SF仙女武侠伝 無自覚TSサイボーグ、江湖武林を逝く! 作:モリーマ
国主府の裏手には、兵舎に隣接して広い練兵場が設けられていた。
土を固く踏み締めた地面のあちこちに木人や弓の的が並び、その一角では数十人の兵が長槍を揃えて突き出している。
「踏み込め!」
号令と同時に、何十本もの槍が前へ伸びた。
「引け! もう一度!」
再び槍が引かれ、兵たちの足が土を踏む。
先ほどまで静かな謁見の間にいた
もっとも、かつて自分がいた瑞国軍の雑兵とは随分様子が違う。
衣服も武具もよく揃っており、動きにも統一がある。号令に合わせて槍がほとんど同時に前後する様子を見るだけでも、梁国の正規兵が相応に鍛えられていることは景承にも分かった。
そこへ
「止め!」
槍が一斉に止まった。
兵たちは整列し、梁公へ礼を取る。
そして、その後ろから現れた
とりわけ景承にはよく集まった。
当然である。
梁公と将軍に伴われて練兵場へ来た見慣れぬ少女が、どう見ても雑兵にしか見えない服を着ている。
目立たないはずがない。
――また服か。
景承はもう気にしないことにした。
「訓練を中断させてすまんな」
姚文泰が武官へ告げる。
「少し場所を借りたい」
「はっ」
事情を尋ねる者はいなかった。
だが魏長鋒が壁際の武器架へ歩み、自ら刃引きされた長槍を手に取ったあたりから、兵たちの様子が変わった。
その場を離れようとしない。
命じられたわけでもないのに、練兵場の端へ移動して場所を空けながら、こちらの様子を窺っている。
やがて小声が交わされ始めた。
「将軍が?」
「手合わせか?」
「あの娘と?」
どうやら見物するつもりらしい。
景承としても、その方が都合がよかった。
観客は多い方が、達人らしく振る舞い甲斐がある。
魏長鋒が手にした槍は、戦場で使う鋭い穂先を備えたものではなく、兵たちが稽古に用いる長槍だった。とはいえ頑丈な柄を持ち、先端も打ち据えれば十分に人を傷つけられる造りである。
魏長鋒が何度か握りを確かめてから、景承を見た。
「私は槍を使います。李景承殿も、何か得物を選ばれてください」
「む」
景承は武器架を見る。
槍、剣、大刀、棍。
いくつか並んでいる。
そして困った。
まともに扱えるものが一つもない。
軍にいた頃、槍を持たされたことくらいはある。だが、それは槍術を修めたという意味ではない。ただ前へ向け、言われた通りに突き出した程度である。
剣などもっと駄目だ。
大刀も同じ。
棍なら振り回すくらいはできるかもしれないが、梁国でも指折りの武仙を相手に「振り回すくらい」でどうにかなるとは、さすがの景承も思わなかった。
表情だけは崩さず、声に出さずに呼びかける。
――
《はい》
――吾、まともに使える得物がないのじゃが。
《把握しています》
――把握しておったのなら、何か案を出せ。
《推奨。素手による交戦》
景承は危うく武器架を二度見するところだった。
――おい、相手は槍じゃぞ。
《把握しています》
――なぜ、それで素手を勧める!
《未習熟の兵刃を使用した場合、既存戦闘技能の運用効率が低下します。太和拳による素手戦闘を推奨します》
――槍の方が長いではないか!
《既知情報です》
――そういうことを申しておるのではない!!
もちろん、外から見れば景承は静かに武器架を眺めているだけである。
魏長鋒も急かさず待っていた。
景承はもう一度、槍や剣を眺めた。
持って格好がつくのは剣だろう。
仙女ならば細身の剣など実によい。
だが、持ったあと何をすればよいのか分からない。
――本当に素手でよいのじゃな?
《肯定》
――刺されぬか?
《
――待て。
嫌な予感がした。
――それはもしや、槍を腕で受けろという意味か?
《肯定》
――吾の腕を何だと思っておる!
《現在の防御性能を基準とした合理的選択です》
理屈は分かる。
分かるのが腹立たしい。
景承はしばらく武器架を見つめた末、半ば諦めて魏長鋒へ向き直った。
「兵刃の扱いは不得手でな。吾はこのまま素手でお相手しよう」
兵たちの間から、小さなどよめきが起こった。
魏長鋒もすぐには答えず、その視線を景承の空いた両手へ落とした。
「……素手で?」
「うむ」
「私の槍を相手に、ですか」
「その方が都合がよい」
何が都合よいのかと問われると困る。
剣も槍も使えないからである。
だが言い方としては、なかなか達人らしい。
魏長鋒は景承をしばらく見た後、それ以上は何も言わず、槍を構えた。
先ほどまで周囲にあった兵たちのざわめきも、少しずつ小さくなった。
景承も両足を開く。
太和拳の構え。
何度も頭の中で思い描き、今では身体の方が勝手に最も無理のない位置へ収まってくれる。
――叡艾。
《はい》
――頼むぞ。
《
皮膚の下を、内力が静かに流れていくような感覚がした。
見た目には何も変わらない。
細い腕は細い腕のままである。
だが景承自身には、その内側が急速に締まり、腕そのものが一つの硬質な塊へ変わっていくように感じられた。
《局所防御、安定》
――本当に大丈夫なのじゃろうな。
《肯定》
「では、参ります」
魏長鋒の声に、景承が頷いた。
次の瞬間、槍が来た。
速い。
そう認識したときには、穂先はすでに胸元へ届きかけていた。
景承の身体が反応する。
半歩だけ身体をずらしながら右腕を上げ、迫る槍先へ前腕の外側を合わせる。
硬いもの同士が激突したような乾いた音が、練兵場へ響いた。
槍が横へ逸れた。
「――っ」
誰かが息を呑んだ。
景承自身も驚いていた。
痛くないどころか、手応えすら妙に軽かった。
鉄の籠手でも巻いた腕で棒を払ったような感覚で、魏長鋒の槍が横へ流れていった。
――弾いたぞ。
《肯定》
――銀槍鉄壁の槍を、吾の腕が弾いたぞ!
《事象を確認しています》
――もう少し感動してもよいところではないか?
《必要性を認めません》
景承が内心で文句を言っている間にも、魏長鋒は止まらなかった。
流された槍を即座に引き戻し、今度は景承の脇腹へ穂先が走る。
景承は左腕を下げ、円を描くように払う。
再び硬い音が響き、穂先が外へ逸れた。
次いで肩、さらに腿へと槍先が走る。攻めは突きだけではなく、槍身を横へ振るった薙ぎや、引き戻した勢いをそのまま次の一撃へ繋ぐ変化まで混じり始め、時には穂先を見せておきながら逆側の柄が回り込んでくる。
景承には、その全てを見切れているという感覚はなかった。
ただ、叡艾の補正に従って身体を動かし、迫ってくる槍へ太和拳の円い動きを重ねていく。
真正面から受け止めるのではない。
触れた瞬間に軌道をずらし、硬質な籠手のようになった前腕で危険な穂先を外へ流す。
刃を恐れて手を引く必要がないからこそ、景承の動きは自然と小さくなった。
魏長鋒の槍が激しく動くほど、その中心で景承だけが静かに立ち、必要な分だけ腕を巡らせているように見える。
周囲の兵たちから、次第に声が消えていった。
最初にあった驚き交じりのざわめきも、いつしか低い息遣いへ変わっている。
景承はそれに気づいていた。
気づけば当然、気分もよくなる。
――見ておる。
正規兵たちが見ている。
梁国屈指の武仙、銀槍鉄壁の槍を、どこの門派にも属さぬ謎の仙女が素手で捌いているのだ。
これはもう、どう考えても格好よい。
しかも魏長鋒の槍は、先ほどより速くなっているように見えた。
実際には、速さだけではなかった。
槍と腕が触れ合うたび、響く音が少しずつ重くなっている。最初の一撃では乾いた音だったものが、やがて鈍く低い衝撃を伴い始めていた。
だが景承は、そこまで深く考えなかった。
――やはり吾の硬功、凄いのではないか?
《防御機能は正常に作動しています》
――それは分かっておる。そうではなく、もっとこう……武仙としてじゃな。
《評価対象が不明確です》
――もうよい。
景承は外面だけは涼しいまま、次の突きを左腕で外へ流した。
そこで魏長鋒が一歩引き、初めて攻撃を止めた。
景承も追わない。
そもそも追い方が分からない。
ちょうどよいので、何もかも承知した達人のようにその場へ立っていた。
練兵場に、短い静寂が落ちた。
魏長鋒は槍を低く構えたまま、景承から目を離さない。
先ほどとは構えが違う。
足幅が僅かに広がり、後ろ足が深く土を捉えている。両手の位置も変わり、動きを止めた槍は先ほどまでより静かなはずなのに、景承にはむしろ何か危険なものが凝縮されていくように思えた。
周囲の兵たちも同じだったらしい。
「……破城勁」
誰かが、ほとんど息だけで呟いた。
その声を最後に、練兵場からざわめきが消えた。
兵の一人がごくりと生唾を飲み込む音まで聞こえそうな静けさだった。
姚文泰も、それまでとは違う周囲の様子に気づいたのだろう。魏長鋒へ目を向けたまま、僅かに姿勢を改める。
凌華も表情を強張らせ、思わず一歩だけ身を乗り出した。
その反応を見て、景承にも分かった。
――これは、ただの突きではない。門派の絶招か。
胸の奥が騒いだ。
門派の名のある武仙が使う、周囲の兵まで一目で察して息を止めるほどの絶招。
武侠物語ならば、ここはただ防いで終わる場面ではない。
見栄えがして。
格好が良く。
誰が見ても、一目で「格が違う」と分かるような何かが起きる。
そのとき、景承の脳裏に一つの光景が浮かんだ。
かつて何度も読んだ伝奇の中で、絶世の達人たちが見せていた、あの光景。
――これじゃ!
思いついた途端、胸が躍った。
できるかどうかを心配するより先に、やってみたいと思ってしまった。
魏長鋒が静かに息を吸うと、その身体から余計な動きが消えた。
次の瞬間、地を噛んだ後ろ足から生まれた力が腰を回し、背から肩、腕へと連なって、一本の長槍へ流れ込んでいく。
槍が放たれる。
先ほどまでの突きとは違った。
単に速いだけではない。長い槍そのものが魏長鋒の身体と一つになり、込められた力の全てが穂先の一点へ収束して、正面から景承へ押し寄せてくる。
穂先へ集められた勁力が目には見えぬまま空気を押し退け、その一線上にあるものすべてを穿とうとしていた。
破城勁。
その名の通り、堅い守りを真正面から貫くための一撃。
ただし魏長鋒は、手合わせであることを忘れてはいない。
戦場で敵を貫くときの全力ではなく、技の芯を崩さぬまま勁力だけを抑えている。
それでも、尋常な武人が身体で受けてよい一撃ではなかった。
景承の視界いっぱいに、槍先が迫る。
――今じゃ。
身体が、ふっと軽くなった。
景承は真正面から受けなかった。
穂先が身体へ届く寸前、ほんの僅かに軸を外し、滑るようにその身を宙に浮かす。
破城勁が虚空を貫いた。
そして、それだけでは終わらない。
景承の片足が、伸び切った槍身へ触れた。
もう一方の足も続く。
逃げるのでも、そこを蹴って跳ぶのでもない。
景承は一本の槍の上に、そのまま立った。
練兵場から、音が消えた。
* * *
魏長鋒も、破城勁をこれほど鮮やかに外されたことには驚いた。
無論、容易なことではない。
長河派の破城勁は、長槍へ込めた内力を穂先一点へ集め、相手の守りを貫くための絶招である。
今回は手合わせゆえに勁力を抑えている。
それでも技の形は崩していない。
踏み込みも、槍筋も、内力を集束させる経路も本物だった。
それを紙一重で外されたのだから、驚かぬはずがない。
だが、それだけならばまだ理解できる範囲だった。
世には自分より速い武仙もいる。
軽身功に優れ、破城勁の軌道を見切る者がいたとしても、魏長鋒はそれを「あり得ぬ」とまでは思わない。
問題は、その後だった。
李景承が、自分の槍の上に立っている。
細い二本の足は間違いなく槍身へ触れており、乗った瞬間のごく微かな感触も手元へ伝わっていた。
だというのに、そこから先がない。
重さがない。
魏長鋒の腕へ、人一人を支えた感覚がまるで伝わってこない。
槍身も沈まず、握りにも負荷が増えない。
長槍の先に一人の人間が立っているというのに、手にあるのは槍そのものの重さだけだった。
――何だ、これは…!
魏長鋒は息を止めた。
軽身功は知っている。
自分自身も長河派の回瀾歩を修めている。
梁国にも、皇朝にも、軽身功に秀でた武人はいくらでもいる。
達人ならば、敵の槍や剣へ一瞬だけ足を掛け、その反動を借りて身を翻すこともできる。
それは技として存在する。
だが、あくまで一瞬だ。
踏めば、重さは伝わる。
人には重さがある。
内功をどれほど鍛えようと、その理まで消えてなくなるわけではない。
兵刃の上へ静かに立ち、持ち手へ自らの重みすら伝えぬなど、魏長鋒が知る限り、現実の武林にそのような軽身功は存在しなかった。
そんなものが出てくるのは、講談師が語る荒唐無稽な英雄譚か、世間知らずの書生が書いた伝奇の中くらいである。
だが今、その絵空事が自分の槍の上に立っていた。
李景承は、何でもないことのような顔をしている。
黒髪が風に揺れている。
細い身体は危うげに見えるほど軽やかなのに、姿勢には揺らぎ一つない。
魏長鋒の背を、冷たいものが走った。
思えば、最初からおかしかった。
素手で相手をすると言われたとき、魏長鋒は二つの可能性を考えた。
自分を侮っているのか。
それとも、自分と相手との力の差すら理解できぬ未熟者なのか。
だが最初の一突きを前腕で弾かれ、その考えは崩れた。
硬気功。
それも、尋常ではない。
内力を両腕へ集中し、細い腕そのものを鉄の如く硬くしている。
そう判断し、魏長鋒は少しずつ槍へ込める勁力を増した。
それでも李景承の表情は変わらなかった。
突けば円く腕を巡らせて穂先を流し、薙げば必要なだけ身をずらして槍身を外す。しかも槍の間合いから逃げようとはせず、終始その中心に身を置いたまま、最小限の動きだけで魏長鋒の攻めを処理していた。
だから破城勁を使った。
殺すためではない。
最後まで勁力を絞り込まず、手合わせとして耐えられるところまで落としている。
それでも、これをどう受けるかを見れば、この女の内功と武功の底が少しは見えると思った。
しかし見えたものは、底ではなかった。
自分には測れない高さだった。
魏長鋒の視線が、景承の足から顔へ上がる。
そのとき初めて、魏長鋒は認めた。
自分では届かない。
少なくとも内功の深さと、その制御において、この少女は自分がこれまで知ってきた武仙の尺度では測れない。
疑いを晴らすために始めた手合わせだった。
だが、もはや何を確かめればよいのかすら分からなかった。
試していたつもりの自分が、最初から試すに足る場所へ立てていなかったのではないか。
そんな考えさえ浮かぶ。
周囲も静まり返っている。
普段ならば大声を上げながら槍を振るう兵たちが、誰一人として声を発していない。
姚文泰も景承を見上げていた。
武術を専門としない梁公にも、兵たちの反応を見れば異常な出来事であることは分かっただろう。
凌華ですら言葉を失っている。
当の李景承だけが平然としていた。
魏長鋒は、ゆっくりと息を吐いた。
「……参りました」
槍を僅かに下げる。
すると景承は、その動きを待っていたかのように槍身からふわりと離れた。
落ちた、とは見えなかった。
羽が風に運ばれて地へ降りるように、ほとんど音もなく土の上へ立つ。
そこでもやはり、重さというものを感じさせなかった。
魏長鋒は長槍を傍らの兵へ預けると、今度は武を試す者としてではなく、一人の武人として景承へ正対した。
右拳を左掌で包み、胸の前で深く抱拳する。
「李景承殿」
景承もこちらを見る。
「何であろう」
「景承殿の内功、まさに至高の境地と拝見しました」
口に出しても、誇張したつもりはなかった。
「硬気功一つを取っても、私には到底真似できぬ。まして、あの軽身功……私など、遠く及ぶところではありません」
兵たちの間で、僅かに息を呑む気配が広がった。
魏長鋒が己より上だと認める武仙など、彼らもそう何人も見たことがないのだろう。
景承はしばらく魏長鋒を見ていた。
それから、静かに抱拳を返した。
「何を申される。魏長鋒殿の槍もまた、実に見事であった」
「……私の槍が?」
「うむ。槍勢は淀みなく、攻守の移ろいにも隙がない。ことに最後の一槍など、まさしく一流の絶招であった。あれほどの槍を自在に操る者、そう多くはあるまい」
魏長鋒は、ほんの一瞬言葉を失った。
自分の破城勁を避けた。
そのうえ槍へ乗り、自分には理解できぬ軽身功を見せた。
力の差は、もはや明らかだった。
それにもかかわらず、この少女は自らの力量を誇ろうとしない。
それどころか、自分の槍の攻守が一続きになっていることまで見抜いたうえで、その武功を正面から称えている。
先ほどまで抱いていた疑念が、魏長鋒の中で別の形へ変わっていく。
山中に籠り。
天を師とし。
神獣白沢にまみえ、仙丹を授かったという。
あまりにも荒唐無稽で、謁見の間では到底そのまま信じる気になれなかった。
だが、この内功。
この硬気功。
そして、武林の理から外れているとしか思えぬ軽身功。
これほどの武を身につけながら己を誇るでもなく、相手の技を見抜き、それを称えるだけの度量まで持つ。
もし景承の語った来歴が真実なのだとしたら。
――なるほど。
魏長鋒はもう一度、深く抱拳した。
真に高みに達した者とは、案外こういう人物なのかもしれない。