化学工場のガス漏れ事故が「あの男による完全犯罪の証拠隠滅だ」と結論づけてから数日後。
ビデオ屋『Random Play』で、アキラとリンは緊張感に包まれた面持ちで準備を進めていた。
数日前、千夏から直接手渡されていた関係者パス。
『今度、うちらのライブがあるんや! 絶対観に来てな!』――その時は純粋に喜んでいたが、今の彼らにとっては、危険な裏社会のフィクサーの動向を監視するための重要な足がかりだった。
「千夏ちゃんからパスをもらった時は嬉しかったけど…Fairyが調べた通り、あの男はプレミアムチケットを手に入れていて、このライブに参加するんだよね…。千歳は千夏ちゃんの実の兄だし、実の妹を利用したり巻き込んだりするような真似はしない…そう信じたいけど」
「ああ。だが、奴が何を引き起こすか分からない…奴の本当の目的を暴くためにも、目を光らせておく必要がある」
アキラとリンは身支度を整えると『Random Play』をあとにして、六分街の地下ライブハウスへと急いだ。
受付で関係者パスを提示し、重厚な扉を抜けて会場内へと潜り込む。二人は薄暗いPAブースの影に身を潜め、静かに会場内を見渡しながら耳元のインカムを調整した。
『マスター。対象者・千歳の視認に成功しました。ステージ正面、最前列中央に位置取っています』
小型モニターに映し出された男の姿は、いつもの完璧なオーダーメイドスーツ姿であった。周囲の熱狂的な観客の中で、ただ一人異様なまでの冷厳な威圧感を漂わせている。
「…やっぱり、ここで何かを企んでいるのか」
アキラとリンが息を呑んでモニターを見つめた、その瞬間だった。
場内の照明が突如として暗転し、重低音のオープニングSEが空間を圧迫する。ステージ上に眩いスポットライトが照射され、きらびやかな衣装に身を包んだ『妄想エンジェル』のメンバーたちが一斉に躍り出た。
リーダーである南宮羽が軽快なステップで会場の熱気を一気に引き上げ、生き生きとした笑顔を見せるアリアが、心地よい歌声を響かせる。その中央ポジションで、千夏が最高にキュートな笑顔を咲かせた。
最高のステージが始まった――まさにその刹那。
最前列で、天地を揺るがすような異常事態が起きた。
千歳が、恐ろしいほどの速度でスーツの上着を脱ぎ捨てたのだ。
その下に仕込まれていたのは、ド派手なピンクの法被。頭には『千夏命』の金糸刺繍ハチマキ。そしてペンライトが両手に握られていた。
「千夏ちゃん! 世界で一番可愛いよーーーっ!!!!」
極限まで鍛え上げられた鋭いキレと体幹で凄まじいオタ芸を繰り出し、鬼気迫る表情で叫ぶ千歳。普段は閉じている糸目がこれ以上ないくらいに開き、開眼していた。
「「…えっ?」」
PAブースの影で、アキラとリンは完全にフリーズした。
口をぽかんと開けたまま、最前列で誰よりも激しく動き、必死の形相でピンクの光の軌跡を描き続ける男を凝視する。
「…な、なんだあの格好…!? いや…あの男が素でそんなことをするわけがない…何か裏で作戦を進めるための『カモフラージュ』、あるいは敵の目を欺く高度な心理戦…?」
「た、たぶんそうだよね、お兄ちゃん…! あの人だもん、絶対に深い意味があるはずだよ…!」
困惑と過剰な先入観が交錯し、二人はただただ冷や汗を流して固まることしかできなかった。
ライブは盛況のうちに終了し、狂乱の余韻が残る会場から観客が退場していく。
関係者であるパエトーンの二人は、楽屋裏の薄暗い通路の物陰から慎重に様子をうかがっていた。
通路の奥、壁の影に男が一人で立っていた。
その表情は恐ろしいほど真剣で、どこか思い詰めているように目元を固く閉じている。彼は手元の大きな黒いアタッシュケースに手をかけ、独り言のようにぶつぶつと呟きながら「何か」を取り出そうとしていた。
「…今回の『任務』は完璧に終了しました。不届きな輩は事前に排除し、次回以降の『物資』も完璧に確保してあります…」
物陰からその独り言を聞いてしまったアキラとリンは、背筋が凍るような思いで顔を見合わせた。
(任務……物資…っ! やっぱり、このライブの裏で組織同士の血なまぐさい抗争や物資の密輸を行っていたんだ…!)
(一人でそんな物騒な作戦を…!)
そこへ、ステージ衣装のままの千夏が、南宮羽やアリアといったメンバーたちと一緒に楽しそうに歩いてやってきた。
「お兄ー? なにしてるん、こんなところで」
「千歳さん、お疲れ様です! 今日のオタ芸もすごい迫力でしたねー」
「今日も千歳さんの声援、はっきり聞こえてましたよ!」
千夏たちに声をかけられ、千歳はハッと我に返った。
先ほどまでの凄まじい威圧感はどこへやら、彼は即座にビシッと背筋を伸ばし、いつもの完璧な敬語と爽やかな笑顔で深々と一礼する。
「おや、南宮さん、アリアさん、そして千夏! 本日のステージも実に素晴らしいパフォーマンスでした。皆様が無事に歌い終えられるよう、私も祈っておりました…!」
千歳は厳格な面持ちに戻ると、持っていたアタッシュケースをそっと開けた。
「そして、これが私が徹夜で準備を重ねた…今回の『最高傑作』です。受け取ってください」
千歳がケースから厳重に取り出したのは――メンバー全員分の名前が丁寧にデコレーションされた、ずっしりと重みのある特製ホールケーキと、白い封筒だった。
「毎夜の睡眠時間を削り続けた『愛と執念の結晶』が詰まっています。そしてこの封筒には、推しメンたちの尊さを綴った熱量2万字超のファンレターが同封されています」
メンバーたちは、それを全く見慣れた光景として自然に受け止める。
アリアが柔らかな笑みを浮かべながらケーキの箱を覗き込み、羽もパチパチと手を叩いた。
シブシブと呆れ返りながらも、千夏がその箱に手をかける。
「もおー! お兄、またメンバー全員分のケーキなんて作って! 手作りの特大ケーキは物理的に重いって言ってるやん! それにこの封筒…なにこれ、びしょびしょやんか!」
「千夏っ! 今日のライブも最高でしたよぉぉっ! 皆様のパフォーマンスに…私は感動いたしました!!」
ボロ泣きしながらその場に膝をつき、笑顔でケーキと涙で濡れたメンバー全員宛てのファンレターを捧げる千歳。
「「…え?」」
物陰で身構えていたアキラとリンの思考が、完全に停止した。
アキラの声が引きつり、思わず足が勝手に物陰から一歩を踏み出してしまう。
ガサリと音を立てて出てきた二人に気づいた千歳は、慌ててハンカチで涙を拭うと、いつもの完璧な敬語と涼しげな顔つきで姿勢を正した。
「おや…これは、いつも千夏がお世話になっておりますビデオ屋のお二人ではありませんか。関係者パスをお持ちでいらしていたとは…ふむ、なぜそのような混乱した表情をされているのですか?」
「あ、いや…だって、さっき『任務』とか『物資』って一人で……」
アキラが引きつった顔で尋ねると、千歳はきわめて紳士的な物腰のまま、当然のように首をかしげた。
「ええ。今回の任務とは、最前列でファン仲間と共に彼女たちを全力で応援すること。そして物資とは、今夜のために昨夜徹夜で焼き上げたメンバー全員分の手作りケーキの材料ことですが?…ファンとして、また兄として当然の嗜みですが、何か不審な点でもございましたでしょうか?」
「えっ…じゃ、じゃあ『数千の邪魔者を処理した』とか『不届きな輩を排除』、っていうのは…!?」
リンが堪らず身を乗り出して問い詰めると、千歳は合点がいったようにポンと手を打った。
「ああ、そちらのことでしたか。千夏のライブチケットを不当に買い占めようとしていた悪質転売ヤーのアクセスBOT数千件を、仕事の合間に一括ブロックした件ですね。大切なライブの機会を奪う不当なアクセスは、社会人としても見過ごせませんでしたので」
「じ、じゃあ…前に買っていた強アルカリ洗浄剤とかは…!?」
開いた口が塞がらないリンが、確認するように問いかけると、千歳は爽やかに微笑んだ。
「ああ、千夏がうちへ遊びに来た時のために、自宅の風呂場の頑固なカビを強アルカリ洗浄剤で完全に溶かし、配管のパッキンとメタルバルブを交換してメンテナンスした件ですか? しかし、なぜそれをご存じで?」
「…」
アキラとリンの頭の中で、すべての点が線となり、哀しいほど鮮やかに事実が繋がった。
数千の粛清 = 転売BOTのブロック。
工場事故の隠蔽 = 自宅風呂場のカビ掃除と配管メンテナンス。
今日の任務 = ただのオタ活と特製ケーキの差し入れ。
新エリー都の裏社会を牛耳るフィクサーなんていなかった。
そこにいたのはただの――!
「「ただの重度のシスコンお兄ちゃんだった――!?」」
二人はハモりながら、その場で盛大に膝から崩れ落ちた。
「大丈夫ですか、お二人とも。体調を崩されたのですか?」
親身になって心配する千歳を前に、二人がその場にへたり込んでいると、静かな空間にFairyの声が響いた。
「…マスター。だから言ったでしょう。私の検索結果に不備や見落としは存在しない、と」
通信越しでもはっきりと伝わってくるFairyの呆れを含んだ言葉に、アキラとリンはぐうの音も出ない。
六分街の地下通路には、パエトーン兄妹の虚しい深呼吸と、脱力しきった盛大なため息だけがいつまでも響き渡っていた。