転生をしたらそこは流星街?ゴミ溜めから始まる物語 作:板前さん
入り口の鉄の扉が、内側に吹き飛んでいた。
電灯の白い光の中に、影がなだれ込んでくる。川べりで見たのと同じ、二本の脚で立つ虫たち。だが、数が違った。十。二十。扉の向こうの暗がりから、まだ、次々と湧いてくる。
見張りたちが、銃を撃っていた。
弾は、当たっていた。甲殻に弾かれる音が、洞窟の壁に響く。だが、止まらなかった。弾を浴びながら、蟻たちは、ゆっくりと前へ進んでくる。見張りの一人が、鎌のような前脚に薙がれて、壁まで吹き飛んだ。
アッシュは、作業場の通路の真ん中に立った。
背後には、寝床から起き上がりかけた働き手たちがいた。誰も、逃げようとしなかった。悲鳴も、上げなかった。ただ、焦点の合わない目で、なだれ込んでくる影を眺めていた。
逃げろ、と命じられていないからだ。
一匹目が、通路に飛び込んできた。
アッシュは、床を殴った。跳ね上がった破片を、蟻の脚元へ撃ち込む。蟻がよろめいた瞬間に踏み込み、前脚に触れる。
「止まれ」
前脚が固まった蟻が、顎を鳴らして噛みついてくる。アッシュは、その顎の下に潜り込んだ。拳を振るっても、この甲殻はびくともしない。だから、狙うのは継ぎ目だった。頭と胴をつなぐ、首の節。
足元から跳ね上げた破片を、拳に纏わせたオーラごと、その節に、零距離で撃ち込んだ。
甲殻の継ぎ目が、砕けた。蟻の頭が、ありえない角度に傾いて、ようやく、動かなくなった。
二匹目。三匹目。触れて、止めて、継ぎ目を砕く。
一匹ごとに、念が削られていく。通路は狭い。
一度に向かってこられるのは、せいぜい二匹だった。
だが、数が多すぎた。
倒しても、倒しても、扉の向こうから湧いてくる。通路の脇の寝床の間に、別の蟻が入り込んでいた。働き手の一人の襟首を掴んで、引きずっていく。働き手は、抵抗しなかった。声も上げなかった。
アッシュは、歯を食いしばった。
これは、戦いではなかった。狩りだった。蟻たちは、餌を集めに来ているのだ。
「新入り!」
通路の奥から、怒鳴り声がした。
ザイカハルが、通路の奥の、鉄の扉の前に立っていた。
両手に、銃を構えている。ほとんどの弾は、蟻の甲殻に弾かれていた。それでも、ザイカハルは撃つのをやめなかった。狙っているのは、甲殻の継ぎ目と、目だった。何発かに一発が、そこに吸い込まれて、蟻を一匹ずつ倒していた。念も何も持たない男の、ただの腕と、ただの度胸だった。
「こっちへ来い!」
アッシュは、目の前の蟻の脚を止めて、跳んだ。宙に浮かせた破片を足場に、通路の上を駆け抜けて、ザイカハルの隣に降りる。
ザイカハルが、ちらりとアッシュを見た。
「……やっぱりな。ただの食い詰めじゃねえと思ってた」
「ここは、もう持たない」
「知ってる」
ザイカハルは、銃を撃ちながら、背後の鉄の扉を顎でしゃくった。
「この奥に、王の部屋がある。行け」
アッシュは、ザイカハルの横顔を見た。
「……なんで、俺に」
ザイカハルの口の端が、少しだけ吊り上がった。笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「この前な、王に、お前のことを報告した」
アッシュの呼吸が、止まった。
「流星街から来た、口の堅え新入りがいる。名前は、アッシュ。使えそうだ、ってな」
銃声が、洞窟に轟いた。蟻が一匹、ザイカハルの足元に崩れ落ちた。
「あの人、しばらく黙ってた。それから、あの方位磁針を開いて、ずっと見てた。首を、少しだけ傾げてな」
ザイカハルは、弾倉を入れ替えた。
「何も言わなかった。会いに来いとも、追い出せとも。ただ、それ以来、毎晩、方位磁針を開いてた」
「……王は、どこに」
「さあな。さっき、奥の連中を連れて、裏口から出ていった。こいつらを、外で迎え撃つってな」
ザイカハルは、通路の方へ向き直った。扉の前に、蟻たちが群がり始めていた。
「俺も、行く」
「死ぬぞ」
「どっちが運が悪いか、まだケリがついてねえんだ」
ザイカハルは、振り返らなかった。
「行け、アッシュ。お前は、俺より運がいい。あの人の部屋に、入れるんだからな」
そう言って、男は、蟻の群れの中へ、銃を撃ちながら歩いていった。
鉄の扉の向こうは、細い通路だった。
電灯が、まばらに灯っている。背後の銃声と悲鳴が、壁の向こうで、くぐもって遠ざかっていく。アッシュは、通路を走った。突き当たりに、もう一枚、木の扉があった。
押し開けた。
誰も、いなかった。
小さな部屋だった。王の部屋と呼ぶには、あまりにも質素だった。木の机が一つ。椅子が一つ。壁には、国中の地図と、何枚もの図面が貼られていた。村の配置。畑の区画。作業場の流れ。どれも、細い線で、無駄なく、丁寧に引かれていた。
机の上の無線機が、雑音を吐き続けていた。
寝床はなかった。部屋の隅に、毛布が一枚、きちんと畳まれて置かれているだけだった。
アッシュは、部屋の真ん中に、立ち尽くした。
二十一年。
探し続けた相手の部屋に、ようやく、たどり着いた。その部屋は、空っぽだった。
机の上に、一つだけ、物が置かれていた。
方位磁針だった。
真鍮の蓋は、すっかり黒ずんでいた。ガラスに走ったひびは、二十一年前よりも、少しだけ長くなっていた。文字盤の文字は、もうほとんど読めない。
蓋は、開いていた。
針が、震えながら、一つの方角を指していた。
アッシュは、机の前に立って、それを見下ろした。
手を、伸ばせなかった。
あの子は、いつも、これを持っていたと、ザイカハルは言った。
何度捨てろと言われても、捨てなかったと。
それを、置いていった。
外へ、蟻を迎え撃ちに出ていく時に。この部屋の、この机の上に。蓋を、開けたまま。
忘れていったのか。
それとも。
お前のでも、俺のでもない。二人の物だ。見たくなったら、いつでも出していい。
便所の裏の、浮いたレンガ。その奥の、小さな隙間。
アッシュは、ゆっくりと、方位磁針を手に取った。
冷たかった。それから、手のひらの中で、少しずつ、温かくなっていった。
針は、震えながら、北を指していた。
部屋の奥の壁に、もう一つ、小さな扉があった。
半開きになっていた。その向こうから、夜の森の、湿った空気が流れ込んでくる。裏口だ。ザイカハルの言っていた、あの子が出ていった道。
扉の向こうの、ずっと遠くから、銃声が聞こえていた。
あそこに、いる。
二十一年探し続けた相手が、この扉の向こうの森で、今、蟻と戦っている。
アッシュは、裏口の扉に、手をかけた。
その時、背後から、悲鳴が聞こえた。
通路の向こう。作業場の方からだった。一つではない。いくつも。か細く、途切れ途切れの、悲鳴。
言われたことしかできない働き手たちが、引きずられていく声だった。逃げろとも、助けてとも言えずに、ただ、喉から漏れ出る声。
それから、もっと遠く。崖の上の森の向こうから、別の悲鳴が、風に乗って届いた。
村の方角だった。
焼いた芋を差し出してきた、女の子の顔が浮かんだ。毎朝、畑で笑っていた、その母親の顔。焚き火の前で、知らなくていいことがある、と言った、古株の老人の顔。
アッシュは、裏口の扉に手をかけたまま、動けなかった。
この扉を開ければ、あの子に会えるかもしれない。二十一年分の言葉を、ようやく、言えるかもしれない。
だが、その間に、背後の悲鳴は、一つずつ、消えていく。
名前も知らない働き手たち。外の世界に居場所をなくした人たち。誰も、探しに来ない人たち。
流星街の、ゴミ山の子どもたちと、同じだった。飯場の、二段ベッドの上の段にいた少年と、同じだった。
あの夜、自分は、扉の前で立ち尽くしていた。言うべき言葉を、言えないまま。何もできないまま。
ヨークシンでも。流星街でも。いつも、壊れる瞬間に、自分は、その場にいなかった。
今は、いる。
今、ここに、いる。
アッシュは、裏口の扉から、手を離した。
方位磁針の蓋を、そっと閉じた。上着の内ポケットの、一番奥にしまう。リオの葉書と、ミザイストムの連絡先と、走り書きのメモと、新聞の切り抜きの、さらに奥に。
「……後で、行く」
誰に言ったのか、自分でも、分かっていた。
「必ず、行くから」
アッシュは、背を向けた。
悲鳴の聞こえる方へ。作業場の、蟻たちがなだれ込んだ、白い電灯の下へ。
走った。
背後で、裏口の扉が、夜風に揺れて、きいと鳴った。
二十一年前、飯場の宿舎の扉が、そう鳴ったのと、同じ音だった。