怒涛のようなざわめきの中、バッティングケージにいた部員も、ベンチでスコアをつけていたマネージャーも、全員が目を見開いてこちらへ駆け寄ってきた。
その人垣を割るようにして、主将が大股で歩み寄ってくる。
「城ヶ崎……! お前、本当に中学まで帰宅部だったのか!?」
主将の太い声が、城ヶ崎の正面で爆発した。
肩をがっしりと掴まれた城ヶ崎は、びくっと全身を跳ね上がらせ、真っ青になって両手を胸の前で振った。
「は、はい……! 本当に、ずっと帰宅部で……! 体育も苦手ですし、足も遅いし……! す、すみません、手加減できなくて……っ!」
「謝るな! なんで謝るんだよ!」
主将が目を血走らせて叫んだ。
「なんだあの球速、あの伸びは……! まったくの素人があんな威力のストレートを放つなんて、俺は今まで見たことがないぞ! ダイヤの原石どころの話じゃない、本物の怪物だ!」
「か、怪物……!?」
城ヶ崎は目を白黒させて後ずさりしようとしたが、後ろにはすでに興奮した先輩部員たちが幾重にも人垣を作っていた。
「おい城ヶ崎、握り見せてくれよ! どうやって指にかけてたんだ!?」
「肩どうなってんだよ、めちゃくちゃ柔らかいじゃん!」
「頼むから野球部入れよ! お前がいれば、今年の夏は本気で甲子園狙えるぞ!」
口々に飛び交う熱狂的な言葉に、城ヶ崎の顔は赤くなったり青くなったりと目まぐるしく変わっていた。
昨日まで誰にも注目されず、教室の隅でひっそりと息を潜めていた帰宅部の少年が、たった一球でグラウンド中の英雄に祭り上げられている。その急激な環境の変化に、彼の処理能力は完全に限界を迎えていた。
一方で、部員たちの視線の半分は、俺のところへも突き刺さっていた。
「……なぁ、それよりさ」
「あの女の子、何者なんだよ……?」
「あんな球、普通の人間ならミットごと弾き飛ばされるぞ……」
副主将が、恐る恐る俺の顔を覗き込んできた。
「おい、姫宮さん……だっけ? お前、手は大丈夫なのか? 怪我してないか?」
「ええ、全然問題ないですよ。ちょっと手のひらが赤くなったくらいです」
俺はミットを外し、少し赤みを帯びた左手を軽く振ってみせた。
実際には手のひらの芯がジンジンと熱く脈打っていたが、前世で浴びるほど受けてきた剛速球の衝撃に比べれば、この程度はかすり傷にもならない。
「問題ないって……あんな球を平然と捕球する女子高生がどこにいるんだよ……。お前、何か野球やってたのか?」
「いえ、ボクは水泳とか陸上とか、いろいろな競技をかじってただけです。球をよく見て、受ける瞬間に腰を落とすコツを知ってたので、うまく衝撃を逃がせただけですよ」
適当に当たり障りのない説明を並べると、先輩たちは「コツってレベルじゃねえだろ……」と引き攣った顔で顔を見合わせていた。
女子の身体に生まれ変わってから、骨格の細さや絶対的な筋力の限界には嫌というほど絶望してきた。
だからこそ、その体をいかに効率よく使うかということに関しては、手慣れたものだ。
「城ヶ崎」
主将が、改めて城ヶ崎の前に立ち、真剣な眼差しで見つめた。
「頼む、野球部に入ってくれ。お前が未経験だろうが、体力がなかろうが関係ない。走力も、スタミナも、守備の基本も、俺たちが一から全部叩き込んでやる。お前のその右腕は、絶対に高校野球の舞台で輝くべき才能だ」
「キャ、キャプテン……」
城ヶ崎は助けを求めるように俺を見た。
未知の世界への恐怖と、生まれて初めて必要とされた喜びが、その瞳の奥でせめぎ合っていた。
「城ヶ崎君」
俺は一歩歩み寄り、城ヶ崎の横顔を見つめた。
「やってみなよ。体験入部からでいいんだから。君のその右腕がどこまで通用するのか、試してみる価値はあると思うよ」
「姫宮さん……」
俺の言葉に、城ヶ崎は小さく息を呑んだ。
それから、自分の右手をぎゅっと強く握り締め、周囲の先輩たちを見渡した。
「……俺、本当に何もできないですよ。走るの遅いし、ルールもあんまり詳しくないし……練習についていけなくて、迷惑かけるかもしれないです。……でも、よろしくお願いします」
「そんなもん、しばらくやってりゃどうとでもなる!」
主将が破顔し、城ヶ崎の背中をバシィンと豪快に叩いた。
「よし! 決まりだ! 今日からお前は野球部の仲間だ!」
「うわぁっ……!」
城ヶ崎が前のめりによろめき、部員たちの歓声がグラウンドに響き渡った。
先輩たちがわっと城ヶ崎を取り囲み、使えそうなグラブや練習着のサイズについてあれこれと世話を焼き始めている。
さっきまで怯えていた城ヶ崎は、揉みくちゃにされながらも、どこか誇らしそうに照れ笑いを浮かべていた。
その光景を眺めながら、俺は手にした捕手用ミットの埃をパンパンと払い、用具棚へと丁寧に返却した。
「姫宮」
背後から声をかけられ、振り返ると、主将が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「あいつを連れてきてくれて、本当にありがとうな。……ところで、姫宮はマネージャーに興味はないか?」
「マネージャー、ですか?」
「ああ。あいつはお前に心を開いてるみたいだし、お前がベンチにいてくれればあいつも百人力だと思うんだ。それに、さっきの捕球といい、お前、ただの素人じゃないだろ。選手たちの動きを見る目も確かだし、もし入ってくれたらめちゃくちゃ助かるんだが」
主将の言葉は、本心からの真摯なものだった。
けれど、その熱を受け止めた瞬間、胸の奥に冷たいものが引っかかり、足がすくむ。
もう一度あの勝負の場へ戻る覚悟など、今の俺には持てそうになかった。
俺は笑みを作って首を横に振る。
「お気持ちは嬉しいですけど、遠慮しておきます。ボクは帰宅部でのんびり過ごすって決めてるので」
「そうか……残念だな」
「とりあえず、ボクにできるのは今のところここまでですから。あいつの背中を押して、このグラウンドに連れてくるまでがボクの役目でしたし」
俺はグラウンドの奥で、先輩たちに囲まれてあたふたしている城ヶ崎を見つめた。
「あいつは確かに怪物ですけど、中身はただの運動嫌いな素人です。基礎体力もなければ、フォームの再現性もまだ不安定ですし、無理をさせればすぐに肩や肘を痛めかねません。ですから、キャプテン。あいつの身体のこと、ちゃんとした練習メニューで守ってあげてくださいね」
「……分かってるよ。あんな至宝、壊してたまるか。基礎からみっちり、無理のないペースで育ててみせるさ」
主将は力強く頷いてくれた。
「でも、時々練習は見に来ますね。城ヶ崎君がちゃんとやってるか、サボって逃げ出してないか見張りに来ますから」
「ああ、大歓迎だ。いつでもグラウンドに来てくれ。お前の居場所も、ここにはいつでもあるからな」
主将は白い歯を見せて笑った。
遠くで、内野の土を均していた城ヶ崎が、こちらに気づいて控えめに手を振ってきた。
俺は片手を軽く上げ、ひらひらと振り返してやった。
城ヶ崎が一瞬嬉しそうに目を細め、すぐに先輩に呼ばれて慌てて駆け出していく。
よし。
これで、あいつの居場所はできた。
俺は踵を返し、夕暮れに染まり始めたグラウンドを後にした。
***
姫宮さんが手をひらひらと振り返し、グラウンドを出ていく後ろ姿を、俺はぼんやりと見送っていた。
夕日に照らされた長い黒髪が、風にさらさらと揺れていた。
小さくて、華奢で、どこからどう見ても守られる側の普通の女子高生だ。
それなのに。
俺の心臓は、さっきから壊れた鐘のように激しく鳴り響いて、一向に落ち着いてくれなかった。
「おい城ヶ崎ー! 次は外野の芝生で軽くランニングだ! 無理しなくていいから、自分のペースで走ってみろ!」
「は、はいっ!」
先輩に大声で呼ばれ、俺は貸してもらった部のグラブをベンチに置き、慌てて外野へと駆け出した。
少し使い込まれた革の感触と、手に残るずっしりとした確かな重み。
夢でも見ているんじゃないだろうか。
今朝までの自分を思い出す。
高校に入学してからも、誰とも話さず、友達もできず、放課後はまっすぐ家に帰ってゲームをするだけの退屈な毎日。体育の授業では目立たないように列の後ろに隠れて、息を殺して過ごしていた。
何かを期待されたこともなければ、誰かに必要とされたことなんて一度もなかった。自分はそういう、何の取り柄もない日陰の人間なのだと、何の疑問も抱かずに諦めていたのだ。
それなのに。
「城ヶ崎、体でかいな! 体の使い方はまだまだだが、鍛えていけばすぐ伸びるぞ!」
「あいつ、マジでダイヤの原石だろ……。体力さえつけば、夏には実戦で投げられるかもしれん」
「おいおい、焦らせるなよ。まずは怪我させないように、じっくり身体を作ってやるんだからな」
並んで走る先輩たちが、汗を流しながら楽しそうに言葉を交わしている。
その視線には、さっきまでの一年坊に対する侮りや冷たさは微塵もなかった。
信じられないくらい温かくて、真剣な期待の目。
それが全部、自分に向けられている。
苦しくて息が上がり、足がもつれそうになるのに、胸の奥から熱いものがこみ上げてきて止まらなかった。
全部、あの子のおかげだ。
走りながら、俺の脳裏にはさっきの光景が何度も何度もリプレイされていた。
自分なんかが足を踏み入れていい場所じゃないと怯えて、逃げ出そうとしていた俺。
周囲から素人だと見下されて、恥ずかしさで消えてしまいたかった俺。
そのとき、姫宮さんは怒ってくれたのだ。
あんなに華奢な身体で、怒鳴りつける先輩たちの前に立ちはだかり、土の上にどっしりとキャッチャー座りをして。
防具もつけない制服姿で、分厚いミットを構えて。
『ボクを誰だと思ってるの? 君の球を後ろに逸らすわけないでしょ。どんな暴投が飛んできたって、絶対に全部ボクが捕ってあげる』
あの凛とした声。
夕暮れの風の中で、まっすぐに俺だけを射抜いていたあの瞳。
どうして、あんな綺麗な子が、俺なんかのためにあんな無茶をしてくれたんだろう。
どうして、自分すら知らなかった俺の力を、あんなに迷いなく信じてくれたんだろう。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛くて、熱かった。
あんな風にまっすぐ見つめられて、信じていると言われたら、どんな男だって逃げ出せるわけがない。
腕を振るしかなかった。
情けないところを見せたくなくて、あの子の信頼に応えたくて、無我夢中で投げたあの一球。
ミットに吸い込まれた白球の轟音と、立ち上がった彼女が浮かべた、あの誇らしそうな満面の笑顔。
『でも、時々練習は見に来ますね。城ヶ崎君がちゃんとやってるか、サボって逃げ出してないか見張りに来ますから』
去り際に彼女が言った言葉が、耳の奥で何度もこだましていた。
見に来てくれるんだ。
また、あの子がこのグラウンドに、俺を見に来てくれる。
その事実を噛み締めた瞬間、肺が破裂しそうなほど苦しかったのに、重かったはずの足が不思議と前に進んだ。
もっと、頑張らなきゃ。
外野の芝生を蹴りながら、俺は汗で滲む夕空を見上げた。
走るのも苦手だし、練習はきついし、筋肉は悲鳴を上げている。
でも、もう逃げ出したいなんて思わなかった。
次に姫宮さんが練習を見に来てくれたとき、情けない姿は見せたくない。
少しでも格好いいところを見せたい。あの子が信じてくれた右腕で、もっとすごい球を投げて、驚かせてやりたい。
何もなかったはずの放課後の時間が、生まれて初めて、眩しい色に輝いて見えていた。
***
翌朝。
教室の引き戸を開けた瞬間、俺は思わず足を止めた。
窓際の席に座っている城ヶ崎が、まるで錆びついたブリキの人形のように、ぎこちない動きで机に突っ伏していたからだ。
背中を丸め、肩をすくめ、小さく呻き声を漏らしている。
「うぅ……い、痛い……身体中が痛い……」
見事なまでの筋肉痛だった。
俺は鞄を肩にかけたまま、城ヶ崎の机の横へと歩み寄った。
「おはよう、城ヶ崎君。すごい格好だね」
「ヒィッ……! ひ、姫宮さん……!」
城ヶ崎が飛び起きようとして、激痛に顔を歪めて途中で動きを止めた。首の筋まで引き攣っている。
「だ、だめだ……首も肩も背中も、全部ギシギシいってる……。階段上るだけで太ももがプルプル震えるし、鞄持つのすら辛いよ……」
「あはは、普段使わない筋肉を急に動かしたからね。慣れない練習で、あちこち痛くなったんだよ」
「笑い事じゃないって……。先輩たちは無理すんなって気を使ってくれたのに、軽く走って体操しただけでこのザマだよ。俺の体、情けなさすぎて泣けてくる……」
城ヶ崎は涙目で恨めしそうに俺を見上げてきた。
だが、その表情には、昨日までの暗く卑屈な影は微塵もなかった。全身が悲鳴を上げているはずなのに、その瞳の奥には、確かな充実感の光が灯っている。
「ちゃんとお風呂で湯船に浸かって、ストレッチした?」
「そんな余裕なかったよ……。家に帰ってご飯食べたら、そのままバタンキューだったし……」
「まあ、しっかり寝たのはいいけどさ。今日も無理は禁物だよ」
俺は呆れたように息を吐くと、城ヶ崎の右肩と首筋の付け根にすっと手を伸ばした。
ブレザーの上から、肩と背中の張りを指先で確かめる。
「うわっ、カチコチだ。ここ、すごく張ってるでしょ」
「ひゃあっ……!? ひ、姫宮さんっ!?」
城ヶ崎が悲鳴のような裏返った声を上げ、ビクンと全身を跳ねさせた。
一瞬にして顔面から耳の裏、首筋までが茹で上がったタコのように真っ赤に染まる。
「ちょ、ちょっと! 近い、顔が近いって! それに教室で急に触らないでよ! みんな見てるから……っ!」
「筋肉の張りを確かめてるだけじゃないか。そんなことでいちいち動揺してたら、まともなケアもできないよ」
俺はまったく気に留めず、肩の後ろにそっと指を当てた。
「あいたたたっ!? 痛い痛い痛い! そこ痛いって!」
「はは、揉んでほぐすのはやめとくよ」
城ヶ崎が真っ赤になって机にしがみつく。
教室のあちこちから、クラスメイトたちのざわめきと好奇の視線が突き刺さってくるのが分かった。
「おい、見ろよ……」
「城ヶ崎のやつ、朝から姫宮さんにめちゃくちゃ距離詰められてないか……?」
「あいつら、いつの間にあんな仲良くなったんだよ」
「っていうか城ヶ崎、昨日野球部に入ったらしいぞ。なんかグラウンドでとんでもない剛速球投げて、先輩たちをビビらせたって噂だ」
「マジで!? あのおとなしい城ヶ崎が!?」
ひそひそと交わされるクラスメイトたちの会話に、城ヶ崎はいたたまれなくなったのか、両手で真っ赤な顔を覆い隠して机に突っ伏してしまった。
「うぅ……目立つ……恥ずかしくて死にそう……」
「別に恥ずかしがることなんて何もないでしょ。君の実力なんだから、堂々としてればいいんだよ」
俺は満足して手を離し、自分の席へと腰を下ろした。
城ヶ崎は指の隙間から恐る恐るこちらを覗き見ると、小さく息を吐いて呟いた。
「……でもさ」
「ん?」
「野球……ちょっとだけ、楽しかったよ」
消え入りそうな、けれど確かな温もりを帯びた声だった。
「走るのは死ぬほどきつかったし、身体中痛いけど……先輩たちが、俺の投げた球を見て、すごいすごいって褒めてくれてさ。あんな風に誰かに認めてもらえたの、生まれて初めてだったから」
城ヶ崎は照れくさそうに頭を掻き、はにかむような笑みを浮かべた。
「姫宮さんが、無理やりでも連れていってくれなかったら、俺、ずっと何もないままだったと思う。……ありがとう、姫宮さん」
まっすぐな、純粋な感謝の瞳。
その曇りのない笑顔を向けられた瞬間、俺の胸の奥が、トクンと小さく跳ねた。
柄にもなく、少し気恥ずかしいような、くすぐったいような感情がこみ上げてくる。
「……礼なんていいよ。ボクは、君のあの球が見たかっただけだから」
俺はそっぽを向き、素っ気ない声で返した。
前世でも今世でも、他人にこんな風に感謝されたことなどほとんどなかった。いつも自分の記録のため、自分の勝利のためだけにストイックに身体を追い込んできた俺にとって、誰かの成長のきっかけになり、感謝されるという感覚は、あまりにも新鮮で、どこか眩しすぎた。
「今日も放課後、練習あるんだろ? 無理しすぎないようにね。水を飲んで、投げた後に肩を休ませるのも忘れないこと」
「うん、分かった!」
城ヶ崎は元気に頷いた。
昨日までの頼りない帰宅部の少年は、もうそこにはいなかった。少しずつ、けれど確実に、アスリートとしての魂がその身体に宿り始めていた。