転生をしたらそこは流星街?ゴミ溜めから始まる物語 作:板前さん
作業場は、地獄だった。
白い電灯の下で、蟻たちが、働き手を一人ずつ引きずっていく。見張りの姿は、もうほとんどなかった。床に転がった銃と、壁に飛び散った血だけが、そこに人がいたことを示していた。
寝床の間で、働き手たちは、まだ座ったままだった。
逃げない。叫ばない。ただ、自分の番が来るのを、焦点の合わない目で待っている。
蟻は、十匹以上いた。一匹ずつ継ぎ目を砕いていては、間に合わない。念も、もたない。
アッシュは、作業場を見回した。
葉を運ぶ、長いベルトコンベア。煮詰め用の、鉄の釜。釜を吊るす、太い鉄骨の梁。どれも、人の背丈を優に超える、重い鉄の塊だった。
触れて、命じる。
小石なら、指先ほどの念で浮く。瓦礫の破片なら、拳一つ分の念で飛ぶ。だが、この鉄の塊を動かすには。
アッシュは、一番近くの鉄の釜に、両手を当てた。
纏を、練で一気に膨らませる。膨らませたオーラを、ありったけ、手のひらから釜の中へ流し込んだ。鉄の分厚い壁の、隅々にまで。自分の体の延長になるまで。
体の芯から、何かが、ごっそりと抜けていく感覚がした。
「浮け」
鉄の釜が、床から離れた。
中で煮詰められていたものが、溢れて床に流れ落ちる。人の背丈ほどもある鉄の塊が、ゆっくりと、宙に持ち上がっていく。
「落ちろ」
働き手を放り出して振り返った三匹の蟻の真上に、釜が叩きつけられた。
轟音が、洞窟を揺らした。
釜の下から、甲殻の砕ける音と、何本もの脚が覗いた。脚は、しばらく痙攣して、やがて動かなくなった。
残りの蟻たちが、一斉にアッシュの方を向いた。
アッシュは、膝をつきかけた。たった一度で、体を包むオーラが、二割近く持っていかれていた。
だから、普段は使わない。使えない。重い物を操るほど、念は湯水のように消えていく。一度に使い切れば、その後は、念の使えない、ただの体で敵の前に立つことになる。
だが、今は、それしかなかった。
アッシュは、天井を見上げた。
釜を吊るしていた鉄骨の梁が、何本も、蟻たちの頭上を走っていた。
跳んだ。梁に、手のひらを当てる。念を、流し込む。
「落ちろ」
梁が、天井から外れた。何本もの鉄骨が、雪崩のように、作業場の床へ降り注いだ。
鉄骨の雪崩が収まった時、作業場で動いている蟻は、いなくなっていた。
鉄の山の下から、何本もの脚が突き出していた。砕けた甲殻。千切れた触角。生き残った数匹は、入り口の方へ、這うように逃げていった。
アッシュは、鉄骨の上に降り立って、肩で息をした。
洞窟の外からは、まだ、銃声と、何かが争う音が聞こえていた。森のあちこちで。崖の上で。蟻は、まだ、いくらでもいる。
働き手たちは、寝床の間に、座ったままだった。
三十人ほどが、残っていた。誰も、動かなかった。目の前で鉄の塊が降り注いでも、悲鳴一つ上げなかった。ただ、焦点の合わない目で、こちらを見ていた。
「……逃げるぞ」
アッシュは言った。
誰も、動かなかった。
「立って、ついてこい。ここにいたら、食われる」
誰も、動かなかった。
アッシュは、拳を握った。
分かっていた。この人たちは、自分では決められない。逃げたいとも、死にたくないとも、もう思えない。言われたことを、言われた通りにすることしか、できない。
だから、言わなければならなかった。
頼むのではなく。誘うのではなく。命じなければ。
人の意思を奪って、操る。それだけは、やりたくなかった。考えようとしただけで、喉の奥が冷たくなる。山小屋の焚き火の前で、シンにそう言った。
奪ったのは、自分ではない。それでも、この人たちを動かすには、命令するしかなかった。
人に、迷惑を、かけるな。
名前も呼ばなかった男が、息子に与えた、たった一つの命令。
アッシュは、息を吸った。
「立て」
三十人が、一斉に、立ち上がった。
迷いも、ためらいもなかった。糸で引かれた人形のように、同じ速さで、同じ姿勢で。
アッシュの胸の奥が、軋んだ。
「俺の後ろを、ついてこい。離れるな。前の者の背中だけを見て、走れ」
三十人が、黙って、頷いた。
アッシュは、背を向けた。後ろで、三十人分の足音が、ついてくるのが聞こえた。
決まった速さで。決まった通りに。
この人たちを外へ連れ出して、薬が抜けて、自分の意思が戻ったら。その時には、どこへ行くのも、何をするのも、全部、この人たちの意思に任せる。今だけだ。今だけ、命じる。
入り口の鉄の扉の向こうは、夜の森だった。
アッシュは、三十人を連れて、走り出した。
森の道を、半日かけて来た道を、夜通し走った。
途中で、二度、蟻に襲われた。一度目は、触れて止めて、継ぎ目を砕いた。二度目は、数が多かった。道の脇の大木に手を当てて、念を流し込み、根元から引き倒した。倒れた幹が、蟻たちの群れの上に覆いかぶさった。
そのたびに、オーラが削られていった。
夜明け前、森が途切れて、村が見えた。
燃えていた。
村の家々のあちこちから、火の手が上がっている。広場に、影がうごめいていた。蟻が、何匹も。逃げ惑う村人を、一人ずつ追い詰めている。
アッシュは、後ろの三十人に向き直った。
「ここで、伏せていろ。俺が戻るまで、動くな」
三十人が、一斉に、地面に伏せた。
アッシュは、村へ走った。
広場の真ん中で、蟻が三匹、一軒の家を囲んでいた。家の戸口に、誰かが立ち塞がっていた。
あの古株の老人だった。
手に、薪割りの斧を握っている。その背後の家の中から、子どもの泣き声が聞こえた。
蟻の一匹が、前脚を振り上げた。
アッシュは、広場の脇の家の壁に、手のひらを叩きつけていた。
念を、流し込む。丸太を組んだ壁の、一本一本にまで。
「飛べ」
家の壁が、丸ごと、剥がれた。何十本もの丸太が、束になって宙を飛び、三匹の蟻を横殴りに薙ぎ払った。蟻たちが、広場の端まで吹き飛んで、丸太の下に埋もれた。
老人が、斧を握ったまま、呆然とアッシュを見ていた。
「……あんた」
「中に、誰がいる」
「隣の、母子が」
アッシュは、家の中へ飛び込んだ。
部屋の隅で、女が、娘を抱きかかえてうずくまっていた。焼いた芋を差し出してきた、あの女の子と、その母親だった。
「アッシュさん」
女の子が、泣き腫らした目で、アッシュを見上げた。
「行くぞ。国境の門まで、走る」
生き残った村人は、二十人に満たなかった。
アッシュは、村人たちと、森の縁で伏せていた三十人を合わせて、一つの列にした。古株の老人が、村人たちの先頭に立った。
国境の門までは、まだ、遠かった。
背後の森が、ざわめいた。
振り返ると、木々の間に、無数の影が蠢いていた。
十。二十。それ以上。燃える村の火に照らされて、甲殻が、鈍く光っていた。
追ってきている。
アッシュは、列の最後尾に立った。
体を包むオーラは、もう、半分も残っていなかった。
国境の門が見えたのは、空が白み始めた頃だった。
受け入れの村の、丸太を組んだ小屋の群れ。その向こうに、森の入り口の木造の門。三週間、移住希望者として暮らした場所だった。今は、誰もいなかった。
背後の足音が、近づいていた。
振り返らなくても、分かった。森の暗がりから、無数の気配が、列の最後尾に迫ってくる。もう、間に合わない。門をくぐる前に、追いつかれる。
「先に行け」
アッシュは、古株の老人に言った。
「門をくぐって、そのまま、外の道を走れ。振り返るな」
老人は、アッシュの顔を見た。何かを言いかけて、やめた。それから、黙って頷いて、列の先頭に戻っていった。
「お前たちも、走れ。前の者についていけ。門の外まで、止まるな」
三十人の働き手たちが、一斉に、走り出した。
列が、門へ向かって遠ざかっていく。焼いた芋の女の子が、母親に手を引かれながら、一度だけ、こちらを振り返った。
アッシュは、列の最後の一人が門をくぐるのを見届けてから、自分も門の外へ出た。
門の両脇には、丸太を組んだ高い柵が、森の奥までずっと続いている。門は、その柵に開いた、ただ一つの口だった。森から外の道へ出るには、ここを通るしかない。
森の縁から、影がなだれ出てきた。
二十を、優に超えていた。
全部を倒す必要はなかった。倒せるだけのオーラも、もう残っていなかった。
塞げばいい。
アッシュは、門の外側に立って、左右の太い柱に、両手を当てた。
残っているオーラを、全部、手のひらに集める。そして、流し込んだ。二本の柱に。それを渡す梁に。柱に組み込まれた、両脇の柵の丸太に。手の届く限りの、全部に。
何か月か前、この門の前で、ようこそ、と言われた。ここでは、誰も、あなたから何も奪いません、と。
「崩れろ」
門が、崩れた。
柱が内側へ倒れ、梁が落ち、両脇の柵の丸太が、引きずられるように崩れ落ちて、門の口へなだれ込んでいく。
先頭の蟻が、門の口に飛び込もうとした瞬間だった。落ちてきた梁が、その頭を押し潰した。
最後の丸太が落ちた時、門のあった場所には、人の背丈の倍ほどもある、丸太の山が積み上がっていた。
瓦礫の山だった。
ゴミ山と、同じ形をしていた。
アッシュの体からは、もう何も出てこなかった。
膝が、崩れかけた。纏すら、保てない。念の使えない、ただの体だった。
瓦礫の山の向こうで、蟻が丸太を掻く音がしていた。登ろうとしている。崩そうとしている。だが、すぐには越えられない。
時間は、稼げた。そう思った時だった。
丸太の山の端が、崩れた。
積み重なった丸太の隙間から、一匹の蟻が、這い出してきた。片方の前脚が、ありえない方向に曲がっている。甲殻のあちこちが砕けていた。それでも、残った脚で地面を掻いて、門の外へ、這い出してきた。
頭が、道の先を向いた。
列の最後尾が、まだ、そこに見えていた。焼いた芋の女の子の、小さな背中が。
アッシュは、地面を蹴った。
体は、鉛のように重かった。念は、もう何も出てこない。ただの、三十二歳の男の体で、蟻の前に回り込んだ。
蟻の残った前脚が、振り下ろされた。
躱しきれなかった。脇腹を、鉤爪が抉った。熱い痛みが、遅れて走った。
構わずに、アッシュは、蟻の前脚に、手のひらを当てた。
体の底を、さらった。もう何もないはずの底を絞り出すように念を込めた。
「……止まれ」
一秒にも満たなかった。それでも、蟻の脚が、止まった。
アッシュは、足元に転がっていた、裂けた丸太の破片を掴んだ。槍のように尖った、その先端を、蟻の首の継ぎ目に突き立てた。全身の体重を、乗せて。
甲殻が、軋んだ。それから、砕けた。
蟻の体が、ゆっくりと傾いて、地面に崩れ落ちた。もう、動かなかった。
アッシュは、丸太の破片を握ったまま、立っていた。
丸太の山の向こうで、まだ、瓦礫を掻く音がしていた。だが、這い出してくる気配は、もうなかった。
道の先で、列が、遠ざかっていく。
それを見届けたところで、視界が、白く滲んだ。
膝が、今度こそ、崩れた。
空が、白んでいた。
目を覚ました時、アッシュは、門の外の道の脇に寝かされていた。
誰かが、引きずってきたらしかった。肩の下に、古株の老人の外套が敷かれていた。
周りに、人がいた。
村人たちが、道端に座り込んでいる。働き手たちも、その隣に、並んで座っていた。命じられた通りに、門の外まで走って、そこで止まったまま、動かずにいたのだろう。
焼いた芋の女の子が、アッシュの顔を覗き込んでいた。
「起きた」
女の子が、母親の方を振り返って言った。
アッシュは、ゆっくりと上体を起こした。全身が、軋んだ。
数えた。村人が、十七人。働き手が、二十九人。四十六人。
一人、足りなかった。走っている途中で、列から遅れたのだろうか。名前も、知らなかった。
アッシュは、働き手たちの方を向いた。
三十人近い、焦点の合わない目が、一斉にアッシュを見た。次の命令を、待っていた。
アッシュは、しばらく、黙っていた。
それから、静かに言った。
「……もう、命令はしない」
誰も、動かなかった。意味が、分からないのかもしれなかった。
「薬が抜けるまで、俺が一緒にいる。抜けたら、どこへ行ってもいい。何をしてもいい。全部、あんたたちが決めていい」
働き手たちは、黙って、アッシュを見ていた。
その中の一人が、ほんのわずかに、首を傾げた。
アッシュは、門の向こうの森を見た。
朝日に照らされた森は、静かだった。その奥の、ずっと奥で、まだ、何かがざわめいている気がした。
上着の内ポケットに、手を入れた。
方位磁針は、まだ、そこにあった。
後で、行く。必ず、行くから。
裏口の扉の前で、そう言った。
アッシュは、方位磁針を握りしめた。それから、ゆっくりと、手を離した。
今は、まだ、行けない。この人たちを置いて、森へは戻れない。
あの子も、きっと、分かってくれる。
人に、迷惑を、かけるな。
その言葉の、本当の意味を。あの子に、ちゃんと伝えられる日が来るのなら。それは、この人たちを、最後まで見届けた後だ。