朝になった。
セイヤは木々のあいだで膝を抱え、二人に背を向けていた。
「悪かった、セイヤ。こっちを向いてくれ」
「セイヤくーん。もう行くよー」
妖怪の死体は、コクズメがどこか遠くへ運んで捨てたらしい。
返り血で真っ赤に染まった身体も、近くの水辺で綺麗に洗い流したようだ。
だが、セイヤの恐怖はまだ洗い流せていない。
目を閉じれば、脳裏にあの赤黒い雨が降る。
もう、あんな凄惨な戦いを目の当たりにはしたくない。
貝のように口を閉ざしたまま、ぴくりとも動こうとしなかった。
「……甘ちゃんだな、セイヤくんは」
沈黙を破ったのは、カブロの呆れたため息だった。
「貴様、カブロ!」
「もうやめる?
祖父を助けるためだ。
カブロの言う通り、セイヤは甘ちゃんだ。
妖怪の世界に足を踏み入れる覚悟を持って
祖父を取り返すためには、この程度で心を折っていては駄目なのだ。
セイヤは震える脚を叩き、ゆっくりと立ち上がった。
「……帰らないよ」
「偉いぞ、セイヤ」
「何も偉くないでしょ。甘えさせないの」
ふくれっ面のまま顔を上げた視界の先に、息をのむほど幻想的で美しい
「うわぁ……きれい……」
白い。真っ白だ。
だが、それは雪ではない。木々の葉が白いのだ。
コクズメが、どこか得意げにセイヤへ説明した。
「……行くよ」
カブロがひらりと手を振って、再び先頭に立って歩き出した。
歩き始めてしばらく経っても、セイヤは無言のままだった。
昨日の衝撃がまだ身体の芯に残っている。
とてもではないが、いつも通りに振る舞うことなどできなかった。
それに気づいたのか、カブロは歩きながら木に生っていた果実をぷつりともぎ取り、セイヤへ差し出す。
「セイヤくん。ぼかぁ、今までたくさんの妖怪を殺してきた」
果実にかじりつこうとしたセイヤの手が止まる。
「カブロ!」
「コクズメ、君も同じだろ」
コクズメは反論の言葉を失い、ぐっと言葉を詰まらせた。
「弱い妖怪は淘汰される。当然のこと。
カブロは人の姿に変化した。
セイヤと同じ、人間の姿のほうが話を受け入れやすいと思ったのだろう。
ずるい妖怪だ。
「セイヤくん。これは約束だ。ぼかぁ、今から妖怪を殺さない」
「……え?」
「だから、殺されそうになったら死ぬよ。ぼくもコクズメも」
「おい、巻き込むな」
コクズメがぴしゃりとツッコミを入れるが、カブロの表情は変わらない。
カブロは不意に振り返ると、至近距離からセイヤの顔をじっと覗き込んできた。
どくりと心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
「意味、わかるよね。君のせいで死ぬ。……ただし、セイヤくんが『殺せ』と言えば、その時は相手を殺す」
琥珀色の目が妖しくちかりと光り、まっすぐセイヤを射抜いた。
カブロの声は、軽薄だがひどく冷たかった。
するりと耳から入り込み、そのまま心臓を冷やしていく。
「もう一度言おうね。ぼかぁ、妖怪を殺さない。これで満足かい?」
ふふふ、と笑ってカブロが前を向く。
ずるい妖怪だ。
これから先の戦いで、殺生の責任をセイヤに握らせた。
手にしていた果実を落としそうになって、セイヤは我に返った。
食欲はすっかり失せていた。
動揺したまま、果実を背負い袋へ押し込んだ。
コクズメが心配そうに隣を歩いていたが、そちらを見る余裕はなかった。
(俺のせいにしないで)
そう言いたかった。
けれど、言葉は喉につかえて出てこない。
ひたすら臆病な自分が情けなくて、セイヤは唇を噛んだ。
白い砂。白い土。
白い幹。白い葉。
色を失ったその世界は、まるで死後の国のようだった。
もちろん、死後の世界など見たことはない。
けれど、もしあるのなら、きっとこんな景色なのだろうと思わせる光景だった。
山道を、さくさくと音を立てて登っていく。
「峠を越えるのか?」
コクズメは道中の険しさを知っているようだ。
尋ねられた前を歩くカブロの横顔に、露骨な嫌悪が浮かんだ。
「まさか。何日かかると思ってんの。ゲロ天狗に足を借りる」
「ゴンジュのことをゲロ天狗なんて呼ぶのは、貴様くらいだ」
その言葉の直後、頭上から跳ねるような声が降ってきた。
「だーれがゲロ天狗だってー?」
三人が揃って顔を上げる。
真っ白な木の上に、目が痛くなるような輝きを放つ男が立っていた。
美しく巻かれた金の長髪。
金色の衣。
はだけた胸元には、ぎらぎらと宝石をあしらった数珠がいくつも重なり、背には孔雀の羽のように色鮮やかな大きな羽団扇を背負っている。
派手すぎる。
男は高笑いしながら木から飛び降り、三人の前に優雅に着地した。
体躯のいい、がっしりとした長身。
細身で地味な着物のカブロとは、まるで正反対だ。
「ゴンジュ。久しぶりだ」
まず、あっけらかんとした口調でコクズメが挨拶をした。
その様子から、敵対する妖怪ではないのだとわかり、セイヤは張り詰めていた肩の力を少しだけ抜く。
「はっはーん! 久しぶり、コクズメ! カブロも久しぶりだね! どーして人間に化けているのかなっ!」
「うるせえ」
カブロは明らかに不快そうに顔をしかめている。
ゴンジュと呼ばれたその天狗は、鼻が短く、顔も赤くない。
セイヤはおそるおそる、その天狗を見上げた。
ゴンジュがセイヤの姿を捉えた。
「う〜ん。この人間……」
ゴンジュは長身を屈め、セイヤの顔をじっと覗き込んできた。
「すーーんごい、可愛いじゃないのーーー!」
たちまち、天狗の顔が赤らみ、まるで生き物のようにぐんぐんと鼻が伸びていった。
あまりに突飛。あまりに奇怪。
その変化にセイヤは青ざめ、小さく悲鳴を漏らした。
「めっちゃめっちゃ! かーーーわいいーーー!」
ゴンジュは空を仰いで絶叫する。
鼻は二十センチほど伸びたところで止まった。
「ハッハッハッハッハ!! ハーッハッハッハッハ!!」
豪快な笑い声に腰が抜けそうになり、セイヤは縋るようにコクズメの腕を掴んだ。
カブロは冷ややかな顔のまま、セイヤへ視線を送った。
何か喋れ、と合図しているようだ。
セイヤの声は誰が聞いても男声。
男であることを伝えろと言っているのだろう。
しかし、声を掛けることすら恐ろしい。
セイヤはぶんぶんと首を横に振って拒絶した。
「ゴンジュ、この人間は男だ」
代わりに、コクズメが至極冷静に伝えると、ゴンジュは、ぴたりと止まった。
「そうなの」
顔色はすぐ元に戻り、鼻も元の長さへ縮んだ。
声だけが、ひどく残念そうだった。
カブロがひとつ咳払いをする。
「ゴンジュ、頼みを聞いてくれないか」