ソニアからの紹介で変な製薬会社に入った時、ひどく警戒したのを覚えてる。感染者を無条件で受け入れ、ある程度の労働や対価を払えば無償で治療もしてくれる場所だと聞いた時は耳を疑った。
んなわけあるか。きっと何か裏があるに違いない。そう思っていたけど……。
サンクト・グリファーブルクの事件からしばらく経ち、ロドスでの生活にだんだん慣れてきてからその認識は変わった。治療は本当に受けられたし、疑ってた自分が馬鹿らしくなるくらい環境がよかった。
何より関わる大人がすべてまともなのだ。
生まれてこの方、まともな大人に出会ったためしがない。母さんは産まれた時に死んじゃったからわからないけど、父さんは賭け事にはまってろくでもなかったし、配管掃除の時の雇い主も記憶から抹消したくなるくらいひどかった。
それに比べてロドスには、真剣にあたしの治療をしてくれる医療部の人がいて、同じウルサス出身でリーベリの優しいお姉ちゃんもいる。こんな世界があるなんて思いもしなかった。
「やあウクシク。今日の調子はどうだい?」
そんな中、あたしは数日前からフードを被ってる変な人の助手をしている。
ロドスの実質トップみたいな人だから、この人は特にまともな人だろうと思う。ソニアからもいっぱい功績や逸話は聞いているけど、本当に現実なのかと思うほどだ。
「おやつがないから不機嫌」
「う、うーん。執務室のものはつい先日エクシアが全部食べたからないんだよな」
「じゃあ仕事やらなーい」
「なら仕方ない。ソニアかロザリンの手伝いでもしてもらおうか」
「うそうそ! 冗談だって」
そばで仕事をしている姿を見ていると有能そうではあるけど、全然緊張せずに話せる不思議な雰囲気の人だった。
「じゃあ近くの自販機に買い出しに行こう。あんたのおごりね。あたしをこき使うならそのくらいの覚悟は持ってもらわないと」
「はいはい……」
だから、からかいたくもなってくる。それも全部許されてる。照れ隠しでいたずらばかりしちゃうけど、実は本当に感謝してる。
ああ、なんて居心地のいい場所なんだろう。今までいた場所は何だったのかってくらいに幸せだ。
ただその幸せの中で、一つだけわからないことがある。なんで文字を読めないあたしを助手にしてるんだろうか。
他に仕事ができる人なんて、できない人を数えるのが早いくらいには多いはずだ。なのにあたしをあえて選ぶのは、社会に出る前の教育の一環のつもりなんだろうか。
そんな引っかかりを頭の片隅で考えながら過ごしていたある日……。
「ウクシク。話があるんだが」
執務室に入ると、ドクターは机に肘を置き、両手を組んでこちらを見ていた。妙に緊迫した空気が流れている。
「急に改まってなに? もしかして前に言ってたおやつが入ってきた? あれおいしかったんだけど売り切れてて残念だったんだよねー」
「……」
「あ、じゃあ前に備品が無くなったって話? 光っててきれいな物だけど、犯人はあたしじゃないからね」
「……」
明らかにいつもと雰囲気が違う。ウルサスの工場があげる煙みたいな、重い空気が執務室を覆っている。
「非常に言いづらいんだが……」
え? 一体何を言われるの? もしかしていたずらしすぎちゃって怒られるのかな。そんな考えが頭に浮かんだ途端、一気に怖くなってくる。また一人になるのは嫌だ。またあんな生活に戻るのは嫌だ。
心臓がきゅっと縮まった緊張の中、重い口を開いて彼はこう言った。
「君の穿いてるタイツをくれないか?」
「は?」
何を言ってるのか、頭が一切受け付けなかった。空調の音すら聞こえる静かな空間にぽつんといるような感覚になったけど、すぐに顔が熱くなってきて現実に戻ってきた。
「は……はあ! 何を言ってるのドクター!」
「タイツをくれないか」
「聞こえなかったわけじゃないっての! バカ! スケベ! 変態!」
持っていた武器で殴りつける。それを腕でガードしながら、
「く! 作戦は失敗に終わったか。十一歳くらいならそういう認識はないと思ったんだが、知識はあったか」
「さすがにあたしでもわかるわ! なめるな!」
あたしを助手にしたのはそのためだったの!? 何か自分に対していいように扱ってくれているとふんわり思っていたのに、あたしのタイツが目的だったなんて幻滅した。腹が立って殴る力が徐々に強くなっていく。
「わかった! こうしよう!」
「なんだよ」
「光り物をあげるからちょうだい! 対価対価!」
「そんなんであたしが納得すると思ったか! 何がこの地上で最強の戦略家じゃー!」
渾身の力を込めた一撃はドクターの腕をちょうどするりと抜け、頬にクリーンヒットした。その衝撃でごきりと鈍い音を立て、ドクターの頭は後ろへ半回転した後動きが止まった。
絶望の沈黙が訪れたと思った次の瞬間、見えないレンチで一気に動かしたように斜めになった顔を正面に向ける。
「何がそんなに不満なんだ?」
「な、何が? てか今の怖いんだけど」
「それは気にするな」
首を思い切り鳴らし、元に戻した。
「そもそもの話、ウクシクはなんでタイツをあげるのが嫌なの?」
「だ、だって男子が好きな子の物をもらうとか、間接キス狙ってるとかあるじゃん。さすがにそういうやましい感情があるってのはこの年でも知ってるよ。あげる側としては恥ずかしいし気持ち悪くない?」
「好きな子? 間接キス? 君は何を言ってるの?」
イラッとしたけど我慢。
「じゃあウクシクは、私はナニをすると思っているの?」
「ん……え……それをあたしに聞くの?」
「そうだよ。タイツを使ってナニをすると思ってんの」
「え、えっとそんなのわからないよ」
改めて言われるとよくわからない。エッチなことに使う?
「で、でも女の子の身につけた物をただ欲しいわけないじゃん。絶対変なことに使おうとするに決まってる!」
「何もしないよ。私はタイツが欲しいだけで、何かするわけじゃないよ」
すごく真面目な表情で言った。
「ただ物が欲しいってだけなわけないじゃん!」
「じゃあウクシクは、光り物を何で集めてるの?」
「え……」
「何かに使うため? 触るため? 違うでしょ。ただ集めるだけでしょ。タイツもそれと一緒だよ」
い、言われてみれば確かに。
「当然新しい物は買ってあげるし、何ならスペアもいくつか買ってあげる。お礼としておやつもたくさんあげるし、光り物を盗んだ件も水に流してあげる」
「タイツが欲しいなら自分で買えばいいんじゃ――」
「意味ない! それじゃあただの布!」
机をドンと叩く。
「何はともあれエッチなことはしない! 君に手を出すわけでもない! ただ脱いだタイツをここに置いてくれって言ってるの! 何か不都合でもあるの?」
「い、いや」
「おやつももらえるんだから得だらけじゃん。ただタイツをやるだけなんだよ」
頭が混乱してきた。
確かにあたしは何をそんなに嫌がっていたんだ? それでおやつももらえて、たぶんばれてるあたしの罪も許してあげると言ってるのだ。
タイツはあげ得では?
「わかった」
「お?」
「あげるよ。だからおやつとか、光り物の件もお願いね」
意を決し、スカートの中に手を突っ込む。
お腹にあるタイツのゴム部分に親指をかけ、ゆっくりと下げていく。気恥ずかしさもあったからぎこちない動きになってしまって、タイツのざらざらとした触感がふとももを少しずつなぞっていった。若干スースーしたところで、たわんだタイツを両手でつかんでさらに下げていく。白いふとももがあらわになったあたりで、脱ぎやすいようにちょっと腰をかがめる。
まるでトイレを今からするみたいだと思った瞬間、ふと我に返る。
ああ、恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。あたしなんでこんなことしてるんだ。いくらおやつとかもらえるとか言っても、なんか大事な物を失っている気がする。
顔と頭が沸騰したみたいに熱くなり、もういいやと勢いよく膝まで下ろし、靴をポイポイと脱いで足の先からタイツを引っ張る。
「そんな行儀の悪い」
うるさい言動を無視して思い切り引っ張り、何とか脱ぐことができた。
「はい。これ」
裸足で足早に机に向かい、タイツを置いてすぐに引き返す。
「おお、ありがとう。でも一つ言わせてもらうと」
タイツに落とした目をこっちに向けて言った。
「目の前で脱ぐ必要は、別になかったんだよ」
「……」
◆
すっごい恥ずかしい思いをした。大事な物を失った。
今の流れは一体何だったんだ。徐々に現実に戻ると本当に恥ずかしい気持ちになる。それにつられて足早に歩いてるもんだから、足やスカートの中に風があたり、スースーして違和感がすごい。
医務室に行こうかなってくらい顔が熱い。ああ、行ったとしてもなんて言えばいいんだろう。
「あれ? ウクシクちゃんだ」
声がしたので顔を上げると、廊下の突き当たりに見覚えのある人物がいた。機械の手と生身の手を同時に振っていたのは、レイディアンという女の人だった。同じウルサス出身のリーベリなのもあって打ち解けた、まともな大人の一人だ。
「どうしたの? 何か元気がないよ?」
いつものように、お母さんみたいな甘い声で聞いてくる。
「う、うーんちょっとね……」
「風邪でもひいた? 今日は寒いのに素足で過ごしてたせい……いや、タイツは穿いていたような気がするんだけど」
「聞いてよ。ドクターにさ――」
一連の出来事を話すと、
「……は?」
開眼した。
細い目が自然と見開かれ、表情がビデオを停めたみたいに固まった。
「その話、本当?」
「うん」
「へえ」
その表情のまま執務室の方を向き、
「ちょっと待っててね。ドクターと話をつけにいくから」
そう言って彼女は、まるで戦地の行軍みたいに姿勢を保ったまま恐ろしい速度で廊下を歩いて行った。
あまりの豹変ぶりに驚きはしたけど、殺気がすべて廊下の向こう側に向かっていたから恐怖心はなかった。
ああ、びっくりした。あの人あんなに怒るんだ。とんでもなくヤバそうな雰囲気だけど、ドクター大丈夫かな。
心配にはなったけど、さっきまで受けた屈辱がまだ頭の中でぐるぐるしている。
……まあどうでもいいや。
「うわああああああああああ!!」
執務室の方からとんでもない音がしてきたけど、あたしは知らない。部屋に帰って暖かい飲み物でも飲んでおやつでもたーべよっと。
まともな大人が一人減ったロドス艦内を、一つくしゃみをして歩いて行った。
◆
ドクターは死んだ。レイディアンの四つ腕を余すことなく使った五十六連撃を受け、執務室でボロ雑巾のようにうち捨てられていたのだ。
即座にドクターは医務室に運ばれ、レイディアンの証言を元に秘密裏に現場検証が行われた。
すると彼の机から赤や黒の様々なタイツが出てきた。全部がクリアファイルに丁寧にしまわれており、その数は十以上にも及んだ。観賞用なのか、匂いを嗅ぐためなのか。収集した目的は一切不明である。
いずれにせよこの事件は、いつもの服装なのに珍しく素足だったCEOの権限により闇に葬り去られた。