七月の強い陽射しが、校舎に囲まれた中庭の敷石を白く照らしつけていた。
夏休み前の、午前中授業が終わってから午後の部活が始まるまでの空白の時間。昇降口から吹き込む熱気に煽られ、蝉の声がひときわ騒がしく降り注いでいる。
中庭の隅には大きなクスノキが一本立っていて、その濃い緑の影の中に、古い木製のベンチが据えられていた。枝葉の隙間を抜けてくる熱い風が、制服の半袖シャツの袖口をわずかに揺らし、肌に浮かんだ汗をじわりと引かせてくれる。
俺は中庭の片隅、ベンチに腰を下ろしていた。足元には自分のスクールバッグを置き、膝の上で両手を組んで待っていると、渡り廊下の角から大柄な人影が姿を現した。
城ヶ崎だ。夏用の白い半袖シャツの裾をスラックスの中にきっちり収め、学生鞄を片手にぶら下げて歩いてくる。背格好はすっかり高校生らしく逞しくなってきたが、歩くときの視線がわずかに下を向いているあたりは、まだ入学したばかりの春先と変わらない。
「城ヶ崎君、こっちこっち」
手を軽く挙げると、城ヶ崎は顔を上げてこちらに気づき、小走りで近寄ってきた。
「待たせて悪かったな、姫宮」
「ううん、ボクもいま来たところだよ。午後の部活の集合まで、まだかなり時間あるでしょ」
「うん。一時半からだから、あと一時間ちょっとある」
城ヶ崎はそう言いながら、俺の隣に少し間を空けて腰を下ろした。ドスンとベンチがきしむような音を立てる。
足元に鞄を置くと、制服のズボンのポケットから右手を引き抜いた。その大きな掌の中には、使い古されて縫い目の赤色がくすんだ硬式球が一つ握られている。指先で縫い目の感触を確かめるように、くるくると転がす。
視線は自分の足元、学校指定の黒い靴のつま先に落とされたままだ。靴底で地面の土を擦るように、小さく前後させている。
「……昨日のこと、まだ気にしてるの?」
俺が横から顔を覗き込むようにして尋ねると、ボールを転がしていた城ヶ崎の指がぴたりと止まった。
「……分かるか」
「当たり前だよ。顔に思いっきり書いてあるもん。マウンドに上がって最初のバッターに出したフォアボールのことでしょ」
城ヶ崎は口をへの字に曲げ、持っていたボールを膝の上でぎゅっと握りしめた。
「ストレートが、頭の後ろに抜けたり地面に叩きつけたり、てんでバラバラだった。選考戦のときと同じで、ストライクが一つも入らなくなって……指先が変にフワフワして、どうやって腕を振ればいいのか分からなくなった」
昨日の初戦、八回一死の場面。
炎天下のマウンドで限界を迎えていた成瀬先輩の後を継ぎ、公式戦初登板を迎えた城ヶ崎の姿が、鮮明に脳裏へ蘇る。
マウンド上の城ヶ崎は、スタンドから見ていても分かるほど全身が強張っていた。投球練習の一球目はミットの遥か上を越えてバックネットに直撃し、相手の七番打者を迎えてからも硬さは消えなかった。力んだ腕から放たれたボールはことごとくストライクゾーンを外れ、四球を与えてしまっていた。
「でも、そのあとは完璧だったじゃない。堂本キャプテンたちが集まってくれたあと、二者連続三振で切って取ったんだし」
「あれは堂本キャプテンが間を取ってくれたからだよ。マウンドに来て、成瀬先輩がここまで繋いでくれたんだ、お前が一人で勝負を決める必要なんてねえ、周りなんか見るなって、両肩を掴まれて思いっきり揺さぶられて……それでやっと息が吸えるようになったんだ」
城ヶ崎は悔しそうに眉根を寄せ、膝の上のボールをじっと見つめた。
「もし堂本キャプテンが間を取ってくれなかったら、ストライクが一つも入らないまま投げ続けてたんじゃないかって思うと、情けなくて」
高校に入るまで野球をしたことがなかった城ヶ崎にとって、昨日のマウンドは生まれて初めて経験する公式戦だった。いくら練習試合で投げていたとしても、夏の大会独特の緊張感や、負けたら終わりのプレッシャーは別格だ。
だが、俺が昨日スタンドから見ていた限り、原因はそんな抽象的な精神論だけではない。もっと具体的で、明確な身体の狂いが生じていた。
「城ヶ崎君、ちょっと立ってみて」
「え?」
「いいから、立って。ベンチの前に」
城ヶ崎は不思議そうな顔をしながらも、言われた通りにベンチから腰を浮かせ、中庭の木陰の土の上に立った。
「昨日、最初のバッターに対して四球を出した原因だけどね。気持ちの持ちようとか根性の問題じゃないよ。ちゃんと身体の動かし方に原因があったの」
「どこか変だったのか?」
「昨日の城ヶ崎君、マウンドに上がって最初のバッターのときだけ、左足の踏み出し幅が靴半分くらい狭くなってたんだよ」
城ヶ崎は驚いたように自分の足元を見下ろし、土の上で靴底をわずかに動かした。
「緊張するとね、人間って無意識に身体が縮こまるの。特に城ヶ崎君は腕を強く振ろうとする意識が強すぎるから、上半身ばかりに力が入って、下半身のステップが小さくなってた。左足の歩幅が詰まると、軸足に体重が乗り切る前に身体が前へ突っ込んじゃって、腕が遅れて出てくるんだよね」
俺は立ち上がり、城ヶ崎の前に立って自分の足を動かして見せた。
「球を離す位置が、いつも投げている位置よりも身体の後ろ側に残っちゃうの。そうすると指先で球を前へ押し込めなくなって、ボールが上へすっぽ抜けたり、慌てて抑え込もうとして地面に叩きつけたりする。一番の原因は歩幅なんだよ」
城ヶ崎は自分の右足と左足の間隔を見つめ、何度か足を前後に踏み換えた。
「確かに、あのときは足元がフワフワしてて、地面をちゃんと踏めてる感覚がなかったかもしれない」
「でしょ? 理由が分かれば怖くないよ。要は、どんなに緊張していても、マウンドの上でいつも通りの歩幅で踏み出せる状態を作ればいいんだから」
「そんなことできるのか? 緊張してる最中に」
「できる。投球前のルーティンを作るんだよ」
俺は城ヶ崎の正面に立ち、両手を腰に当てて言った。
「ピッチャーがマウンドで崩れるのって、大抵は頭の中が真っ白になって、呼吸が浅くなっているときなんだ。だから、プレートを踏んでからサインを見るまでの動作を、毎回完全に同じ順序で行うようにするの」
城ヶ崎は姿勢を正して耳を傾けた。
「まず、右足でプレートを踏んで、足元を確かめる。ここまではいい?」
「うん」
「その次が一番大事。プレートの上に軸足を置いたら、キャッチャーのサインを見る前に、肩の力を完全に抜いて、お腹に溜まってる息を口からぜんぶ吐き切るの。限界まで、ふうーって」
俺はお手本を見せるように、口をすぼめて長く息を吐き出し、わざと大げさに肩をストンと落としてみせた。
「息を全部吐き切るとね、肩や上半身の無駄な力みが抜けて、足の裏全体で地面を踏む感覚が戻ってくるんだよ。身体の落ち着きを取り戻してから、初めてキャッチャーのサインを見る。そして、大きく息を吸い込みながら投球動作に入るの」
城ヶ崎は真剣な眼差しで俺の動きを見つめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「プレートを踏む。息を吐き切る。肩を落とす。それからサインを見る……これでいいのか?」
「そう。言葉にすると簡単でしょ? でもね、これをどんな場面でも、ピンチでもチャンスでも、絶対に省略しないで毎回必ず同じリズムでやるの。マウンドの上で頭がパニックになりそうになっても、その動作をなぞることだけに集中すれば、身体は勝手にいつものバランスを思い出すから」
「……やってみていいか」
「もちろん。ここで試してみて」
城ヶ崎は中庭の土の上に視線を落とし、地面の窪みをプレートに見立てるようにして右足を置いた。
一度地面を見つめ、足場を固めるように靴底で土を踏みしめる。そして顔を上げ、正面を見据えた。
城ヶ崎の肩がぐっと持ち上がり、口から細く長い呼気が吐き出される。
すうーっと、肺の中の空気をすべて絞り出すような深い息。吐ききるにつれて、いかり肩気味に固まっていた両肩が、ストンと自然な位置まで落ちた。突っ張っていた膝や腰の強張りが解け、両足でどっしりと土を踏みしめる立ち姿へと変わっていく。
「……どうだ?」
息を吸い直した城ヶ崎が、少し落ち着いた声で尋ねてきた。
「すごくいいよ。さっきまでガチガチだった肩の力が、綺麗に抜けてる。下半身にも一本芯が通った感じがするよ」
「本当か」
「本当。自分の足の裏、さっきより地面に吸い付いてる感じがするでしょ?」
城ヶ崎は地面を靴底で踏みしめ、小さく頷いた。
「うん。靴の裏全体で土を踏めてる感じがする」
「その感覚を忘れないで。よし、じゃあ部活の集合がかかる前に、ちょっとだけボール投げてみよっか。歩幅が戻ってるか確かめたいし」
俺はベンチに置いてあった自分のスクールバッグのファスナーを開け、中から使い込んだ飴色の小ぶりな硬式用グラブを取り出した。革の手入れだけは毎日欠かさずにしてあるので、しっとりとした艶を保っている。
「グラブ、持ってきてたのか」
「こういうときのためにね。ほら、部活まで少し時間があるから、五球くらい投げられるでしょ」
校舎の壁と大きなクスノキに挟まれた中庭の奥は、幅十メートルほどの土の通路になっており、普段から生徒が通ることも少ない。
俺はグラブに左手を通し、ポンとポケットを叩いて奥へと歩き出した。城ヶ崎も手にしたボールを軽く握り直し、俺の後を追ってくる。
距離にして約十メートル。本格的な投球練習の距離ではないが、ステップの感触を確かめるには十分な広さだ。俺は壁を背にして中腰になり、グラブを低めに構えた。
「城ヶ崎君、全力で投げる必要はないからね。さっきの手順をきっちり踏んで、左足がしっかり踏み出せてるかだけ意識して」
「分かった」
城ヶ崎は地面に仮想のプレートを見立て、右足を据えた。
視線を一度足元に落とし、前を向く。
息を口から深く吐き切る。肩がストンと落ち、胸のすくような静けさが城ヶ崎の全身を包んだ。
そこからの動作は、澱みがなかった。
右足一本で真っ直ぐに立ち上がり、左足を前へと送り出す。靴底が土を擦りながら、昨日の登板時よりも明らかに靴一つ分遠く、力強く地面へと踏み込まれた。
乾いた鋭い捕球音が、クスノキの木陰に響き渡った。
ボールは俺の構えたグラブの真ん中、寸分の狂いもない低めの位置へ、糸を引くような軌道で吸い込まれていた。制服のまま軽く放った球だというのに、グラブの革越しに手のひらへズシリとした重みが伝わってくる。
「……ナイスボール」
俺はグラブから球を取り出し、ボールを投げて返した。
「歩幅、どうだった?」
「しっかり踏み込めた。足が地面に着いたとき、ちゃんと体重が乗っかってるのが分かった」
「うん、外から見ててもばっちりだったよ。あと四つ、同じ手順で投げてみて」
城ヶ崎は返球を掴むと、再びプレートの位置へと戻り、息を吐き切る動作を繰り返した。
二球目、三球目、四球目、そして五球目。
投げるたびに、ステップのブレが消えていく。どの球も指先から離れた瞬間にしっかりとスピンがかかり、低い弾道で俺のグラブへと突き刺さった。最後の一球など、軽く投げているはずなのに風を切り裂くような唸りを上げていた。
「よし、五球おしまい。すごく良くなったよ」
俺がグラブを外してボールを返すと、城ヶ崎は受け取ったボールを両手で包み込み、どこかホッとしたように息を抜いた。
「よかった……。昨日の夜からずっと、あの四球のことばっかり考えてたから」
「考えすぎなんだよ、城ヶ崎君は。午後の練習でも、ブルペンに入ったら今のルーティンを毎回試してみてね。身体に染み込ませちゃえば、次の試合からはもう大丈夫だから」
「うん。試してみる。ありがとう、姫宮!」
城ヶ崎の顔から、さっきまでの曇った表情が消えていた。
遠くの昇降口の方から、野球部の部員たちがグラウンドへ向かう賑やかな声が聞こえ始めている。
***
部活を終えてやってきた河川敷の土手は、西日に照らされ、昼間の熱気をそのまま残してむっとするような熱気に満ちていた。
川面には夕暮れの鈍い金色の光が反射し、時折吹き抜ける川風が、汗ばんだ肌をわずかに撫でていく。遠くの鉄橋を走る電車の轟音が、低く響いては消えていった。
部活を終えた城ヶ崎と俺は、土手を下りた先の平らな草地で、互いにグラブをはめて向き合っていた。
距離は十五メートルほど。部活の疲れをほぐすような、山なりのゆったりとしたキャッチボールを交わしている。
「で、午後の練習はどうだったの? ブルペンで試してみた?」
俺が山なりのボールを放ると、城ヶ崎は練習着の胸の前で柔らかく捕球した。
「うん。ブルペンで三十球くらい投げたけど、このやり方でしっくりきたよ。最初は逆にルーティーンでペースを乱しちゃったりしたんだけど、十球目くらいから自然にできるようになって……堂本キャプテンにも、今日の球は低めにまとまってて良かったって言われた」
「ほらね、言った通りでしょ。堂本キャプテンがそう言ってくれたなら、もう安心だね」
「うん。マウンドの上で何をすればいいのかがハッキリしたから、迷わずに腕が振れるようになった気がする」
城ヶ崎から返ってきたボールを受け止めると、昨日のマウンドで見せたような力みのない、素直な回転が指先に伝わってきた。手順一つでこれだけ投球の質を戻せるのだから、やはりこの男の身体能力と吸収の早さは並大抵ではない。
俺が山なりのボールを放ると、それを受け止めた城ヶ崎が構えを解いて足を止めた。
「……なぁ、姫宮」
「ん? なに?」
「カーブ、次の試合で投げちゃ駄目かな」
唐突に出た言葉に、俺はグラブを下ろして城ヶ崎の顔を見た。
城ヶ崎はこちらをまっすぐに見つめていた。引き締まった表情に、迷いのない真剣さが滲んでいる。
高校に入学してすぐの四月、中庭の木陰で城ヶ崎に中指を縫い目にかけるカーブの握りを教えた。野球を始めたばかりの城ヶ崎に、変化球を投げさせて野球の楽しさを伝えるための初歩的な指導だったが、あれからも河川敷のキャッチボールで俺がしばしば投球を見て、軌道や腕の振りを微調整してきた球だった。
ストレートの投げ方が完全に身につけるまではあまり投げさせないようにしていたのだが、片手間とは言えカーブも実戦で使えるレベルに仕上がっている。
長身から投げ下ろされるストレートと同じ軌道から、ブレーキがかかって鋭く縦にドロップする。高校生で初見のバッターならまずバットに当てることすら難しい球だ。
「どうして急にカーブを投げたくなったの?」
俺が尋ねると、城ヶ崎はグラブの紐を弄りながら、ぽつりぽつりと胸の内を明かし始めた。
「昨日、ベンチから見てて痛感したんだ。成瀬先輩のピッチングを見て……ストレートのスピードがなくても、変化球でタイミングを外したり、カウントを稼いだりすれば、あんなに簡単にバッターを打ち取れるんだって。それに、俺が投げたときも、相手のバッターは真っ直ぐ一本に的を絞って待ってた」
城ヶ崎は視線を少し険しくした。
「三振は取れたけど、あれは相手が俺の球の速さに驚いてくれたからだ。でも、これから先、もっと強い学校と当たったら……ストレートだけ張られたら、いつか捉えられるんじゃないかって。カウントを整えたり、相手の狙いを外したりできる緩急が、どうしても欲しいんだ」
城ヶ崎の言っていることは、ピッチャーとして極めて真っ当な感覚だった。
どれほど速いストレートを持っていても、一本調子になればいつかは打たれる。バッターのタイミングを狂わせる遅い球や、目線を外す変化球があってこそ、自慢のストレートは真の威力を発揮するのだ。初戦のマウンドを経験したことで、城ヶ崎は投球の奥行きというものを肌で理解し始めていた。
だが、俺は首を横に振った。
「駄目だよ。カーブは、県大会では絶対に投げちゃ駄目」
きっぱりとした俺の拒絶に、城ヶ崎は驚いたように目を見開いた。
「フォームが崩れるとか、肘に負担がかかるとか、そういう理由か?」
「違うよ。城ヶ崎君のカーブの投げ方はフォームを崩すような投げ方じゃないし、カーブだからって特別に肘に悪いわけでもない」
城ヶ崎は口を閉ざし、静かに次の言葉を待った。
「何ヶ月もかけて仕上げてきたからだよ」
俺はグラブでポンと自分の太ももを叩いた。
「城ヶ崎君のカーブはきちんと落差もあって、試合で通用するレベルに仕上がってる。だからこそ、こんなところで出しちゃ駄目なの」
城ヶ崎は息を凝らして俺を見つめている。
「城ヶ崎君、ボクたちが目指してるのはどこ?」
「……甲子園」
「そうでしょ。県大会を勝ち抜くのは当たり前の通過点だよ。ボクたちの目標は、甲子園に行って、そこで強豪を倒して上へ行くこと。そのための最大の切り札が、城ヶ崎君のあの縦のカーブなんだよ」
俺は一歩前へ歩み出て、城ヶ崎をまっすぐに見据えた。
「今の時代、強い高校ならどこだって他校の試合を偵察して、ビデオを撮って徹底的に分析してる。もしこの先の県大会で城ヶ崎君がカーブを投げたら、その情報は一瞬で県内のライバル校に広まるよ。それどころか、甲子園に出てくるような全国の強豪にまでデータが渡っちゃう」
前世の記憶が、頭の隅をよぎる。
どんなに素晴らしい変化球も、あらかじめ相手に知られ、配球のパターンを研究されてしまえば、その威力は半減する。初見だからこそ空振りが取れるのだ。ましてや、甲子園という大舞台で初めて相対する相手に対して、データにない魔球を投じることの価値は計り知れない。
「あのカーブは、甲子園の初戦、どうしても負けられない場面で初めてマウンドで見せるの。相手が真っ直ぐの速さに目を慣らしてきた終盤、不意打ちのようにあの縦のドロップを落としてやるんだよ。打者は度肝を抜かれて、手も足も出なくなる。そのための絶対的な隠し玉として、今は大事にしまっておくべきなんだよ」
俺の言葉を聞きながら、城ヶ崎の瞳の奥に強い光が宿った。
「だから、県大会の間は封印。甲子園のマウンドに立つその瞬間まで、試合では誰にも見せないでおくの」
城ヶ崎は自分のグラブの中のボールを見つめ、それから力強く頷いた。
「分かった。カーブは投げない。甲子園まで、もっと磨いて取っておく」
「うん、物分かりが良くて助かるよ」
「でも……」
城ヶ崎は少し困ったように眉を下げた。
「それじゃあ、県大会はどうすればいいんだ? 真っ直ぐだけで押し切る自信は、まだないぞ」
「別の球を教えてあげる」
「え?」
「県大会で見せても惜しくなくて、でも相手のタイミングを狂わせるには十分すぎる球。城ヶ崎君が欲しがってる緩急を、いまからここで教えてあげる」
俺はグラブを外して脇に抱え、城ヶ崎の手元へ歩み寄った。
「チェンジアップだよ」
城ヶ崎が身を乗り出した。
「どんな球かっていうとね、真っ直ぐとまったく同じ腕の振りで投げてくるのに、ボールが驚くほど遅く飛んできて、バッターの手元でわずかに沈む球だよ。打者は真っ直ぐのつもりで踏み込んで振るから、完全にタイミングを外されるの」
「それ……すごくいいな! まさに欲しかった球だよ!」
「じゃあ、握り方を教えるね。ボール貸して」
城ヶ崎からボールを受け取ると、俺は自分の右手の指を縫い目に当てて見せた。
「チェンジアップにも色々あるけど、城ヶ崎君に教えるのはサークルチェンジ。まずね、親指と人差し指で、こうやって小さな丸を作るの。オッケーのサインみたいにね」
親指と人差し指の腹をくっつけ、円を作る。
そして残った三本の指、中指と薬指と小指を、ボールの縫い目に均等に添えるようにして深く握り込んだ。
「こうやって深く持つとね、指先でボールを弾く力が伝わらなくなるの。同じ腕の振りで投げても、ボールを強く押し出せないから、投げた瞬間から球速が出ない仕組みになってるんだよ」
俺はボールを城ヶ崎の手に手渡した。
「やってみて」
城ヶ崎は自分の大きな手でボールを握り直した。指が長いので、親指と人差し指で作った輪が綺麗にボールの側面に収まり、残りの三本の指がしっかりと縫い目を跨いでいる。
「こうか?」
「そう、それでいい。手のひら全体で包み込むようにして、指の腹でしっかり支えるイメージね」
城ヶ崎は握りの感触を確かめるように、指先に力を込めたり緩めたりしている。
「でね、ここからが一番重要だよ。絶対に忘れちゃいけないルール」
俺は城ヶ崎の目をまっすぐに見つめ、人差し指を一本立てて言った。
「遅い球を投げようとして、腕の振りを絶対に緩めないこと」
城ヶ崎の身体が微かに引き締まる。
「遅く投げようとしちゃ駄目なの。城ヶ崎君の頭の中では、自己最速のストレートを投げるつもりで、腕を思いっきり振り抜くの。緩く投げようとしたら、バッターに腕の振りの遅さで見破られちゃうでしょ。ボールを遅くするのは腕じゃなくてこの握りの役目だから、城ヶ崎君はただ、いつも通り腕を振り切るだけでいいの」
城ヶ崎は握った右手を胸元でじっと見つめ、小さく顎を引いた。
「春からずっと、真っ直ぐの腕の振りを磨いてきたんだから、同じ振りで握りを変えるだけのこの球はすぐ覚えられるよ」
「うん、やってみる」
「よし。じゃあ、向こうに戻って。三球だけ投げてみよう」
俺は再びグラブをはめ、十五メートルほど離れた元の位置へと戻った。
草の上に立ち、膝を軽く曲げて低めにグラブを構える。
「城ヶ崎君、昼間のルーティンを忘れないでね! 息を吐き切ってから、腕は全力で振る!」
「おう!」
城ヶ崎が草地の上でステップを切った。
息を深く吐き出し、肩の力を抜く。
そこからの始動は、まさに城ヶ崎の代名詞である力強いストレートそのものだった。大きく左足を踏み出し、長い右腕が鋭く風を切って振り下ろされる。
だが、一球目。
投げる直前、城ヶ崎の手首がわずかに固まった。指先から抜けたボールは、俺の足元の草むらにワンバウンドして転がっていく。
「あ、悪い!」
「謝らなくていいよ! 今のは手首で細工しようとしたでしょ。手首は固めないで、真っ直ぐのときと同じように柔らかく前へ放り投げるだけでいいんだよ。指先が勝手に球を抜いてくれるから、自分からボールをコントロールしようとしないで!」
ボールを拾い上げて投げ返すと、城ヶ崎は捕球し、じっと自分の右手を凝視した。
城ヶ崎は息を整え、右手の握りを確かめてから二球目の動作に入った。
プレートに見立てた地面を踏み、息を吐き出す。
そして、先ほどよりもさらに鋭い踏み込みで、腕が風を切り裂いた。
腕の振りは、百四十キロを超えるストレートと寸分違わぬ鋭さだった。
放たれた白球は、鋭い腕の振りに反して思ったよりも伸びてこず、俺の手前で低めへスッと沈んだ。
パフッ。
低めに構えていた俺のグラブの下部に、静かにボールが収まった。ストレートのときのような手のひらを痺れさせる衝撃はなく、心地よい重みを受け止めてわずかに揺れただけだ。
「……これか?」
城ヶ崎が、投げ終えた体勢のまま目を見張ってこちらを見ていた。
「そう! それだよ、城ヶ崎君! いまの腕の振り、完全に真っ直ぐだった! なのにボールだけが手前でブレーキかかって沈んだよ!」
「すげぇ……本当に遅くなるんだな。腕は思いっきり振ったのに」
「言ったでしょ、握りが勝手に仕事してくれるって。よし、ラスト一球! 今の感覚を身体に焼き付けて!」
俺がボールを投げ返すと、城ヶ崎は顔つきを変えた。
その表情には、はっきりと手応えが浮かんでいた。
三球目。
城ヶ崎は息を吐き切り、美しいフォームで左足を踏み出した。
夕日を背に受けた身体が大きく前へ倒れ込み、右腕が唸りを上げて振り下ろされる。
投げた瞬間の腕の振りと軌道は、誰が見ても真っ直ぐそのものに見えた。
だが、放たれた球はスピードに乗らず、俺の手前で滑らかに沈み込んでいった。
ポスッ。
夕暮れの河川敷に、小気味よい捕球音が小さく響いた。
ボールは俺の構えたグラブの真ん中に、吸い込まれるように収まっている。低めのコースへ寸分違わず沈み、実戦でバッターの体勢を崩すに十分すぎる、見事なサークルチェンジだった。
俺はグラブの中のボールを見つめた。
いくら腕の振りが真っ直ぐと同じとはいえ、たった三球で感覚を掴んでしまうのは才能というほかない。前世の俺とは大違いだ。
胸の奥が小さくちくりと痛んだが、川面を渡ってきた夕風の中に、すぐ溶けて消えていった。
「……完璧だよ、城ヶ崎君」
城ヶ崎がパッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「本当か、姫宮!? 今の、ちゃんと投げられてたか!?」
「投げられてたどころじゃないよ。腕の振りが真っ直ぐとまったく見分けがつかないし、手前で落ちる沈み方も抜群だった。初めて握った球でここまで感覚を掴めるなんて驚いたよ。これなら、次の試合までのしっかり練習すれば、もう実戦で使えると思う」
「次の試合で……投げられるのか」
「うん、絶対にいける。あとはマウンドの距離と傾斜に慣れて、堂本キャプテンに受けてもらって少し合わせるくらいで十分戦力になるよ」
城ヶ崎は目を見張り、胸の前で両の拳を力強く握りしめた。
「じゃあ、今日の宿題を出すよ」
俺は城ヶ崎にボールを手渡し、自分のグラブを外してスクールバッグへと仕舞いながら言った。
「まず一つ目は部活のキャッチボール。全力じゃなくていいから、ときどきチェンジアップの握りに替えて、真っ直ぐと同じ腕の振りで投げてみてね」
「うん」
「二つ目は家。チェンジアップは握りが深いから、手が慣れるまでどうしても違和感があるんだよね。だから家では、ボールをその握りで持って手を慣らしておくの」
城ヶ崎は手の中のボールを握り直し、しっかりと頷いた。
「分かった。部活で投げて、家で握っとく」
「うん、その二つだけで十分だよ」
西の空はすっかり茜色に染まり、川沿いの街灯がぽつぽつとオレンジ色の明かりを灯し始めていた。部活を終えた中高生や、家路を急ぐサラリーマンの自転車が、土手の上の道を時折通り過ぎていく。
「よし、もう薄暗くなってきたし、今日はここまで。あんまり遅くなると怒られちゃうしね」
「うん。送っていくよ」
「いいよ、家すぐそこだし。城ヶ崎君こそ、明日の練習に響かないように早く帰ってご飯いっぱい食べなよ」
俺たちは土手を上がり、道路の分岐点でお互いに手を挙げた。
「じゃあね、城ヶ崎君。明日も学校で」
「おう。明日な、姫宮」
城ヶ崎は鞄を背負い直し、長い影を引きながら家路へと歩き出した。
その背中は、一日中運動をしていた疲れを微塵も感じさせない。
俺はグラブを入れた鞄を肩に掛け直し、夕闇に溶けていくその後ろ姿をしばらく見つめていた。