SF仙女武侠伝 無自覚TSサイボーグ、江湖武林を逝く! 作:モリーマ
李景承は、自分ほど荷運びの似合わぬ男もそうはいないと思っている。
もっとも、そう思っているのは今のところ景承本人だけであった。
「李先生、ぼさっとしてないで、そっち持ってくれ!」
「分かっておる。そう急かすでない」
泥の中へ半ば沈んだ荷車の後輪に肩を入れながら、景承は努めて鷹揚に答えた。朝から降ったり止んだりしていた雨のせいで地面はひどくぬかるみ、車輪の半分近くまで赤黒い泥へ埋まっている。前では二人の雑兵が縄を引き、後ろでは景承を含む三人が腰を落として車体を押していたが、積まれているのは矢束に干し肉、水を満たした甕と、戦場では何一つ欠かせないが、運ぶ側からすればただ重いだけの代物だった。
「せぇの!」
掛け声に合わせて全員が力を込めると、ようやく車輪が泥を噛んで持ち上がった。その拍子に跳ねた泥が、景承の頬から胸元まで盛大に飛び散る。
景承はゆっくりと目を閉じた。
かつて李家の奥庭で、母の残した書を開きながら香茶を飲んでいた頃には、自分の顔へ泥が飛んでくるなどという事態を想像したことすらなかった。ましてや三十八歳になった自分が、辺境の戦場で名もない兵卒に急かされながら荷車を押しているなど、どれほど悪趣味な物語であっても採用されまい。
「……ふむ」
「何だよ、李先生」
「いや」
景承は袖で頬の泥を拭い、そこで余計に顔を汚したことには気づかぬふりをした。
「英雄というものは、えてして一度は泥にまみれるものじゃと思っての」
縄を引いていた男が振り返り、しばらく景承の顔を見た。
「誰が英雄だって?」
「一般論じゃ」
「へえ」
まったく信じていない顔で返され、景承は鼻を鳴らした。
分からぬ者には分からぬ。
古今の英雄譚を紐解けば、最初から最後まで錦衣をまとい、高殿の上から天下を睥睨していた者ばかりではない。国を追われ、盗賊に身を落とし、牢へ繋がれ、山中を彷徨い、ときには乞食同然にまで落ちぶれてから天運を掴んだ者こそ数多い。
景承は、そういう話が好きだった。
いや、好きという言葉では少し足りない。
李家は代々、文官を輩出してきた士大夫の家である。景承にも幼い頃から経書を読み、文章を修め、科挙を通って官途へ進むことが求められたが、本人が夢中になったのは、机の上へ積まれた聖賢の書ではなかった。
仙人が天を行く話。
妖魅が人へ化ける話。
一振りの剣を携えた侠客が悪官を討つ話。
何者でもなかった男が仙縁を得て、一夜にして天下へ名を轟かせる話。
表向きは経書を読みながら、その下へ怪異譚や豪侠譚を隠して読む。そのうち読むだけでは飽き足らず、自分でも伝奇を書くようになった。
――吾ならば、もっと面白いものを書ける。
当時は本気でそう思っていた。
家が望む科挙など、本来の自分が進むべき道ではない。自分にはもっと別の才があり、いつか誰も書いたことのない物語によって天下に名を知られるのだと、ひそかに信じていたのである。
問題は、科挙には何度挑んでも受からず、肝心の物語の方も人へ読ませてみれば酷評されたことだった。
話が散らかっている。
設定ばかり多い。
登場人物が作者の都合で動いている。
主人公だけが不自然なほど恵まれている。
思いつくまま伏線を撒き散らして、一つもまともに片付いていない。
あそこまで言う必要があったのかと、景承はいまだに思う。
もっとも、その結論が「吾には文才がなかった」ではなく「読者の見る目がなかった」へ落ち着いたあたりに、景承という男の性質はよく表れていた。
「李先生」
「何じゃ」
「また変なこと考えてるだろ」
「失敬な。吾はいま、人生というものの起伏について考察しておったのじゃ」
「荷車の次は、あっちの死体運びだぞ」
景承の思索は、ひどく現実的な一言によって打ち切られた。
「……死体?」
「昨日のだよ。暑くなる前に片付けろってさ」
指差された先には、粗末な布を掛けられた人間の形がいくつも並んでいる。布の下から覗く足の一つは、もう生きた人間のものとは思えぬ色に変わっていた。
景承はしばらく黙り込んだ。
「聞いておらぬぞ」
「今聞いただろ」
「そういう意味ではない」
豪侠譚の英雄は、戦場で死体を運んだりしない。少なくとも景承が好んで読んできた物語では、英雄は馬上で槍を振るい、剣気を飛ばし、敵将と名乗りを交わして一騎討ちをする。戦いが終われば勝ち鬨を上げ、その足元に積み重なった死体を誰が片付けたのかなど、一行たりとも記されていない。
そして今、景承はまさに、その一行にも記されない者たちの側にいる。
この事実は、何度考えても甚だ面白くなかった。
科挙に落ち続けたことで、李家の跡取りの座は腹違いの弟へ移った。
景承としては、それも一時の不遇だと思いたかった。
ところが父と後妻は、その先まで決めていた。
家督を継がない長男を、宦官として内廷へ送り込む。
宮中へ入れば李家の役に立ち、しかも子を残さなければ弟の継承を脅かすこともない。家の都合だけを考えれば、なるほどよくできた始末だったのだろう。
景承にとっては冗談ではない。
その話を知った夜、翌朝まで待たずに家を出た。どうせ二度と戻るまいと、李家の家宝であった宝珠まで懐へ入れて。
追い出されたのではない。
少なくとも景承自身の中では、ここは断じて譲れなかった。
李家が吾を見限ったのではない。
吾が李家を見限ったのだ。
そのようにして颯爽と出奔したはずの男が、幾年か後には辺境の戦場で死体を運んでいるのだから、現実というものは景承の好む物語よりよほど容赦がなかった。
*
昼を過ぎる頃には、戦場を包んでいた空気が少しずつ変わり始めていた。
景承のような雑兵に戦全体の趨勢など分かるはずもない。命じられた場所へ物を運び、空になった車を戻し、ときには負傷兵を担架へ載せる。それだけで一日が終わるはずだった。
ところが前線から戻ってくる兵の数が、いつの間にか増えている。しかも自分の足で戻ってくる者より、肩を借り、担がれ、あるいは荷車へ放り込まれてくる者の方が目についた。
片腕を失った男がいた。脇腹から血を流しながら、なぜかまだ剣だけは離さない男もいた。兜ごと頭を割られ、顔の半分を赤黒く染めた兵は、景承たちが担架を受け取った時にはすでに息をしておらず、持ち上げた身体からは生者とは違う重さが腕へ伝わってきた。
物語とは違う。
そんなことは、とうの昔に知っている。
それでも実物を見るたび、景承は同じことを思う。書物の中では豪傑が百人を斬れば、それは痛快な武勇譚になるが、百人斬られた側には、こういう死体が百あるのだ。
「……あれを見ろ」
隣で水甕を抱えていた雑兵が、前方の土塁の向こうを指した。
何人かが仕事の手を止めてそちらを見る。
戦列の彼方、舞い上がる土煙の中に、ひときわ速く動く影があった。普通の兵ではない。人の群れの隙間を縫うのではなく、まるで足下の大地そのものから押し出されるように一息で距離を詰め、敵兵の槍をかわして横へ流れたかと思えば、次の瞬間には数丈先へ移っている。
「武仙か?」
誰かが呟いた。
景承は思わず目を細めた。
「いや、あの足捌きだけでは分からぬ。軽身功を深く修めた一流武人ならば、あの程度は不可能ではない。それに先ほどの踏み込み、足から放つ勁を前だけでなく――」
「李先生、また始まったぞ」
「最後まで聞け。軽身功というものは、単に速く走る術ではない。力をどこへ逃がし、どの瞬間に重心を移すかが――」
「そんなに詳しいなら、お前が行ってこいよ」
景承はそこで口を閉じた。
「……知識と実践は別物じゃ」
「便利な言葉だな」
「当然であろう。兵法書を読む者すべてが大将軍になれるわけではない」
「じゃあ、武仙のことも本で読んだだけか?」
「む」
その聞き方は気に入らなかった。
「『だけ』とは何じゃ。武仙についてなら、そこらの門外漢よりは知っておる」
景承は水甕を下ろし、相手が求めてもいないのに指を一本立てた。
「そもそも仙丹を飲めば真の仙人になれる、などというのは童蒙向けの仙人譚の話じゃ。現実の仙丹は、そのような都合のよい不老不死の薬ではない」
「また長くなるのか?」
「聞け。大事な話じゃ」
「仕事しながらにしてくれ」
仕方なく景承は甕を持ち直した。
仙丹は実在する。
神仙譚の中だけにある霊薬ではなく、名のある門派ならば、選び抜いた弟子へ仙丹を授け、武仙を生み出すことがある。それは裏世界だけの秘密というわけでもなく、景承のような門外漢ですら知っている事実だった。
ただし、仙丹を飲んだ者が、そのまま天へ昇って仙人になるわけではない。
武人はまず長い歳月をかけて内功を練り、気を巡らせるための基礎を身体へ作る。そのうえで仙丹を服し、先達の助けを受けながら丹田へ定着させることに成功すれば、全身の経脈が大きく開き、それまでとは比較にならぬほど莫大な内気を巡らせられるようになる。
そこで初めて、人は武仙と呼ばれる。
石を砕き、常人には追えぬ速さで駆け、ときには勁を身体の外へまで放つ超常の武人ではあるが、伝説上に謳われる不老不死の仙人とは違う。年を取り、病にもなり、斬られれば死ぬ。あくまで人の身のまま、人の限界を大きく越えた存在である。
そして何より、仙丹は飲めば誰でも武仙になれる代物ではない。十分な内功の下地もない者が服せば、丹田へ収まるどころか、その力に身体が耐えられず憤死する。
「じゃあ、お前は無理じゃないか」
男があっさり言った。
景承は眉を寄せた。
「何がじゃ」
「武仙。お前、内功なんてやってないんだろ」
「……世の中には例外というものがある」
「あるのか?」
「物語にはな」
「物語かよ」
笑われたが、景承は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
李家には、かつて発禁となった一冊の侠客物語が残されていた。
国を奪われた王子には内功の素養がなかった。それにもかかわらず、一粒の仙丹が奇跡的にその身へ定着し、一夜にして至高の内功を得る。王子は圧倒的な武力で強敵を打ち倒し、仲間を集め、最後には祖国を取り戻す。
あまりに流行したため、自分も仙丹に選ばれると思い込んだ裕福な若者が続出し、市井へ流れた仙丹を買い求めて勝手に服用した。結果として何人もの若者が憤死し、ついには物語そのものまで禁じられた。
馬鹿な話ではある。
景承も、頭ではそう思っている。
だが、その物語を幼い頃から何十回と読み返し、自分でも同じような英雄譚を書こうとした男の心から、どうしても消えてくれない考えが一つだけあった。
もし、本当に例外がいるならば。
凡人として扱われ続けてきた者に、実は誰にも見抜かれなかった何かがあるのだとしたら。
――それが吾でないと、誰が決めた。
「李先生」
「何じゃ」
「顔が気持ち悪いぞ」
「何じゃと?」
言い返したところで、遠くから鐘が鳴った。
続いて太鼓が響く。
先ほどまで一定の調子を保っていたものとは違い、間隔が短く、叩き方も荒い。景承の周囲で兵たちが一斉に顔を上げた直後、土塁の向こうから怒号が重なって聞こえてきた。
「下がれ!」
「第三曲が崩れた!」
「荷を捨てろ! 退け!」
人の流れが突然逆転した。
前線へ向かっていた兵がこちらへ走り、馬がいななき、誰かが泥へ倒れ、その上を別の兵が踏み越えていく。命令を叫ぶ声と逃げろと喚く声が入り混じり、どれに従えばよいのかさえ分からない。
「な、何じゃ?」
景承は反射的に一歩退いた。
「負けたんだよ!」
「いや、まだ負けたとは――」
最後まで言えなかった。
空気を裂いた矢が、景承の三歩ほど横にいた男の肩へ突き立つ。男は何が起きたのか分からぬような顔をしたあと、遅れて悲鳴を上げ、泥の中へ転がった。
景承の喉から、自分でも聞いたことのない音が漏れた。
物語の中で、矢というものはずいぶん軽く扱われる。達人なら剣で払い、豪傑なら鎧で弾き、主人公ならそもそも当たらない。
だが景承は、そのどれでもない。内功はなく、剣術も習っておらず、身につけているものといえば、刃を受ければ簡単に裂けそうな粗末な衣と革だけである。
矢が当たれば死ぬ。
至極当然のその事実が、頭ではなく腹の底まで落ちてきた。
「退け! 退け!」
誰かが叫び、景承も走った。
いや、逃げた。
英雄らしいとか、格好がつくとか、そのようなことを考える余裕は一瞬で消えた。死にたくない。ただそれだけで泥を蹴り、押し寄せる兵の間を縫って走った。
横からぶつかってきた男に肩を弾かれ、一度は足を取られかけたが、両手を振り回してどうにか踏みとどまる。そのとき、前を走っていた雑兵が泥に足を取られ、激しく転倒した。
「いてえ!」
景承は横を通り過ぎかけた。
敵は近い。助けている場合ではなく、ここで立ち止まれば自分まで追いつかれる。それくらいは、武術の心得などなくとも分かる。
それでも二歩進んだところで、景承は顔を歪めた。
「……ええい!」
悪態を吐きながら引き返し、倒れた男の腕を掴んだ。
「立て!」
「李先生?」
「その呼び方は今どうでもよい! 早うせい!」
二人で走り出したものの、そのわずかな遅れが致命的だった。味方の大きな流れはすでに前方へ離れ、逆に横手の木立から敵兵が数人、逃げ遅れた者を探すように姿を現した。
「いたぞ!」
景承の背筋が冷えた。
「走れ!」
助けた男へ叫んだあとは、互いにどちらへ逃げたのかさえ分からなかった。
景承は自分でも驚くほど必死に走った。
*
息が焼けるように苦しかった。
口の中には血の味がし、脇腹は走るたびに締め上げられるように痛んだ。それでも背後から聞こえる足音と声が消えない以上、止まるという選択肢はない。
「待て!」
「逃がすな!」
待てと言われて待つ者がどこにいる、と毒づく程度の余裕だけは戻ってきたが、足はとうに限界へ近づいている。
景承は木々の間へ飛び込み、斜面を駆け下り、露出した岩を回り込んだ。こういうとき、豪侠譚の主人公ならば軽身功を使う。竹葉を踏み、川面を渡り、崖から崖へ跳び、追手が十人いようと百人いようと、山中へ入った時点で主人公の領分になる。
ところが景承は、張り出した木の根一本にすら足を取られかけた。
「軽身功があれば……!」
息の合間から恨めしげな声が漏れるが、もちろんない。
太和拳ならば若い頃、侠客への憧れから健康法として広まっていた型を覚えたことはある。しかし、あれを数度真似した程度で達人になれるなら、門派へ入って何年も修行する者など存在しない。
ふと、前方の木立が途切れた。
景承はその向こうへ飛び出し、思わず足を止めた。
古びた石柱が二本、道の両側へ立っている。片方は半ば崩れ、その表面には苔がびっしりと張り付いていた。それでも、深く刻まれた古い文字のいくつかは読める。
――入るべからず。
その先にも森は続いていたが、ただの森には見えなかった。
風がない。
鳥の声も聞こえない。
背後ではまだ遠く戦場の喧噪が続いているはずなのに、石柱の向こうには別の場所を切り取って置いたような静けさが沈んでいる。
景承の背筋を冷たいものが走った。
その一方で、恐怖とはまるで別のところから、三十年以上かけて育て上げた性分がむくりと頭をもたげる。
「……禁域」
古い伝奇なら、この先には仙人の洞府がある。あるいは神獣の棲処。あるいは千年に一度実る霊果。
崖下へ落ちた主人公が絶世の秘伝を見つけるのも定番だが、追手から逃れて禁域へ入り、そこで仙縁を得る話も数え切れぬほど読んだ。
景承の胸が、ほんの一瞬だけ高鳴った。
まさか。
いやいや。
そんな都合のよいことが――。
「いたぞ!」
後ろから声が響き、胸の高鳴りは別の意味へ変わった。
「……ええい、ままよ!」
景承は石柱の間を駆け抜けた。
背後で追手たちもいったん足を止めたらしく、少し遠のいた声が聞こえる。
「おい、待て。ここは……」
「何だ?」
「近づくなって、村の奴らが言ってた森じゃないのか」
「敵の雑兵一人に怯えて、今度は森が怖いってか?」
「だがよ――」
「迷信だ。行くぞ」
やがて草木を踏み荒らす音が再び近づいてくる。
「来るのか!」
景承は思わず振り返ったものの、すぐ、自分ならば禁域と知った時点で立ち止まっただろうかと考え直した。
いや、自分も入った。
追われていたとはいえ入ったし、それどころかほんの一瞬、仙縁を期待した。
「……吾も人のことは言えぬか」
そんなことを呟きながら、景承はさらに森の奥へ入っていった。
*
森は思った以上に深かった。
空を覆うほど枝葉が重なっているのに、奇妙なことに暗くはない。どこから差し込んでいるのか分からぬ青白い薄明かりが木々の間を満たし、足元には景承の知らぬ小さな花が点々と咲いている。
葉の裏側だけが白い木、幹に幾重もの輪を描く老木、岩肌に刻まれた獣の爪痕とも古い文字とも判別できぬ線。逃げながらも、景承の視線はそれらへ引き寄せられた。
こんな状況でなければ、一日でも二日でも調べて回りたい。自分でもどうかしているとは思うが、三十年以上も神仙譚と怪異譚を読み続けてきた人間というものは、命が危うくなった程度では性根までそう簡単には改まらないらしい。
そのとき、森のさらに奥へ踏み込んだ景承は、何かに引き留められたように足を止めた。
何かがいる。
最初は白い岩だと思った。木立の間に開けた場所があり、その中央に、それは静かに伏している。
だが岩が呼吸するはずはない。
白い獣だった。
牛を思わせる大きな胴には厚みがありながら、四肢や首筋の線には鈍重さより獅子のような力強さがある。頭部にもいくつもの獣の特徴が不思議な調和を保って混じり、さらに顔の周囲と身体の一部には、普通の獣にはあるはずのない眼が静かに開いていた。
それらの眼は無秩序についているのではなく、どれもが同じ意志を宿したように、ほとんど同時に景承を見た。
景承の呼吸が止まった。
幼い頃に李家の書庫で見た神獣図、その後に古書肆から買い集めた異聞録、筆写本しか残っていなかった怪異譚――そこへ描かれた姿が、次々と頭の中へ浮かぶ。
白沢についての記述は時代によって違い、絵師によって姿も異なる。牛の姿に描くものもあれば獅子や羊に似せるものもあり、眼や角の数すら一定しない。
それでも、幾つもの特徴を重ねれば分かった。
「……白沢」
天下の鬼神を知り、人の言葉を解し、万物の理に通じると伝えられる神獣。
そんなものが、本当に目の前にいる。
景承の膝は恐怖にわずかに震えていたが、それ以上に、長年胸の底へ押し込められてきた感情が一気に込み上げた。
三十八年間、神仙など物語だ、怪異譚など暇人の読むものだ、そんなものへ夢中になる暇があれば経書を読めと、何度言われたことか。いい歳をして、いつまで子供のようなものを好むのかと笑われたことも、一度や二度ではない。
だが、いる。
誰が何と言おうと、いま自分の前にいる。
「本当に……本当に、おったのか……」
白沢は答えなかった。
ただ、幾つもの眼で景承を見ている。
その頭上には複数の角があったが、景承はすぐ、そのうちの一本に目を奪われた。他の角には曲がりも節もあり、古図で見てきた神獣の角としてそれほど不思議ではないのに、それだけはまるで違っていた。
細長く、根元から先まで不自然なほど真っ直ぐで、表面には生き物の角にあるはずの細かな凹凸がほとんどない。骨とも角質ともつかぬ滑らかな肌には銀糸より細い線が幾筋も走っており、そのうち一本の奥を、淡い光が根元から先端へするすると昇った。
「霊角……?」
少なくとも景承の読んだどの白沢図にも、こんなものは描かれていない。
ならば書物の方が不完全なのだろう。考えてみれば当然である。何百年、何千年前の絵師が、本物の白沢を直接見た保証などどこにもない。
つまり自分はいま、歴代の学者も知らぬ真の白沢を、この目で見ているのかもしれない。
その考えに胸が高鳴ったところで、背後から草を踏み荒らす音が近づき、現実が容赦なく追いついてきた。
「いたぞ!」
景承が肩を跳ねさせて振り返ると、木立を押し分けて三人の敵兵が現れた。先頭の男は抜き身の刀を握っていたが、景承を認めて数歩進んだところで、その視線が彼の背後へ移る。
「……何だ、あれ」
二人目も足を止め、白い獣を訝しげに睨んだ。
「獣……か?」
「知らん。妙な化け物だな」
「化け物とは何じゃ!」
景承は反射的に怒鳴り返し、三人の視線が一斉にこちらへ戻ったところで、自分がいま命を狙われている最中だったことを思い出した。
「この状況でそっちを庇うのかよ」
「いや、吾はただ、ものには正しい呼称というものがあると言っておるのであって――」
「うるせえ!」
先頭の男が刀を持ち上げて一歩踏み込んだ、その瞬間、景承の背後で草が静かに擦れた。
白沢が立ち上がっていた。
伏していたときにも大きいとは思っていたが、四肢で立つと、その体躯は景承の想像以上だった。白い毛並みが森の青白い明かりを柔らかく返し、身体に散在する幾つもの眼が、ほとんど同時に三人の兵へ向けられる。
そこに怒気はなく、殺意すら景承には感じ取れなかった。むしろ、人が道端を這う虫を眺めるときのような、冷ややかな観察に近い。
白沢が口を開く。
『Khael var'esh. Tor na vel-sarai.』
景承は目を見開いた。
聞いたことのない言葉だった。異国語ではない。少なくとも景承が知る周辺諸国の言葉とは、音の組み方そのものが違っている。獣の鳴き声でもなければ、神仙譚に記された呪文や古代語とも似ていない。
それなのに一音一音だけは妙に明瞭で、意味こそ分からなくとも、何者かへ何かを伝えようとしている言葉なのだと直感できた。
「……白沢が、喋った」
「何だって?」
敵兵の一人が景承と白沢を交互に見る。
その瞬間、白沢の異様な角を走っていた細い光が一気に強まり、淡かった輝きが根元から先端へ集まるように白く変わった。
『Serrak.』
森の空気が微かに鳴いた。
一条の白い閃きが角の先から伸び、景承の目にはその始まりも終わりも追えなかった。ただ、先頭に立っていた兵の胸へ細い光が触れたのだけは見えた。
直後、男の身体から火が噴いた。
「ぎ――」
悲鳴は最後まで形にならず、胸当ての隙間から赤い炎が走り、衣服が縮れ、露出した皮膚が見る間に黒ずんでいく。男は刀を取り落とし、自分の身に何が起きたのか理解する暇すらないまま二歩ほどよろめくと、その場へ膝から崩れ落ちた。
肉の焼ける臭いが森へ広がり、景承の胃が激しく収縮する。
二人目の兵が息を呑んで踵を返したが、逃げろと叫ぶより早く再び白い閃きが走った。光が背中へ触れた途端、その身体は前へつんのめり、衣服と髪から煙を噴きながら地面へ倒れる。
最後の一人は刀を取り落とし、両手を上げて後ずさった。
「ま、待て! 俺は何も――」
白沢はその声を聞いているのかいないのか、ただ静かに男を見つめた。
『Vel.』
三度目の光が森を裂き、男の言葉は途中で途切れた。
つい先ほどまで自分を追い立てていた三人が、ほんの数呼吸の間に黒く焼けて動かなくなったことを、景承の頭はすぐには受け入れられなかった。焦げた臭いはあまりにも生々しく、目を逸らしたいのに身体が固まったように動かない。
自分を殺そうとしていた敵兵である。だからといって、生きた人間が目の前で焼けていく光景を平然と受け止められるほど、景承は胆の据わった豪傑ではなかった。
吐き気が込み上げ、背中には冷たい汗が滲む。それなのに、三十年以上かけて頭へ詰め込んだ神仙知識だけは勝手に動き始めていた。
雷法にしては雷鳴がない。天火というには光が細すぎる。陽気を一点へ凝縮した神通力なのか。それとも古い異聞にある、瑞獣が邪を焼くという記述は比喩ではなかったのか。
考えても、どれにも当てはまらない。
景承が読み漁ってきたどの書物にも、こんな術は載っていなかった。
「……す、凄まじい」
震えた声が漏れる。
恐ろしいのに、どうしようもなく興奮している自分もいる。
神獣が実在しただけではない。本当に、人知の外にある力まで使ったのだ。自分が何十年も書物の中だけで追い続け、そんなものばかり読んでいるから科挙に落ちるのだと何度も叱られ、それでも捨てられなかった世界が、いま目の前で現実になっている。
「白沢殿」
景承はほとんど無意識に呼びかけた。
「吾は李景承と申す。先ほどは危ういところを――」
白沢の幾つもの眼が、同時に景承へ向いた。
続けようとしていた言葉が止まる。
先ほど敵兵へ向けられていたのと同じ、感情の読み取れない視線だった。ただし白沢が見ているのは景承の顔ではなく、もっと下――胸元である。
「……?」
景承も視線を下ろした。
衣の内側には、李家を出奔する際に持ち出した家宝の宝珠がある。宦官にされると知って家を飛び出したあの晩、せめてこれくらいは持って行ってやると半ば意地になって懐へ入れたものだ。何代前から伝わったのかも、何の役に立つのかも知らない。ただ李家の家宝であるという、その一点だけで大切にされてきた。
白沢の幾つもの眼がわずかに細められる。
『Taal…… oriin-ka?』
「何じゃ?」
景承には当然、意味など分からない。
それでも白沢の様子が変わったことだけは理解できた。先ほどまで景承本人にはほとんど興味を示さなかった神獣が、いまは明らかに衣の下の宝珠へ注意を集中させている。
「これが、どうかしたのか?」
景承が衣の上から宝珠へ触れた、その瞬間だった。
白沢の異様な角を、再び白い輝きが駆け上がる。
今度は、それが何を意味するのか分かった。
「待て」
景承の声が裏返った。
「あれはまずい。待て待て待て! 吾は敵ではない! というか、今まさに名乗ったばかりであろう!」
白沢は止まらない。
景承は身を翻そうとしたが、その判断が形になるより早く角の先が白く染まり、先ほど三人の兵を焼いたものと同じ輝きが凝集する。
仙人も英雄も、格好のよい最期の台詞も、その瞬間だけは頭から完全に消えた。
死ぬ。
それだけが、ひどく鮮明だった。
白い光が走る。
景承は反射的に顔を両腕で覆い、来るはずの熱と痛みに歯を食いしばった。
ところが何も来ず、代わりに胸元で今まで一度も感じたことのない細かな振動が起こった。衣の内側から白い光が漏れ出し、景承が震える手で胸元を押さえた途端、家宝の宝珠が強く明滅する。
『Var-khel. Sevar en tal.』
聞き覚えのない言葉が、今度は白沢ではなく胸元から直接響いた。
「お、おぬしまで喋るのか!?」
叫んだ直後、宝珠を中心として淡い光が一気に広がった。
水面を垂直に立てたような薄い膜が宝珠を包み、そのまま球を膨らませるように外側へ広がっていく。その広がり方には景承自身を庇おうとする様子などなく、あくまで胸元の宝珠を中心としているように見えたが、それを懐へ抱えていた景承の身体も結果として内側へ収まった。
そこへ白沢の放った閃光が真正面から衝突した。
甲高い音が森へ響き、景承は思わず目を閉じる。熱い風が頬と髪をなぶったものの、皮膚は焼けず、衣にも火はつかない。
恐る恐る瞼を開けば、鼻先より少し前に半透明の輝きが残っており、白沢の光はその表面へ当たったところから幾筋にも裂け、景承の左右へ流れながら木々の間へ消えていった。
「……なんじゃ、これは」
掠れた声で呟きながら、景承は自分の胸元を見下ろした。
宝珠が光っている。
これまで李家で何代にもわたって保管されながら、一度として使い道など分からなかったものが、いまはまるで長い眠りから覚めたように規則正しく明滅している。
白沢も攻撃を続けようとはしなかった。その幾つもの眼は、もはや景承を見ていない。
宝珠だけを見ている。
先ほどまでほとんど感情らしいものを見せなかった白沢の身体に、初めてわずかな緊張が生じているように見えた。
宝珠が一度、強く光った。
『緊急自己保全処置を完了しました。外部からの破壊性干渉を検知したため、長期休眠状態を解除します。現所持者の識別を開始します』
「……待て」
景承は眉を寄せた。
「吾にも分かる言葉で喋っておるのに、何を言っておるのかさっぱり分からぬぞ」
当然の抗議だったが、宝珠は景承の都合など一切考慮しなかった。
『血統情報を照合します』
胸元から広がっていた光の膜は消えず、その中心で宝珠だけが一定の間隔で明滅を続ける。
景承はそこで、ようやく一つのことに思い至った。
先ほどの光の壁は、自分を守ったものではなかったのではないか。
白沢の光は景承の胸を狙っていた。そこには宝珠がある。だから宝珠は、自分自身が壊されるのを防いだ。そのすぐ後ろに景承がいたため、結果として一緒に助かっただけなのだろう。
それはそれで随分と薄情な家宝だが、死なずに済んだ以上、文句を言う筋合いでもない。
『照合完了。現所持者、李景承。既登録占有血統との一致を確認しました。同一血族による本宇宙船鍵の取得より、標準宇宙時間換算三百二十七年が経過しています』
「う……ちゅう?」
聞こえている。
言葉としても理解できる。
しかし、そこへ含まれている意味の大半が景承の持つ知識の外側にあった。
宇宙とは何だ。
船ならば川や海に浮かべるものではないのか。
そして、なぜ李家の家宝が、その「船」の鍵なのか。
尋ねたいことは次々と浮かんだが、宝珠はこちらの都合など意に介さず、淡々と宣告を続けた。
『宇宙取得物所有権移転法第七十二条第三項、および長期占有物特例規定を適用します。旧所有者による優先回収期間ならびに異議申立て可能期間の満了を確認しました』
「旧所有者?」
景承は思わず白沢を見る。
幾つもの眼が宝珠へ向けられたまま動かない。
それまで景承には読み取れなかった白沢の表情に、わずかな変化が生じた。頭がほんの少し持ち上がり、前脚へ掛かっていた重心が変わる。
その反応を見て、景承の背筋へ先ほどとは別種の寒気が走った。
「……まさか」
『血統継承および継続占有条件を確認しました。現時刻をもって、本宇宙船鍵の所有権を李景承へ移行します』
「吾?」
そこだけは疑いようもなく理解できた。
景承は思わず自分の胸を指した。
「吾なのか?」
『所有権移転完了。新所有者、李景承。所有者認証を実行します』
宝珠がそれまでより強く輝く。
その光が今度は宝珠そのものを囲むだけではなく、景承の胸元から肩、腕、腰、足元へとゆっくり広がり、輪郭をなぞるように全身を包んでいった。
先ほどとは違う。
景承にも、それだけは分かった。
最初の光は宝珠の周囲へ勝手に広がっただけだったが、今の光は明らかに李景承という一人の人間を認識し、その身体を対象として覆っている。
『所有者認証完了。認証所有者に対する直近の致死性攻撃履歴を確認しました。攻撃主体を照合します』
白沢の身体が、ほんのわずかに強張った。
景承の視線も、ゆっくりと白沢へ向く。
つい先ほど、自分を黒焦げにしようとしたあの光。
宝珠は、それを覚えているらしい。
わずかな間を置き、無機質な声が続いた。
『対象識別完了。直近の致死性攻撃主体を脅威対象として登録します』
白沢が一歩、後ろへ下がった。
その動きを見た瞬間、景承の喉が乾いた。
おかしい。
あまりにも、おかしい。
先ほど三人の兵を瞬く間に焼き殺し、自分の命さえ一条の光で奪えるはずだった神獣が、いま胸元の小さな家宝を前に、自ら距離を取ったのである。
「待て」
今度は白沢ではなく、景承が宝珠へ言った。
「おぬし、何をするつもりじゃ」
『所有者に対する脅威を確認しました。所有者保護プロトコルを起動します』
景承の全身を覆っていた薄い光が、わずかに強まった。
森の中を吹いていなかったはずの風が髪を撫でたように感じられ、景承は息を止める。
そして白沢の反応は、それまでとは明らかに違った。
幾つもの眼が宝珠と景承を交互に捉え、そのうちいくつかが大きく見開かれる。敵兵を焼き殺したときでさえ、道端の虫でも眺めるように平然としていた存在が、初めて隠しようのない動揺を露わにしていた。
景承は、そこでようやく理解した。
白沢は自分を恐れているのではない。
李家で何の役にも立たぬ家宝として扱われていた、この小さな宝珠が告げた言葉を警戒しているのだ。
『所有者保護処置を開始します』
無機質な宣告が、静まり返った森へ響いた。
白沢の眼が、今度こそはっきりと見開かれた。
景承は胸元で強く脈打つように明滅する宝珠へ目を落とし、次いで、その宝珠を警戒する白沢を見た。
何が起きているのかは、まるで分からない。
宇宙も、宇宙船も、取得物所有権移転法なるものも、景承には理解の外にある。
だが一つだけ、否応なく胸へ浮かんでくる考えがあった。
科挙には落ちた。物書きとしても認められなかった。家督を弟へ譲らされ、宦官にされかけ、家から逃げ出し、最後には辺境の雑兵にまで落ちぶれた。
それでも、自分だけはどこか普通ではないのではないかという、三十八年もの間しつこく捨てられなかった考え。
何度現実に打ちのめされても、そのたび理屈をつけて拾い直してきた、あまりにも往生際の悪い夢。
景承は、自分を包む淡い光と、その向こうで明らかな驚愕を浮かべる白沢を見つめた。
胸の奥で、その夢がまた息を吹き返していく。
――もしや、本当に。
吾の物語は、ここから始まるのではないか。