翌日、
作業場の奥からは、セイヤのすすり泣く声がとめどなく響いている。
「ぐっ……じいちゃん……うっ……」
昨晩、ハクフが妖怪に攫われてから、セイヤの頭は真っ白だった。
不在が多い両親の代わりに、自分を育ててくれたのはハクフだった。
新しい材料を覚えるたび、道具を正しく扱えるようになるたび、
「偉いぞ」「この店はそのうちお前のものになる」「頑張れよ」
そう言って大きな手で頭をぐりぐりと撫でてくれた。
尊敬していた。
いつか祖父のようになりたいと、ずっと思っていた。
(あの妖怪に……殺されてしまったのかな)
絶望が胸を締めつける。
祖父がいつも座っていた座布団を撫でながら、セイヤは涙を拭った。
――風鈴の音。
「おーい、臨時休業って本当ー?」
聞き覚えのある、気の抜けた高い声。
振り返ると、以前、店に来た旅人の男が作業場の入口から顔を覗かせていた。
着崩した着物、腰に何本も差したキセル。あの男だ。
セイヤが目を丸くすると、男も少し驚いたように口をすぼめた。
「どーしたの? 泣いちゃって」
「……り、臨時休業だから、店はやってない」
祖父はもういない。
店を再開できるのかすら分からない。
そう思うと、また涙が溢れた。
しゃくりあげるセイヤを見て、男は数度瞬きをすると、作業場に入ってきて隣に座った。
しばらく黙って見つめ、それから優しい声で言った。
「……泣き顔も可愛いねぇ。何があったのか、教えてよ」
「な、なんで……?」
「
「もう……む、無理だよ」
「無理?」
セイヤは涙を飲み込み、昨晩の出来事を話した。
「……だから、この店はもう続けられないし、
はたはたと涙をこぼしながら話すセイヤに、男は気の毒そうに眉を下げ、腕を組んだ。
「それは困るねぇ」
「……」
「どうする?」
「……どうしよう」
セイヤは涙を拭った。
どうすることもできない。
祖父はもういないのだ。
けれど、いつまでもここに座って泣いているわけにはいかない。
きっと祖父はそれを望まない。
一人前の立派な香辛料調合師になるのだ。
胸にうっすらと沸いた思いを決意するように、あえてその男に伝えた。
「俺、まだ未熟なんだ。香辛料の調合はまだ完璧にできない。けど、この店を守りたい。じいちゃんがいなくなっても、
男は一瞬きょとんとしたあと、ふふ、と小さく笑った。
琥珀色の瞳がやわらかく細まる。
「兄ちゃん、いいねぇ。気に入った。この店も気に入った」
男はふうと息を吐くと、落ち着いた声でセイヤに言った。
「君のおじいさんは、死んでない」
「……え?」
男は立ち上がり、一歩下がると薄く笑った。
「……よぉく、見てて」
店内の灯りがわずかに揺らいだ気がした。
肩にかかる赤褐色の髪がふっと逆立ち、琥珀色の瞳が細く伸びる。
丸い瞳孔が縦に変わり、頬には柔らかな毛が浮かぶ。
耳の位置が頭頂へと移動する。徐々にそれは、獣のような丸い耳へと変わっていく。
「……え?」
「まだだよ」
背中の線がしなり、肩甲骨が盛り上がる。
長い指が反り、爪が鋭く伸びる。
足首からふくらはぎにかけて筋肉が締まり、体毛が覆う。
影が獣の形に伸び、彼の本性を告げていた。
その姿。半人半獣。
「よ、妖怪!?」
「その通り。ぼかぁ、イタチの妖怪さ」
声は変わらないが、喉の奥に獣の響きが混じる。
セイヤが逃げようとすると、妖怪は手のひらを出して制した。
「待て、待て。教えてあげるよ。何が起きてるのか。兄ちゃんのおじいさんがなぜ連れ去られたか」
妖怪は腰からキセルを一本抜き、指先でくるくる回し、咥えた。
彼の話はこうだ。
この妖怪――カブロもそこから来た。
口にするとあっという間に妖力が回復するのだ。
だから多くの妖怪が人間に化けて買いに来ていた。
そして
ハクフを攫ったのも恐らくそいつらだ。
「やだやだやだねぇ。独占なんて。反対だよ」
カブロは迷惑そうに手を左右に振ると、琥珀色の瞳を冷徹に光らせた。
獣じみた鋭い光。
セイヤは震えそうになる手を、自らの手で押さえ込む。
「
さっきまでのヘラヘラとした表情が消え、静かな声だ。その声、その目はセイヤの反応をジッと待っている。
セイヤは一度躊躇ったが、意を決して叫んだ。
「き、キライ! じいちゃんを攫った! この店から! 俺から!」
カブロは満足そうにニヤリと笑った。口元からキセルを外し、またクルクルと指先で回す。よく見ると銀の装飾が施され、吸い口には小さな牙の跡のような傷がある。
「だーよねぇ。さあ、どうする?」
二度目の「どうする?」だ。
もうセイヤは答えられる。
「……じいちゃんを取り返したい」
「そうそう。
カブロは爪が当たらないように指先を浮かせ、セイヤの頭に手を置いた。
「名前は?」
「セイヤ」
「セイヤくん。一緒に
すぐに返事は出来なかった。
目の前にいるのは妖怪だ。昨晩ハクフを攫ったのとは別の妖怪だとしても、信じていいのか分からない。足が震え、唇も強張る。
――しかし。
「……行く」
暗く沈んでいたセイヤの胸に、光が差した。
琥珀色のカブロの瞳に、頷くセイヤの真剣な表情が映っていた。
ふふ、とカブロは満足そうに微笑んだ。