高校に入学して一週間。俺が掲げていた高校生活の目標は、至極シンプルで控えめなものだった。
目立たず、騒がず、日陰の席で平穏に過ごすこと。
放課後は部活に縛られず静かに過ごし、城ヶ崎の走り方や投げ方をたまに個別で見てやるくらいがちょうどいい。余計な波風を立てるつもりは毛頭なかった。
だが、現実はどうだ。
ガラガラと音を立てて一年二組の教室の引き戸を開けた瞬間、俺は全身の毛穴がキュッと引き締まるような違和感を覚えた。
静かすぎる。
朝のホームルームまでまだ十五分以上あるというのに、教室の中には異様な緊張感が漂っていた。
席に着いているクラスメイトたちの視線が、一斉に俺のほうへと向けられる。いや、正確には向けられた瞬間に、慌てて逸らされるのだ。そして何人かで身を寄せ合い、こちらの様子を伺うように小声で囁き合っている。
窓際の席に目をやると、城ヶ崎が座っていた。長身を小さく丸めて俯き、俺と目が合いそうになった途端、まるで心臓を撃ち抜かれたかのようにビクッと肩を震わせて窓の外へ視線を逸らしてしまった。耳の先まで真っ赤になっている。
なんだ、この腫れ物に触るような空気は。
俺は自分のブレザーのボタンが掛け違っていないか、スカートがめくれていないかをさりげなく手で確認した。異常はない。髪だって寝癖がつかないよう、毎朝きっちり梳かしている。
となると、原因は昨日の放課後しか考えられない。
新入生の部活勧誘が解禁された途端、運動部の先輩たちが津波のように押し寄せてきて、もみくちゃにされそうになったのだ。包囲網の隙間を縫うようにして逃げ回ったのだが、まさかあの珍事が早くも全校に知れ渡ってしまったのだろうか。
いかんな。もっと脱力して、普通の女子生徒らしく振る舞わなければ。
俺は意識して肩の力を抜き、できるだけ足音を立てないようにして自分の席へと歩いていった。
椅子に腰を下ろし、スクールバッグから今日使う教科書を取り出していると、前の席からカサリと紙の擦れる音がした。
前の席。大きな太ももの大原桃香さんが、配られたばかりのプリントを後ろへ回そうと、おずおずと振り返ったのだ。
いつも明るく話を切り出す女子生徒だと思っていたが、今はまるで名刀の刃先に触れるかのように、強張った面持ちでプリントを差し出してくる。
「あ、あの……姫宮さん、これ。朝のプリント……」
「あ、ありがとう。助かるよ」
俺はできるだけ柔らかいトーンを意識して微笑み、両手でプリントを受け取った。
だが、大原さんはプリントを手渡した後も、前を向こうとしなかった。
指先を机の端に引っかけ、何やら言いたそうに視線を泳がせている。その呼吸は心なしか浅く、まるで大会の決勝前のような緊張感がその小柄な背中から伝わってきた。
「……あの、ね」
「ん? 何かボクの顔についてる?」
「ううん、そうじゃなくて……!」
大原さんは喉を小さく鳴らし、意を決したように周囲をチラリと見回した。
つられて俺も視線を巡らせると、隣の席の女子も、斜め後ろの男子も、誰も彼もが露骨に聞き耳を立てている。教室全体の会話の音量が、不自然なほど一段下がっていた。
「あのさ……昨日の放課後の話、本当なの?」
「話?」
「うん。部活の勧誘が解禁された瞬間に、陸上部と水泳部と柔道部の先輩たちが一斉に姫宮さんに殺到して、廊下から中庭まで大パニックになったって……。しかも、その包囲網を全部かわして、誰も追いつけないスピードで逃げ去ったって聞いたんだけど……」
「あー……」
やっぱりバレていたか、と俺は内心で苦笑した。
あんな目立つ場所で追いかけっこを演じれば、目撃者の一人や二人いてもおかしくない。体育館と部室棟の間の通路にある大型ロッカーに隠れてやり過ごしたことまでは知られていないようだが、逃走劇そのものは隠しようがなかったらしい。
「まあ、ちょっと先輩たちの勢いに圧倒されちゃって、慌てて逃げただけだよ。大げさな噂になってるみたいだね」
「大げさどころじゃないよ! あんな華奢な女の子が、屈強な運動部の先輩たちを神業ステップで置き去りにしたって、放課後からずっと話題になってるんだから! ……っていうか、姫宮さん、本当にどこの部活にも入らないの?」
「え?」
唐突に本題へ切り込まれ、俺は思わず目をパチクリとさせた。
「部活? うん、入らないよ。部活動の希望調査票には帰宅部って書いて出したしね。放課後はまっすぐ家に帰るつもりだけど」
俺が事も無げに答えた瞬間、大原さんが息を呑んだ。
それだけではない。聞き耳を立てていた周囲の生徒たちの間から、ヒュッと息を吸い込むような気配が連鎖的に広がった。
「ほ、本当に帰宅部なんだ……! あんなに先輩たちから引っ張りだこなのに……!?」
「うん」
軽く頷いた俺に対し、大原さんは身を乗り出し、声を一段落として詰め寄ってきた。
「……昨日の勧誘騒ぎを聞いて、中学の先輩が話してた全国選手と同じ人だって思い出したの。姫宮さん、あの西中の姫宮ほのかでしょ!? 陸上でも水泳でも柔道でも、三つの競技で全国大会に出たっていう……あの『西中の怪物』の姫宮さんだよね!?」
思わず胸の奥で嫌な汗が噴き出した。
西中学校。略して西中。俺が先月まで通っていた公立中学校の校名だ。
この高校はスポーツ推薦枠こそ少ないものの、学区内ではそこそこ運動部が盛んな中堅校だ。当然、近隣の西中あたりからスポーツ目的で進学してきた生徒も多い。
過去の経歴が多少知られている可能性は覚悟していたが、まさかそん御大層な二つ名までついているとは思わなかった。
「あー……うん。確かに中学のときは、いろいろ手を出してたけどね」
「いろいろ手を出してたってレベルじゃないよ! うちの中学、運動部の人はみんな、陸上部の子も水泳部の子も、姫宮さんがどこの高校に行くのかずっと気にしてて……なのに、なんでスポーツ強豪校の推薦を全部断って、この高校に来たの!? しかも、なんで運動部に入らないの!?」
大原さんの目は真剣そのものだった。
その瞳の奥には、純粋な驚愕と、理解不能な存在に対する微かな畏れが混ざり合っている。
周りのクラスメイトたちも、完全に自分の作業の手を止め、俺の返答を一言一句逃すまいと注視していた。隣の席の横山さんも、顎に手を当ててじっとこちらを見つめている。
参ったな、と俺は内心で息を吐いた。
世間一般から見れば、複数の競技で全国大会の切符を手に入れた中学生というのは、将来を有望視されたスーパーアスリートに見えるのかもしれない。
だが、当事者である俺からすれば、あれは栄光でも何でもない。むしろ、自分の身体の決定的な限界を思い知らされ、打ちのめされただけの苦い記録に過ぎなかったのだ。
「ええとね……誤解しないでほしいんだけど、ボクにはみんなが思ってるような才能なんてないんだよ」
俺はできるだけ穏やかに、ありのままの事実を伝えようと言葉を選んだ。
「中学のときに勝ててたのは、ただ単に身体の使い方のコツを知ってたからに過ぎないんだ。みんながまだ成長途中のうちは、無駄な力を抜いて、身体の運び方を工夫するだけでも、ある程度までは勝てちゃうんだよ。小手先の技術と反復練習で誤魔化してただけなんだ」
「こ、小手先……?」
「そう、小手先。だから全国大会に行った途端、本物の怪物たちには手も足も出なかった。生まれ持った手足の長さも、足腰の丈夫さも、筋肉の大きさも、全部が段違いだった。ボクのこんな細い身体と短い手足じゃ、どれだけ努力したところで絶対に世界の頂点には届かない。それが分かったから、選手としてはきっぱり諦めたんだよ」
事実、トップレベルの壁にぶつかった人間なら誰でも痛感する現実だ。自分が勝てない以上、これ以上選手を続ける意味は見出せない。頂点に立てない人間がだらだらと部活にしがみつくより、きっぱり引退して別の道を歩むほうがよほど健全だ。
しかし、俺の説明を聞いた大原さんは、ぽかんと口を開けたまま固まってしまった。
それどころか、教室全体がシンと静まり返り、誰もが一言も発せなくなっている。
「……え、あの? 全国大会に行ったんだよね……?」
数秒の沈黙の後、大原さんが引き攣った笑みを浮かべながら掠れた声を出した。
「行ったよ。でも、水泳も陸上も準決勝止まり。柔道なんて全国一回戦で秒殺だった。全然ダメだったよ」
「全国大会で負けたから……才能がない……?」
「うん。だって、勝てないんだから才能がない証拠でしょ。だからボクは、高校ではもう運動部には入らないの。これからは普通の女子高生として、のんびり過ごすつもりだよ」
にこりと微笑んで締めくくると、大原さんはサッと血の気を引かせ、ガタガタと小刻みに肩を震わせた。
「ひ、一回戦で負けたから才能がない……? 小手先で全国三つ……?」
何やら壊れた機械のようにブツブツと呟きながら、彼女は恐ろしいものを見るような目で俺を見つめ、そのままロボットのようなぎこちない動きで前を向いてしまった。
背中越しに、基準がおかしすぎる、あれで才能ないなら世の中の人間はどうなるんだ、という戦慄に満ちた囁き声が聞こえてくる。
あれ?
返答を間違えただろうか。会話を始める前より、よほど腫れ物を触るような雰囲気になってしまった。
「おい、聞いたかよ今の……」
「三競技全国出場を小手先って切り捨てたぞ……」
「マジモンのバーサーカーだろあの子……」
「あんなに小さくて可愛いのに、中身がストイックすぎて怖い……」
生徒たちのひそひそ声が耳に届き、俺は小さく首を傾げた。
少し前に、大原さんの太ももとふくらはぎの筋肉の付き方を褒めて激怒されたときの記憶が蘇る。あのときも良かれと思って見事な下半身の仕上がりを称賛したのに、なぜか酷く気まずい空気になった。どうやら俺の言動は、世間一般の女子高生たちと噛み合わないことが多いらしい。
そこへ、前方の引き戸がガラリと開き、担任の男性教師が入ってきた。
三十代半ばの、くたびれたジャージ姿。担当教科は社会科だが、学年主任も兼ねているベテランだ。
教卓の上に書類の束をドサリと置くと、担任は教室を見渡し、開口一番に深いため息を吐き出した。
「おい、朝のホームルームを始めるぞ。席に着け……それから、姫宮」
「はい?」
名指しされて返事をすると、担任は額に手を当て、頭痛を堪えるような顔で俺を見た。
「お前が昨日提出した部活動の希望調査票だがな。希望欄の帰宅部ってのは、書き間違いか何かか?」
「いえ、本気です。帰宅部を希望します」
「はぁぁぁぁ……」
担任の口から、魂が半分抜け出たような長いため息が漏れた。
教卓に手をつき、項垂れる担任の姿に、クラス中からクスクスと乾いた笑いが漏れる。
「姫宮なぁ……お前、自分が職員室でどれだけ問題になってるか分かってるか? 陸上部の顧問はあの子の足があれば女子リレーで全国を狙えるって泣きついてくるし、水泳部の顧問は個人メドレーの枠を空けて待ってるって職員会議で騒ぐし、柔道部の顧問に至っては団体戦に出てくれるなら何でもするって拝み倒してくる勢いなんだぞ」
「はは……みなさん熱心ですね」
「他人事みたいに言うな! 各部の顧問から毎日毎日、姫宮を説得しろって詰め寄られる俺の身にもなれ! 頼むからどっか一つくらい顔を出してやってくれよ……」
「すみません先生。ボク、もう選手としての伸びしろが無いんです。体力的にも限界ですし」
「新入生が引退考えてるベテラン選手みたいなこと言ってんじゃねえ! 昨日だって各部の勧誘を振り切って、ものすごい勢いで逃げていったじゃねえか!」
担任の悲痛な叫びに対し、俺は曖昧な愛想笑いを浮かべてやり過ごした。
どれだけエンジンが精巧でも、軽自動車は大型ダンプカーには勝てない。どれだけ効率的な動かし方を突き詰めても、絶対的な体格と筋肉量の差は埋まらないのだ。
「ったく……まあいい、とにかくお前らの希望調査票は預かっとくが、俺の胃が保つうちに各部の顧問には自分でなんとか言ってくれよ……」
担任は半ばヤケクソのようにぼやき、出欠確認を始めた。
ホームルームが終わり、一時間目の授業の準備をしていると、今度は廊下側の席からヒソヒソと話し声が聞こえてきた。
制服を着た男子生徒二人の会話だ。
「おい、この前の体験入部の話、聞いたか?」
「体験入部? 野球部のやつか? なんか新入生ですげえのが入ったって噂は聞いたけど」
「そう、それ! 城ヶ崎ってやつなんだけどさ、中学まで完全な帰宅部だったらしいんだよ。それなのに、いきなり百四十キロ近い剛速球投げ込んで、先輩たち全員が度肝を抜かれたんだと」
「マジかよ!? 未経験で百四十キロ!? 漫画かよ!」
「だろ? でもな、本当にヤバいのはそこじゃないんだよ」
話している男子生徒が、チラリと視線をこちらに向けてきた。
俺は素知らぬ顔でノートを広げ、耳を澄ませる。城ヶ崎の話題が出ているなら、聞き逃すわけにはいかない。
「その城ヶ崎の球をさ、最初に受けたのが……あそこに座ってる姫宮さんらしいんだ」
「……は? 姫宮さんって、あの姫宮さん? あんな細い女子が、百四十キロの球を?」
「ああ。しかも防具もつけずに、制服姿のまま、片手でビタ止めしたらしいぞ。キャッチャーミットが破裂するような音がグラウンド中に響いたのに、本人は眉一つ動かさずにいい球だったよって微笑んで立ち去ったんだと」
「嘘だろ……!? 都市伝説か何かの話かそれ!?」
「野球部の副キャプテンが真っ青な顔で話してたからガチだよ。しかも城ヶ崎を発掘してグラウンドに連れてきたのも姫宮さんなんだってさ。あの子、歩いてる人間の身体の動かし方を見ただけで、どんな才能があるか見抜けるらしいぞ」
「スカウトの眼力まで持ってるのかよ……! 何者なんだあの子……」
尾ひれがつきすぎである。
片手で涼しい顔をして止めたわけではない。肘を引いて腰を落とし、全身の関節を使って衝撃を逃がしただけだ。技術的なことを知らない素人が見ると、そうやって超人的な誇張をしてしまうから困る。城ヶ崎の肩を見抜けたのも、実際の送球の軌道と勢いを目にしたからにすぎない。
特別なことなど何一つしていないのだ。
とはいえ、城ヶ崎の才能が正当に評価され、野球部で期待されているのは喜ばしいことだった。
あいつは自分に自信がなさすぎた。周囲からの熱い期待と本格的な指導を受ければ、ひと夏で化けるはずだ。今から夏の大会が楽しみでならない。
だが、午前中の授業が進むにつれて、俺の心境は次第に曇っていった。
休み時間になるたび、クラスメイトたちはこちらをチラチラと見ては、遠巻きにヒソヒソと話し合う。誰も俺に話しかけてこない。
四時間目のチャイムが鳴り、待ちに待った昼休みがやってきた。
教室は一気に机を動かす音と、弁当を広げる女子たちの明るい笑い声に包まれる。
俺は机の引き出しに手を突っ込み、小さくため息を吐いた。
引き出しの奥には、今朝のうちにねじ込まれていた色とりどりのチラシが詰まっている。短距離の即レギュラー保証だの、個人メドレーの枠を空けて待っているだの、熱烈な勧誘の手紙ばかりだ。これらは後で丁重に断るとして、今は腹ごしらえが先決だ。
スクールバッグから取り出したのは、家から持ってきたタッパー容器。
周囲を見渡せば、他の女子生徒たちは色鮮やかな弁当や、購買の甘い菓子パンを囲んで楽しそうにおしゃべりに花を咲かせている。好きな芸能人の話、昨日のテレビ番組、放課後に駅前のカフェに寄る相談。
そこには、俺が求めていたはずの、ごく普通の高校生の日常が広がっていた。
それなのに、俺の周囲だけ、ぽっかりと半径二メートルの空白地帯ができあがっている。
浮いている。完全に、浮いてしまっている。
このままでは、平穏な高校生活どころか、三年間ずっと教室の孤立無援状態が続いてしまう。
大原さんの太ももやふくらはぎを褒めれば怒られ、過去の大会結果を普通に話せば化け物を見るような目で見られる。
どうすれば、普通の女子生徒たちと同じ輪に入り、普通に世間話ができるようになるのか。
長年、身体の動かし方とフォームの改善ばかり突き詰めてきた俺の頭脳では、この複雑怪奇な女子の人間関係の解き方がまったく分からなかった。
ふと、窓際の席に目をやると、唯一の友達である城ヶ崎が一人で机に向かい、購買の焼きそばパンを袋から出そうとしていた。
俺はタッパーと箸を手に取り、立ち上がった。あいつなら、何か知恵を貸してくれるかもしれない。
ついでに、昼飯も一緒に食おうじゃないか。
俺は歩み寄り、彼の机の前に立った。
「城ヶ崎君」
「ヒッ……!?」
声をかけた瞬間、城ヶ崎は袋を落としそうになりながら、激しく肩を跳ねさせて飛び上がった。
目を白黒させ、見る見るうちに耳の先から首筋まで真っ赤に染まっていく。なぜか胸元のブレザーをぎゅっと手で押さえ、俺から視線を逸らして激しく動揺していた。
「びっくりさせてごめん。よかったら、一緒に昼飯食べない? ちょっと相談したいことがあってさ」
「えっ……あ、お、俺と……!? ひ、姫宮さんと、昼飯……!?」
城ヶ崎は上擦った声を上げ、信じられないものを見るように固まった。
教室の中に残っている数人の視線がチラチラとこちらに向く。ここで話し込むのも目立ちそうだ。
「ここでは何だから、渡り廊下のベンチに行こうか」
「お、おう……っ!」
城ヶ崎は慌てて焼きそばパンとお茶の紙パックを引っ掴み、長い手足をぎこちなく動かして立ち上がった。
人通りの少ない渡り廊下のベンチに腰を下ろすと、吹き抜ける春の風が心地よかった。
だが、隣に座った城ヶ崎の様子はおかしい。
ベンチの端に小さく縮こまり、膝の上に置いた焼きそばパンの袋を片手で握りしめ、もう片方の手でブレザーの胸元をぎゅっと押さえている。チラリとこちらを見ては、すぐに視線を足元へ落とし、首筋まで真っ赤にして息を浅くしていた。
昨日の放課後、運動部の先輩たちから逃げ回る俺を、体育館と部室棟の間の通路にある大型ロッカーを開けて匿ってくれたのは城ヶ崎だった。息が上がっていた俺は、思わず彼の制服の袖を掴んで狭いロッカーの中に一緒に引きずり込んでしまったのだ。
あのとき、狭い空間で二人きりで肩を寄せ合い、息を殺してやり過ごした。俺の息遣いが荒く、額から落ちた汗が彼の胸元を汚してしまって申し訳なく思ったものだが、あのことを今でも気にしているのだろうか。
城ヶ崎は隣に座っているだけで、まるで今まさにあのロッカーの中に押し込められているかのように一人でドギマギしていた。
「……あの、城ヶ崎君? 昨日のこと、まだ気にしてる? 無理やり引っ張り込んで悪かったよ」
「ひゃいっ!? い、いや、気にしてないっていうか、怒ってるとかじゃなくて……っ! その、近かったな、とか……あんな狭いところに二人で入ったの初めてだったから、その、心臓が持たなくて……いや、なんでもない、なんでもないです……っ!」
城ヶ崎は両手で真っ赤な顔を覆い、激しく首を横に振った。
狭い密室で運動部の先輩たちに追われるスリルが、余程心臓に悪かったのだろうか。体が大きい割に、妙に神経が繊細なところがあるらしい。
「怪我もなかったし、先輩たちにも見つからなかったんだから大丈夫だよ。とりあえず食べようか」
俺はタッパーの蓋をパチンと外した。
中には、今朝自分で茹でた鶏むね肉と、鮮やかな緑色のブロッコリーが整然と敷き詰められているだけだ。余分な脂質を削ぎ落とし、タンパク質と微量栄養素を効率よく補給するための、中学時代から毎日食べ続けている基本食である。
箸を割ろうとしたところで、隣から息を呑む気配がした。
城ヶ崎が指の隙間からタッパーを覗き込み、目を丸くして固まっていた。
「……あの、姫宮さん。それ、お弁当……?」
「うん。今朝茹でてきたんだ」
「えっと、ご飯とか、他のおかずは……?」
「ないよ。炭水化物は朝と夜にしっかり摂ってるし、昼に余分な脂質や糖質を入れると午後の動きが鈍くなるからね。タンパク質とビタミンを補給するなら、これで十分なんだ」
「味付けは……? ドレッシングとか、マヨネーズとか……」
「塩だけだよ。素材の味で十分美味しいし、無駄なカロリーを摂る必要もないからね」
「し、塩だけ……!?」
城ヶ崎は焼きそばパンを握ったまま、戦慄したように声を裏返らせた。
「調味料も塩だけって……普通の女子高生のお弁当って、もっとこう、卵焼きとかタコさんウインナーとか、彩りがあるものじゃないのか……!?」
「彩りならブロッコリーの緑があるじゃないか」
「緑一色じゃん! ストイックすぎて怖いよ……!」
城ヶ崎の激しいツッコミに、俺は思わず首を傾げた。栄養素の観点から見ればこれ以上ない組み合わせなのだが、一般的にはそんなに奇異に見えるのだろうか。
城ヶ崎もようやく観念したのか、震える手で焼きそばパンの袋を開け、紅生姜の乗ったパンにかじりついた。
俺も箸でブロッコリーと鶏肉を口に運び、咀嚼してから、本題を切り出した。
「それでね、相談っていうのは……ボクがクラスで浮いてる件についてなんだよ」
「え……?」
城ヶ崎はパンを口に含んだまま虚を突かれたように目を丸くし、ようやく俺の顔をまともに見た。
「姫宮さんが……浮いてる……? そうだね」
「うん。朝から教室の空気がおかしくてさ。大原さんに中学の頃の部活のことを聞かれて、普通に才能がないから辞めたんだって話しただけなのに、なぜか教室中が凍りついちゃって。前にも大原さんの太ももとふくらはぎの筋肉を褒めて激怒されたし、このままだとクラスで完全に孤立しそうで困ってるんだよ」
俺が至って真剣に打ち明けると、城ヶ崎は咀嚼する口を止め、ぽかんと固まった。
赤くなっていた頬から熱が引き、代わりに信じられないものを見るような表情が浮かんでいる。
「姫宮さん……本気で言ってるの?」
「本気だよ。ボクだって普通の女子高生として、クラスのみんなと仲良くおしゃべりしたり、放課後を楽しく過ごしたりしたいんだよ。なのに、どうしてか猛獣を見るような目で見られるんだ。城ヶ崎君、どうすれば女子の輪に入れると思う?」
城ヶ崎はお茶を一口飲んでパンを飲み下すと、呆気に取られたように瞬きを繰り返した。
だが、俺の表情が冗談でも何でもなく、心底から困り果てているのを察したのか、彼の口元からふっと苦笑が漏れた。
「姫宮さんって……本当に、自分のこと分かってないんだな……」
「え?」
「いや……なんでもない」
城ヶ崎は首を横に振ると、膝の上のパンを見つめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「うーん……姫宮さんの場合は、嫌われてるとかじゃないと思うんだ」
「嫌われてない? じゃあ、なんでみんな避けるの?」
「避けてるっていうか……遠いんだよ」
城ヶ崎は視線を宙に泳がせながら、言葉を探すように眉を寄せた。
「姫宮さんは、すごく小さくて可愛いのに……運動神経が桁外れで、中学で三つも全国大会に出てて、野球部の先輩たちの前でも平然と剛速球を捕ってみせて……その上、全国に出たのに才能がないなんて真顔で言われたら、みんな、どう接していいか分からなくなるんだよ。住む世界が違いすぎて、畏れ多いっていうか……気軽に話しかけられないんだと思う。それに、さっきのお弁当だってそうだし」
「お弁当?」
「塩だけの鶏肉とブロッコリーを無表情で食べてる女の子に、放課後どこそこのカフェのパンケーキが美味しいよね、なんて話、普通は振れないよ……」
「う……」
痛いところを突かれ、俺は思わず言葉に詰まった。
城ヶ崎の言葉を聞いて、俺は鶏肉を咀嚼しながら考え込んだ。
住む世界が違う、か。
自分としては、ただ小手先の技術で全国の舞台に紛れ込み、本物の怪物たちに手も足も出ずに打ちのめされてきただけの凡人に過ぎない。才能がないから辞めたというのも、純然たる事実だ。
だが、周囲の生徒たちからすれば、その実績があまりにも大きすぎて、どう声をかけていいのか戸惑っているということなのだろうか。
「向こうが話しかけづらいなら……ボクはどうすればいいの? このまま黙って座ってたら、三年間ずっと腫れ物扱いされちゃうよ」
「だからさ、待ってるだけじゃなくて、姫宮さんのほうから話しかけてみたらどうかな」
「ボクから?」
「うん」
城ヶ崎は残りの焼きそばパンを口に運び、もぐもぐと咀嚼してから、そっと俺のほうを振り返った。
「俺だって、最初は姫宮さんに話しかけられたとき、怖くて心臓が止まるかと思ったよ。でも、姫宮さんは俺の投げ方をちゃんと見てくれて、野球部に連れて行ってくれて……すごく嬉しかったんだ。姫宮さんは、見た目は凛としてて近寄りがたく見えるかもしれないけど、話してみたらすごく一生懸命で、優しい人だって俺は知ってるから」
「城ヶ崎君……」
「みんな、姫宮さんのことが怖いんじゃなくて、話しかけるきっかけがないだけだと思うんだ。だから、姫宮さんのほうから声をかけてあげたら、きっとみんな喜ぶよ。もちろん、運動の話とか筋肉の話はなしでさ」
「筋肉を褒めるのは駄目なの?」
「絶対ダメ。女子に太ももが太いとか言ったら怒られるに決まってるじゃん……」
城ヶ崎の呆れたようなツッコミに、俺は思わず口をへの字にした。あんなに見事な筋肉の付き方を褒めて怒られる理由はいまだに納得がいかないが、世間の女子高生にはタブーなのだとしたら封印するしかない。
「じゃあ、どんな話をすればいいの?」
「もっと普通のことだよ。甘いものが好きとか、放課後にどこ行くとか……そういう、他愛のない世間話。姫宮さんから普通に歩み寄ってくれたら、みんな絶対に受け入れてくれると思うよ」
胸の中のつかえが、少しだけ取れたような気がした。
自分から、歩み寄る。
言われてみれば、その通りだ。自分はこれまで、相手が話しかけてくるのを待つばかりで、周囲の微妙な空気に戸惑っているだけだった。向こうが敷居の高さを感じて踏み込めないのなら、こちらのほうから敷居を下げて、同じ目線で声をかければいいのだ。
「なるほどね……待ってるだけじゃ駄目なんだ。こっちから飛び込んでいかないと、距離なんて縮まらないよね」
「うん。俺なんかが偉そうに言って、ごめん……」
城ヶ崎は自分の発言に気恥ずかしくなったのか、また顔を赤らめてそっぽを向いてしまった。だが、その横顔には、彼なりの誠実さと優しさが滲み出ていた。
タッパーの中身を綺麗に平らげた俺は、箸を収めて蓋をパチンと閉めた。ランチクロスで包み、鞄に戻す準備をする。
城ヶ崎もパンの包み紙とお茶の紙パックを小さく折りたたみ、ビニール袋にまとめた。
「ううん、すごく参考になったよ。ありがとう、城ヶ崎君」
俺が心からの笑みを浮かべて礼を言うと、城ヶ崎はまたカッと顔を真っ赤にして、慌てて立ち上がった。
「い、いや……! 役に立てたなら、よかった……! あ、ゴミ捨てて教室戻ろっか……!」
「うん、行こう」
渡り廊下のゴミ箱に城ヶ崎がゴミを捨て、二人で並んで教室へと戻った。
相変わらず落ち着きのないやつだが、本当にいいやつだ。相談して正解だった。
教室に戻ると、午後の五時間目の予鈴が鳴り響いた。
席に着き、教科書を開きながら、俺は前方の席に目を向けた。
チャンスは必ずやってくる。
放課後のチャイムが鳴り、終礼が終わったら、今度こそ自分から、あたたかい輪の中へ一歩を踏み出してみせる。
俺は静かに息を吸い込み、背筋を伸ばして、六時間目の終わりを告げる鐘の音を虎視眈々と待つのだった。