週が明けた月曜日の朝、校門へと続く緩やかな上り坂には、青葉の混じり始めた桜の枝から柔らかな木漏れ日がこぼれていた。
周囲の会話には新しくできた友達や部活動の話題が自然と混ざるようになっていたが、俺の胸の奥には金曜日の放課後の記憶が、居心地の悪いしこりとなって残り続けていたのだ。
あんな盛大な空回りを演じてしまって、二人は愛想を尽かしてしまったのではないだろうか。
まだホームルームまで時間がある。中央寄りの自分の席へ視線を走らせると、その前の大原さんの席にも、隣の横山さんの席にもまだ鞄は置かれていなかった。まだ登校していないらしい。
胸を撫で下ろすような、それとも先延ばしにされて息が詰まるような、奇妙な感覚を覚えながら自分の席へ進む。
スクールバッグを机の横のフックに掛け、パイプ椅子を引いて腰を下ろした。
一時間目の教科書を出そうと鞄のファスナーに手を伸ばした、そのときだった。
ガラガラと音を立てて教室の後ろの引き戸が開き、廊下から聞き覚えのある足音が近づいてきた。
「姫宮さん、おっはよー!」
思わず肩が跳ねた。
顔を上げると、大原桃香さんが満面の笑みを浮かべて俺の机の前に駆け寄ってくるところだった。ブレザーの裾を揺らし、丸みのある瞳を三日月のように細めている。
そのすぐ後ろから、ゆったりとしたカーディガンを羽織った横山広美さんものんびりとした足取りで歩いてきて、俺のすぐ隣の自分の席に鞄を置いた。
「あ……大原さん、横山さん。おはよう」
俺が少し身構えながら挨拶を返すと、大原さんは自分の席の椅子をくるりと回してこちらへ向き直り、横山さんも隣の席から体を寄せて小さく手を振った。
「おはよ、姫宮さん。土日はゆっくり休めた?」
「え……うん。いつもと変わらず8時間睡眠だったよ。二人はどうだった?」
「あたしなんて土曜日のお昼過ぎまで眠ってたよ! あ、これ見てよ姫宮さん」
大原さんが制服のスカートのポケットから、パカパカと開くタイプの携帯電話を取り出した。
その背面を、誇らしげにこちらへ向けて差し出してくる。
透明なプラスチックカバーの内側に、細長く切り分けられた小さなシールが、少しの歪みもなく綺麗に挟み込まれていた。
金曜日の夕方、駅前の地下にあるゲームセンターで撮った、あの三コマのシールだった。
「……うっ」
思わず胸元を押さえて視線を逸らした。
「そ、それ……まだ持ってたのかい。恥ずかしいから、できれば処分してほしいんだけど……」
「えーっ、絶対やだ! これ、めちゃくちゃご利益ありそうだし、なにより可愛いんだもん!」
「可愛い……?」
「そうだよ! 普段あんなに大人びてて落ち着いてるのに、写真撮るときだけ急に不思議な動きするんだもん」
大原さんが悪戯っぽく笑いながら、画面の裏のシールを人差し指でとんと突いた。
最初の一枚目は、親指と人差し指を交差させた指ハート。二枚目は、片手を頬に添えて無理やり作ったハート。そして最後の三枚目で、開き直ったように小さなピースサインを作っている俺の姿。その3枚が、携帯の裏にギチギチに貼り付けられている。
横山さんも通学鞄から手帳を取り出し、表紙を開いて見せてくれた。見返しの隅に指ハートのシールが一枚、丁寧に貼り付けられている。
「うちもここに貼っとるよ、あの一枚目のやつ。あれ片手でハート作っとるって聞いてから見たら、確かにハートやね! 今度真似するから、また見本見せてや!」
「からかわないでよ……。ボク、あのときは本当に必死だったんだから。二人に楽しんでもらおうと思ったのに、全然思うようにいかなくてさ」
気恥ずかしさのあまり俺が背中を丸めると、二人は顔を見合わせて楽しそうに笑い声を上げた。
そこに気まずさや冷やかしの棘は一切なかった。ただ純粋に、金曜日の放課後に起きた出来事を温かい思い出として反芻している響きだった。
そのやり取りを見つめているうちに、胸の奥に詰まっていた冷たい塊が、春の陽だまりに溶ける雪のようにすうっと消え去っていくのが分かった。
嫌われてなどいなかった。
変人として切り捨てられたわけでもなかった。
俺の不器用な振る舞いを、二人はまるごと笑って受け入れてくれていたのだ。
張り詰めていた首筋と背中の筋肉からすっと力が抜け、自然と唇の端が持ち上がった。
そのとき、何かを思い出したように大原さんが丸い目をさらに見開いた。
「あ、そうだ! あたしたち、まだメールアドレス交換してなかったよね。金曜日は駅前でそのままバイバイしちゃったし」
「メールアドレス……うん、そうだね」
「交換しよ! 赤外線でいけるかな。ヒロも出しなよ」
「おっけー」
俺は鞄の底から、母親に持たされている薄型の携帯電話を取り出した。
机の上で三台の端末を寄せ合い、赤外線ポートを向かい合わせる。大原さんの手慣れた操作に従って画面のボタンを押すと、小さな受光部がピピッと反応し、相手の登録情報が液晶画面に転送されてきた。
大原桃香。横山広美。
味気ない電話帳のリストに、家族以外の名前が新しく二つ並んだ。
画面に表示されたその文字列を見つめていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。本当に二人の友達になれたのだという実感が、遅れて身体の芯に染み渡ってきた。
「あたしからテストで一通送っとくね」
大原さんが親指を素早く動かし、迷いのない手つきでキーを弾いた。
数秒後、俺の手元で端末が短く震え、画面の隅で新着メールのアイコンが点滅した。
開いてみると、今週もよろしくね、という短い文面の末尾に、猫が手を振っている小さな絵文字が添えられていた。
「ちゃんと届いたよ。ありがとう」
「よかった! これでいつでも連絡できるね」
「うちからも送っとくわな」
横山さんも穏やかに微笑みながら端末を操作してくれた。
すぐに二通目の震えが掌に伝わる。そこには、今週もよろしく、また面白いポーズ教えてな、と飾らない関西弁のメッセージが入っていた。
「ねえ、これからはほのかって呼んでいい?」
携帯をしまった大原さんが、悪戯っぽく笑いかけてきた。
「うん、もちろん。そのほうが嬉しいよ」
「じゃあ、うちもほのかって呼んでええ?」
「うん」
横山さんまで楽しそうに乗っかってきて、少し気恥ずかしかった。
画面を閉じ、携帯電話を制服のポケットにしまう。
ちょうどそのとき、朝の予鈴のチャイムが廊下に長く鳴り響いた。
「あ、鳴っちゃった。じゃあほのか、また後でね!」
「また後でなー」
大原さんが椅子の向きを前に戻し、横山さんも前を向いてノートを広げる。
朝までの重苦しい緊張が嘘のように晴れ渡り、呼吸が深く通るようになっていた。
黒板の文字をノートに書き写しながら、俺の胸の奥には朝の教室での余韻が静かに残っていた。
大原さんと横山さんが見せてくれた屈託のない笑顔。手元に残る二人のアドレス。
あれは間違いなく、城ヶ崎が背中を押してくれたおかげだった。
自分から話しかけてみたらどうか。あの助言がなければ、金曜日も一人で帰っていただろう。
あいつにちゃんとお礼を言っておかなければならなかった。
一時間目が終わり授業終了のチャイムが鳴ると、教室には息を抜くようなざわめきが広がった。
十分間の短い休み時間だ。
俺は席を立ち、窓際の席へと目を向けた。
城ヶ崎がいた。大柄な体を窮屈そうに丸め、机に突っ伏すようにしてぼんやりと窓の外を眺めている。いつもの元気がない。
俺は歩み寄り、机の前に立った。
「城ヶ崎君」
びくりと大きな肩が跳ね、城ヶ崎が慌てて顔を上げた。
「ひ、姫宮……」
「今朝はバタバタしていて言えなかったけれど、金曜日のアドバイス、すごく役に立ったよ。二人とメールアドレスも交換できたんだ。ありがとう」
城ヶ崎は目を白黒させ、それから照れくさそうに頭を掻いた。
「ほんと? よかった……ちゃんと話せたんだな」
笑おうとした口元が、わずかに引き攣っていた。目の下にはうっすらと青い隈が浮き、浅いため息を落としている。
「……城ヶ崎君、どこか具合でも悪いの? さっきからすごく辛そうに見えるけど」
踏み込んで尋ねると、城ヶ崎は机の端を指先で弄び、気まずそうに視線を落とした。
「……野球部なんだけどさ」
絞り出すような低い声だった。
「一年はまず体力づくりだって、走ったり筋トレしたりなんだけどさ。中学までろくに運動してなかったから、同級生にも全然追いつけなくて。ボールを投げる前にヘトヘトなんだ」
城ヶ崎は落胆を隠そうともせず、小さく息を吐いた。
「球が少し速いからって、調子に乗ってたのかな。これが毎日続くのかと思うとさ……」
俯く城ヶ崎の広い背中を見つめながら、俺は息を整えた。
新入生はまず体力づくりから。必要な練習だが、ここで辞めたくなるのも分かる。
野球をしに来たのに走ってばかり。まして未経験なら、面白さを知る前につらさが先に来る。そこはフォローしなければならないな。
城ヶ崎の骨格は間違いなく投げるためにある。
首筋から肩にかけての分厚い筋肉、地面を捉える足腰、何よりあのすらりと伸びた長い指先。
技術も体力も、これから積み重ねていけばいい。この逸材に、投げる楽しさを知る前に野球を手放させるわけにはいかなかった。
指先から放たれた球が空気を切り裂く面白さ。自分の意図通りに白球が線を描いた瞬間の、あの震えるような喜びを、その身体に刻み込んでやらなければならない。
「ねえ城ヶ崎君、今日のお昼休み、少しキャッチボールに付き合ってくれないかい」
「え……? 昼休みに?」
城ヶ崎が虚を突かれたように顔を上げた。
「うん。グラウンドの端で、少しキャッチボールをしよう。投げる楽しさを忘れて部活が嫌になっちゃったらもったいないし、いい気分転換になるよ」
「でも、俺、グラブもボールも持ってきてないぞ」
「道具ならボクが用意しておくよ。軽く投げるだけさ。疲れていたら短く切り上げよう。ボクも投げたいしね」
俺が真っ直ぐに見据えると、城ヶ崎は戸惑いながらも、その瞳に微かな光を灯して小さく頷いた。
「……分かった。じゃあ、昼休みに」
四時間目が終わり昼休みのチャイムが鳴った。
手早く弁当を済ませた俺は、野球部の部室へ向かう。開いた扉から顔を覗かせると、正捕手で主将の堂本先輩が奥の長椅子から片手を上げた。
「おう、姫宮。今日はどうしたんだ?」
「堂本キャプテン、道具を貸してもらえますか? お昼休みに城ヶ崎君と少しキャッチボールをしたくて。ボールとミット、あいつのグラブもお借りできますか」
「またあいつを見てくれるのか、助かる。ああ、そうだ。この前お前に言われた通り水分補給と走り込みのメニューを見直したら、一年生たちのへばり方が明らかに減ったよ。知識のある奴の助言はありがたいな」
「ふふ、お役に立ててよかったです。あいつ、せっかく素晴らしい肩を持っているのに、基礎体力づくりの段階で嫌になっちゃったらもったいないですからね」
堂本キャプテンは頼もしそうに笑いながら道具棚を開け、手入れの行き届いたグラブとミットを出してくれた。
「あいつのグラブはこれだ。昼休みが終わるまでにこの棚へ戻してくれればいいから、しっかり相手してやってくれ」
「ありがとうございます、キャプテン。大事に使わせてもらいますね」
返す場所を確かめ、ボールと二人分の道具を抱えて部室を出た。
向かったのは、中庭の端の空きスペースだ。
青葉の間から木漏れ日が落ち、心地よい風が通り抜けていく。
待つこと数分、廊下の方から足音を響かせて城ヶ崎がやってきた。購買のパンを口に押し込みながら、不思議そうにこちらを見ている。
「待たせてごめん、姫宮。……もう道具、借りてきたのか?」
「ううん、今来たところだよ。これ、使って」
差し出した茶色いグラブを受け取り、城ヶ崎が目を丸くした。
「すげえ、いつも俺が使ってるやつじゃん。どうやって借りてきたんだよ」
「野球部の堂本キャプテンに頼んだんだ。昼休みが終わるまでに部室へ返せばいいって」
「堂本キャプテンに直接!? 姫宮さん、いつの間にそんな仲良くなってんだよ……! 俺なんて挨拶するだけで緊張するのに」
驚愕して目を白黒させる城ヶ崎に、俺は事も無げに笑って返した。
「いやあ、城ヶ崎君が部活でどんな様子か、いつもキャプテンに聞いているからね」
「うわ、恥ずかしい……! 俺のヘロヘロな姿、全部筒抜けなのかよ……!」
顔を真っ赤にして頭を抱える城ヶ崎に、俺は苦笑しながら言葉を足した。
「でも悪いことばかりじゃないよ。どこの運動部もなるべく運動中は水をのませないでしょ? あれって、実は最近あまり良くないとされてるんだよ。だからちょっと前、ちゃんと合間に水を飲んだ方が最後までバテずに動けるって、キャプテンに相談してみたんだ」
「えっ……! あ、あれ、姫宮さんが言ってくれたのか!? あのダッシュ、本当に喉がカラカラでキツかったんだよ……! マジで助かった、ありがとな……!」
城ヶ崎は心底ホッとしたように息を吐き、頭を下げた。
「キャプテンも理解がある人だからね。さ、せっかく道具を借りてきたんだから早く投げようか」
城ヶ崎が恐る恐るグラブに手を通す。俺も左手にミットをはめ、軽く叩いて感触を確かめた。使い込まれた革が手に馴染むと、それだけで身体の奥のスイッチが切り替わる。
七、八メートルほど離れ、胸の前にミットを構えた。
「それじゃあ、軽く投げてみようか。肩をほぐす程度でいいからね」
「おう」
城ヶ崎がボールを持ち、腕を振る。
鋭い風切り音とともに放たれた球は勢いばかりが空回りし、右へ大きく逸れて低めに飛んできた。
俺は足を一歩踏み出し、難なくミットに収める。
バチンと乾いた捕球音が鳴った。
「わりい! ずれた!」
「気にしないで。そんなに強く投げようとしなくていいよ」
緩い山なりで投げ返すが、城ヶ崎は捕球するとすぐに肩を怒らせ、力任せに腕を振ろうとする。
「でも……普通の運動ではダメな分、せめて球だけは速く投げなきゃって思っちゃうんだよ」
焦りが全身を強張らせ、腕に余計な力を集めていた。
このまま投げさせ続ければ、肩や肘を痛めかねない。力任せに剛速球を投げ込むことだけが投手の面白さではないのだと、教えてやる必要があった。
「城ヶ崎君。ボールを投げるのって、速さだけじゃないよ。ちょっとカーブを投げて遊んでみない?」
「カーブ……? そんなの、プロが投げる曲がる球だろ。俺、まっすぐ投げるのも怪しいのに無理だよ」
「そんな大げさなものじゃないさ。無理に手首をひねろうとしなくていいし、大きく振りかぶるわけでもない。ほんの数メートル先へ軽く腕を振って、指先で回転をかける面白さを試してみるだけだよ」
城ヶ崎にボールを返してもらい、手に持って歩み寄った。
「ちょっと右手を出してみて」
城ヶ崎が差し出した大きな手のひらに、ボールをそっと乗せる。
「この縫い目に、中指の腹を乗せてみて。人差し指は添えるだけで力を抜いて、親指は下から支える。そう、そんな感じ」
位置を整えようと指先に触れると、城ヶ崎のごつごつとした手がびくりと跳ねた。
「ひ、姫宮……?」
「動かさないでね。中指が縫い目に触れている感覚、わかる?」
「う、うん……」
「よし。じゃあ、そのまま腕を前に出してみて」
ミットを外して足元に置き、俺は城ヶ崎の右斜め後ろへと一歩踏み込み、あいつの右腕の横にぴたりと並んだ。
言葉で説明するよりも、身体の軌道を直接なぞらせたほうが早い。そう判断して、俺は迷うことなく城ヶ崎の右肘に左手を添え、ボールを握った手首のあたりに右手を重ねた。
「っ!?」
触れた瞬間、城ヶ崎の喉から引き攣ったような息が漏れた。
大柄な身体が針で突かれたように跳ね上がり、背中の筋肉が一気にこわばる。
「城ヶ崎君、力抜いて。大きく振りかぶるんじゃなくて、こうやって軽く前へ振るんだ。ボールを離すときに手が少し横に来て、中指で前側を下へ引くように……」
肘と手首を支えながら、ゆっくりと前へ腕を送り出す。
至近距離で手元の軌道を覗き込みながら説明していると、なぜか城ヶ崎の腕がギチギチと音を立てそうなほど硬直していった。
見上げると、あいつは息を止めて視線を虚空へ泳がせ、耳の付け根から首筋、うなじにかけてみるみるうちに真っ赤に染まっていた。制服のカッターシャツ越しに伝わってくる体温が急上昇しているのがわかる。
「城ヶ崎君? 腕に力が入りすぎだよ。手首もガチガチになってる」
「あ、いや……その……!」
「ほら、まだ手首に力が入っているよ。もっとリラックスして」
力みを抜かせようと手のひらに触れてみると、ドクンドクンと尋常ではない早鐘のような鼓動が指先に伝わってきた。
「……あれ? 城ヶ崎君、脈がすごく速いよ。ボクが道具を取ってきてる間、トレーニングでもしてたのかな?」
「な、なんでもない! ちょっと緊張しただけだから! な、投げてみる!」
城ヶ崎が飛び退くように腕を引いた。慌てて深呼吸を繰り返し、顔を真っ赤にしたまま構えに入る。
俺も足元のミットを拾ってはめ直し、数歩後ろへ下がって胸の前に構えた。
「じゃあ、山なりでいいからね」
「お、おう!」
気合いの入った声とともに腕が振られた。
だが、放たれた白球は山なりを描くどころか、指先からつるりとすっぽ抜け、見当違いの左斜め上へと力なく飛んでいってしまった。
ボテッ、と校舎の壁に当たってボールが落ちる。
「あれ……? ごめん、滑った!」
「気にしないで、もう一回いこう」
ボールを拾って投げ返すと、城ヶ崎は慌てて握り直して二球目を放った。
しかし今度もリリースの瞬間に手元が狂い、指先が不自然に滑って地面へと叩きつけられてしまった。
二球続けてのすっぽ抜け。さっきまでの直球の勢いすら消え失せ、あきらかに指先がボールを捉えられていない。
「おかしいな……力んでるわけじゃないのに、指が滑って全然引っかからねえ……」
城ヶ崎が自分の右手をまじまじと見つめ、情けなさそうに眉を下げた。
首を傾げながらボールを拾って歩み寄り、ミットを外してボールと一緒に足元へ置いた。俺はあいつの右手をひょいと持ち上げた。
「ちょっと手を見せて」
「え、あ……」
城ヶ崎の大きな手のひらを広げさせ、指先をなぞる。
その瞬間、指の腹に湿り気が触れた。
手のひら全体がびっしょりと濡れ、汗が滲んでいる。
「……城ヶ崎君、手のひらが汗ですごいことになってるよ」
「っっっ!?」
城ヶ崎の息が完全に止まった。
見開かれた目がこれ以上ないほど見開かれ、顔面だけでなく首から胸元まで一瞬で沸騰したように紅潮する。
「こ、これは違うんだ! その、さっきまで走ってて暑かったっていうか、代謝がいいっていうか……!」
「いいよ、恥ずかしがらなくて。緊張したり暑かったりすれば手汗くらいかくさ。でも、これじゃあボールの縫い目が滑って引っかからないのも当然だよ。ちゃんと拭かないと」
俺は制服のポケットに手を入れて、アイロンのきっちりかかった薄い水色のハンドタオルを取り出した。
「ちょっと手を出して」
「っ!? ひ、姫宮のハンカチ!?」
城ヶ崎は悲鳴のような声を上げ、飛び退くように両手を引っ込めた。
顔面どころか首筋まで一気に茹でダコのように真っ赤にし、大慌てで両手のひらを自分の制服のズボンへと擦り付け始めた。
ゴシゴシ、キュッキュッと勢いよく生地を擦る乾いた音が響く。
「あ、ちょっと城ヶ崎君。ズボンで拭いたら埃がついちゃうし、生地が傷むよ」
「いいから! これで十分だから! ほら、もうサラサラだ!」
力任せに擦り付けたせいで手のひらは真っ赤になっていたが、確かに手汗は綺麗に拭き取られていた。
城ヶ崎はまだ耳から湯気が出そうなほど顔を赤らめながら、呼吸を整えるように胸を上下させている。
友達のハンカチを汚すわけにはいかないという、思春期の男の意地なのだろう。
「分かったから、深呼吸して。落ち着いてボールを握ってみて」
「……う、おう」
俺は足元からボールを拾って渡し、ミットをはめ直した。城ヶ崎は照れ隠しに小さく咳払いをし、ボールを受け取った。
教えられた通りの位置に中指を添え、深呼吸を二度、三度と繰り返す。
恥ずかしさでまだ耳たぶを赤く染めていたが、手のひらが乾いたことで、指先の感覚は先ほどよりも研ぎ澄まされているようだった。
「じゃあ、さっきのイメージで。大きく振りかぶらず、軽く腕を振るんだよ」
「……おう!」
すっと腕が上がり、力みの抜けたフォームから白球が放たれた。
宙を渡る白球の縫い目が、前へ転がるように回っているのを俺の目が捉えた。
手元へ届く直前、ふっと息を抜くように、下へ小さく沈み込んでミットの底に収まった。
バチン、と乾いた音が昼の青空に響く。
「……え?」
城ヶ崎が腕を下ろした姿勢のまま、目を丸くした。
「今……なんか、落ちなかったか?」
「落ちたよ。手元でほんの少しだけどね」
「マジで……!? 俺、手首とか全然曲げてないぞ!?」
「今のは中指が縫い目にうまくかかって、ボールが前に転がるような回転になったんだ。今の感覚、すごくよかったよ」
「すげえ……本当に変わるんだな……!」
城ヶ崎が自分の右手をまじまじと見つめた。指を曲げ伸ばししながら、今の感触を反芻している。
その顔には、もう焦りの色は欠片もなかった。新しく知った面白さに、胸を躍らせている少年の顔だった。
「もう一球、今の感覚のまま投げてみて」
投げ返すと、城ヶ崎はすぐに構えに入った。
四球目。すっと腕が振られたが、今度は手応えを求めすぎて力が入ったのか、指先が球を強く巻き込みすぎた。ボールは低い弾道のまま手前で跳ね、俺の足元へ転がる。
「あちゃー! 欲張りすぎた!」
城ヶ崎は頭を抱えながら、思わず吹き出すように笑った。
失敗したというのに、その声は明るく弾んでいた。
「もう一球投げていいか!? 今の感覚、もう一回試したい!」
駆け寄ろうとする城ヶ崎に、俺はミットを軽く上げて首を振った。
術中に嵌まってくれた。
白球が指先を離れ、狙った軌道を描いた瞬間の快感。これさえ心に刻み込まれていれば、どれほど走らされようと、筋トレで筋肉痛になろうと、少年はもう野球を手放せなくなる。
指先一つで球の軌道が変わる面白さを知った人間は、その感覚の虜になるのだ。
「今日はここまでだよ、城ヶ崎君」
「えっ……もう終わりか? まだ少し時間あるぞ?」
「そろそろ予鈴が鳴るし、昼休みが終わるまでに部室へ道具を返さないといけないからね」
城ヶ崎は名残惜しそうに唇を尖らせたが、やがて素直に息を吐いた。
「そっか……そうだな。でも、今の感覚、絶対忘れないよ」
城ヶ崎はグラブを外し、俺の持っているミットとボールを合わせて受け取った。朝に見たときの強張りはすっかり消え、瞳の奥に確かな光が宿っている。
「道具、俺が責任持ってキャプテンに返してくるよ。姫宮、大事な昼休みに付き合ってくれて、本当にありがとな」
「ううん、ボクも楽しかったよ」
「……俺さ、中学まで運動してこなかったから、焦ってばかりで……。でも、姫宮にばっかり迷惑かけるわけにもいかないしな。放課後の練習、今日教えてもらったこと思い出しながら、一人でもちゃんと頑張ってみるよ」
照れくさそうに笑いながら、けれどどこか吹っ切れたような真っ直ぐな目で城ヶ崎は言った。
これ以上、俺の手を煩わせたくないという気遣いがその言葉から滲んでいる。
だが、ここで一人きりで抱え込ませるわけにはいかなかった。
「放課後の部活は、先輩たちと一緒に思い切りやっておいで。それでさ、明日からも昼休みに少しキャッチボールをしようよ」
「えっ……明日からも?」
城ヶ崎がぽかんと目を丸くした。
「うん。一日投げて少し感覚を掴んだくらいじゃ、すぐに元に戻っちゃうし、変な癖がついたらいけないからね。毎日少しずつ、ボクがフォームの確認をしてあげるよ」
「で、でも……姫宮の昼休みを毎日奪っちゃうのは悪いよ。お前、友達だっているのに……」
「迷惑だなんて思ってないよ。城ヶ崎君だって友達でしょ? それに、君がいい球を投げるようになるのを見るのは面白いんだからさ」
俺が笑って言うと、城ヶ崎は顔を真っ赤にして、泣き出しそうなほど嬉しそうに口元を綻ばせた。
「……おう! ありがとな、姫宮! 俺、絶対変な癖つけないように頑張るよ!」
「うん、その意気だよ」
「じゃあ、これ返してくる!」
城ヶ崎は用具を両腕に抱え、部室棟へと元気よく駆け出していった。
部活を辞めさせないための作戦は、ひとまず大成功だ。
あいつがこれからどんな風に成長していくのか、一番近くで見守るのが今から楽しみだった。