TS美少女は怪物を甲子園へ連れていきたい   作:とほほ報

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第24話:駆け引き

 初戦からちょうど一週間が経った火曜日の午後、地方球場のバックネット裏スタンドは、じりじりと肌を焼く熱気に包まれていた。すり鉢状になったスタンドの底から熱い空気が立ちのぼり、生温かい風となって客席を吹き抜けていく。白くかすんだ七月の空からは、屋根のないコンクリートへ容赦のない日差しが照りつけていた。

 

 初戦の暑さに懲りた大原さんが座席の熱を遮る折りたたみクッションを三つ用意してくれ、三人はそれに腰を下ろしている。横山さんも一回り大きなクーラーバッグを足元に置き、冷えた飲み物のペットボトルを何本も用意してきていた。

 

 午前中の授業を終えてそのまま電車に揺られてきたから、三人とも汗ばんだ夏服のままだ。平日の昼下がりということもあって、広いスタンドに座っているのは熱心な保護者や学校関係者、それに近所のお年寄りがまばらに散らばっているくらいだった。

 

 トーナメントを一つ勝ち上がったからか、上段の通路には他校の偵察らしき男たちが以前より増え、グラウンドに鋭い視線を送っている。

 

 金網越しに見下ろすグラウンドでは、すでに試合前のシートノックが終わろうとしていた。砂煙が舞うグラウンドに散った西高ナインの動きは、初戦の緊張が抜けたのか、どこか軽快に見える。

 

「あ、ほら、整列始まるよ!」

 

 大原さんが指をさした。

 サイレンの音が場内に響き渡り、両校の選手たちがホームベースを挟んで一列に並ぶ。審判の号令とともに深々とお辞儀が交わされ、三回戦が始まった。

 

 後攻の西高ナインが一斉にポジションへと散っていく。マウンドへ向かったのは、背番号一をつけた成瀬先輩だった。

 成瀬先輩はいつもの落ち着いた足取りでピッチャーズプレートを踏み、ロジンバッグをぽんぽんと右手に叩きつける。白い粉が風に舞い散るのを合図にするように、球審がピッチャーを右手で指さしてプレイを宣告した。

 

「やっぱり成瀬先輩が先発なんだね。城ヶ崎君は投げないのかな」

 

 大原さんがうちわを胸元でパタパタと扇ぎながら、グラウンドとベンチを交互に見つめた。

 

「城ヶ崎君はベンチスタートやね。初戦であんなに投げれてたのに、バトンタッチせえへんの?」

 

「城ヶ崎君は公立高校では珍しいくらいに有力な投手だからね。初戦では公式戦の空気に慣らすために投げさせたけど、偵察も増えたしこれからは隠しておいて、ここぞというときに投げさせるんだよ。それに成瀬先輩がしっかり試合を作れる相手なら、城ヶ崎君を無理に投げさせず休ませておくって狙いもあるしね」

 

 俺がそう説明すると、横山さんは納得したようにコクコクと頷いた。

 

「なるほどなあ。まさに秘密兵器ってわけやな」

 

 一回表、相手の先頭打者が右打席に入った。

 成瀬先輩はゆったりとしたモーションから右腕を振り抜く。初球、外角低めいっぱいに投じられたボールは、捕手である堂本キャプテンのミットに小気味よい音を立てて収まった。ストライクだ。

 

「ねえ姫宮さん、成瀬先輩の球って、速さじゃなくて芯を外すのがすごいんだよね? 初戦のときに教えてくれたみたいに」

 

 大原さんが思い出したように尋ねてくると、横山さんも不思議そうにグラウンドへ視線を向けた。

 

「芯を外すって、具体的にどうやるん? 城ヶ崎君の球と比べたら、素人のうちにはずいぶん打ちやすそうに見えてまうんやけど」

 

「さっきの初球、外角低めいっぱいにズバッと決まったでしょ。あれでバッターの意識を外側へ強く引っ張っておいて、二球目で少しタイミングを外したりコースをずらしたりするんだ。ボクたちから見ると普通の球に見えても、打席に立つとさっきの記憶があるから、自分のポイントでバットが振れなくなるんだよ」

 

「へえ! 一球目からもう次の罠を仕掛けてるんだ」

 

 大原さんが身を乗り出した瞬間、相手の先頭打者が二球目を振らされた。泳がされたような鈍い打球がセカンドの前へ力なく転がり、難なく一塁へ送球されてワンアウトになる。

 

「ほんまや、バットの先っぽに当たってへなへな転がった!」

 

「ほら、二人目のバッターも同じ。ストライクを先行させて追い込んでから、最後は外へ逃げるスライダーを振らせるはずだよ」

 

 俺の言葉通り、成瀬先輩はカウントを有利に整えると、最後は外角低めへ鋭く逃げるスライダーで空振り三振を奪った。続く三人目の打者にも初球、内角の直球で詰まらせ、力のない内野フライに打ち取る。球数はわずか八球。まったく無駄のない投球で、あっという間にスリーアウトになった。

 

「わ、もうスリーアウト? 三人目なんて一球しか投げてないじゃん!」

 

「ね、バッターが打ち気になってるところを逆手に取って、早いカウントでどんどん打たせてる。こうやって球数をしっかり抑えてリズムを作る、これが成瀬先輩のピッチングの真骨頂なんだよ!」

 

「すごい、全部計算通りなんやね!」

 

「力押しじゃなくて頭脳戦って感じ!」

 

 俺が身を乗り出して早口で説明すると、二人は目をぱちくりさせながらも、マウンドへ惜しみない拍手を送った。

 攻守交代となり、西高の野手たちがベンチへ引き揚げてくる。成瀬先輩は堂本キャプテンと言葉を短く交わしながら、静かにベンチの奥へと腰を下ろした。

 

 そのベンチの端で、背番号十のユニフォームを着た城ヶ崎が、落ち着きのない様子で立ったり座ったりを繰り返していた。帽子を脱いでは被り直し、グラブを手にはめては外し、ベンチ奥の成瀬先輩やグラウンドへしきりに視線を送っている。

 

「あ、城ヶ崎君みっけ! じょーがさきくーん!」

 

 大原さんが立ち上がり、グラウンドに向かって大きく両手を振った。

 その甲高い声が静かな球場に響いた瞬間、ベンチの入り口にいた城ヶ崎がびくっと肩を跳ねさせた。視線をこちらへ向けた拍子に、足元にあった折りたたみ式のパイプ椅子に思い切り向こうずねをぶつけたらしい。

 

 声こそスタンドまでは届かないものの、城ヶ崎が片足を押さえて派手にその場で跳びはね、ベンチの同級生たちに笑われているのが見えた。顔を真っ赤にして、慌ててネット裏のスタンドから目をそらしている。

 

「ちょっとモモ、試合中に大声出したらあかんやん! 城ヶ崎君、恥ずかしがって足ぶつけとるやろ!」

 

「えへへ、ごめんごめん。つい見えたからさー」

 

 大原さんは照れくさそうに舌を出し、横山さんは呆れたように肩をすくめた。あいつのあの不器用なところは、どんな場面でも変わらないらしい。

 

 試合は西高のペースで進んでいった。

 一回裏の西高の攻撃は無得点に終わったものの、相手投手の立ち上がりをじっくりと見極めて球数を投げさせていた。成瀬先輩のテンポのいい投球が、守備のリズムを整え、それが攻撃のリズムにも波及している。

 

 二回表の相手校の攻撃も、成瀬先輩は低めを丁寧に突く投球で危なげなく三者凡退に抑えた。ボール球を無駄に投げず、カウントを有利に進めてから手元で沈む球を振らせる。相手打線は完全に的を絞り切れず、苛立ちを隠せない様子でベンチへ戻っていった。

 

 そして三回裏、試合が動いた。

 西高の一番打者が四球を選んで出塁すると、続く二番打者が手堅く送りバントを決めて一死二塁。三番打者は打ち取られて二死となったが、ここで打席に入ったのは主将の堂本キャプテンだった。

 

 成瀬先輩の女房役として、ここまで完璧なリードで相手打線を封じ込めてきた頼れる四番打者だ。初球のインコース高めの直球を見逃してボール。二球目の外角へのスライダーをファウル。打席での構えには一切の力みがなく、堂々とした風格が漂っていた。

 

「堂本キャプテン、打ってくれそうやね」

 

「キャプテンは前の打席で外の変化球を見極めてたから、相手はインコースから入ってきたでしょ。でも二球目の外のスライダーもファウルにされた。ボール先行にはしたくないから、次はストライクを取りやすい直球を外に投げてくるはず。それを狙えば長打になるよ!」

 

 カウントはワンボール、ワンストライク。

 三球目、相手投手が投じた外角寄りの直球を、堂本キャプテンは見逃さなかった。踏み込んだ左足がしっかりと地面を捉え、無駄のない軌道で振り抜かれたバットが、乾いた鋭い破裂音を響かせる。

 

 ライナーとなった打球は、あっという間に前進守備のセンターの頭上を越えていった。

 

「打った、センターオーバー!」

 

 気づけば俺は、二人より早く立ち上がって声を上げていた。

 

 二塁走者が快足を飛ばしてホームへ生還。打った堂本キャプテンは悠々と二塁へ滑り込み、二塁ベース上で力強く拳を突き上げた。

 

「やったあ! 先制点!」

 

「ナイスバッティングや! さすがキャプテン!」

 

 一拍遅れて、大原さんと横山さんも歓声を上げてハイタッチを交わす。

 勢いは止まらなかった。続く五番打者も三遊間を破るレフト前ヒットを放ち、二塁から堂本キャプテンが本塁へ激走。間一髪でキャッチャーのタッチをかいくぐってホームを陥れ、二点目を奪い取った。

 

 三回を終えて、スコアは二対零。

 西高が理想的な試合運びで主導権を握った。

 

 四回、五回と進むにつれて、グラウンド上は息詰まる投手戦の様相を呈していく。

 

 相手投手も要所を締めて西高に追加点を許さない。だが、成瀬先輩の安定感もまったく揺るがなかった。

 

「次は内角高めを見せておいて、外へ沈めるはずだよ!」

 

 俺は手すりに身を乗り出し、グラウンドを指さしながら早口で言った。

 

「ほら、打たされた! 狙い通りのセカンドゴロ! 今のもわざとボールになる球を振らせたんだよ、見事にね!」

 

 立ち上がりかけながらパンと膝を叩き、俺は一人で声を弾ませていた。

 

「……ねえ姫宮さん、今日めっちゃテンション高くない?」

 

 ふと横を見ると、大原さんが不思議そうな顔でこちらを覗き込んでくる。横山さんも口元に手を当てて、くすくすと笑っている。

 

「ほんまやね。城ヶ崎君が投げた初戦のときより、ずっと楽しそうに見えるわ。城ヶ崎君のときは師匠として至らないとこが目につくんか?」

 

「えっ、そうかな? ボク、そんなにはしゃいでた?」

 

 思わず自分の頬に触れると、少し熱くなっている気がした。

 

「成瀬先輩のピッチングは頭脳戦で、見ていてすごく面白いからさ。次はどうやって料理するんだろうって考えると、ワクワクしてきちゃうんだよ」

 

 二人にそう答えながら、ベンチへ引き揚げる成瀬先輩の背中を見つめていると、胸の奥に懐かしく心地よい熱がじんわりと広がってきた。

 

 前世の俺もそうだった。

 指先から放たれる直球の最速は百五十キロに届かず、体格の面でも全国の強豪校に並ぶ怪物たちには一歩及ばなかった。正面からの力比べでは敵わない相手をどうねじ伏せるか。その答えが、打者との駆け引きだった。

 

 打者の立ち位置や視線、カウントごとの心理を丹念に読み解き、狙いを外して手元で打ち損じさせる。狙い通りに打者が凡打を転がしたときのあの痛快さは、何ものにも代えがたかった。肉体の素質では敵わなくても、観察と知恵を注ぎ込めば天才たちとも対等以上に渡り合える。そう信じて駆け引きを磨き抜いたからこそ、無名の弱小校を率いて甲子園の準決勝まで勝ち上がることができたのだ。

 

 成瀬先輩の投げたあの沈む球には、工夫を凝らして打者を打ち取るピッチングの醍醐味が詰まっていた。自分なら次はどこへ投げ込むだろうか。前世の感覚をなぞるようにグラウンドを見つめていると、純粋な観戦の面白さに胸が弾んでくる。

 

 グラウンドからは片時も目が離せない。成瀬先輩の軽快なテンポは衰えず、味方の失策で二人、ヒットで三人の走者を出したものの、三塁を踏ませない落ち着いた投球で六回まで無失点に抑え込んだ。試合は後半の山場へと向かっていった。

 

 七回表、相手校の攻撃を迎えたとき、成瀬先輩の投球フォームにかすかな乱れが見え始めた。

 イニングを重ね、球数も八十球を超えている。打たせて取っているとはいえ、真夏の炎天下での登板がスタミナを確実に削っていた。

 

 成瀬先輩の足元を見ると、踏み出した左足の粘りが一回や二回に比べてわずかに甘くなっている。下半身が踏ん張りきれず、ボールが指先から抜けて高めに浮く場面が目立ち始めていた。

 

 先頭の六番打者に対して、厳しいコースを突いたもののうまく合わされ、一二塁間を破るライト前ヒットを許してしまう。

 続く七番打者には、ストレートが高めに浮いてカウントを悪くし、フルカウントから外角低めがわずかに外れて歩かせた。この試合で初めて与えた四球だった。

 

 スタンドが一気にざわめき立つ。

 相手ベンチからは割れんばかりのメガホンの音が響き渡り、保護者たちの黄色い声援が飛び交う。

 

「あわわ……急にピンチになっちゃったよ。どうしよう」

 

「大丈夫や、まだアウト一つも取っとらんけど、二点勝っとるんやから」

 

 横山さんはそう言って大原さんを励ますが、その手にはぎゅっと力が入っている。

 無死一二塁となり、八番打者が打席に入る。きっちりと一塁側へ送りバントを決められ、成瀬先輩が一塁へ送球してワンアウト。走者はそれぞれ二塁と三塁へ進んだ。

 

 一死二三塁。一打同点の場面だ。

 ここで相手は九番打者に代え、体格のいい右打ちの代打をバッターボックスに送り込んできた。

 

 堂本キャプテンが立ち上がり、成瀬先輩へ向けて小さく頷く。無理に勝負はせず、満塁策をとる構えだ。成瀬先輩は外へ大きく外したボールを続け、最後は勝負を避けて歩かせた。

 

 一死満塁。塁上がすべて埋まった。

 球場のボルテージは最高潮に達し、地鳴りのような応援が西高ナインに襲いかかる。

 

 そのとき、一塁側ベンチの横にあるブルペンが俄かに慌ただしくなった。

 控え捕手が座り、城ヶ崎がブルペンのマウンドへ駆け込んでいく。大きく腕を回し、勢いよく投球練習を始めた。パン、と乾いた重い捕球音が響き、近くにいた観客たちが一斉にそちらを振り返る。

 

「あ、城ヶ崎君が準備始めた! 交代するのかな!?」

 

 大原さんが身を乗り出して叫んだ。

 

「満塁やもんね。球の速い城ヶ崎君で三振取りに行くんやろか」

 

 横山さんもブルペンとマウンドを交互に見つめている。

 だが、俺は首を横に振った。

 

「ううん。成瀬先輩は交代しないよ」

 

「え? 交代しないの? だって満塁だよ? 成瀬先輩、かなり疲れてるみたいだし……」

 

「成瀬先輩の顔を見て。まだ全然、マウンドを譲る気なんてないよ」

 

 俺の言葉に、二人は息を呑んでマウンドを見つめ直した。

 マウンド上の成瀬先輩は、帽子を取ってユニフォームの袖で額の汗を乱暴に拭うと、ゆっくりと深く息を吐き出していた。その表情には焦りも動揺もない。堂本キャプテンがマウンドへ駆け寄り、成瀬先輩の胸にポンとミットを当てて言葉をかける。成瀬先輩は小さく頷き、覚悟を決めたようにマウンドの土を蹴る。

 

 ブルペンで城ヶ崎が腕を振っているものの、マウンドの成瀬先輩からも、ホームベースの堂本キャプテンからも、ベンチへ交代を求めるような仕草は一切なかった。

 

「打順が一番に戻るからね。相手にとっては一番頼りになる打者だけど、成瀬先輩からすれば一番狙いが絞りやすい相手でもあるんだ」

 

「どうして?」

 

「一番打者は足が速いし、出塁意欲も人一倍強いでしょ。この満塁の場面なら、一気に逆転してやろうって初球から甘い球を狙って強いスイングを仕掛けてくるはず。そこを成瀬先輩が逃すわけがないよ!」

 

 打席に入った相手の一番打者は、鋭い目つきでバットを短めに持ち、トップの位置を高く構えた。明らかに早いカウントから積極的に振ってくる姿勢だ。

 

 プレイがかかる。

 成瀬先輩はブルペンからの凄まじい捕球音など意に介さない様子で、ゆったりとしたモーションに入った。

 城ヶ崎のような剛速球ではない。だが、その右腕の振りには迷いがなかった。

 

 初球。

 内角低め、打者の膝元へ鋭く切れ込む沈む球。

 直球を待ち構えていた相手の一番打者は、打ち気を逸らせずに強引にバットを振り下ろした。

 

 ガツッ、と詰まった鈍い音が球場に響いた。

 

 バットの根元で叩きつけられた打球は、勢いのないボテボテのゴロとなって、マウンドの成瀬先輩の足元へ転がる。

 成瀬先輩は打球の行方を冷静に見極め、グラブに収めると、迷わず本塁へ素早く送球した。

 

「ホーム!」

 

 堂本キャプテンがホームベースを踏んでツーアウト。

 すぐさま反転し、一塁へ矢のような送球を放つ。ボールはベースを駆け抜ける打者走者よりも一瞬早く、一塁手のミットに突き刺さった。

 

「アウトッ!」

 

 一塁塁審の右拳が高く突き上げられた。

 ピッチャーからの本塁封殺、そして一塁転送による併殺打。スリーアウトチェンジ。

 

 静寂のあと、一塁側スタンドから大歓声と拍手が沸き起こった。

 

「きゃあああ! ダブルプレー!」

 

「すごっ、ほんまに初球で仕留めたやん! 一瞬でピンチ終わった!」

 

 大原さんと横山さんが抱き合って跳びはねる。

 グラウンドでは、成瀬先輩が何事もなかったかのような涼しい顔で堂本キャプテンとハイタッチを交わし、ベンチへと戻っていくところだった。

 

 ふと視線をブルペンへ向けると、城ヶ崎が右手にボールを握ったまま、マウンドの成瀬先輩をぽかんと見つめて立ち尽くしていた。先輩があっさりとピンチを片づけてしまったことに驚いたのか、口を半開きにしたまま動きを止めている。

 

「……ふふっ」

 

 その呆然とした表情が可笑しくて、俺は喉の奥で小さく笑ってしまった。

 

「それにしても姫宮さん、なんで初球で打ち取れるって分かったの? さっき言ってた通りになってびっくりしたよ」

 

 大原さんが身を乗り出し、不思議そうに目を丸くして尋ねてきた。横山さんも隣でうんうんと頷いている。

 

「ほんまそれ。相手が初球から打ってくるって、まるで未来が見えとるみたいやったわ」

 

「そんな大げさなものじゃないよ! でも、狙い通りにピタッとハマるとやっぱり気持ちいいよね」

 

 俺はまだ抜けきらない興奮を抱えたまま、グラウンドを見下ろして答えた。

 

「球の速さは、生まれ持った肉体の良さで上限が決まっちゃうところがあるよね。でも、相手が何を狙っているかを読んで裏をかく技術は、練習や経験を重ねれば誰でも磨けるんだ。成瀬先輩は、ずっとそこを突き詰めてきたピッチャーなんだよ」

 

「へえ……頭を使うところは、練習次第でいくらでも上手くなれるんやね」

 

「うん。体格で敵わない相手を工夫して抑え込むのって、すごく胸がすくんだよ」

 

 七回裏の西高の攻撃は無得点に終わったが、ピンチを脱したチームの士気は最高潮に達していた。

 八回表、マウンドに戻った成瀬先輩は、さっきのピンチが嘘のように軽快なテンポを取り戻している。自分ならここで内角を見せてから外へ落とす、そんな風に頭の中で配球をなぞりながら見ていると、成瀬先輩もまさに同じコースへ投げ込んでいく。二番から始まる好打順を巧みなコースの出し入れで翻弄し、わずか九球で三者凡退に仕留めてみせた。

 

 八回裏の攻撃も手堅く進み、試合はついに最終回、九回表を迎えた。

 ここでも、成瀬先輩の小気味よい組み立てに思わず見入ってしまう。五番打者をセカンドゴロ、続く六番打者をレフトフライに打ち取り、あっという間に二死を奪う。

 最後は七番打者を外角低めのスライダーで泳がせ、力のないショートゴロに打ち取った。予想通りの組み立てで手玉に取っていく先輩の姿に、心の中で拍手を送っていた。

 

 一塁手がボールをがっちりと捕球し、ゲームセット。

 試合終了を告げるサイレンが、夏の青空に高らかに響き渡った。

 

「勝ったあー!」

 

「二対零! 完封やんか、成瀬先輩!」

 

 大原さんと横山さんが立ち上がって惜しみない拍手を送る。

 終わってみれば、成瀬先輩の投球内容は被安打四、与四球二、奪三振二。失点はゼロ。派手な三振ショーこそなかったものの、打たせて取る投球の真髄を見せつけるような、見事な完封勝利だった。

 

 整列を終えた両校の選手たちがスタンドへ礼をし、応援団から温かい拍手が降り注ぐ。

 ベンチ裏へ引き揚げる成瀬先輩の足取りはしっかりとしていて、初戦の終盤のような疲労によるふらつきは見られない。城ヶ崎は手元のグラブを見つめたり先輩の背中を見上げたりしながら、その後ろをついて歩いていた。

 

「あー、いい試合だったね! ドキドキしたけど、最後はすっきり勝ててよかった!」

 

 大原さんがうちわを胸元でパタパタと扇ぎながら満足そうに息をつくと、俺は前のめりになって口を開いていた。

 

「すっきりどころじゃないよ! 特に八回と九回の組み立て、見た? 内角を意識させておいてから外のスライダーで泳がせたり、緩急をつけて打者のタイミングを完璧に外してたでしょ。あんなの見せられたらたまらないよね!」

 

「ちょ、姫宮さん、まだ喋り足りんの? 試合中からずっとテンション高すぎやわ」

 

 横山さんが吹き出し、大原さんもつられて笑い声をあげた。

 

「あはは、ほんとに! 姫宮さん、野球のことになると止まらないね。……あたしたち、冷たいものでも買ってこようか。選手のみんなにも差し入れしたいし」

 

「せやね、外の自販機行こか。姫宮さん、荷物見といてもらってええ?」

 

「うん、任せて。気をつけて行ってきてね」

 

 二人は小銭入れを手に持って、スタンドの階段を軽快に駆け上がっていった。

 

 一人残された俺は、二人のスクールバッグを肩にかけ、自分の荷物もまとめて持ち上げた。試合が終わったグラウンドでは、早くも次の試合の準備のためにトンボがかけられ、散水車が砂煙を鎮めるように水を撒いている。

 少し涼しい場所で風に当たりながら待とうと思い、俺は荷物を抱えてスタンド裏の屋根のある通路へと移動した。薄暗いコンクリートの通路には、グラウンド側から吹き抜ける風が通り、照り返しの厳しい客席に比べればいくぶん過ごしやすい。

 

 手すりに寄りかかり、汗で額に張り付いた髪を払っても、胸の奥の高鳴りはなかなか収まらなかった。頭脳で相手をねじ伏せる鮮やかなピッチングを目の当たりにして、まだ頭の中が熱を帯びている。

 奥の控室へと続く階段から、パタパタと足音が響いてきた。首にタオルをかけ、背番号十のユニフォームを着た城ヶ崎が上がってきたところだった。

 

「あ……姫宮」

 

 俺の姿を認めた城ヶ崎が足を止めた。その額にはびっしりと汗が滲んでいて、ユニフォームの胸元も汗で濡れている。

 

「城ヶ崎君! 成瀬先輩のピッチング、本当に見事だったね。一回の立ち上がりから八球で終わらせて、カウントごとにバッターを誘導してさ。見ていて息つく暇もないくらい面白かったよ!」

 

 熱が冷めないまま早口にまくしたてると、城ヶ崎は少し圧倒されたように目を見張った。それから、じっとこちらを見つめたまま、微かに唇をとがらせて視線をそらした。

 

「……なんか、俺が投げたときより楽しそうだな」

 

「えっ? そんなことないよ」

 

 思いがけない言葉に、俺は思わず目を瞬かせた。

 

「城ヶ崎君の初戦は、ほら、最初ガチガチでいきなりストレートの四球出しちゃうし、見ていて心臓に悪かったでしょ? 成瀬先輩のは組み立てが緻密で、すごく勉強になるからさ」

 

「……不甲斐なくてごめん」

 

 城ヶ崎はぼそりと呟き、手すりに両手を置いてグラウンドへ視線を落とした。さっきまでの不服そうな表情を少し緩め、ポツリと言葉を続ける。

 

「でも、成瀬先輩、初戦は八回の途中で交代したのに、今日は最後まで投げ切ったんだよな。暑いのは同じだったのに、なんであんなに持ったんだろう」

 

「球数が全然違ったんだよ」

 

 城ヶ崎の疑問に、俺は手すりに身を乗り出しながら答えた。

 

「初戦は相手にファウルで粘られて、七回を迎える頃には百球近かったでしょ。でも今日は、序盤から早いカウントでどんどん打たせてたから、全体的に球数が少なかったんだ。あの七回の満塁だって、初球の沈む球でピッチャーゴロに仕留めてホームゲッツーにしたじゃない。打者との駆け引きで球数を徹底的に抑え込んだから、最後まで腕が振れたんだよ」

 

 城ヶ崎は手すりを握る手に少し力を込め、静かに息を吐き出した。

 

「……俺には、まだあんな風に球数を抑えて打たせて取るなんてできない。速い球を力任せに投げ込むことしか頭にないからさ」

 

「城ヶ崎君には城ヶ崎君のピッチングがあるよ。それに、次の試合はベンチで見ているだけじゃ終わらないと思う」

 

 俺の言葉に、城ヶ崎が顔を上げてこちらを見つめた。

 

「次の試合……四回戦か」

 

「相手は明陵学院。春の県大会準優勝で、今大会の第二シード校だよ。打撃陣は県下でもトップクラスで、特に速いストレートには滅法強いチームなんだ」

 

「第二シード……」

 

「成瀬先輩は今日、一人で最後まで投げ切ったでしょ。中一日で迎える木曜日の四回戦、相手が明陵学院なら、成瀬先輩一人だけに頼るのは厳しい。城ヶ崎君の出番が来るはずだよ」

 

 城ヶ崎の喉が、ごくりと小さく動いた。

 

「そこで、あの球の出番だよ」

 

「……チェンジアップか」

 

「そう。明陵学院のバッターは、城ヶ崎君の速いストレートを狙って思い切り踏み込んでくると思う。速い球にタイミングを合わせている打者ほど、同じ腕の振りから抜けてくる遅い球には脆いんだよ。ストレートを生かすためにも、チェンジアップが大きな武器になる」

 

 城ヶ崎は自分の右手をじっと見つめ、指先を曲げたり伸ばしたりしながら小さく息を吐き出した。

 

「でも、実戦で投げたことないぞ……。先週の水曜に握り方を教えてもらったばかりで、長い時間をかけて仕上げたわけじゃない」

 

「大丈夫だよ」

 

 俺は城ヶ崎の目を真っ直ぐに見つめ返した。

 

「先週の水曜に握りを教えてから、部活のあとに毎日河川敷で投げてきたでしょ。城ヶ崎君が投げる球を、ボクはずっと一番近くで見てきたんだよ」

 

 城ヶ崎がはっと顔を上げる。

 

「腕の振りは、ストレートのときとほとんど変わらないところまで来てるよ。今の振りなら、打者はフォームからストレートだと思い込んでバットを振るはず。ボクが毎日見てきたんだから、自信を持っていいよ」

 

 俺の言葉を聞きながら、城ヶ崎の強張っていた肩の力が、ふっと抜けていくのが見えた。

 

「姫宮がそこまで言うなら、大丈夫か」

 

「大丈夫に決まってるでしょ。ボクが野球のことで嘘を言ったことある?」

 

「ない。一回もない」

 

 城ヶ崎はそう言って、しっかりと頷いた。

 

「四回戦は明後日の木曜日。明日も部活が終わったら、河川敷に行こう。最後の仕上げをして、万全の状態で明後日を迎えよう」

 

「うん。頼む、姫宮。明日も付き合ってくれ」

 

「もちろん。最初からそのつもりだよ」

 

 そう言って笑いかけたとき、通路の階段の下からパタパタと小走りの足音が近づいてきた。

 

「あー、いたいた! 城ヶ崎君、ここにいたんだ!」

 

 大原さんの明るい声が通路に響き渡った。横山さんと二人、手に小さなビニール袋を提げて階段を上がってくる。

 

「お疲れ城ヶ崎君! これ、差し入れ。しっかり冷えとるうちに飲み」

 

 横山さんが袋から取り出した冷たいスポーツドリンクのペットボトルを、城ヶ崎に手渡した。城ヶ崎は両手でそれを受け取り、頭をぺこりと下げる。

 

「大原さん、横山さん、ありがとう。助かる」

 

「いいのいいの! あ、姫宮さんにはこれね。水、一番冷えてそうなやつ選んできたよ!」

 

「ありがとう、大原さん。冷たくて美味しそう」

 

 受け取った水のペットボトルは心地よく冷えていて、表面の水滴が指先を濡らした。一口含むと、渇いた喉に冷たさが染み渡っていった。

 

「城ヶ崎君、今日は投げなかったけど、次は投げるんでしょ? あたし、次はマウンドでズバーンって投げてるとこ見たいな!」

 

 大原さんが両手を広げて投球フォームの真似事をしながら、期待に満ちた目で城ヶ崎を見つめた。

 城ヶ崎はスポーツドリンクのキャップを開けながら、少し得意げに口元を緩める。

 

「次はズドーンだけじゃないぞ」

 

「……え? ズドーンだけじゃないって、どういうこと?」

 

 大原さんが目を丸くして身を乗り出す。城ヶ崎はしまったという顔をして、慌てて口元を手で押さえた。

 

「あ、いや……なんでもない。ただの独り言」

 

「なになに、気になるじゃん! ヒロ、今の聞いた? なんか隠し球があるみたいな言い方したよね!」

 

「聞いた聞いた! もったいぶらんと教えてえな、城ヶ崎君。何があるん?」

 

 二人に左右から詰め寄られ、城ヶ崎は顔を赤くしながら後ずさりした。

 

「な、ないって! 本当に何でもないから! ほら、俺、もう着替えに戻らないと怒られるから行く!」

 

 城ヶ崎は逃げるように頭を下げると、バタバタと大きな足音を立てて控室への階段を駆け下りていった。その背中を見送りながら、大原さんと横山さんは顔を見合わせて楽しそうに笑い声をあげた。

 

「あはは、逃げちゃった! 絶対なんか隠してるよね」

 

「ほんま隠し事が下手くそやな城ヶ崎君は」

 

 二人の賑やかなやり取りを聞きながら、俺もペットボトルの水を口に運んで微笑んだ。

 

 通路の隙間から、西日に照らされ始めたグラウンドが見える。

 次の木曜日は、あのマウンドに城ヶ崎が立つことになるだろう。相手は春の準優勝校、明陵学院だ。

 

 強豪私立の分厚い打線を相手に、城ヶ崎の剛速球とチェンジアップがどこまで通用するのか。

 ストレートを待つ打者の手元で、すっとタイミングを外す軌道を思い描きながら、俺は冷え切った水を静かに飲み干した。

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