セイヤが黙って横たわっていると、ぼっと小さく爆ぜる音がした。
続いて、ちりちりと何かの焼ける音が聞こえる。
「ワハーーーーーーァ!」
(吸ってる……)
どうやら、カブロがまた
風に散って香りははっきりしないが、薄く冷たい匂いがかすかにセイヤの鼻先をかすめた。
「あ゛あ゛ーー。脳が気持ちい゛ーーー」
汚いうめき声を漏らしたかと思えば、そのまま鼻歌まで歌い始める。
人の気も知らないで呑気なものだと、セイヤはむっとしながら寝たふりを続けた。
不意に大きな羽音が近づいてきた。
次いで、凛とした、よく通る女の声が響く。
「カブロ」
「ん?」
音の近さで、上空でカワラジと並走しているのだとわかる。
「貴様、何をやっている」
「んぁ、コクズメ? なんで?」
「何をやっているのかと聞いている!」
「見りゃわかるだろ。一服さ」
怒気をあらわにした女に対して、カブロはいつものひょうひょうとした調子だ。
思わずセイヤが目を開けようとすると、カブロの手がスッとその目元を覆った。
「こら、こら」
見たい。見なくてはならない。
新しい妖怪に違いない。しかも、きっと敵だ。
恐怖がじわじわと全身を支配していく。
息が浅くなる。
目を閉じていて何も見えないぶん、余計に怖い。
「このっ……」
「おいおい、んな物騒なもん出すな。危ねぇだろ」
「バクドウが、貴様の裏切りを共有して回っているぞ!」
その言葉に、カワラジまで会話に加わった。
「え? カブロ、お前、
今の一言で、セイヤは完全に理解した。
カブロは
やはり、騙されていた。
目を開けたい。
足が震え、身体がキュッと縮こまる。怖い。
「……なんのこと? 裏切るも何も、ぼかぁ
「ふざけるな!」
「……っと」
ひゅん、と風を切る音がした。
女の妖怪が何かを仕掛けたのだ。
もう限界だった。
「カ、カブロォ……んぐ」
カブロに口を塞がれる。
「その人間を寄越せ!! 私がトウロの元まで連れて行く!」
「わかった、コクズメ。そう熱くなるな。言うこと聞くから、こっちに降りてきて」
静寂の中、羽ばたきの音が近づいてくる。
どうやらカワラジの上に降り立ったらしい。
「……寝ているのか?」
「ああ。妖術で眠ってる」
声が近い。
すぐそばに、新しい女の妖怪がいるのがわかる。
鼓動が早まり、息苦しい。
このままこの妖怪に引き渡されてしまうのだろうかと思うと、鼻の奥がつんとし、目のまわりが熱くなった。
カブロは、最初から手助けするつもりなどなかったのかもしれない。
なぜセイヤを連れて回っていたのか。
もしかすると、
バクドウに手柄を渡さないため、追い払っただけなのか。
わからない。
だが少なくとも、「騙していない」は嘘だ。
「嘘はつかない」も、きっと嘘なのだろう。
もう、どうでもいい。
セイヤは目を開けた。
そこには、吊り目に赤い紅を引いた女がいた。
頭頂は黒く、毛先だけが白い長髪。背には大きな羽。下半身は鳥、上半身は人。
妖怪にしては、息をのむほどの美女だった。
目が合った瞬間、その女――コクズメの瞳がわずかに見開く。
「……なんだ、可愛いな。泣いているのか」
「可愛いでしょ、セイヤくん。泣いてるの?」
「な、泣いてないよ」
セイヤは鼻をすすった。
「泣いてるじゃないか」
「泣いてるじゃないの」
カブロとコクズメの声が重なった、直後。
まるで巨大地震でも起きたかのような激震が走る。
「おおおおおお!! 人間に見られたあああ!!」
地響きのようなカワラジの雄叫びだった。
三人の身体が一斉に放り出される。
コクズメは即座に羽を打って空へ舞い上がったが、カブロは水面へ落ちていき、セイヤはカワラジの背から宙へと投げ出された。
「わあああああ!!」
宙から見えたカワラジは、巨大なタガメのような姿をしていた。
背の一部を除いて全身が苔に覆われた、異様な妖怪だ。
どうやら、ずっとカワラジの背に乗って移動していたらしい。
水面から顔を出したカブロが叫ぶ。
「コクズメ!!」
「任せろ!」
セイヤの身体が水面へ叩きつけられそうになった瞬間、コクズメの鉤爪がそれを捉えた。
身体がふわりと浮く。
「コ、コクズメ。ありがとう……」
「……ああ」
カワラジはぐるりと旋回し、カブロと向き合う。
「カブロ! おのれ、許さんぞ!!」
「……コクズメの声がうるさくて目が覚めちゃったの。仕方ないじゃない。悪いのはコクズメさ」
悪びれもせずそう言い放つカブロに、カワラジは怒りで身体を震わせた。
「カワラジの誇りを踏みにじる奴に生きる価値なし!」
「おいおい、やめろよ。カワラジとは戦いたくない」
「黙れ!」
カワラジは身を起こし、前脚を高く掲げると、そのまま水面を叩きつけた。
水面が大波のようにうねり、カブロを丸ごと飲み込む。
水中へと消えていくカブロに、思わずセイヤは叫んだ。
「カブロが!!」
「人間、落ち着け。カブロはイタチの妖怪だ。泳ぐことしか取り柄はない」
コクズメはそう言ったが、セイヤの胸はざわついたままだ。
カワラジはきょろきょろとあたりを見回し、カブロの姿を探している。
だがそのころ、カブロは波の陰に紛れ、すでにカワラジの背に張り付いていた。
そして、セイヤとコクズメの姿を見つけるなり、大声で叫んだ。
「コクズメ! とりあえずセイヤくんを離さないで!」
「承知した」
その声に反応して、カワラジが再び身体を大きく揺らす。
「許さないぞ、カブロ!!」
「おっと。セイヤくーん、まだアレあるー?」
激しい振動でまた身体を弾かれ、カブロは頭から水面へ落ちていく。
アレ――おそらく「
カワラジの記憶を曖昧にしろという指示なのだろうか。
けれど、あれは
一か八かだ。
セイヤは背負い袋に手を突っ込み、一本の瓶を掴んだ。
「コクズメ。カワラジの頭の上を旋回できる?」
コクズメはしばらく黙っていたが、戸惑いながらも「承知した」と答えた。
その下で、カワラジが怒りの叫びを上げる。
「うおおおお!! カブロ!! 出てこい!!」
コクズメはカワラジの頭上すれすれまで飛び、その場を旋回する。
瓶のラベルには「マイマイ塩」とある。
マイマイの木の根と塩を混ぜた混合香辛料だ。
肉の臭みを取るのによく使われる。
セイヤはごくりと唾を飲み込むと、カワラジの頭上からその香辛料を振りまいた。
ぴたり、とカワラジの動きが止まった。
「ぎゃああああああ!!」
突如、カワラジが苦しみ始めた。
水面から顔を出したカブロが、はっとした顔でセイヤを見上げる。
「やめろ! セイヤ!!」
初めて聞くカブロの切羽詰まった叫び。
その声にセイヤは手を止めた。
水面をのたうち回るカワラジ。
カブロはすぐに再び水の中へ潜る。
「え? え? なんで? 何かまずかったの?」
「あー。カワラジはタガメの妖怪。塩かけたら死ぬ」
「え!?」
「顔に似合わず、残酷なやつだな」
カブロがまた水面から顔を出した。
大きく息を吸い込むと、口から勢いよく水を吐き出す。
カワラジにかかった塩を洗い流しているのだ。
それを何度も、何度も繰り返した。
カワラジの苦しみが落ち着くまで。