さな感嘆の声が漏れた。
その瞳の奥にさっきまでの濁った絶望の色ではなく、パチリと明かりが灯るような輝きが戻ってくる。
「そっか……! 時間を右にずらしたから、マイナスなのか! 頂点の高さは、後ろにくっついてるプラス三のままで変わらないのか!」
「そうだよ。高さは縦の軸だから、そのまま見ればいい。横のズレだけ、括弧の中で時間を調整してるんだ。ほら。この小テストの三番、もう一回解いてみて」
俺が促すと城ヶ崎はシャープペンシルを握り直し、先ほど間違えてバツを食らっていた問題に向き直った。
迷いのあったペンの動きが、淀みなく紙の上を滑っていく。
二乗の前の数字を括り出して半分の数を作り、外側で辻褄を合わせる。
「……できた。頂点は一と、マイナス四……?」
「正解。ばっちりだよ」
「できた……! 解けたぞ、姫宮! 俺、平方完成できた……!」
城ヶ崎が椅子を鳴らして立ち上がりかけ、周りの視線に気づいて慌てて声を潜めた。
まるで試合で三振を奪ったときのような、屈託のない笑顔が弾ける。教えられた通りに身体を動かして剛速球を投げ込んだときと、まったく同じ反応だった。
「すごいじゃん、城ヶ崎君! あんなに死にそうな顔してたのに!」
「城ヶ崎君が数学の問題解いとる姿、初めて見たわ……」
自分の問題から顔を上げた大原さんと横山さんが、声を落として小さく拍手を送る。
「よし、城ヶ崎君はその勢いで練習問題を五問解いてみて。解き終わるまで答えは見ちゃダメだよ」
城ヶ崎への説明が一段落したところで、大原さんが古典のテキストを差し出してきた。
「姫宮さん、ここなんだけど……」
「ああ、これはね……」
大原さんが開いた古典のテキストを覗き込み、俺は声を潜めて要点を伝えた。
「この助動詞はね、『思ふ』や『泣く』みたいな心の動きを表す動詞に付いていたら、自発になることが多いよ」
「あ……言われてみればそうだわ。あたし、活用表の形ばかり追ってて動詞の意味を見てなかったわ」
大原さんが小さく目を見張り、納得したようにペンを走らせる。
すると、隣から横山さんが遠慮がちにノートを差し出してきた。
「姫宮さん、うちの物理もええかな。この等加速度運動の公式、三つもあってどれを使ったらええんかさっぱりで……」
「短距離走のスタートダッシュを思い浮かべてみて。止まっているところからだんだん速くなっていくでしょ。速さや時間、加速度に距離のうち、問題文で分かっている量と聞かれている量を整理すれば、使うべき式が見つかるよ」
「あー、スタートからぐんぐん加速していく感じやね。分かってる数字と求めたいもんを見比べたらええんか」
横山さんがパッと表情をほころばせ、消しゴムを手に取った。
二人とも飲み込みが早い。公式を身の回りの事象に結びつけてやれば、すぐに感覚を掴んでくれる。
二人が自分の問題に戻り、静かな図書室にサラサラとペンを走らせる音が戻ったところで、俺はまた城ヶ崎の方へと向き直った。
「さあ、城ヶ崎君、次の問題に進もうか。今度はエックス二乗の前にマイナス二がついてるやつだよ」
「う、うん!」
城ヶ崎が気合いを入れ直してノートに向かった。
俺は城ヶ崎の座っている側に少し体を寄せ、ノートの端に新しい問題を書き留めた。
「マイナスがあるときは、カッコで括るときに符号がひっくり返るから気をつけてね。ここがマイナス二エックス二乗なら、カッコの中は符号が逆になる。ここを適当にやると、最後に求める頂点の座標まで間違えちゃうから」
俺は城ヶ崎のノートのすぐそばに顔を近づけ、シャーペンの芯先で数字を指し示した。
「ほら、ここ。マイナス二で括るから、プラス四エックスはマイナス二エックスになる。で、このマイナス二の半分はマイナス一。二乗すると一だから……」
真剣に式の展開を指で追いながら、俺は次の行の計算へとペンを走らせた。
だが、隣からの相槌がふいに途切れた。
「……城ヶ崎君?」
呼びかけても返事がない。
城ヶ崎の握ったシャーペンの先は、ノートの白い紙の上でピタリと止まったままだった。
俺が不思議に思って横を向くと、城ヶ崎はノートではなく、至近距離にある俺の顔を、ぽかんとした表情で見つめていた。大きな体を微動だにさせず、息を呑んだまま固まっている。
何をしているんだ、こいつは。
「城ヶ崎君? どこ見てるの。ノートはこっちだよ」
俺が声をかけると、向かいの席から小さく吹き出すような気配がした。
大原さんと横山さんが、口元を手で押さえながら城ヶ崎の様子をじっと眺めていた。二人の目がいたずらっぽく細められている。
「……城ヶ崎君、今どこ見てたの?」
大原さんが声を忍ばせ、意地悪そうな笑みを浮かべて小声で言った。
「えっ? な、何が……」
「問題、そっちの顔には書いてへんよー?」
横山さんもクスクスと肩を揺らしながら、からかうように指を差した。
「なっ……!? ち、ちがっ……! 見てないって! 俺は普通にノートを……!」
城ヶ崎の顔が、耳の先から首筋まで一瞬で真っ赤に染まった。
慌てふためいてシャーペンを取り落としそうになり、机の上でカタカタと指先を遊ばせている。身体が大きい分、狼狽している姿が余計に際立って見えた。
「見てた、思いっきり見てたわよ。目が点になって固まってたじゃない!」
「城ヶ崎君、ゆでダコみたいになっとるわ」
「違うって言ってるだろ! 俺はただ、次の式がどうなるか考えてただけで……!」
弁解しようとする城ヶ崎の声が裏返り、図書室の静寂の中に微かに響いた。周囲の生徒がちらりとこちらを一瞥し、城ヶ崎は慌てて両手で口を覆って身を縮めた。
俺は一人、状況が飲み込めずに首を傾げた。
大原さんたちにからかわれて真っ赤になっているようだが、要するに途中で計算の道筋を見失ってフリーズしていただけだろう。マイナスで括る処理は符号のミスが起きやすいから、頭の中でこんがらがって固まってしまうのはよくあることだ。
「大原さんも横山さんも、城ヶ崎君をからかわないであげてよ。符号が反転するところで混乱しちゃっただけでしょ」
俺が助け舟を出すと、城ヶ崎はすがるような目で俺を見た。だがその瞳はまだひどく動揺していて、視線が泳ぎまくっている。
「ほら、城ヶ崎君。分からないところがあったら恥ずかしがらずに言っていいんだよ。もう一回、最初の括り出しから丁寧に説明し直すからね」
俺は城ヶ崎のノートを引き寄せ、さらに顔を近づけて、先ほど書いたマイナス二の計算過程を指先でトントンと叩いた。
「いい? ここだよ。マイナスが外に出るから、中のプラスがマイナスに変わる。ここをもう一度ゆっくり見てごらん」
「あ……う、うん……」
至近距離で覗き込みながら解説を始めると、城ヶ崎は今度こそ石像のように完全に硬直してしまった。
赤くなった顔のまま喉をゴクリと鳴らし、息を止めてノートを見つめている。背筋が定規を入れたみたいに真っ直ぐ伸びて、微動だにしない。
「城ヶ崎君? 息止めてないで、ちゃんと聞いてる?」
「き、聞いてる! すごくちゃんと聞いてるから!」
向かいの席では、大原さんと横山さんが机に突っ伏して、声を殺しながら激しく肩を震わせていた。女子高生の笑いのツボは本当によく分からない。勉強がつまらなすぎて、全てのものが面白く感じられてきたのだろうか。
それからさらに一時間ほど勉強を続け、全員のノートがびっしりと埋まった頃、窓の外の空は淡い茜色から薄紫へと変わり始めていた。
「よし、ちょうど一区切りついたし、少し休憩にしようか。頭を休めないと効率が落ちるよ」
俺が言うと、三人は同時に深く長いため息を吐き出した。
「生きた心地がしなかったわ……」
「うちの脳みそ、完全に沸騰しとる。冷たいもん飲まんとやってられへん」
横山さんが財布を持って立ち上がり、大原さんもそれに続いた。
「自販機行ってジュース買ってくるわ。姫宮さん、なんか飲む?」
「ボクは冷たいお茶でお願いしようかな。お金、ここから出して」
「いいのいいの、教えてもらってるお礼におごらせて! 城ヶ崎君は?」
「あ、俺も……炭酸のやつ、なんでもいいから頼む」
全員の注文を聞き届けると、大原さんはひらひらと手を振って、横山さんと一緒に図書室の出口へと小走りで向かっていった。
自習スペースには、俺と城ヶ崎の二人だけが残された。
静かな部屋に、壁の時計がチクタクと針を刻む音だけが規則正しく響く。
城ヶ崎はまだ少し頬に赤みを残したまま、両手で首の後ろを揉んでいた。
「……悪かったな、さっきは。変な感じになって」
「何が? 勉強でつまずくのは当たり前だよ。ボクだって最初から何でも解けたわけじゃないんだから」
前世の受験勉強の苦労を思い出して言うと、城ヶ崎は自嘲気味に口元を緩めた。
「姫宮は本当にすごいよ。頭も良くて、野球のことも何でも知ってて、足も速いし、体もしっかり使えて……俺なんか、体格だけデカくて何一つ追いつけてない気がする」
「そんなことないよ。城ヶ崎君の身体と腕の振りは、誰にでも手に入るものじゃないんだから。ボクがどれだけ努力しても、あんな球を投げる骨格は作れないよ。だからこそ、つまらない期末の赤点なんかで足元をすくわれないでほしいんだ」
「……うん。絶対に赤点は取らない。絶対に初戦のマウンドに立つよ」
城ヶ崎が拳を強く握りしめたその時、紙パックのジュースとお茶のペットボトルを抱えた二人が戻ってきた。
「お待たせー。はい、お茶と炭酸」
「ありがとう」
冷たい緑茶のペットボトルを受け取り、キャップを開けて喉を潤す。冷たい水分が乾いた喉を滑り落ち、頭の芯がすっきりと冷えていく。
大原さんはオレンジジュースのストローをくわえ、横山さんはスポーツドリンクのキャップを開けながら、それぞれの席にドサリと腰を下ろした。
「ふーっ、生き返るわ。……それにしても姫宮さんって、本当に隙がないわよね」
大原さんがストローから口を離し、机に肘をついて俺をじっと見てきた。
「隙がないって、ボクが?」
「そうよ。可愛いのに勉強もできて、運動神経も抜群で、いつも落ち着いてるでしょ……あ、そうだわ」
大原さんが悪戯っぽい目をして、身を乗り出してきた。
「姫宮さんってさ、好きなタイプとかあるの? どんな人が好きなの?」
唐突な質問だった。
女子高生の放課後の雑談としては極めてありふれた、テンプレートのような話題だ。
隣で城ヶ崎が、飲んでいた炭酸を喉に詰まらせてゲホッと小さくむせた。
「ゲホッ……お、大原さん、なんでいきなりそんなこと聞くんだよ……!」
「いいじゃない、ちょっと休憩中の息抜きよ。女子同士の恋バナ」
城ヶ崎は口元を拭いながら、落ち着かない様子で視線を天井へ泳がせている。だが、こちらの会話に聞き耳を立てているのは明らかだった。
好きなタイプ。
そう問われて、俺は純粋に困り果ててしまった。
考えたことすらなかった。前世でも今世でも、生活の全てをスポーツに打ち込んでいた。誰かに恋をしたり、好みの異性を思い描いたりする暇など、これまでの人生のどこにも存在しなかったのだ。
今の自分は女なのだから、男を好きになるべきなのだろうか。それとも中身が男のままなのだから、女に惹かれるのが自然なのだろうか。それすら判断がつかない。もしも仮に、いつか自分の子どもを産むようなことがあったとして、こんな華奢で筋肉のつきにくい骨格を引き継がせてしまうのはあまりに不憫だ。そう考えると、子どものことを考えなくていい女性と付き合うほうがいいのだろうか。思考があらぬ方向へ転がり落ちていく。
だが、そんな混迷を正直にさらけ出すわけにもいかない。
「……本当に分からない」
ぽつりとこぼした一言に、大原さんと横山さんは顔を見合わせた。
「そっかぁ。あんまりそういう話、興味なさそうやもんなぁ」
横山さんがペットボトルのキャップを指先でくるくると回しながら苦笑する。大原さんも少し申し訳なさそうに眉を下げ、それから助け舟を出すように小さく手を叩いた。
「じゃあさ、好きなタイプじゃなくて、理想の男の人ってどんな感じ? こういうところがいいなって思う特徴とか」
理想の男の特徴。それなら明確な答えがあった。
「肩が強くて、怪我をしない頑丈な体の人かな」
即答だった。
大原さんの目が点になり、横山さんもペットボトルを口元で止めたまま固まった。
「あとは、毎日ご飯をたくさん食べて、しっかり深く眠れる人。苦しい場面でも逃げ出さないで、自分の足で最後まで立っていられるような、芯の強い人がいいと思う」
どれほど優れた球を投げようと、壊れてしまえば終わりだ。前世で右肘を砕いた俺のように、投げられなくなればマウンドから降りるしかない。よく食べ、よく眠り、壊れない強い骨と筋肉を保ち続けられる人間こそが、何よりも美しく、頼もしい。
俺が至極真面目に答えると、テーブルを挟んだ二人のあいだに、なんとも言えない奇妙な空気が漂った。
「……姫宮さん」
大原さんが恐る恐る口を開いた。
「それ……理想の男の人っていうか、なんだかプロ野球のスカウトが言ってる条件みたいじゃない?」
「そう? 一番大事なことだと思うけどな。体が丈夫でよく食べる人って、見ていて気持ちいいでしょ」
「まあ……言われてみれば健康的でええけど……肩が強いって、普通一番に出てこーへんよ……」
横山さんが呆れたように笑い、それからふと、視線をゆっくりと斜め前へと向けた。
大原さんもつられるようにして、同じ方向を見た。
二人の視線の先には、城ヶ崎がいた。
城ヶ崎は一人、顔を真っ赤にしたまま身動きもできずにいた。
城ヶ崎は落ち着きを失ったように自分の右肩を左手でぎゅっと触り、所在なさそうに体を縮こまらせていた。
「な、なんで俺を見るんだよ……!」
「いやー? 別に城ヶ崎君のこと見てないわよー?」
大原さんがニヤニヤしながらジュースをストローで吸った。
「ただ、誰かさんのすぐ隣に、すっごく肩が強くてご飯山盛り食べる頑丈な人が座ってるなぁって思っただけよね、ヒロ」
「そやなぁ。ご飯三杯はおかわりするもんなぁ、城ヶ崎君」
「う、うるさい! 俺の話なんてしてないだろ!」
城ヶ崎は必死に自分の右肩を掴んだまま、視線をどこへ向ければいいのか分からない様子でオロオロしている。
「……生まれ変わるなら、そういう体に生まれ変わりたい」
何気なくこぼした俺の言葉に、城ヶ崎の、右肩を掴んでいた手がぴたりと止まり、大原さんはくわえかけたストローを口から離した。図書室の壁掛け時計が刻む規則正しい秒針の音だけが妙に大きく響く中、俺はぬるくなりかけたペットボトルのお茶を平然と喉へと流し込んだ。
「…………理想ってそういうこと!? 姫宮さん、罪な女だわ……」
「ほんまにな……うち、城ヶ崎君がちょっと可哀想になってきたわ……」
「さあ、休憩はおしまい。くだらない話をしてないで、期末試験まであと六日しかないんだから、さっさと次の問題に取り掛かるよ」
俺が手を叩いて仕切り直すと、三人はそれぞれ咳払いをし、再びノートへと向かい直した。
それからの数日間、俺たちは部活の短い練習を終えた放課後や休日に集まり、ひたすら問題集を解き進めた。城ヶ崎は繰り返しの練習で計算ミスを着実に減らしていき、大原さんと横山さんもそれぞれ古典や物理の基本を固め、全員が期末試験までの日々を駆け抜けた。
そして試験が終わった週の金曜日、待ちに待った答案返却が行われた。
「城ヶ崎ー、数学」
名前を呼ばれ、死刑宣告を待つ罪人のような顔で答案を受け取って戻ってきた城ヶ崎は、用紙を裏返したまま机の上で震えていた。
「……見られない。怖くて見られないよ、姫宮……」
「いつまでも裏返してても点数は変わらないよ。ほら、早くめくりなよ」
俺が促すと、城ヶ崎は震える指先で答案の端を持ち上げた。
赤いペンで書かれた数字は、七十八だった。
「なな……七十八点……!? 赤点じゃない……! 三十点どころか、七十点超えてるぞ……!?」
「やったね、城ヶ崎君! 基本問題を全部正解して、応用問題の前半まで取れてるよ。よく頑張ったね」
「俺……赤点回避したんだ……! ほかの科目も全部セーフだったし……部活停止じゃない……! 試合に出られる……!」
城ヶ崎は椅子に崩れ落ち、答案を胸に抱きしめて涙目になっている。
そこへ大原さんと横山さんも満面の笑みで駆け寄ってきた。大原さんは古典で六十八点と見事に赤点を回避し、横山さんも物理で八十二点まで点を伸ばしている。前回の小テストから大躍進した城ヶ崎の机の周りにはすぐに男子生徒たちが集まり、教室は騒がしい男子の声に包まれた。
答案用紙を大切そうに鞄にしまい込むと、城ヶ崎は男子たちの輪を抜け出して俺の前にやってきた。
「姫宮」
「何?」
城ヶ崎は居住まいを正し、少し照れくさそうに頭を掻きながら、それでも真っ直ぐに俺の目を見て頭を下げた。
「本当に、ありがとう。姫宮が教えてくれなかったら、俺、絶対に赤点取って試合に出られなくなってた。背番号十をもらったのに、学校で自習させられるところだったよ」
「お礼なんていいよ。ボクはただ、君がマウンドで投げる姿を見たいだけだからね」
「うん……! 背番号十の投球を、姫宮に見せるよ」
「期待してる。初戦だからって硬くならないで、いつも通りの腕の振りを意識しなよ」
「おう!」
城ヶ崎は力強く頷き、スポーツバッグを軽々と肩に担ぎ上げた。その足取りには、先週までの重苦しい迷いは微塵も残っていない。
俺たちは教室を出て、階段を駆け下りた。
昇降口を抜けると、夏の始まりを告げる熱気を孕んだ風が、正面から吹き抜けていった。グラウンドの向こうからは、シートノックを始める捕手の大きな掛け声と、鋭い打球音がパンと高く響いてくる。
週が明ければ、いよいよ夏の県大会の初戦だ。
背番号十を背負った怪物が、初めて公式戦のマウンドに立つ夏が、すぐそこまで来ていた。