影、喰らい泣け、泣月路   作:浮月 愁

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【5】雲流河

セイヤは、泣月路(きゅうげつろ)の外へ出たことがなかった。

生まれも育ちも泣月路(きゅうげつろ)だ。

 

父や母から他国の話を聞いたことは何度かある。

けれど、地理そのものより、そこにある香辛料の材料のほうに興味を引かれてしまい、ほとんど覚えていない。

 

(千血盤(せんけつばん)までは、どうやって行くんだろう)

 

日も傾き、泣月路(きゅうげつろ)は夕暮れに沈みはじめていた。

 

振り返れば、赤い提灯が幾重にも連なり、夜の始まりを告げるように揺れている。

門の向こうの空だけが、まだわずかに明るい。

 

そのとき、急に背中をそわりとしたものが走った。

胸に、不安の影が落ちる。

隣に立つカブロの顔をそっと覗き込んだ。

 

「カブロ。俺、泣月路(きゅうげつろ)から出たことないんだ」

「……不安な顔してるね」

「うん。少し怖い」

 

セイヤは背負い袋の紐をぎゅっと握りしめた。

 

「初めては誰だって怖い。でも、一歩踏み出してしまえば、なんでもなかったって笑えるもんさ」

 

カブロはそう言って、ためらいもなく門をくぐった。

セイヤも一歩、踏み出しかけて――止まる。

 

背後から流れてくる音が、やけに大きく感じられた。

振り返れば、いつもの泣月路(きゅうげつろ)がある。

店も、人も、香りも、すべて。いつもの。

 

喉の奥がきゅっと締まる。

しかし、胸を張り、セイヤは前を向いた。

 

 

 

 

 

 

街道はゆるやかな下り坂になっていて、両脇には背の高い竹林が続いていた。

土と草の匂い。

風が吹くたび、竹の葉が擦れ合い、涼やかな音を立てる。

竹林の合間からは、ときおり白い小さな花をつけた野草が顔を覗かせていた。香りは弱いが、どこか甘い。

 

セイヤはその草を知っている。

「光夢草(こうむそう)」だ。種が香辛料の材料になる。

 

その香りを嗅ぐたびに、少しだけ気持ちが落ち着いていくのを感じた。

 

しばらく歩くと竹林が途切れ、視界が一気に開けた。

遠くに白い霧がたゆたっている。

まるで地平の上へ雲が降りてきたような、不思議な光景だった。

 

「わぁ。きれいだね」

 

セイヤが感嘆の声を漏らすと、カブロは鼻で笑った。

 

「きれい、ねぇ……。あれは雲流河(うんりゅうが)。あそこを渡る」

「渡る……舟があるの?」

 

カブロは小さく「うーん」と唸りながら、また歩き出す。

近づくにつれ、空気はひんやりとしてきた。

地面には薄く霧が漂い、足首のあたりを誘うように撫でていく。

 

やがて、川の音が聞こえてきた。

川幅は広く、向こう岸は霧に包まれて見えない。

雲流河(うんりゅうが)の上には、ところどころ黒い岩のようなものが浮かんでいた。

 

「向こう岸まで渡らなきゃいけない。一人なら泳いで行くんだけど、セイヤくんがいるからねぇ」

 

カブロは「うまくいけばいいけど」と肩をすくめ、一瞬で妖怪の姿へと変化した。

 

「いいかい? 眠ってるふりをするんだ。目を開けてはいけない。会話に混ざってもいけない。……絶対だ」

 

そう言うと、カブロは雲流河(うんりゅうが)に片手を差し入れ、ある一定のリズムで水面を叩く。

繰り返し、繰り返し。

しばらくすると、川の表面からぽこぽこと泡が浮かび上がってくる。

 

「目ぇ、閉じてな」

 

慌ててセイヤは横になり眠ったふりをした。

そこから先、何も見ていない。

ただ、カブロと何かの会話だけが耳に届いた。

 

「よぉ〜、元気か、カワラジ」

「元気さ、カブロ。なんだ、その人間」

 

ごおごおと空気を揺さぶるような声。

目を閉じていてもわかる。巨大生物――いや、恐らく巨大妖怪だ。

 

「トウロに言われてな。この人間を千血盤(せんけつばん)まで運ぶ仕事をしてる。向こう岸まで運ぶの、協力してくれ」

「ほぉ。相変わらず妖怪使いが荒いねえ、君の兄ちゃんは」

 

(『兄ちゃん』?)

 

セイヤの胸がどくんと跳ねた。

背筋に冷たいものが走り、一気に体温が下がる。

 

カブロとトウロは血縁?

グルだった?

騙された?

全部、嘘だったのか?

目を開けたい。

目を開けて、カブロに問いただしたい。

いや、逃げたほうがいいのか。

このままでは、自分もじいちゃんと同じように。

じいちゃんはやはり死――。

 

息が浅くなる。

 

(駄目だ。怖い。逃げよう)

 

そう思って目を開けかけた瞬間、セイヤの身体をカブロが肩に担ぎ上げた。

びくりと身を震わせると、その手が背をとんとんとやさしく叩く。

 

「……まあ、兄貴って言っても、しばらく会ってないから。他人みたいなもんだ」

 

それは、明らかにセイヤへ聞かせるための声だった。

大丈夫。安心しな。

そう、暗に告げるような。

 

「さあ、向こう岸まで運んでくれ。もちろん礼はする」

「いらねぇさ。カブロにはいつも世話になっている。また子守りに来てくれ」

 

カブロがふふふと笑い、その振動が胸越しに伝わってくる。

 

今すぐ目を開けて真実を問いただしたい。

実際に顔を見て、言葉を聞くまで信じられない。

カブロは言っていた。

甘ちゃんだと。

そんなんじゃ、すぐ騙されるとも。

 

「……俺を騙そうとしているの?」

 

目を閉じたまま、セイヤは小さな声で言った。

カブロの腕に力が入り、動揺が伝わる。

 

「おまっ!」

「その人間!! 起きているのか!?」

「ね、寝言だ、寝言! さっき妖術で眠らせたからな! カワラジの姿は絶対に人間に見せない!」

 

ほら、見ろ!とでも言うように、カブロは慌ててセイヤの尻を太鼓のように叩いた。

 

「ほらな、こんなに叩いても起きねえさ」

 

(痛い……)

 

予想外に慌てふためくカブロの様子に、セイヤは身を固くしたまま耐えた。

この空気だと、起きているとばれたら運んでもらえなくなるのだろう。

運んでもらえなくなるだけならマシだ。

もしかすると、命を奪われる可能性だってある。

セイヤは抵抗せず、眠っているフリを続けた。

 

どうやら、なんとかカワラジを誤魔化せたらしい。

担がれたまま、カブロはカワラジに乗る。

そのあと、セイヤはそっとカワラジの上へ降ろされた。

 

まるで、濡れた岩の上に寝かされたような感触だった。

冷たくて、硬くて、ざらざらしている。

風が身体の上を撫で、前へ進んでいるのはわかるが、どんな妖怪なのかはまるでわからない。

安定しているような、不安定なような。

川へ落ちそうな怖さはないが、身体が冷える。

早く向こう岸へ着いてほしいと、セイヤはじっと耐えていた。

 

不意に、とん、と肩へカブロの手が置かれる。

 

「……騙そうなんて思っちゃいない。ぼかぁ、君に嘘はつかないからね」

 

やさしい囁き声。

また、あやすようにとんとんと肩を叩かれる。

 

(赤子じゃないんだから……)

 

まだ完全には信用できない。

そう思いながらも、セイヤはゆっくりと頷いた。

 

「なんか言ったか?」

「風が気持ちいいなって言った」

「おお! そうか、スピード上げてくぜ!」

「安全にな〜」

 

しかしそのとき、空の上から彼らの姿をじっと見下ろしているものがいた。

ひとつの影が、音もなく降りてくる。

 

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