高校に入学して最初の一週間が終わろうとしていた、ある日の放課後。
六時間目の終了を告げるチャイムが校舎内に響き渡ると同時に、教室のスピーカーからポーンという気の抜けた電子音が流れた。
『生徒会より全校生徒にお知らせします。これまでの自由見学期間を終え、本日放課後より、新入生に対する各部活動の勧誘活動が正式に解禁となります。各部の皆さんは節度を守り、中庭および各活動場所の所定のスペースにて勧誘を行ってください。なお、校舎内での無理な引き留めや暴力的な勧誘行為は固く禁止されています』
アナウンスが終わるや否や、教室のあちこちから椅子を引く音と、待ちわびていたような歓声が上がった。
「よっしゃ、やっと解禁か!」
「どこ見に行く? やっぱり最初はサッカー部かな」
「私、軽音部見に行きたい! 中庭で演奏するらしいよ」
「女子バスケ部も体験やってるって言ってたよね」
真新しい制服に身を包んだクラスメイトたちが、パンフレットや友達同士の会話に花を咲かせながら、足早に教室を飛び出していく。
高校生活の彩りといえば、やはり放課後の部活動だ。青春の汗を流す運動部か、趣味を極める文化部か。誰もが期待と不安を胸に、新しい居場所を探しにいく。
だが、後ろから二番目の席に座る俺にとって、それはまったく別世界の話だった。
俺は机の上のノートを揃え、筆箱と一緒に手早くスクールバッグへと収めると、小さく息を吐いて背もたれに寄りかかった。
関係ないな、と俺は思う。
表向きは帰宅部でのんびり過ごすのが、俺の決めた高校生活の方針だった。
野球部へ入った城ヶ崎の基礎練習は部に任せて、走り方や投げ方の細部だけを個人的に見てやる。その程度の関わり方こそが、今の俺にとって最も身の丈に合った平和な余生の過ごし方だと考えている。
「よし、混雑に巻き込まれる前にさっさと帰るか」
俺はスクールバッグを肩にかけ、席を立った。
教室の中庭側の窓からは、すでにテントや長机を並べて準備を整えている上級生たちの姿が見えていた。吹奏楽部が金管楽器の音出しをし、譜面台やドラムセットを慌ただしく並べている。
あの喧騒に巻き込まれたら、帰宅するだけで余計な体力を使ってしまう。校舎の裏手を通るルートで、静かに裏門へと向かうのが得策だろう。
そう思って教室の引き戸を開け、廊下へと足を踏み出したときだった。
「いたぞ! 一年二組から出てきた!」
鋭い叫び声が、廊下の前方から突き刺さってきた。
ん?
俺が足を止める間もなく、ドタドタと床を激しく踏み鳴らす重い足音が響き渡る。
角を曲がって現れたのは、蛍光イエローのランニングシャツを着た集団だった。引き締まった褐色の肌、無駄な肉のない細身の脚。陸上部の短距離ブロックの先輩たちだ。
先頭を走る女子の先輩の手には、『祝・全国大会出場! 陸上部へようこそ!』と極太の油性ペンで殴り書きされた模造紙が握られていた。
「西中学校出身の姫宮ほのかさんね!? ちょっと待って!」
「えっ? ボクですか?」
俺が自分の胸に指を当てて瞬きをした瞬間、背後からもバタバタと慌ただしい足音が迫ってきた。
「ちょっと陸上部、抜け駆けしないでよ! 姫宮さんは西中で水泳も全国出てるの! 自由形の記録、うちの歴代校内記録より速いんだからね。水泳部なら夏場の大会だけでいいし、コースも一本専用で使わせてあげるから!」
「水泳部ずるい! 姫宮さんにはこっちが先に話しかけたのよ!」
陸上部が怒声を上げたところへ、さらに横から体格のいい女子部員が巨躯を滑り込ませてきた。柔道部だ。引き手の握力が強そうな、節くれだった指をしている。
「姫宮さん!! 柔道も強いやろ! 軽量級、全国の一回戦で惜しくも負けたって聞いたで。うち、今女子が一人足りんで団体戦に出られへんねん。道着着て畳の上に立ってくれるだけでええから! 名前貸してくれるだけでええから!」
「名前貸すだけって何よそれ! 勧誘のルール違反でしょ!」
「うるさい、こっちは廃部の危機なんじゃ!」
三方向からの熱烈な怒号とラブコール。
四方八方から突き出される、色とりどりのチラシ、入部届、油性マジック、果ては高級そうなエナジードリンクまで。
押し寄せる筋骨隆々の男女の熱気と汗の匂いに包まれ、俺の視界は一瞬にしてユニフォームの原色で埋め尽くされた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 落ち着いてください!」
俺は両手を胸の前に突き出し、できるだけ大きな声で制止を試みた。
「ボクはどこの部活にも入るつもりはありません! 放課後はまっすぐ家に帰る予定なんです!」
だが、その言葉は火に油を注ぐ結果にしかならなかった。
「帰宅部!? 嘘でしょ!?」
「あの西中の怪物が帰宅部なんて許されるわけがない!」
「中学であれだけの記録を出しておいて、高校で遊んで暮らす気か!?」
「もったいない! 国家レベルの損失だ!」
「いや、国家の損失って……大げさすぎますって!」
「大げさなもんか! 頼む、名前だけでもいいから入部届に書いてくれ!」
「週一の練習でいい! 大会のときだけユニフォームを着てくれればいいから!」
「いやうちだ! うちのほうが優遇するぞ!」
もみくちゃだった。
引っ張られるブレザーの裾、あちこちから掴まれるスクールバッグ。
四方八方から伸びてくる無数の手が、俺の腕や肩を掴もうと群がってくる。
先輩たちの目は血走り、獲物を取り合う肉食獣の群れそのものだった。
生徒会のアナウンスで言っていた「無理な引き留めや暴力的な勧誘行為は禁止」という言葉は、一体どこの異次元へ消え去ってしまったのか。
このままでは押し潰されるか、どこかの部室へ力ずくで連行されて、無理やり入部届に拇印を押させられる羽目になる。
(……話し合いで解決できる段階は、完全に過ぎたな)
俺は奥歯をグッと噛み締めた。
平和的な対話が通じない相手には、実力行使で切り抜けるしかない。前世の厳しい部活動の現場で培った危機管理能力が、瞬時に警告を発していた。
俺は深く息を吸い込み、下腹に意識を向けた。
全身の無駄な力を抜く。
肩の力を抜き、膝をわずかに緩め、足裏全体で床の感触を捉える。
押し寄せる先輩たちがどちらへ傾いているか、どこへ腕を伸ばすか、どれだけ息が乱れているか。まるでコマ送りのように鮮明に見え始めた。
まず、正面からがっちりと組み止めようと両腕を広げてきた柔道部の女子の先輩。
引き締まった体格を活かした前傾姿勢、完全に捕らえにかかる体重移動。
俺は一歩だけ前に踏み出すフェイントを入れ、相手が反射的に抱え込もうと腕を閉じた瞬間、すっと上半身を右斜め前へと滑り込ませた。
相手の懐の内側、最も力が作用しない死角のスペース。
そこへ自分の肩を滑り込ませ、相手の腕の下を潜り抜けるようにして身体を回転させる。
「なっ……!? 消えた!?」
空振りを喫した柔道部員が、自分の勢いを殺しきれずに前のめりに床へ手をついた。
俺は一気に廊下の左側へとステップを踏む。
「あっちだ! 逃げる気だぞ!」
「逃がすな! 通路を塞げ!」
左右から、陸上部と水泳部の先輩たちが挟み込むようにして腕を伸ばしてきた。
左右の退路は完全に塞がれている。普通なら立ち往生するしかない挟撃だ。
だが、俺の思考は止まっていなかった。
視線を上に走らせる。
廊下の壁際には、清掃用具入れのロッカーと、頑丈な消火器ボックスが並んでいた。
タンッ、と。
俺は消火器ボックスの角に右足の上履きを引っかけ、そのまま軽やかに跳躍した。
小柄な女子の身体だからこそ可能な、圧倒的な身軽さ。
挟み込んできた先輩たちの頭上を、俺のスカートがさらりと飛び越えていく。
「うわああああっ!? 跳んだァ!?」
「嘘だろ!? あんな細い脚でどれだけ跳躍力あんだよ!?」
先輩たちの頭越しに着地した瞬間、俺は床を強く蹴り、前傾姿勢のまま一気にトップスピードへと加速した。
目指すは、渡り廊下を通って靴箱のある玄関へ抜けるメインストリート。
だが、前方の渡り廊下の入り口には、すでに騒ぎを聞きつけたバスケ部とバレー部の部員たちが二重の人垣を作って待ち構えていた。
「そこを通すわけないでしょ! 捕まえなさい!」
高身長の女子バレー部員たちが、両手を広げてブロックの姿勢を取る。
横幅は完全に塞がれている。力づくで突破しようとすれば、体格差で押し戻されるのは目に見えていた。
(だったら、横に抜けるまでだ!)
俺は渡り廊下の直前で鋭く踏み込み、右足を外側へ出して上体を大きく傾けた。
バレー部のブロック陣が一斉に右へつられた、まさにその刹那。
強く床を蹴り、急激な反動を使って左方向へと切り返す。
逆へ抜け出た俺の動きにブロック陣は対応できず、互いに足をもつれさせて折り重なるように倒れ込んだ。
その隙間を、俺は風のようにすり抜ける。
「速えええええっ!? なんだあの切り返し!?」
「追え! 追ええええっ! 中庭に連絡しろ! 正面玄関に回るぞ!」
背後から響く阿鼻叫喚の怒号を置き去りにし、俺は渡り廊下を駆け抜けて中庭へと飛び出した。
だが、中庭は中庭ですでに戦場と化していた。
校内放送の解禁アナウンスからわずか数分。中庭にひしめき合っていた各部のブースは、廊下での大騒動を聞きつけた連中によって大混乱に陥っていたのだ。
「姫宮が中庭に来たぞーっ!」
「確保しろ! ブースの前にロープを張れ!」
「卓球部も女子の即戦力が欲しいの! あの反射神経をうちによこせ!」
「バドミントン部に来なさい! そのフットワークなら1年から団体戦メンバーよ!」
もはや運動部総出の包囲網だった。
芝生広場の通路には長机や看板がバリケードのように配置され、四方からユニフォーム姿の先輩たちが網を狭めるように迫ってくる。
一般の新入生たちは「な、何が起きてるの……?」「誰か追われてるの……?」と恐怖に引き攣った顔で中庭の端へと避難していた。
「まったく……どいつもこいつも、人の迷惑を考えてくれないかな!」
俺は悪態をつきながら、芝生の感触を確かめた。
土と芝生の混ざった地面は、廊下の床に比べて滑りやすい。足裏でしっかり捉えれば、急に止まることも、すぐさま走り出すこともできる。
正面から、女子バスケ部の二名が低く腰を落とし、ディフェンスのように進路を塞ぎにかかってきた。
「姫宮さん! バスケ部に入って! 絶対に逃がさないから!」
「お断りします!」
俺は立ち塞がる二人の間、わずか五十センチほどの隙間を真っ直ぐ見据えた。
ぶつかる直前、腰を地面すれすれまで低く落とす。
二人が両手を広げてコースを塞ごうとした瞬間、俺は右肩をわずかに引いて身をねじり、相手の腕の隙間を潜り抜けるようにして滑り込んだ。
ユニフォームが擦れ合う音が耳元で鳴り、空振りを喫した二人はバランスを崩して互いに激突し、「きゃっ!」「ちょっと邪魔!」と芝生の上に転がっていった。
「す、すり抜けた……!? あんな狭いところを!?」
「バケモノかよあの子……!」
どよめく周囲の声を背に、俺は中庭の中央に置かれていた勧誘会進行用の朝礼台に目を留めた。
朝礼台の向こうには、玄関へと続く舗装路がある。だが、朝礼台の左右はすでに卓球部とバドミントン部の先輩たちによって塞がれていた。
なら、上を通るしかない。
逃げ回るうちに上がりきった息を噛み殺し、俺は勢いを落とすことなく朝礼台の手前で無理やり踏み切った。重くなった太ももが悲鳴を上げる。
金属製の朝礼台の天板に片足を乗せ、ふらつきそうになる脚に力を込め、さらに宙へと跳び上がった。
夕日に照らされた校舎を背景に、視界が一気に開ける。
眼下で驚愕に目を見開く先輩たちの顔や、呆然と口を開けた新入生たち。けれど浮遊感を味わう余裕なんてなかった。息は浅く速くなるばかりで、もう何度もこんな跳び方はできそうになかった。
舗装されたアスファルトへ落ちるように着地した瞬間、鈍い衝撃が足首から腰へと突き抜けた。膝を曲げてこらえ、よろめく身体を強引に前傾姿勢へとねじ込んでダッシュへ繋げる。重くなった両脚を力任せに前へ振り出した。
だが、正門までの道に躍り出た瞬間、左右の通路から新たな足音が雪崩れ込んできた。
「いたぞ! 中庭を突破された!」
「捕まえろ!! 絶対に逃がすな!」
女子バレー部とバスケットボール部の先輩たちだった。渡り廊下で撒いたはずの連中が、外回りで先回りしていたのだ。
振り返れば、朝礼台の向こうから陸上部と水泳部が怒涛の勢いで芝生を越えて迫ってくる。
完全に包囲されていた。
俺は瞬時に方向を変え、体育館と部室棟のあいだへ続く狭い裏通路へと滑り込んだ。
もう限界が近い。心臓が焼けるように熱く、肺が悲鳴を上げていた。
女子の肉体は前世の感覚よりも明らかに底が浅く、息が続かず、太ももが鉛のように重くなっていた。
息が保つのはあと数十メートルといったところだ。
どこかに隠れられないか。
焦りながら通路の角を曲がった、その瞬間だった。
ぐいっ、と腕を強く引かれた。
「うわっ……!?」
反射的に身構えようとしたが、相手はそのまま俺の身体を壁際の陰へと引きずり込んだ。
視界に飛び込んできたのは、見覚えのある顔だった。
「しっ、静かにしろ!」
城ヶ崎だった。城ヶ崎は部室棟の壁際に置かれていた大型のスチールロッカーの扉を勢いよく開けた。
中にはグラウンド整備用のトンボや石灰袋が詰め込まれていたが、それらを強引に奥へ押し込み、俺の背中を押して一番奥の隙間へ滑り込ませる。
「入れ、早く! 隠れてろ!」
自分だけ外に残ろうとする城ヶ崎の手を、俺はとっさに掴み返した。
校内中を逃げ回ったせいで喉が張り付き、息が途切れて言葉にならない。喘ぐような呼気が漏れるばかりで、一言も声が出せなかった。
城ヶ崎だけがロッカーの前に立っていれば、追ってきた先輩たちにすぐ怪しまれる。
説明している余裕などどこにもない。俺は残った力を振り絞り、城ヶ崎の袖を掴んで狭いロッカーの中へと力任せに引きずり込んだ。
「うおっ、おい姫宮!? 何すん――」
足をもつれさせた城ヶ崎がロッカーの中へ踏み込み、とっさに背後の扉へ手を伸ばして引き寄せた。
ガタン、と鈍い金属音を立てて扉が閉まる。
その瞬間、怒涛の足音が通路を駆け抜けていった。
「あっちだ! 裏門へ回ったぞ!」
「急げ、校門に先回りしろ!」
激しい靴音と怒号が、薄い鉄板のすぐ外側を通り過ぎていく。
ロッカーの奥に背中を押し付けられた俺のすぐ目の前には、扉側に立った城ヶ崎がいた。
二人で入るにはあまりに狭く、逃げ場のない鉄の箱の中で互いの身体が隙間なく密着している。
扉の隙間からかすかに光が差すだけで中は薄暗く、小さな通気口だけでは熱が逃げていかなかった。
汗を含んだ制服と荒い息のせいで、密閉された空間に湯気でも立ち込めるような息苦しい湿気が充満していく。
隅に押し込まれた道具についた土と古い鉄の匂いに、汗の湿った臭いが重なって鼻の奥にまとわりついた。
吸い込んでも吸い込んでも空気が足りず、小刻みに震える肩が大きく上下する。そのたびに、目の前で身を縮めている城ヶ崎の身体にぶつかった。肩の向きを変える隙間もなく、汗を拭うにも腕がつかえた。
漏れ出そうになる激しい呼気を必死に抑えようと唇を固く結ぶが、熱を帯びた息が鼻から浅く抜け、至近距離にある城ヶ崎の首元をかすめてしまう。
額から噴き出した汗が目に入りそうになり、こめかみを伝って顎の先からぼたぼたと垂れていく。
顎先から零れた熱い雫が、城ヶ崎の胸元にぽつりと染みを作った。謝ろうにも喉が引きつって声が出ない。巻き込んでしまった申し訳なさに、俺は胸の奥で小さく詫びるしかなかった。
扉に背を預けた城ヶ崎も、物音を立てまいと固まったまま動かない。ロッカーの中にこもる濃密な熱気と俺の荒い呼吸をもろに浴びながら、顔を背けるようにしてじっと耐えていた。
外を通り過ぎる足音は、やがて遠ざかっていった。
通路の物音が消え、ロッカーの外に完全な静寂が戻る。
それでも俺はすぐに口を開くことができなかった。
ロッカーの奥壁に後頭部を預けたまま、熱を持った空気を少しずつ吐き出し、浅く乱れていた呼吸を時間をかけて整えていく。
激しく波打っていた肩の上下が小さくなり、喉の奥の引きつりもようやく治まってきた。
完全に息を落ち着かせた俺は、ようやく安堵の息を漏らした。
「……ふう。助かったよ、城ヶ崎君。ナイス判断」
目の前にある城ヶ崎の顔を見ながら小声で言う。
だが、城ヶ崎の様子がおかしい。
扉に背を押し付け姿勢のまま視線を逸らし、俺の顔を直視しようとしない。
「お、おい……姫宮……」
「ん? どうしたの? まだ外に誰かいる?」
「ち、違う……そうじゃなくて……近いんだよ!」
「狭いんだから仕方ないでしょ。贅沢言わないでよ。外に一人で立ってたら、怪しまれて絶対捕まってたって」
「仕方ないって、お前な……引きずり込むなら一言言え!」
「言いたかったけど、息が切れて声が出なかったんだから仕方ないじゃん」
「……っ、それにしても限度があるだろ!」
城ヶ崎は逃げ場のない狭さの中で必死に顔を背け、ロッカーの天井を睨みつけるようにして息を止めた。
視線をどこへ落としていいのか分からず、困惑しきっているのが痛いほど伝わってくる。
「それより城ヶ崎君、どうしてこんなところにいたの?」
「……野球部の先輩に、勧誘の手伝いに連れてこられたんだよ。それで、追加のチラシとパイプ椅子を部室から運んでこいって。そしたら中庭がとんでもない騒ぎになってて、お前が追われてるのが見えたから」
「そうだったんだ。ボクのせいで巻き込んじゃって悪かったね。でも本当に助かったよ」
通気口の隙間から外の様子を窺うと、遠くで響いていた足音は完全に消え去り、各部の掛け声や歓声だけがグラウンドの方角から聞こえていた。
もう大丈夫だろう。俺が合図を出すと、城ヶ崎がおずおずとロッカーの扉を押し開けた。
太陽の光が一気に差し込み、舞い上がった埃を黄金色に染め上げる。
「ふはーっ、生き返った」
俺はロッカーから転がり出るように外へ降り立ち、大きく息を吸い込んだ。
手早くブレザーの裾を払い、額の汗を袖で拭う。
「城ヶ崎君、本当にありがとう。この借りは今度絶対返すから」
「あ、ああ……べつに、気にすんな」
ロッカーから出てきた城ヶ崎は、壁に手をついたまま顔を背けていた。走ったわけでもないのに、額にじっとりと汗を浮かべている。
「大丈夫? 顔が真っ赤だよ。どこかぶつけた?」
「なんでもねえって! いいから早く帰れ。先輩たちが見回りに戻ってくるぞ」
「おっと、そうだね。じゃあまた明日!」
俺は軽く手を振ると、今度こそ見つからないよう、校舎の裏手を伝って裏門へ向かった。
薄暗くなり始めた通学路を歩きながら、胸の奥に残った奇妙な高揚感を振り払う。
暑苦しい連中だ。
あそこまで必死になって、なりふり構わず一人の新入生を奪い合おうとするなんて、普通に考えれば正気の沙汰ではない。
けれど、あの先輩たちのギラギラとした目の輝き、汗の匂い、なりふり構わない必死さ。
それはかつて、自分が前世で青春のすべてを捧げていたあのスポーツの現場の熱気そのものだった。
どれだけ泥臭くても、どれだけ格好悪くても、勝利や上達のために全力を尽くす人間の熱量は、いつだって眩しい。
「それはそれ、これはこれだけどね」
明日からは教室を出る時間をずらすか、あるいは別の脱出ルートを開拓しなければならないだろう。
こうして、姫宮ほのかの部活勧誘包囲網からの脱出劇は、城ヶ崎に助けられ、辛くも逃げ切るという形で幕を閉じたのだった。