転生をしたらそこは流星街?ゴミ溜めから始まる物語   作:板前さん

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31.自然と彼と蟻

作業場は、地獄だった。

白い電灯の下で、蟻たちが、働き手を一人ずつ引きずっていく。見張りの姿は、もうほとんどなかった。床に転がった銃と、壁に飛び散った血だけが、そこに人がいたことを示していた。

 

寝床の間で、働き手たちは、まだ座ったままだった。

逃げない。叫ばない。ただ、自分の番が来るのを、焦点の合わない目で待っている。

蟻は、十匹以上いた。一匹ずつ継ぎ目を砕いていては、間に合わない。念も、もたない。

アッシュは、作業場を見回した。

葉を運ぶ、長いベルトコンベア。煮詰め用の、鉄の釜。釜を吊るす、太い鉄骨の梁。どれも、人の背丈を優に超える、重い鉄の塊だった。

 

触れて、命じる。

小石なら、指先ほどの念で浮く。瓦礫の破片なら、拳一つ分の念で飛ぶ。だが、この鉄の塊を動かすには。

アッシュは、一番近くの鉄の釜に、両手を当てた。

纏を、練で一気に膨らませる。膨らませたオーラを、ありったけ、手のひらから釜の中へ流し込んだ。鉄の分厚い壁の、隅々にまで。自分の体の延長になるまで。

体の芯から、何かが、ごっそりと抜けていく感覚がした。

 

「浮け」

 

鉄の釜が、床から離れた。

中で煮詰められていたものが、溢れて床に流れ落ちる。人の背丈ほどもある鉄の塊が、ゆっくりと、宙に持ち上がっていく。

 

「落ちろ」

 

働き手を放り出して振り返った三匹の蟻の真上に、釜が叩きつけられた。

轟音が、洞窟を揺らした。

釜の下から、甲殻の砕ける音と、何本もの脚が覗いた。脚は、しばらく痙攣して、やがて動かなくなった。

 

残りの蟻たちが、一斉にアッシュの方を向いた。

アッシュは、膝をつきかけた。たった一度で、体を包むオーラが、二割近く持っていかれていた。

 

だから、普段は使わない。使えない。重い物を操るほど、念は湯水のように消えていく。一度に使い切れば、その後は、念の使えない、ただの体で敵の前に立つことになる。

だが、今は、それしかなかった。

アッシュは、天井を見上げた。

釜を吊るしていた鉄骨の梁が、何本も、蟻たちの頭上を走っていた。

跳んだ。梁に、手のひらを当てる。念を、流し込む。

 

「落ちろ」

 

梁が、天井から外れた。何本もの鉄骨が、雪崩のように、作業場の床へ降り注いだ。

 

鉄骨の雪崩が収まった時、作業場で動いている蟻は、いなくなっていた。

鉄の山の下から、何本もの脚が突き出していた。砕けた甲殻。千切れた触角。生き残った数匹は、入り口の方へ、這うように逃げていった。

アッシュは、鉄骨の上に降り立って、肩で息をした。

洞窟の外からは、まだ、銃声と、何かが争う音が聞こえていた。森のあちこちで。崖の上で。蟻は、まだ、いくらでもいる。

 

働き手たちは、寝床の間に、座ったままだった。

三十人ほどが、残っていた。誰も、動かなかった。目の前で鉄の塊が降り注いでも、悲鳴一つ上げなかった。ただ、焦点の合わない目で、こちらを見ていた。

 

「……逃げるぞ」

 

アッシュは言った。

誰も、動かなかった。

 

「立って、ついてこい。ここにいたら、食われる」

 

誰も、動かなかった。

アッシュは、拳を握った。

分かっていた。この人たちは、自分では決められない。逃げたいとも、死にたくないとも、もう思えない。言われたことを、言われた通りにすることしか、できない。

だから、言わなければならなかった。

頼むのではなく。誘うのではなく。命じなければ。

 

人の意思を奪って、操る。それだけは、やりたくなかった。考えようとしただけで、喉の奥が冷たくなる。山小屋の焚き火の前で、シンにそう言った。

 

奪ったのは、自分ではない。それでも、この人たちを動かすには、命令するしかなかった。

人に、迷惑を、かけるな。

名前も呼ばなかった男が、息子に与えた、たった一つの命令。

アッシュは、息を吸った。

 

「立て」

 

三十人が、一斉に、立ち上がった。

迷いも、ためらいもなかった。糸で引かれた人形のように、同じ速さで、同じ姿勢で。

アッシュの胸の奥が、軋んだ。

 

「俺の後ろを、ついてこい。離れるな。前の者の背中だけを見て、走れ」

 

三十人が、黙って、頷いた。

アッシュは、背を向けた。後ろで、三十人分の足音が、ついてくるのが聞こえた。

決まった速さで。決まった通りに。

 

この人たちを外へ連れ出して、薬が抜けて、自分の意思が戻ったら。その時には、どこへ行くのも、何をするのも、全部、この人たちの意思に任せる。今だけだ。今だけ、命じる。

入り口の鉄の扉の向こうは、夜の森だった。

アッシュは、三十人を連れて、走り出した。

 

森の道を、半日かけて来た道を、夜通し走った。

途中で、二度、蟻に襲われた。一度目は、触れて止めて、継ぎ目を砕いた。二度目は、数が多かった。道の脇の大木に手を当てて、念を流し込み、根元から引き倒した。倒れた幹が、蟻たちの群れの上に覆いかぶさった。

 

そのたびに、オーラが削られていった。

夜明け前、森が途切れて、村が見えた。

燃えていた。

村の家々のあちこちから、火の手が上がっている。広場に、影がうごめいていた。蟻が、何匹も。逃げ惑う村人を、一人ずつ追い詰めている。

アッシュは、後ろの三十人に向き直った。

 

「ここで、伏せていろ。俺が戻るまで、動くな」

 

三十人が、一斉に、地面に伏せた。

アッシュは、村へ走った。

 

広場の真ん中で、蟻が三匹、一軒の家を囲んでいた。家の戸口に、誰かが立ち塞がっていた。

あの古株の老人だった。

手に、薪割りの斧を握っている。その背後の家の中から、子どもの泣き声が聞こえた。

 

蟻の一匹が、前脚を振り上げた。

アッシュは、広場の脇の家の壁に、手のひらを叩きつけていた。

念を、流し込む。丸太を組んだ壁の、一本一本にまで。

 

「飛べ」

 

家の壁が、丸ごと、剥がれた。何十本もの丸太が、束になって宙を飛び、三匹の蟻を横殴りに薙ぎ払った。蟻たちが、広場の端まで吹き飛んで、丸太の下に埋もれた。

老人が、斧を握ったまま、呆然とアッシュを見ていた。

 

「……あんた」

 

「中に、誰がいる」

 

「隣の、母子が」

 

アッシュは、家の中へ飛び込んだ。

部屋の隅で、女が、娘を抱きかかえてうずくまっていた。焼いた芋を差し出してきた、あの女の子と、その母親だった。

 

「アッシュさん」

 

女の子が、泣き腫らした目で、アッシュを見上げた。

 

「行くぞ。国境の門まで、走る」

 

生き残った村人は、二十人に満たなかった。

アッシュは、村人たちと、森の縁で伏せていた三十人を合わせて、一つの列にした。古株の老人が、村人たちの先頭に立った。

国境の門までは、まだ、遠かった。

 

背後の森が、ざわめいた。

振り返ると、木々の間に、無数の影が蠢いていた。

十。二十。それ以上。燃える村の火に照らされて、甲殻が、鈍く光っていた。

追ってきている。

アッシュは、列の最後尾に立った。

体を包むオーラは、もう、半分も残っていなかった。

 

国境の門が見えたのは、空が白み始めた頃だった。

受け入れの村の、丸太を組んだ小屋の群れ。その向こうに、森の入り口の木造の門。三週間、移住希望者として暮らした場所だった。今は、誰もいなかった。

背後の足音が、近づいていた。

振り返らなくても、分かった。森の暗がりから、無数の気配が、列の最後尾に迫ってくる。もう、間に合わない。門をくぐる前に、追いつかれる。

 

「先に行け」

 

アッシュは、古株の老人に言った。

 

「門をくぐって、そのまま、外の道を走れ。振り返るな」

 

老人は、アッシュの顔を見た。何かを言いかけて、やめた。それから、黙って頷いて、列の先頭に戻っていった。

 

「お前たちも、走れ。前の者についていけ。門の外まで、止まるな」

 

三十人の働き手たちが、一斉に、走り出した。

列が、門へ向かって遠ざかっていく。焼いた芋の女の子が、母親に手を引かれながら、一度だけ、こちらを振り返った。

 

アッシュは、列の最後の一人が門をくぐるのを見届けてから、自分も門の外へ出た。

門の両脇には、丸太を組んだ高い柵が、森の奥までずっと続いている。門は、その柵に開いた、ただ一つの口だった。森から外の道へ出るには、ここを通るしかない。

森の縁から、影がなだれ出てきた。

二十を、優に超えていた。

 

全部を倒す必要はなかった。倒せるだけのオーラも、もう残っていなかった。

塞げばいい。

アッシュは、門の外側に立って、左右の太い柱に、両手を当てた。

残っているオーラを、全部、手のひらに集める。そして、流し込んだ。二本の柱に。それを渡す梁に。柱に組み込まれた、両脇の柵の丸太に。手の届く限りの、全部に。

何か月か前、この門の前で、ようこそ、と言われた。ここでは、誰も、あなたから何も奪いません、と。

 

「崩れろ」

 

門が、崩れた。

柱が内側へ倒れ、梁が落ち、両脇の柵の丸太が、引きずられるように崩れ落ちて、門の口へなだれ込んでいく。

先頭の蟻が、門の口に飛び込もうとした瞬間だった。落ちてきた梁が、その頭を押し潰した。

 

最後の丸太が落ちた時、門のあった場所には、人の背丈の倍ほどもある、丸太の山が積み上がっていた。

瓦礫の山だった。

ゴミ山と、同じ形をしていた。

アッシュの体からは、もう何も出てこなかった。

膝が、崩れかけた。纏すら、保てない。念の使えない、ただの体だった。

 

瓦礫の山の向こうで、蟻が丸太を掻く音がしていた。登ろうとしている。崩そうとしている。だが、すぐには越えられない。

時間は、稼げた。そう思った時だった。

丸太の山の端が、崩れた。

 

積み重なった丸太の隙間から、一匹の蟻が、這い出してきた。片方の前脚が、ありえない方向に曲がっている。甲殻のあちこちが砕けていた。それでも、残った脚で地面を掻いて、門の外へ、這い出してきた。

 

頭が、道の先を向いた。

列の最後尾が、まだ、そこに見えていた。焼いた芋の女の子の、小さな背中が。

アッシュは、地面を蹴った。

体は、鉛のように重かった。念は、もう何も出てこない。ただの、三十二歳の男の体で、蟻の前に回り込んだ。

 

蟻の残った前脚が、振り下ろされた。

躱しきれなかった。脇腹を、鉤爪が抉った。熱い痛みが、遅れて走った。

構わずに、アッシュは、蟻の前脚に、手のひらを当てた。

体の底を、さらった。もう何もないはずの底を絞り出すように念を込めた。

 

「……止まれ」

 

一秒にも満たなかった。それでも、蟻の脚が、止まった。

アッシュは、足元に転がっていた、裂けた丸太の破片を掴んだ。槍のように尖った、その先端を、蟻の首の継ぎ目に突き立てた。全身の体重を、乗せて。

甲殻が、軋んだ。それから、砕けた。

蟻の体が、ゆっくりと傾いて、地面に崩れ落ちた。もう、動かなかった。

 

アッシュは、丸太の破片を握ったまま、立っていた。

丸太の山の向こうで、まだ、瓦礫を掻く音がしていた。だが、這い出してくる気配は、もうなかった。

道の先で、列が、遠ざかっていく。

それを見届けたところで、視界が、白く滲んだ。

膝が、今度こそ、崩れた。

空が、白んでいた。

 

目を覚ました時、アッシュは、門の外の道の脇に寝かされていた。

誰かが、引きずってきたらしかった。肩の下に、古株の老人の外套が敷かれていた。

周りに、人がいた。

村人たちが、道端に座り込んでいる。働き手たちも、その隣に、並んで座っていた。命じられた通りに、門の外まで走って、そこで止まったまま、動かずにいたのだろう。

焼いた芋の女の子が、アッシュの顔を覗き込んでいた。

 

「起きた」

 

女の子が、母親の方を振り返って言った。

アッシュは、ゆっくりと上体を起こした。全身が、軋んだ。

数えた。村人が、十七人。働き手が、二十九人。四十六人。

一人、足りなかった。走っている途中で、列から遅れたのだろうか。名前も、知らなかった。

 

アッシュは、働き手たちの方を向いた。

三十人近い、焦点の合わない目が、一斉にアッシュを見た。次の命令を、待っていた。

アッシュは、しばらく、黙っていた。

それから、静かに言った。

 

「……もう、命令はしない」

 

誰も、動かなかった。意味が、分からないのかもしれなかった。

 

「薬が抜けるまで、俺が一緒にいる。抜けたら、どこへ行ってもいい。何をしてもいい。全部、あんたたちが決めていい」

 

働き手たちは、黙って、アッシュを見ていた。

その中の一人が、ほんのわずかに、首を傾げた。

アッシュは、門の向こうの森を見た。

 

朝日に照らされた森は、静かだった。その奥の、ずっと奥で、まだ、何かがざわめいている気がした。

 

上着の内ポケットに、手を入れた。

方位磁針は、まだ、そこにあった。

後で、行く。必ず、行くから。

裏口の扉の前で、そう言った。

アッシュは、方位磁針を握りしめた。それから、ゆっくりと、手を離した。

 

今は、まだ、行けない。この人たちを置いて、森へは戻れない。

あの子も、きっと、分かってくれる。

人に、迷惑を、かけるな。

その言葉の、本当の意味を。あの子に、ちゃんと伝えられる日が来るのなら。それは、この人たちを、最後まで見届けた後だ。

 

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