TS美少女は怪物を甲子園へ連れていきたい   作:とほほ報

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第09話:マイグラブ

 五月の風が心地よく吹き抜ける、ある日の昼休みのことだった。

 

 中庭の芝生の上で、俺と城ヶ崎はここ一週間ですっかり恒例となったキャッチボールを終えたところだった。

 わずか十五分ほどの時間だったが、日差しを浴びながら肩を動かしたことで、お互いに心地よい汗が額に滲んでいた。

 

「よし、今日のフォームは肩の開きも抑えられていて良かったよ」

 

「本当か? 姫宮にそう言ってもらえると安心するよ」

 

 城ヶ崎が嬉しそうに白い歯を見せた、その直後。

 本館の時計台から、昼休みの終わりを告げる五分前の予鈴が鳴り響いた。

 

「うわっ、やべえ! もう予鈴鳴った!?」

 

 城ヶ崎の表情が一瞬で青ざめた。

 手に持っていたグラブとボールを慌てて抱え直すと、足をもつれさせそうになりながら走り出す。

 

「姫宮、ごめん! 急いで部室に道具返しに行ってくる! また教室で!」

 

「あ、うん。転ばないようにね」

 

 俺が声をかける間もなく、城ヶ崎は砂煙を上げて中庭を飛び出していった。

 その背中を見送りながら俺は小さくため息を吐く。

 

 入部したての城ヶ崎は、まだ自分のグラブを持っていない。

 そのため、昼休みにキャッチボールをしようとするたびに、校舎から遠く離れたグラウンドの部室棟まで猛ダッシュし、棚の奥から部活の共用グラブとボールを引っ張り出してこなければならないのだ。

 そして投げ終われば再び部室まで全速力で走って道具を棚に戻し、鍵をかけてから三階の教室まで階段を駆け上がることになる。

 

 移動だけで息を切らし、肝心のキャッチボールができる時間は十五分ほど。

 これではキャッチボールをしているのか、階段ダッシュで体力をつけているのかわからない。

 

 教室に戻り、自分の席に腰を下ろして教科書を用意していると、前扉がガラリと勢いよく開いた。

 肩で激しく息をしながら、城ヶ崎が雪崩れ込んでくる。

 額からは大粒の汗が吹き出し、制服のシャツが胸元に張り付いていた。

 城ヶ崎は俺の席までやってくると、机にしがみつくようにして突っ伏した。

 

「はぁ……はぁ……死ぬかと思った……なんとか間に合った……」

 

 机に突っ伏したまま、城ヶ崎が消え入りそうな声で呻く。

 俺は座ったまま、苦笑交じりに声をかけた。

 

「お疲れ様、城ヶ崎君」

 

「ほんと、お疲れだよ……。でも、共用の道具だからさ。返却が遅れたりして先輩たちに怒られるわけにはいかないし……」

 

 城ヶ崎は顔を横に向けて、情けなさそうに眉を下げた。

 

「自分のグラブがあればさ、教室のロッカーに入れておけるから、昼休みになった瞬間に中庭へ行けるのにな、って思って……」

 

 その呟きを聞いた瞬間、俺の中で一つの考えが固まった。

 部の借用グラブは手入れが行き届いているが、それでも独特な癖や握り方の型が染み付いてしまっている。

 

 これから毎日使うなら、城ヶ崎自身の手に馴染ませていけるものを持たせてやりたい。借りる時間も返す時間も、そのぶん投げることに使えるのだ。

 城ヶ崎を本物の投手として育てるなら、あいつの手の骨格にぴったり合い、あいつ自身の手の動きで型を作っていける専用の相棒が必要不可欠だった。

 

「城ヶ崎君」

 

「ん?」

 

「それなら、君のマイグラブを買いに行こうか」

 

 俺の提案に、城ヶ崎は目を丸くして身を起こした。

 

「えっ、マイグラブ? 俺の?」

 

「そうだよ。自分の手に馴染んだ道具を持つのは、上達への一番の近道だからね。放課後にでも、街の大きなスポーツ用品店へ行ってみないかい? ボクが一緒に行って、君に合うものを選んであげるよ」

 

 城ヶ崎の顔が、見る見るうちに鮮やかな朱色に染まっていった。

 

「え、ええっ!? ひ、姫宮さんが一緒に……!? ふ、二人で街へ……!?」

 

 耳の先まで真っ赤にして狼狽える城ヶ崎。道具を選んであげると言っただけなのに、なぜこれほど取り乱すのだろうか。人見知りで店員と話すのが苦手なのかもしれない。

 だが、俺たちがそんなやり取りを交わしていたその時、会話を聞きつけた二つの影があった。

 

「ちょっとちょっとちょっと! 聞き捨てならない会話が聞こえたんだけど!」

 

 ふとももがチャーミングな大原桃香さんが俺の机の上に両肘をついて、満面のニヤニヤ顔で覗き込んできた。その隣には、緩めのカーディガンでも肩幅の広さが隠せない横山広美さんも、楽しそうに目を輝かせながらついてきている。

 

「二人で街へお買い物!? 放課後に駅前デートですか城ヶ崎君!」

 

「ち、違う! 大原さん、からかわないでくれよ! 部活のグラブを買いに行くだけだって!」

 

 城ヶ崎が両手をブンブンと振って否定するが、大原さんはまったく引く気配がない。

 

「男女が放課後に二人きりで街に出かけるのを、世間一般ではデートって呼ぶの! ねえヒロもそう思うでしょ!?」

 

「うん、完全にデートやんね。城ヶ崎君、めっちゃチャンスやん」

 

 横山さんが援護射撃を繰り出してくる。

 

「駅前の大きいスポーツ店って、商店街抜けた先の商業ビルの中やろ? 周りにお洒落なカフェもいっぱいあるし、買い物終わったらお茶でもして帰ったらええやん。城ヶ崎君、ちゃんとおしゃれして行きや」

 

「お茶とか行かないから! おしゃれも必要ない!」

 

 城ヶ崎は頭から湯気が出そうなほど赤くなり、たまらず両手で顔を覆って机に突っ伏してしまった。

 

「大原さんも横山さんも、からかっちゃ駄目だよ。デートなんかじゃないさ。初心者はどうしても道具の良し悪しが分からないから、ある程度心得のあるボクがついて行ってあげるだけだよ」

 

 俺が大真面目に説明すると、大原さんは大げさに天を仰ぎ、深いため息を吐き出した。

 

「はぁぁ……姫宮さん、そういうとこ! 本気でそう思ってそうなのが一番罪深いんだからね!」

 

「罪深い……? 何か悪いことを言ったかな?」

 

「言ってないけど言ってるの! もう、城ヶ崎君が不憫すぎて見てられないわ!」

 

「ほんまそれやわ。城ヶ崎君、茹でダコ通り越して真っ赤なトマトになっとるやん。頑張りや、応援しとるからな」

 

 横山さんが机に突っ伏したままの城ヶ崎の背中をポンポンと叩く。城ヶ崎は指の隙間から恨めしそうに二人を睨みつけ、それから恐る恐る俺の方を見上げてきた。

 

「……姫宮、本当にいいのか? 俺、野球の道具のことなんて全然分かんないから、一緒に行ってくれたらすごく助かるけど……迷惑じゃないか?」

 

「迷惑なわけないでしょ。君が変なグラブを使ってよくない癖をつけた方が、ボクが困るんだからさ。今日は放課後に野球部の練習があるんだろ?」

 

「あ、うん。月曜の練習があるよ」

 

「じゃあ、部活が終わった後の夕方にしよう。着替えが終わったら、校門の前で待ち合わせね」

 

「う、うん……! 分かった、すぐ行く!」

 

 城ヶ崎が嬉しそうに頷いたところで、五時間目の着席チャイムが鳴り響いた。大原さんと横山さんが顔を見合わせてクスクスと笑いながらそれぞれの席へと戻り、城ヶ崎も窓際の自席へ戻っていった。

 

 放課後。終礼のチャイムが鳴ると、城ヶ崎はグラウンドでの部活練習へ向かうため、慌ただしく教室を飛び出していった。部活が終わる夕暮れ時までにはまだ二時間ほどの余裕がある。俺は一度、学校から自宅へと足を向けた。

 

 あいつを野球の世界へ引っ張り込んだのは、他でもない俺だ。今世の姫宮家の両親は娘の熱意をとても応援してくれていて、トレーニング用具や参考書などは言えば快く買い与えてくれた。俺には可愛い雑貨や流行りの服に小遣いを使う機会がほとんどなかったため、高校生にしてはかなりの蓄えがある。今日は俺が全額出すつもりだった。

 

 城ヶ崎の手に合うことを第一に選ぶ予定だから、高校生が気軽に買えるような金額ではない本格的な道具になるかもしれない。

 俺は自室の机の引き出しからまとまった額の紙幣を抜き出し財布へと収めた。

 

 夕暮れが近づく頃、約束の時間に合わせて学校の校門前へと戻った。正門の脇に立って待っていると、校舎の通用口からスポーツバッグを肩にかけた城ヶ崎が小走りでやってくるのが見えた。制服に着替えてはいるが、額の生え際や首筋にはまだ練習終わりの熱気が残っている。

 

「待たせてごめん、姫宮!」

 

「ううん、ボクも今着いたところだよ。部活、お疲れ様」

 

「おう! 急いで着替えてきたよ」

 

 息を整える城ヶ崎を促し、俺たちは並んで駅へと向かった。

 改札を通ってホームへ上がり、数駅先の大きな街へと向かう電車に乗り込む。

 夕方の車内は、下校途中の高校生や仕事帰りの大人たちでそこそこ混み合っていた。

 

 並んで吊り革の下に立ったものの、ここで一つ地味な問題が生じた。吊り革の位置が高すぎるのだ。

 今の俺の身長でも掴めることは掴める。だが、腕を真上にピンと伸ばし、少し背を伸ばしていなければ届かない位置だった。前世の感覚で何気なく手を伸ばしたものの、電車の揺れが来るたびに肩の筋が引っ張られ、ずっと掴まり続けるのは地味にきつい。

 

「……ん」

 

 腕を下ろして軽く息を吐いた俺は、隣に立つ城ヶ崎を見上げた。

 百八十センチを超える大柄な体躯。太い腕が何でもなさそうに吊り革を掴んでおり、まるで大木のような安定感がある。

 

「城ヶ崎君、ちょっと掴まっててもいいかい。あの吊り革、ずっと背を伸ばしてないと届かなくてさ」

 

「えっ……!? あ、う、うん……! 全然いいけど……!」

 

「助かるよ」

 

 俺は城ヶ崎の制服の袖口を軽く指先で掴ませてもらった。

 その瞬間、城ヶ崎の全身がピシリと音を立てそうなほど完全に硬直した。電車がカーブを曲がるたびに、あいつは下半身をガチガチに踏ん張り、俺に余計な体重がかかったり身体が触れたりしないよう必死に耐えている。耳の先までみるみるうちに赤くなっていき、呼吸まで浅くなっていた。

 

「城ヶ崎君、もっと力を抜いて吊り革を持たないと肩が凝ってしまうよ。電車の揺れに身を任せて、足腰でバランスを取るんだ」

 

「あ、ああ……そうだな……」

 

 城ヶ崎は蚊の鳴くような声で返事をして、視線を窓の外の流れる景色へと固定している。人混みが苦手なのだろうか。

 そんなこんなで電車に揺られること十数分、俺たちは大きな駅前の広場へと降り立った。夕暮れの街は駅ビルのネオンや街灯の明かりが灯り始め、華やかな活気に満ちていた。

 

「あの大型商業ビルの五階に、地域で一番大きいスポーツ用品店が入っているんだ。行こう」

 

「お、おう……姫宮、歩くの早いな」

 

 エスカレーターを乗り継ぎ、五階のフロアへと足を踏み入れると、そこには広大な売り場が広がっていた。ランニングシューズやトレーニングウェアが並ぶエリアを抜け、奥のベースボールコーナーへと向かう。コーナーの入り口に立った瞬間、城ヶ崎が息を呑んで立ち止まった。

 

「うわ……なんだこれ……すげえ数だな……」

 

 壁一面に備え付けられた木製の棚に、何百個というグラブがずらりと並んでいた。黒、茶、オレンジ、黄色。なめし革独特の匂いがフロアいっぱいに漂っている。

 

「こんなにあるのかよ……。形も色も全然違うし、どれを選べばいいのかさっぱり分からないぞ……」

 

 城ヶ崎が途方に暮れたように頭を掻いた。無理もない。初心者の目には、どれも似たような革の塊に見えるはずだ。

 

「まずは形を見るんだよ。守るポジションによって、グラブの形は全く違うんだからね」

 

 俺は棚の前に歩み寄り、いくつかのグラブを指差しながら説明を始めた。

 

「例えばこれ。縦に長くてポケットが深いのは、外野手用だ。遠くへ飛んできたフライを確実に掴むために、指の部分が長く作られているんだよ。こっちの小さくて浅いのは内野手用。捕ったボールを素早く右手へ持ち替えて送球するために、ポケットを浅くしてあるんだ」

 

「へえぇ……! 形によってそんなに役割が違うのか……!」

 

 城ヶ崎は目を輝かせ、感心したようにグラブを見つめている。新しい知識を素直に吸収するその瞳は、まさに学ぶ意欲に満ちたアスリートのそれだった。

 

「そして、君が探すべきなのは投手用だ」

 

「ピッチャー用って、どんな特徴があるんだ?」

 

「一番大きな特徴は、この親指と人差し指の間の網、ウェブと呼ばれる部分だよ」

 

 俺は棚から一つの黒い投手用グラブを手に取り、城ヶ崎の目の前に掲げて見せた。

 

「内野手や外野手のグラブは、隙間があってボールが見える編み込みの網になっていることが多い。でも投手用は、このグラブみたいに一枚の厚い革で隙間を塞いである型が多いんだ。どうしてだと思う?」

 

 城ヶ崎はグラブを覗き込み、少し首を傾げてから答えた。

 

「ええと……強い打球が飛んできても破れないようにするため、とか?」

 

「それもあるけれど、一番の理由はボールの握りを隠すためだよ。少し前にカーブを教えたでしょ?」

 

「あ……うん!」

 

「今はまだ試したばかりだけど、これから色んな球種を投げ分けるようになったとき、グラブの中でボールを握り直す指先が隙間から見えたら、相手のバッターやベンチに筒抜けになってしまう。だから、グラブの中でボールを握り直すとき、隙間から指が見えないよう完全に覆い隠す形状になっているんだ」

 

「なるほど……! 相手に球種を悟らせないためか……!」

 

 城ヶ崎が深く納得したように頷いた。道具の持つ意味を理解して身につけることは、これから自分で道具を選ぶときに役立つだろう。

 

「いらっしゃい。高校から野球を始めるのかい?」

 

 声をかけてきたのは、スポーツ店のロゴが入ったエプロンを着けた初老の店員だった。

 

「はい。この子が高校の野球部で使う、硬式の投手用グラブを探しているんです」

 

「硬式用だね。それなら、最初の一個として扱いやすい手頃なモデルから見てみるかい?」

 

 店員が棚からいくつか候補を指し示してくれた。せっかく真剣に投手を志すのなら、型崩れしにくく、長く大切に使っていけるものを選びたかった。俺が奢るつもりなのだから、値札の差など気にする必要はない。何より大事なのは革の質と手への収まりだ。

 

「よし、君の手に合うものを探そうか。ちょっと左手を出してごらん」

 

「え? 左手?」

 

 俺は城ヶ崎の左手を両手で取り、その手のひらを広げさせた。

 

「ひゃっ……!?」

 

 城ヶ崎が肩をビクンと跳ねさせたが、俺は気にせず指の長さを確かめた。指が長く、関節の柔軟性もしっかりしている。手首の骨格も太く、まだまだ大きくなりそうな手だ。手のひらの厚みに対して、城ヶ崎の指は少し長めだ。浅いグラブだと指先が遊んでしまうし、大きすぎるグラブだと手首がグラついてしまう。

 

「すみません、あちらの本格的な投手用もいくつか試させていただけますか?」

 

「おっ、あっちかい! いいねえ、やる気満々だ。ちょっと待ってな、いいやつを出してあげるよ」

 

 店員が嬉しそうに目を細め、棚から硬式投手用グラブをいくつか持ってきてくれた。俺はその中から、革の質感とサイズ感を厳選し、三つの候補を選び出した。一つはしっとりとした黒い革のもの。もう一つは少し硬めの濃い茶色のもの。そして最後は、手に吸い付くような柔軟性を持つキャメル色のグラブだ。

 

「ほら、まずはこの黒いのを手にはめてみて」

 

 城ヶ崎は言われるがまま、大人しくグラブに左手を差し込んだ。手首の締まりを確かめながら、ぎこちなく指を動かしてみる。

 

「どうだい? 小指と親指を閉じたとき、手のひらの真ん中に違和感はないかい?」

 

「うーん……ちょっと革が突っ張る感じがして、指が動かしにくいかも。親指の付け根が硬くて引っかかる感じがする」

 

「分かった。じゃあ、次はこの茶色のやつ」

 

 グラブを取り替えさせ、フィット感を確かめさせる。何回か手を握ったり開いたりさせながら、手首の角度や指の曲がり具合を一つずつ観察していく。

 

「これはどう?」

 

「さっきのよりは指が動くけど、手首のところが少し緩い気がする……」

 

「なるほどね。じゃあ、最後はこのキャメル色のグラブを試してみて」

 

 俺が差し出したグラブに城ヶ崎が手を入れた。その瞬間、城ヶ崎の表情がふっと変わった。

 

「……あ」

 

「どうだい?」

 

「これ……すごい。手を入れた瞬間、指が吸い付くみたいにぴったり収まる。手首のところも全然グラグラしないし、親指と小指が自然に閉じる感じがするよ!」

 

 城ヶ崎がパッと顔を輝かせ、嬉しそうにグラブを開閉してみせた。

 俺はそのグラブを受け取り、手のひらのポケット部分を右手でポンポンと力強く叩いてみた。パンッ、パンッと、張りのある小気味のいい音が店内に響く。新品らしい硬さはまだ残っているものの、革の繊維が細かく、しなやかでありながら芯がしっかりしている。プロ仕様の最上級の革が使われており、耐久性も申し分ない。手入れを続ければ、あいつの投球動作に合わせて理想的な深さのポケットが自然と作られていくはずだ。手首のホールド感も、城ヶ崎の強い腕の振りに負けない安定感を持っていた。

 

「うん、素晴らしいグラブだ。革の質も最高だし、君の手の骨格に完璧に合っているよ。まだ新品の硬さはあるけれど、これなら変な癖もつかないし、高校三年間どころかその先まで使える相棒になるはずだ」

 

「本当か! よし、俺、これにするよ!」

 

 城ヶ崎が満面の笑みを浮かべ、グラブを愛おしそうに眺めた、その直後だった。グラブの内側の革紐にぶら下がっていた小さな厚紙のタグに、城ヶ崎の視線が留まった。

 

「……って、うわっ!?」

 

 突然、城ヶ崎が飛び上がって素っ頓狂な悲鳴を上げた。顔から一瞬で血の気が引き、目玉が飛び出さんばかりに見開かれている。

 

「ご、五万二千円……!? ひ、姫宮さん、これ、五万超えてるぞ……!?」

 

 掠れた声で叫び、グラブを取り落としそうになる城ヶ崎。一か月分の小遣いをはるかに上回る金額に、完全に腰を抜かしかけていた。

 

「うん。プロ仕様の高級品だからね。それくらいの値段はするさ」

 

 俺は眉一つ動かさず、ノータイムで制服のブレザーの内ポケットから財布を取り出す。

 

「すみません、これください」

 

 俺は迷うことなくレジカウンターへ向かって歩き出した。レジの奥から、初老の店員が笑顔で迎えてくれる。

 

「はい、毎度! お嬢ちゃん、いいグラブを選んだねえ!」

 

「ちょ、ちょっと待て! 待ってくれ姫宮!」

 

 背後から血相を変えた城ヶ崎が突進してきて、俺とレジの間に割って入った。両手を大きく広げ、必死の形相で俺の財布を押し留めようとしてくる。

 

「なんで姫宮が財布を出してるんだよ!?」

 

「なんでって……ボクが買うからさ。君を野球の世界へ引っ張り込んだのはボクなんだから、これくらいは初期投資の必要経費だよ。ボクが奢るから、気にしなくていいよ」

 

「気にするに決まってんだろ!!」

 

 城ヶ崎が顔を真っ赤にして絶叫した。店内にいた他の客たちが何事かと振り返るが、あいつは周りの目など気にする余裕すらないらしい。

 

「お、女の子に……同級生の女の子に五万円もするグラブを全額奢られるなんて、男としてダサすぎるだろ! 死んでもそんな格好悪いことできるかよ!」

 

「ダサいとか格好いいとか、そんな見栄を張っている場合じゃないだろ。君のその素晴らしい肩には、このレベルのグラブが必要なんだよ」

 

「見栄じゃない、男の意地だ! 絶対に奢られたりなんかしないぞ!」

 

 城ヶ崎は頑なに首を横に振り、大慌てで自分のズボンのポケットから革の財布を引っ張り出した。そして、チャックを開けて中身を必死に確認し始める。

 

「俺が自分で払う! 俺の金で……帰りの電車代はよけて……ええと、五千円札が一枚と、千円札が三枚と、小銭が……」

 

 数秒後、城ヶ崎の手がピタリと止まった。財布の中身を覗き込んだまま、絶望に満ちた表情で固まっている。

 

「……八千四百円しかない」

 

「ほら、足りないじゃないか」

 

「うぐっ……!」

 

 ぐうの音も出ない事実に、城ヶ崎が胸を押さえて悶絶した。高校一年生の男子が放課後に持ち歩く小遣いとしては至極真っ当な金額だが、五万を超える特級品のグラブの前にはあまりにも無力だった。

 

「だからボクが出すって言ってるだろ。ほら、そこを退いておくれ」

 

「嫌だ! 退かない!」

 

 城ヶ崎は歯を食いしばり、それから意を決したように、俺の真正面で深々と頭を下げた。床に頭がつきそうなほどの、渾身の直角のお辞儀だった。

 

「頼む、姫宮! 今持ってる八千四百円は全部頭金として払う! 残りの四万三千六百円は……俺に貸してくれ!」

 

「……貸す?」

 

「そうだ! 毎月のお小遣いから絶対に全額返す! 足りなければ休みの日にバイトでも何でもして、一円も狂わずに絶対に耳を揃えて返すから! だから……俺に借金させてくれ!」

 

 必死の叫びだった。女の子に奢られるのは死んでも嫌だが、俺が選んだこのグラブを諦めたくもないのだろう。その二つの思いが激しくせめぎ合った末に絞り出された、高校生男子としての精一杯の誠意とプライドに見えた。

 レジの奥の初老の店員が、目を細めてニヤリと笑った。

 

「いいねえボウズ、熱いね! 男の意地ってやつだな!」

 

「店員さんは面白がらないでください……」

 

 俺は苦笑交じりに首を振った。返す必要なんて全くない。あいつを野球に巻き込んだのは俺だし、五万程度で城ヶ崎の身体に完璧に合う道具が手に入るなら安いものだ。それに何より、ついこの間まで野球のルールも知らなかった初心者が、借金してまで五万円のグラブを背負う覚悟を決めるほど野球にハマってくれたのだ。その熱意が何よりも嬉しかった。

 

「いいよいいよ、返す必要なんてないさ。出世払いですらなくていいよ。ボクが勝手に勧めたんだから、ボクが全額奢るよ」

 

「嫌だ! 絶対に受け取れ!」

 

 城ヶ崎は頑として譲らず、財布から出した八千四百円をレジの上に無理やり叩きつけた。

 

「足りない分は絶対に毎月返すからな! 貸しにしとけ!」

 

 これ以上押し問答を続けても店に迷惑がかかるだけだ。俺は苦笑しながら、残りの四万三千六百円を財布から出して店員へ渡した。あいつは意地を張って借金だと言い張っているが、俺としては毎月金を回収する気など毛頭ない。あいつが出した八千四百円はともかく、残りの分は俺が奢ったつもりでいればいいだけのことだ。

 

「坊主、いいグラブを手に入れたんだから、手入れもしっかりやりなよ。新品のうちは油を塗りすぎちゃ駄目だぞ。使った後は乾いた布で汚れを落として、たまに薄く塗るくらいでいい。夜寝るときは、綺麗なポケットの形が崩れないように、ボールを挟んでバンドで留めておくんだ」

 

 店員がレジ脇の棚から手入れ用品を示して教えてくれた。俺はその保革油と、型を固定するための保型ボール、それに留め具のバンド、棚の隅にあった練習用の軟式球二個を手に取った。

 

「すみません、この手入れ用品と軟式球二個もください」

 

「あ、おい姫宮!」

 

「これは応援するボクからの贈り物だよ。グラブを大切に使ってほしいからね。この分まで意地を張らないでおくれ」

 

 俺がそう言うと、城ヶ崎は顔を赤くしながらも口ごもり、やがて小さく「……ありがとう」と呟いて頭を下げた。手入れ用品と軟式球の代金を俺が別に支払い、すべての買い物が終わった。

 店員は面白そうに目を細めながらレジを打ち、城ヶ崎の手にピカピカの新しいグラブの箱と袋を手渡してくれた。

 

「大事に使いなよ、ボウズ! そんなに熱い彼女がいるんだから、絶対にいい選手になるんだぞ!」

 

「彼女じゃないです! でも、絶対にいいピッチャーになります!」

 

 城ヶ崎は真っ赤になりながらも、力強い声で宣言した。

 

 買い物を終えて商業ビルを出ると、外はすっかり濃い紫色の夜に包まれていた。駅前通りの並木道には街灯が灯り、心地よい夜風が頬を撫でていく。

 城ヶ崎はスポーツ店の大きな紙袋を、まるで宝物でも抱き抱えるかのように両手で抱きしめて歩いていた。

 

「姫宮」

 

「何だい?」

 

「今日のこと、絶対に忘れないからな」

 

 城ヶ崎が立ち止まり、俺の方を真っ直ぐに見つめてきた。その瞳の奥には、メラメラと燃え上がるような熱い闘志が宿っていた。

 

「俺、絶対に誰よりも練習して、誰よりも速い球を投げて、県で一番のピッチャーになってみせる。そして……このグラブ代の何倍も、何十倍も、お前に結果で返してやるからな。覚悟しとけよ!」

 

「楽しみに待っているよ、城ヶ崎君。借金のことなんて気にしなくていいから、君の最高のピッチングを見せておくれ」

 

「気にするよ! 絶対に耳を揃えて返すからな!」

 

 城ヶ崎が頬を膨らませて叫び、紙袋をもう一度強く抱きしめた。

 

 これで明日からは部室まで走らなくても、教室からマイグラブを持ってすぐ中庭へ飛び出せる。

 明日からのキャッチボールのことを想像しながら、俺たちは並んで駅の改札へと歩き出した。

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