ヘドロの妖怪の移動速度は、決して速くはなかった。
もったりとした動きで、それでも確実に隣の木の枝へ触手を伸ばし、絡め取り、身体の中心を移していく。
ぐちゃぐちゃという音が耳元で鳴り続け、それだけでセイヤは吐き気を催しそうだった。
だが、苦痛はそれだけではない。
まるで今この瞬間、目の前で起きているかのように鮮明な光景が、頭から離れない。
カブロの肘から勢いよく吹き出した真っ赤な血飛沫。
地面に転がった、重みのありそうな切り離された腕。
そこからもなお滴る血。
真っ白な地面に飛び散る、生臭ささえ感じそうな赤。
白一色の景色の中に浮かぶ、鮮烈な赤。
強烈な目眩に目を閉じる。
カブロは無事なのだろうか。
恐怖と心細さに泣きそうになる。
けれど、泣いている場合ではない。
腕も脚も動かせないのだ。
「……おい、ヘドロ!」
セイヤが呼びかけても、妖怪はすぐには答えない。
「……
「わしの名はドクリョク。お前をトウロのところへ連れていけば、褒美がもらえるのだ」
ぐちゃぐちゃと音を立てながら、ドクリョクは進んでいく。
「……褒美って何?」
「金だよ。三年は遊んで暮らせる」
「……へえ」
現実的で、ひどくつまらない答えだった。
そんなもののために、カブロの腕は切り落とされたのだ。
セイヤは唇を噛みしめた。
最初から抵抗せずに連れて行かれていれば、カブロの腕は切り落とされずに済んだのかもしれない。
「……あとどれくらいで
「峠を越えたら見えるぞ。休まず行けば明日の昼だが、わしは休みたい」
どこかでドクリョクは休憩する。
その間に逃げられないだろうか。
一瞬の間を置いて、ドクリョクが付け足した。
「逃げようと思ったのだろう」
「え?」
「考えはお見通しだぞ」
セイヤは舌打ちを飲み込み、もう一度唇を噛んだ。
日が落ちてきた。
夕日が沈み、空が濃紺に染まり始める。
ドクリョクは止まらず進み続けていた。
いつ休憩するつもりなのか。そればかりが頭をよぎる。
不意に、ドクリョクが止まった。
「見ろ」
ずっと足元ばかり見ていたセイヤが顔を上げる。
山の頂から、
見下ろした
まっすぐ伸びる大路が縦横に交わり、その交点ごとに淡い光が静かに灯っている。
中心には、ひときわ大きな屋敷群が重なり合うように鎮座していた。
「あれが
「……すごい」
胸が熱くなる。
あそこのどこかに祖父がいる。
きっと、祖父には会えるだろう。
だが、
……いや、できまい。
絶望が、胸の奥を冷たくした。
そのとき、急にドクリョクの身体がびくんと波打った。
「んんんんんん」
そのまま固まる。
体内にいるからわかる。何かがおかしい。
身体の内側が不穏に波打っている。
「んんん……んんん……」
ドクリョクは唸り始めた。
身体を引き延ばしながら木の幹に絡みつき、ずるずると地面へ降りていく。
休憩するつもりなのだろうか。
「ん……んんん……」
疲れたのかと怪訝に思い、セイヤが見上げるとそのあまりの悍ましさに絶句した。
ドクリョクの両目が、虹色に蠢いていたのだ。
「な、何!? どうしたの?」
「んんん……んん……や、やば……」
「え?」
ドクリョクの身体が小刻みに震え始めた。
セイヤが息を呑んだその直後――まるで水袋が破裂するように、ドクリョクの身体がばらばらに弾け飛んだ。
突然、身体が解放される。
セイヤは落下した。
「ああ!!」
地面に身体が打ち付けられる――はずだった。
けれど、身体はふわりと宙に浮く。
「え?」
嗅いだことのある匂い。
異国の香水のような香りだ。
ゆっくりと目を見開くと、顔を赤く染め、鼻を伸ばしたゴンジュが目の前にいた。
「わあああ!!」
セイヤは、満面の笑みのゴンジュに横抱きにされていた。
「ん〜〜〜。可愛い人間! 無事で安心したよぉーーーー!! はっはっはーー!!」
そのまま、そっと地面に下ろされる。
「え? なんで? どうしてここにいるの!?」
「姫のピンチを救うのは、ヒーローの役目だと思わないかい?」
ゴンジュがバチンとウィンクを飛ばす。
大きな風切り音が耳に届いた。
呆然と口を開けるセイヤの頭上から、コクズメと、その鉤爪に掴まれたカブロがゆっくり舞い降りた。
カブロの腕は、しっかり元通りにくっついている。
顔色はまだ悪い。
それでもカブロは、セイヤに向かっていつもの軽薄な笑みを見せた。
「カブロ……」
セイヤが呟くと、コクズメが勢いよく飛びついてきた。力いっぱい抱きしめてくる。
「ああ! セイヤ! 心配した!」
「コクズメ……苦しいよ」
ようやく離れたコクズメの顔には、安堵の笑みが浮かんでいた。
いつも仏頂面に近いコクズメ。
初めて見たその温かな微笑みは、ひどく貴重に思えた。
「なんでゴンジュが瓶から出てるの? なんで腕がくっついてるの?」
矢継ぎ早に疑問をぶつけるセイヤに対し、カブロは着物の帯から馴染みのキセルをすっと抜き取ると、指先でくるくると回して見せた。
「まずは一服させてもらおうかな」