翌朝、通学路を歩きながら、俺はブレザーのポケットの中で左手を何度も握り直していた。
手のひらの中心が、鈍い熱を持ってじんじんと疼いている。湿布を貼るほどではないが、皮膚の深い部分が小さく脈打つような、確かな痺れが残っていた。
昨日、空き地で受け止めた城ヶ崎の剛速球の感触だ。
手首が軋み、衝撃が腕から肩へと抜けていったあの感覚。革越しに伝わってきた、鉄の塊を撃ち込まれたような重み。
痛い。だが、その痛みがたまらなく心地よかった。
自分が投げる側ではなく、受ける側、支える側としてグラウンドに立つ。その選択肢が、俺の中で明確な形を結び始めていた。
教室の引き戸を開けると、春の柔らかな日差しが差し込む空間に、新学期特有の落ち着かないざわめきが満ちていた。
斜め前の席に、城ヶ崎の姿があった。
相変わらず誰とも話さず、背中を丸めて机に向かっている。だが、昨日の彼とは明らかに違っていた。
城ヶ崎は自分の右手をじっと見つめ、指先を開いたり閉じたりを繰り返していた。手のひら全体で、まるでそこに見えないボールがあるかのように空気を摘まんでいる。
やはりそうだ。あの感覚が手に残っているのだ。
ボールの縫い目が指先を離れ、勝手に腕が走った瞬間の強烈な快感。一度でもあの領域に触れてしまった人間が、それを簡単に忘れられるはずがない。
「おはよう、城ヶ崎君」
席に着く前に、俺は城ヶ崎の机の横に立った。
城ヶ崎はびくっと肩を跳ね上げ、慌てて右手を机の下へ隠した。
「ひ、姫宮さん……! お、おはよう……」
「昨日の約束、ちゃんと覚えてるよね?」
念を押すように笑顔を向けると、城ヶ崎は顔を真っ赤にして視線を泳がせた。耳の先まで赤みが広がっている。
「お、覚えてるけどさ……本当に、行くのか……?」
「当たり前でしょ。体験入部に行くって言ったじゃない」
「でも、俺、本当に野球なんてやったことないんだぞ? 中学の部活だって帰宅部だったし、体育だって苦手だしさ……。野球部なんて上下関係も厳しそうだし、先輩たち怖いかもしれないだろ。俺なんかが行ったって、邪魔になるだけだよ」
「そんなことないよ。君のあの球を見れば、誰も邪魔だなんて言わないから」
「そんな大げさな……。昨日のはたまたまだって。姫宮さんが近すぎて緊張したから、変な力が出ただけでさ……」
城ヶ崎はぶつぶつと呟きながら、所在なさげに机の角を指でなぞっていた。
近すぎて緊張した、という言葉の意味がよく分からなかったが、フォームの指導で身体に触れたことを言っているのだろう。部活の仲間同士なら普通に肩を組んだり背中を叩き合ったりするものだが、友達付き合いの少なそうな彼にとっては、他人に触られること自体が落ち着かないのかもしれない。
「いいから、放課後は逃げないでよね。もし教室から走って逃げようとしたら、校門で待ち伏せするから」
「そこまで言わなくても逃げないよ……。見るだけなら、約束したし……」
城ヶ崎はため息をついて肩を落とした。
よし、まずは逃走の芽を摘んだ。俺は満足して自分の席へと腰を下ろした。
授業中も、俺の意識は放課後のことばかりに向いていた。
黒板に向かってチョークを走らせる教師の声を聞き流しながら、ノートの端に高校野球の春季大会の日程や、一般的な部活動の練習メニューを思い出しながら整理していく。
まずは城ヶ崎の体力を付けることだ。昨日のキャッチボールでも、十数球投げただけで肩で息をしていた。いくら肩が柔らかくても、息が続かなければ試合で長く投げられない。急に厳しい練習をさせて、せっかくの肩や肘を壊してしまっても困る。
投げる前には身体を温め、終わったら肩を冷やす。肩や背中を十分に動かす練習と、無理のない走り込みも必要だ。前世の経験と、今世で読み漁った本の知識を思い返しながら、彼のための練習を頭の中で組み立てていく。
ふと視線を上げると、斜め前で城ヶ崎が居眠りもせずに背筋を伸ばしていた。
教科書を開いたまま、じっと前を見つめている。だが、その右手の指先は、やはり机の下で小さく動いていた。
あいつ自身も、昨日の熱から抜け出せていないのだ。自分の中に眠っていた怪物の咆哮を、一度でも耳にしてしまったのだから。
昼休み、城ヶ崎が菓子パンをかき込んで早々に逃げ出さないよう、俺はしっかりと見張っていた。
城ヶ崎は机の引き出しから購買の菓子パンを取り出し、小さくなってひとりで食べていた。周囲の男子グループが休日のゲームの話題で盛り上がっているのを、少し羨ましそうに遠巻きに見ている。
人見知りで、引っ込み思案。自分から輪に入っていく勇気がない。
だが、そんなことは関係ない。グラウンドの上に立てば、口下手だろうが大人しかろうが、放たれる白球の鋭さだけがすべてを雄弁に物語る。あいつが一度腕を振り抜けば、嫌でも周りの人間は黙り込み、その才能に平伏することになるのだ。
俺は席を立ち、城ヶ崎の机の前に歩み寄った。
「城ヶ崎君、食事をちゃんと取っておいてね。放課後、身体を動かすんだから」
「ゲホッ……!? ひ、姫宮さん!?」
突然上から声をかけられた城ヶ崎は、パンを喉に詰まらせそうになって激しくむせた。慌てて紙パックのお茶をストローで吸い込み、胸を押さえて荒い息を吐く。
「び、びっくりさせないでくれよ……! それに、身体を動かすってなに!? 見学だけだろ!? 見に行くだけって言ったじゃないか!」
「見学だって、グラウンドの端っこで立ってるだけで足腰使うでしょ? 準備運動くらいはするかもしれないし。はい、これあげる」
俺は購買で買っておいたスポーツドリンクのペットボトルを、城ヶ崎の机の上にコトンと置いた。
「えっ……これ、俺に?」
「水分が足りなくなったら困るからね。しっかり飲んで、午後も頑張って」
「あ、ありがとう……」
城ヶ崎はおずおずとペットボトルを受け取り、両手で包み込むようにして見つめていた。顔を真っ赤にしながら、どこか嬉しそうに口元を緩めている。
アスリートにとって水分補給は体調管理の初歩の初歩だ。感謝されるようなことでもないのだが、素直に受け取るその態度は好感が持てた。指導者の言うことを疑わずに実践できる素直さ。これほど教え甲斐のある素材もいない。
そして、待ちに待った放課後のチャイムが鳴り響いた。
終鈴の余韻が消えるか消えないかのうちに、俺は鞄を抱えて席を立った。
城ヶ崎が机の上の筆箱を鞄にしまい、周囲の様子を窺いながら、そそくさと立ち上がろうとしている。
逃がすわけがない。
俺は素早く教室の前扉へと回り込み、腕を組んでその行く手を塞いだ。
「さあ、行こうか、城ヶ崎君」
「うわっ……! 本当に、待ち構えてた……!」
城ヶ崎はびくっと足を止め、引き攣った笑みを浮かべた。
「あのさ、姫宮さん。今からでも遅くないから、やっぱりやめにしないか? 俺、やっぱり気が進まないっていうか、運動部の見学なんて場違いだと思うんだよ」
「往生際が悪いよ。男でしょ? 一度した約束は最後まで守るのが筋ってもんじゃない?」
「うっ……それは、そうだけどさ……」
「見るだけだから。ね? グラウンドの端っこから練習を眺めるだけ。ボクも一緒に行くから、何も怖がることはないでしょ」
俺は城ヶ崎の制服の袖口を軽く引き、廊下へと引っ張り出した。
城ヶ崎は小さく悲鳴のような息を呑み、袖を引っ張られるままに、おぼつかない足取りでついてきた。
教室に残っていたクラスメイトたちが、驚いたような顔で俺たちを見送っているのが視界の端に見えたが、そんなことはどうでもいい。今は一秒でも早く、あいつをグラウンドへ連れて行くことだけが重要だった。
校舎の渡り廊下を抜け、体育館の横を通ってグラウンドへと向かう。
近づくにつれて、放課後の活気が肌を刺すような密度で迫ってきた。
陸上部の走る足音、サッカー部の掛け声、そして奥の野球場から響いてくる、カキィンという乾いた金属バットの打球音。土埃の匂いと、春の夕風が混ざり合い、俺の胸の奥で眠っていた血を騒ぎ立てる。
「うわぁ……すごい人だな……」
防球ネットの前にたどり着いた城ヶ崎が、圧倒されたように立ち止まり、グラウンドを見上げていた。
黒土の内野と、青々とした外野の芝生。
白地に濃紺のアンダーシャツを着た野球部員たちが、大きな声を掛け合いながらシートノックの白球を追っている。
キビキビとした動き、ノッカーの放つ鋭い打球に飛びつく内野手、矢のような送球。ベンチ前ではマネージャーがメガホンを片手に給水の準備をし、バックネット裏では数人の指導者が腕を組んで鋭い眼光を光らせていた。
県立高校とはいえ、そこそこに伝統と実績のあるチームだ。部員たちの動きには無駄がなく、グラウンド全体に独特の張り詰めた緊張感が漂っていた。
「ひ、姫宮さん……やっぱり帰ろうよ。これ、絶対に入っちゃいけない空気だって。俺なんかが足を踏み入れたら、怒鳴られるに決まってる……!」
城ヶ崎が青ざめた顔で後ずさりし、今にも踵を返して逃げ出そうとした。
俺は逃がさないよう、その背中に右手を回し、真ん中をトンと強く叩いた。
「大丈夫だって言ってるでしょ。体験入部の期間なんだから、見学に来る生徒なんていくらでもいるよ。ほら、胸を張って」
「胸を張れって言われても……っ!」
躊躇う城ヶ崎の背中をぐいぐいと押し込みながら、俺はバックネット裏のベンチ横へと歩み寄った。
ベンチの近くでバットを拭いていた大柄な部員が、足音に気づいて振り返った。
胸元に副主将のマークをつけた、坊主頭の三年生だ。日に焼けた精悍な顔つきで、鋭い視線がこちらを射抜く。
「ん? なんだお前ら、見学か?」
「ひ、ヒィッ……」
城ヶ崎が情けない声を漏らして俺の背中に隠れようとした。本当に肝の小さい奴だ。
俺は一歩前に出て、愛想よく頭を下げた。
「こんにちは! 新入生の体験入部で見学に伺いました。ボクは一年の姫宮です。こっちの城ヶ崎君が、練習を見学したいそうで」
「お、おう……そうか。新入生か」
副主将の先輩は、俺の顔を見るなり一瞬目を丸くし、それからぎこちなく表情を緩めた。
ベンチにいた他の部員たちも、何事かとこちらへ視線を向けてくる。
男子部員たちの視線が、城ヶ崎を素通りして、俺のところに突き刺さるのが分かった。ざわざわと小さなざらつきがベンチに広がる。
「おい、女子が見学に来てるぞ」
「マネージャー希望か?」
「めっちゃ可愛いじゃん……」
部員たちのそんなヒソヒソ声が耳に届いたが、俺は内心で鼻を鳴らした。
可愛い、だのマネージャー、だの、練習中に集中力を切らして何を浮ついてやがる。本気で甲子園を目指すなら新入生の付き添い一人に視線を奪われている場合じゃないだろうに。高校生男子の青臭さに呆れつつも、今は城ヶ崎をスムーズに迎え入れさせるのが先決だ。
「マネージャーじゃなくて、選手の見学です。城ヶ崎君、すごくいい球を投げるんですよ」
「ちょ、ちょっと姫宮さん!? 余計なこと言わないでって言っただろ!?」
背後で城ヶ崎が真っ青になって叫んだ。
副主将の先輩は、眉をひそめて城ヶ崎の全身を値踏みするように眺めた。
「へえ、いい球投げるのか。……おい君、中学はどこでやってたんだ? シニアか? それとも軟式の選抜?」
「え、あ、いや……その……」
城ヶ崎は視線を地面に落とし、消え入りそうな声で絞り出した。
「中学は……帰宅部で……野球は、一度もやったことないです……」
その瞬間、ベンチの空気が一変した。
先ほどまでの浮ついた雰囲気が引き、部員たちの目に明らかな失望と冷ややかな色が混ざる。
「未経験かよ……」
「なんだ、女の子にいい格好して連れてこられただけか」
「完全な素人じゃん」
ひそひそと交わされる言葉が、鋭い針のように城ヶ崎の身体に突き刺さっていく。
城ヶ崎の肩が小さく震え、顔が屈辱と恥ずかしさで真っ赤に染まっていった。
いたたまれない、その場から消え去りたいという思いが、その丸まった背中から痛いほど伝わってくる。
「ほら……言っただろ、姫宮さん……。俺なんかが来ちゃいけない場所だったんだよ……。帰る。俺、もう帰るから……」
城ヶ崎が震える手で俺の袖を引っ張り、グラウンドの外へ引き返そうとした。
その背中を見て、俺の胸の奥で、カッと熱い火が灯った。
何も知らないくせに、勝手なことを言ってくれるな。
お前たちのようなそこそこの練習を積んできただけの凡人に、こいつの右腕に眠る奇跡の価値が分かるはずもない。
帰宅部だからなんだ。未経験だからなんだ。
この少年が昨日放った、あの地を這うようなレーザービームの初速を、ここにいる部員のうち一体何人が出せるというんだ。
見下されたまま引き下がるなんて、絶対に許せない。
「城ヶ崎君、ちょっと待って」
俺は城ヶ崎の腕を掴んで引き留めると、ベンチの横に置かれていた用具棚へすたすたと歩み寄った。
棚の隅に転がっていた、使い込まれた硬式捕手用の分厚いミット。そして、ボールケースから縫い目のしっかりした硬式球を一つ掴み出す。
「すみません、これちょっと借りますね」
「は? おい、何すんだよお前……」
呆気にとられる副主将の制止を完全に無視して、俺は城ヶ崎の手元へ硬式球を押し付けた。
「城ヶ崎君、あっちに立って」
「えっ……? ひ、姫宮さん、何する気なの……!?」
俺は答えず、ファウルグラウンドの開けた場所へと歩み出た。
城ヶ崎から十数メートルほど離れた平らな土の上。
ブレザーの制服姿のまま、俺は左手に分厚い捕手用ミットをはめると、一切の躊躇いもなく腰を深く落とした。
前世で幾度となく身体に叩き込んできた、捕手の構え。
両膝を開き、腰をどっしりと低く据える。ミットを胸の前にピタリと構え、右手でバチンと平を叩いた。
その光景を見た瞬間、ベンチとグラウンドの部員たちが一斉にざわめいた。
「おいおいおい、冗談だろ!?」
「女子がキャッチャー座りして何の真似だ!?」
「おい、やめさせろ! 相手は野球やったこともないド素人男子だぞ!」
「どこに飛んでくか分からない球を、防具もつけない女子高生が受けるなんて無茶苦茶だ! 顔面に当たったら大怪我するぞ!」
副主将をはじめ、近くにいた部員たちが血相を変えて駆け寄ってくる。
運動未経験の男子が投げるノーコン球が、華奢な女子生徒に直撃して事故にでもなれば、部活動停止どころの騒ぎではないからだ。
城ヶ崎自身も顔面を蒼白にして、右手のボールを取り落としそうになりながら悲鳴を上げた。
「ひ、姫宮さん!? やめてよ、何やってるの!? 俺、運動音痴だしコントロールなんて全然ないんだよ!? もし姫宮さんに当たったらどうするの!?」
「動かないでください、先輩たち!」
俺は鋭い声で一喝した。
小柄な身体から放たれたとは思えない、グラウンドの空気を切り裂くような鋭い気迫。駆け寄ろうとしていた部員たちが、思わず気圧されてピタリと足を止めた。
俺はミットを胸の前に構え直したまま、まっすぐに城ヶ崎を見据えた。
「城ヶ崎君!」
「えっ……!?」
「ボクを誰だと思ってるの? 君の球を後ろに逸らすわけないでしょ。どんな暴投が飛んできたって、絶対に全部ボクが捕ってあげる」
「でも……っ!」
「昨日のこと、忘れたの?」
俺はミットの真ん中をポンと叩き、力強く言い放った。
「周りの目なんて気にするな。あんな連中の言葉に怯える必要なんてどこにもない。昨日ボクに見せてくれた、あの腕のしなり……あの一球を、そのままここに投げ込んでみなよ!」
「姫宮さん……」
「足を踏み出すとき、左肩を我慢する。胸の壁を作って、腕を振る直前まで背中を見せつける。身体を開かずに下半身から踏み出すんだ。────昨日みたいに投げて!」
その言葉が、夕暮れのグラウンドに凛と響き渡った。
周囲の制止の声の中、逃げ出そうとしていた城ヶ崎の瞳が、ミットを構える俺を捉える。
その顔から怯えが消え、凄まじい集中がその全身を支配していった。
城ヶ崎が右手に硬式球を強く握り直した。
深呼吸を一つ。
そして、横を向いた。
立ち姿が変わった。
猫背でおどおどしていた気配は完全に消え去り、静まり返ったグラウンドに異様な緊張感が満ちていく。
右足にしっかりと体重を乗せ、左足をゆっくりと胸元へ引き上げる。
前へと踏み出した。
左足が黒土を捉えた瞬間、城ヶ崎の左肩は微動だにしなかった。
相手に向けられたまま、胸の開きが完全にロックされている。
下半身の腰だけが鋭く先行して旋回を始め、上半身との間に強烈な捻じれが生み出された。
引き絞られた和弓のようなしなり。
城ヶ崎の背中が大きく弓なりに反り、相手に向けて背中を見せつける。
その瞬間、ベンチの奥から見ていた主将の目が、驚愕に見開かれた。
「おい……あいつ、あのフォーム……!」
遅れて、城ヶ崎の右腕が信じられない加速を伴って競り上がってきた。
鞭打つような腕の振り。最も負担のない理想的な軌道を描いて、耳の横を一閃する。
指先が、硬式球の縫い目に強烈に引っかかり、弾かれた。
ピシィッ!
空気が破裂したような鋭利な音が、グラウンドに轟いた。
放たれた白球は、放物線など描かなかった。
地を這うような、信じられないほどの低空飛行。
猛烈なバックスピンによって重力をねじ伏せた白球が、一直線のレーザービームとなって十数メートルの空間を一瞬にして切り裂いて迫ってくる。
速い。昨日受けた球よりも、明らかに一段上の球速に達している。
硬式球特有の質量と、初速の圧倒的な暴力。
だが、俺の視界には、その白球の回転軸が鮮明に見えていた。
逃げる気など微塵もない。
俺は反射的にミットの芯を、迫り来る白球の軌道へとピタリと合わせた。
バシィィィィィンッ!!
まるで銃声のような、凄まじい破裂音がグラウンド全体に轟き渡った。
ミット越しに、鉄の塊でも撃ち込まれたかのような衝撃が突き抜ける。
手首が軋み、衝撃が腕から肘、肩へと突き抜けた。手のひらを粉砕されんばかりの激痛と、焼けつくような熱が走る。
だが、俺の身体は一歩も揺らがなかった。
肘を柔らかく引き、腰を落として踏ん張る。全身で勢いを受け止め、ミットを微動だにさせずにボールをその場にねじ伏せてみせた。
グラウンドの喧騒が、嘘のように完全に静まり返る。
バッティング練習の金属音も、内野ノックの掛け声も、先輩部員たちのざわめきも、すべてがピタリと止まっていた。
グラウンドにいた数十人の部員、ベンチのマネージャー、指導者たち。その場にいた全員の視線が、ただ一点、ベンチ脇のファウルグラウンドで右腕を振り抜いたまま固まっている城ヶ崎と、その剛速球を捕球した俺へと注がれていた。
誰も口を開かない。
誰も動けない。
ただ、春の夕風が土埃を巻き上げて通り過ぎていく音だけが、静寂の中に響いていた。
俺はゆっくりと腰を上げ、ミットから白球を取り出した。
手のひらはジンジンと脈打つように熱く痺れていたが、俺は平然とした顔で、右手でボールをパチンと叩いてみせた。
「ナイスボール!」
その声がグラウンドに響いた瞬間、堰を切ったように、ざわめきが爆発的に広がっていった。
「お、おい……今の球……」
「嘘だろ……!? なんだ今の音……!」
「あいつ、何キロ投げたんだ……百四十近く出てたんじゃないのか!?」
「っていうか、あの子……あの剛速球を、なんで制服のまま平然と止めてるんだよ……!?」
狂乱のようなざわめきが部員たちの間を駆け巡る。
副主将が口を半開きにして立ち尽くし、主将はグラブを取り落としそうになりながら、信じられないものを見るような目で城ヶ崎と俺を凝視していた。
舐め切っていた空気など、跡形もなく消し飛んでいた。
放たれた一球の凄まじさと、それを当たり前のように捕球してみせた異常な光景が、部員たちの常識を根底から粉砕していた。
当の城ヶ崎はといえば。
自分の右手を見つめ、それから俺のミットを見つめ、真っ青になってその場でおろおろと狼狽えていた。
「あ、あの……ご、ごめんなさい! 姫宮さん、手、大丈夫ですか……!? 俺、力加減が全然できなくて……っ!」
自分がどれほどの伝説を刻んだかも理解せず、ただ俺の手を心配して半泣きになりながら駆け寄ってくる。
そして、グラウンド中の部員たちの熱狂的な視線が自分に突き刺さっていることに気づいた瞬間、城ヶ崎は絶望したように顔を引き攣らせ、悲鳴のような声を上げた。
「ひ、姫宮さん……っ! 俺……俺、本当に見に来るだけのつもりだったのに……っ!」
泣きそうな顔で叫ぶ城ヶ崎を見て、俺は口元に浮かび上がる笑みを抑えることができなかった。
最高だ。
これ以上ないほどの、完璧な第一歩じゃないか。
もう逃がさない。
この最高の原石を、誰にも渡すものか。
俺は夕暮れのファウルグラウンドで、呆然と立ち尽くす野球部員たちを前に、満面の笑みを浮かべて一歩前へと踏み出した。