SF仙女武侠伝 無自覚TSサイボーグ、江湖武林を逝く! 作:モリーマ
熊石猛の大刀が、夜気を裂いた。
瑞国将軍の軍装をまとった雪衛は、黒髪を戦いの邪魔にならぬよう後ろでまとめ、細身ながら鍛えられた身体をまっすぐに立てている。涼やかで端正な顔立ちにも、手にした細身の長剣にも飾り気はなく、その立ち姿には余分な力がなかった。
大刀の刃が軍装の袖先すれすれを通過し、遅れて巻き起こった風が髪を揺らす。
刃はそのまま地面へ叩きつけられ、轟音とともに土が弾け、砕けた石が周囲へ飛んだ。
「相変わらず、ちょこまかしやがる!」
雪衡は答えず、丹田から引き上げた内力を両脚へ細く巡らせる。足裏が地を捉えた一瞬だけ必要な方向へ勁力を放ち、大きく跳ぶのではなく、重心そのものを次の位置へ送り出した。
青嶺派の軽身功――
一か所へ留まらず、相手に自分の位置を定めさせない歩法によって、熊石猛の大刀が地へ沈んだわずかな間に、その身体はすでに側面へ回り込んでいる。
細身の長剣が鞘から走り、熊石猛の脇腹へ吸い込まれた。振り向くより速く刃は軍装を裂き、その下の肉へ届いて血を散らす。
「ぐっ……!」
熊石猛は身体を捻ると、丹田から莫大な内力を肩へ押し上げ、そのまま肘へ叩き込んだ。
相手から受けた力を身体へ通し、自らの重心と内力へ重ねて返す鎮岳派の
肘が空気を叩き、その圧だけで雪衡の髪が激しく揺れた。
だが、そこに雪衡はいない。
足裏から小さく勁力を放ち、後方へ重心を移したかと思えば、そのまま横へ流れて再び正面へ回っている。
熊石猛が傷口へ目を落とした。
浅くはない。普通の武人ならば、それだけでも動きが鈍るほどの傷だが、熊石猛は口元を歪めただけだった。
「へっ。やっぱり貴様の剣は鬱陶しいな、
雪衡は剣先を下げない。
熊石猛とは、これが初めてではなかった。
朔軍が長風原へ本格的に進出して以来、戦場で刃を交えたことは一度や二度ではなく、そのたびに結果は似ていた。
熊石猛の動きは粗い。
速さも、間合いの取り方も、技の繋ぎも、雪衡の方が上だった。
当てることはできる。
かわすこともできる。
だが――倒し切れない。
熊石猛が大刀を持ち上げた。
「今度こそ捕まえてやる!」
地を踏んだ。
土が爆ぜる。
雪衡の踏風功とは逆に、
熊石猛は、その短く重い一歩へ莫大な内力を注ぎ、次の一歩、そのまた次の一歩へと強引に繋いで巨体を押し出してきた。
跳んでいるのではない。
大地を蹴るたび、崩れぬ重心のまま前へ前へと加速してくる。
雪衡の目には、その起こりも進路も見えていたため、正面から勢いを受け止める必要はない。
踏風功で重心を斜めへ送り、熊石猛が最も力を発揮できる攻撃線から自分だけを外す。
巨体が雪衡のいた場所を突き抜けた時には、彼女はすでに側面へ回っていた。
その背へ剣を走らせる。
一閃。
熊石猛の肩口から血が飛んだ。
すれ違いざまに斬られた熊石猛が、振り向きざま大刀を薙ぐ。
刀身全体へ大量の内力を流し込み、刃も、刀身も、その向こうで振るう腕さえも一つの巨大な塊として叩きつけてくる。
まともに受ければ、刃を防いでも衝撃までは殺せない。
雪衡は剣で受けず、踏風功で間合いを切った。
「またそれか!」
熊石猛の苛立った声が夜の陣地へ響く。
雪衡は剣先を向けたまま、静かに答えた。
「何度振るっても、同じです」
「言いやがったな!」
熊石猛が笑った。
怒っているはずなのに、どこか楽しげですらある。
彼にとって、周囲の兵はもはや戦う相手ではない。
殴れば飛び、斬れば崩れ、押せば逃げる。だから、自分へ傷をつけられる雪衡だけが、久しく得られなかった「敵」なのだろう。
再び大刀が振り下ろされた。
雪衡はその攻撃線から身体を外し、今度は広く距離を取る。
丹田から引き上げた内力を腕から剣身へ流し、ただ大量に注ぐのではなく、剣の幅よりもなお薄く、刃筋に沿って切断に必要な方向へ揃えていく。
剣が横一文字に走った。
「そんなもん――!」
熊石猛は避けなかった。
全身へ内力を巡らせ、
受けた衝撃を一か所で止めず、姿勢と内力によって全身へ流し、散らして耐える鎮岳派の硬気功だが、熊石猛はそこへさらに莫大な内力を重ね、流し切れなかった衝撃まで力任せに押さえ込んだ。
飛刃功が胸へ食い込み、衣服を裂く。
薄く鋭い勁力に身体をわずかに揺らされながらも、熊石猛の足は止まらなかった。
雪衛にとってはそれも想定の範囲内、以前から飛刃功によって遠間から削ることはできても、熊石猛への決定打にはならない。
ならば、近づく。
雪衡の足裏から、ごく短く勁力が放たれた。
次の瞬間、身体が消えたように見える。
踏風功による瞬間加速。
熊石猛が反応した時には、すでに懐へ入っていた。
「おっ――」
大刀を戻すより速く、雪衡の剣へ内力が集中する。
今度は飛ばさない。
丹田から腕へ、腕から剣へ。流れ込んだ内力を外へ逃がさず、刃先へ、さらに刃の一点へと絞り込む。
飛刃功が内力を斬撃として飛ばす技なら、こちらは内力を刃そのものへ留め、接触する一瞬の切断力を極限まで高める。
熊石猛も、その技は知っていた。
笑みが消える。
咄嗟に左腕を上げ、盤山功へさらに内力を注ぐ。
雪衡の剣が振り抜かれた。
盤山功の莫大な内力が面で刃を受け止めようとするのに対し、雪衡は研ぎ澄ました内力を一本の線としてそこへ通す。
鈍い抵抗が刃から腕へ伝わった。
それでも斬った。
硬化した肉を裂き、熊石猛の左腕に深い傷を刻む。
鮮血が飛び、熊石猛が数歩たたらを踏んだ。
「ぐおっ……!」
初めて、はっきりと苦痛の声が漏れる。
雪衡は追った。
ここで崩せるならば、それに越したことはない。
踏風功で一気に間合いを詰め、再び熊石猛の懐へ入る。
だが、その瞬間だった。
熊石猛の傷ついた左腕が、強引に振り回された。
技としては粗いが、腕へ流れ込む内力の量が違う。正面から受ければ危険だと知る雪衡は身体を沈め、頭上を通過した拳と、その風圧に乱される髪をやり過ごす。
そのまま熊石猛の足元へ一閃を走らせ、踏風功で間合いを切った。
熊石猛の左腕から血が滴る。
それでも構わず、大刀を握り直した。
「いいなあ」
低い笑い声。
「やっぱり貴様だ。そこらの雑魚じゃ、こうはいかねえ」
雪衡は呼吸を整えながら、熊石猛の傷を見る。
凄斬功は通っている。盤山功を破れないわけではないが、一撃で落とせるほどではない。
雪衡の武は、必要な場所へ必要な量の内力を絞り込み、最小の動きから最大の効果を得る。
熊石猛は逆だった。
精密さで不足するところへ、さらに多くの内力を注ぎ込む。
こちらは一撃ごとに間合い、角度、刃筋、内力の配分を整えなければならないのに対し、熊石猛は当てることさえできればよい。
一度でも大刀をまともに受ければ、青嶺派の硬気功である
自分の刃は届く。それでも、熊石猛を倒し切るにはまだ遠い。
雪衡の耳に、別の音が届いた。
「下がれ! 負傷者を先に!」
瑞兵の声。
視線は熊石猛から外さないまま、周囲の気配を拾う。
前進陣地はすでに半ば崩れている。
先ほど熊石猛に蹂躙された兵たちが倒れ、動ける者が肩を貸して運び始めていた。さらに陣地の外では、朔兵の喊声が近づいている。
熊石猛一人を止めれば済む状況ではない。
雪衡がここへ到着するまでにも、別の場所で戦線は押されていた。
目の前の男と一騎打ちを続け、いずれ倒すことはできるかもしれない。
だが、その「いずれ」の間に何人死ぬ。
雪衡は一度だけ後方へ目を走らせた。
負傷者を支える兵、崩れた柵、地面へ散らばった武器、その場で次の命令を待つ者たち。陣地は崩れかけているが、部隊そのものが失われたわけではない。
まだ立て直せる。ここで全員を死なせる必要はなかった。
「張副将!」
戦場に通る声で呼ぶ。
「はっ!」
「この陣地を放棄します。負傷者を先に下げ、第二線まで後退してください。槍兵は隊列を崩さず、弓兵は交互に援護を」
一瞬、周囲の兵たちに動揺が走った。
「しかし、将軍――」
「ここを守るために兵を失えば、次に守る者がいなくなります。下がってください。ここは私が押さえます」
「……はっ!」
返答と同時に、周囲の兵が動き始める。
熊石猛が目を丸くしたが、やがてその意味を理解したらしい。
大刀を肩へ担ぎ、笑う。
「おいおい。逃げるのか、青嶺飛雪」
雪衡は剣を構え直した。
「兵を退かせます」
「同じだろうが!」
熊石猛が盤根歩で踏み込む。
地を掴んだ重心を崩さぬまま、巨体が真正面から押し寄せる。
雪衡は受けず、踏風功で重心を横へ移して大刀の攻撃線から身体を外した。
「俺を倒せねえから、尻尾巻いて逃げるってんだろ!」
抜けざまに剣身へ内力を流し、背後から飛刃功を放つ。
薄く整えられた勁力を、熊石猛が振り向きざまに大刀の腹で受けた。
勁力が弾け、巨体が僅かに後退する。
その間にも瑞兵は下がっていく。
熊石猛は舌打ちし、退却する兵へ向き直った。
「だったら、先にあっちを――」
踏み出そうとした熊石猛の頬を、細い勁力が裂いた。
血が一筋流れる。
雪衡はすでに側面へ回っていた。
「あなたの相手は、まだ私です」
熊石猛の顔が歪んだ。
「……いい度胸だ」
大刀が唸る。
熊石猛は、大地へ根づいた軸を前へ押し出しながら追う。
雪衡はその軸と正面から競わず、足裏から小さく勁力を放つたびに攻撃線の外へ位置を変える。
盤根歩が「崩れずに進む」歩法なら、踏風功は「捕まる位置に留まらない」歩法。二つの軽身功は、同じ間合いを奪い合いながら、まるで逆の理によって動いていた。
雪衡は一定以上離れず、しかし決して捕まらない距離を保ちながら、熊石猛の意識を自分へ向け続ける。彼が兵へ目を向ければ飛刃功で引き戻し、大刀を振れば攻撃線を外れて斬撃を返す。
倒すための戦いではない。
釘付けにするための戦いだった。
その間にも兵たちは後退し、負傷者が運ばれ、崩れかけていた部隊も少しずつ隊列を取り戻していく。
「鬱陶しいんだよ!」
熊石猛の大刀が地面を抉った。
刀身へ注ぎ込まれた内力と重量が土を弾き、土煙と小石が雪衡へ襲いかかる。
雪衡は踏風功で舞い上がる土の外へ抜け、さらに一歩後退した。
遠くで角笛が鳴る。
瑞軍の後退を知らせる合図だった。
雪衡はその音を聞き、ようやく呼吸を一つ深くする。
十分だ。
この陣地は失う。それでも兵が残れば、次に戦える。
熊石猛が地面から大刀を引き抜いた。
「どこ見てやがる!」
盤根歩で真正面から押し寄せてくる。
雪衡は最後までその動きを見切り、踏風功で攻撃線の外へ重心を送ると、熊石猛の横を抜けざまに剣を一閃した。
肩口から血が散る。
「ここまでです、熊石猛」
「あ?」
熊石猛が振り返った時には、雪衡はすでに瑞軍の退路へ向けて距離を取り始めていた。
「待ちやがれ!」
「今日はここまでです」
「勝手に決めんな!」
怒声が追ってくる。
だが雪衡は戻らなかった。
勝つために戦っている。
だからこそ、今ここで勝敗を決める必要はない。
自分は武仙である前に、瑞国軍の将なのだから。
* * *
翌朝。
梁国国主府の客間で目を覚ました
柔らかな寝台に、温かい湯。雨風を気にしなくてよい壁があり、何より夜中に敵兵が襲ってくる心配がほとんどない。
――国主府というものはよいのう。
《肯定。
景承は瞬きをした。
――……主上?
《肯定。以後、呼称を
景承は少しだけ考えた。
――主上……。
頭の中で、もう一度その響きを転がしてみる。
――うむ。よい響きではないか。
《肯定》
やはり叡艾は、何がそんなに気に入ったのかまでは理解していないらしい。
だが景承としては悪くなかった。いや、かなりよい。
――これで着替えまであれば完璧なのじゃが。
《現状の衣服に機能上の重大な問題は確認されていません》
――機能の話をしておるのではない。
昨日、梁国屈指の武仙を相手に仙女らしく振る舞ったというのに、服だけは相変わらず雑兵姿である。
そろそろ何とかしたい。
そう思っていたところへ、国主府の者が再び面会の準備が整ったと告げに来た。
景承は仕方なく、今日も雑兵姿の仙女として部屋を出た。
昨日とは別の、小ぶりな応接の間だった。
昨日より幾分休めたようには見えたが、表情にはまだ硬さがある。
無理もない。母から託された書状に、自分を梁国へ残すよう頼む言葉が書かれていたことを知ったばかりなのだ。
やがて
挨拶を交わし、全員が席につく。
昨日の謁見ほど形式張った場ではないが、それでも凌華の背筋は伸びていた。
「蘇凌華殿」
姚文泰が静かに口を開く。
「昨夜、我が国の軍務を預かる者たちと、改めて協議しました」
凌華の表情が引き締まる。
「はい」
「瑞国の現在の状況についても、こちらで得ている軍報を照合しています。長風原では、なお瑞軍が戦っています。しかし、このまま何もせずに時間を費やせば、状況が悪化する可能性は高い」
「……承知しております」
「そして瑞国が崩れれば、その影響は瑞国だけには留まりません」
姚文泰は淡々と続ける。
「朔国が長風原を完全に掌握し、さらに西へ圧力を強めれば、次に備えを厚くしなければならないのは梁国です。瑞国を支えることは、情義だけの問題ではない」
凌華は黙って聞いていた。
「ですが、梁国の兵を国外へ出す以上、私には梁国の者たちに対する責任があります。出せる兵の数にも限りがあり、国境を空にするわけにもいかない」
「承知しております」
凌華はすぐに答えた。
「梁国にすべてを背負っていただこうとは思っておりません。ただ、今の瑞国には――」
「分かっています」
姚文泰が穏やかに遮った。
「だからこそ、昨夜は『援軍を出すならばどうするか』まで話を進めました」
凌華が息を止め、景承も横で目を瞬く。
――お。
《何でしょう》
――これはもしや、かなりよい流れなのではないか?
《援軍派遣の可能性が上昇したことを示す発言と推定します》
――そうではなくてじゃな。
《回答不能。質問内容を特定してください》
――いや、もうよい。
景承が一人で叡艾に呆れている間に、姚文泰の視線がこちらへ向いた。
「ただ、その前に一つ、李景承殿へ確認しておきたいことがあります」
「吾に?」
予想していなかった景承は、わずかに背筋を伸ばす。
こういう時に慌ててはいけない。
仙女は慌てない。
「何であろう」
「あなたは昨日、蘇凌華殿を救ったことも、梁国まで同行したことも、特別な見返りを求めてのことではないとおっしゃった」
「うむ」
「では、この先はどうされるおつもりですか」
姚文泰の声は穏やかだった。
「瑞国へ戻り、なお助力されるお考えでしょうか」
景承は黙った。
そこまで考えていなかったわけではないが、真正面から尋ねられると話は別だった。
瑞国へ戻るということは、また戦場へ行くということだ。しかも今度は偶然巻き込まれたのではなく、自分から行くことになる。
――叡艾。
《はい》
――どう思う。
《質問が不明確です》
――吾が瑞国へ戻ることについてじゃ。
《最終判断は
――いや、それは分かっておる。
姚文泰たちから見れば、景承は静かに考え込んでいるようにしか見えない。
内心では、かなり真剣に困っていた。
戦場は怖いし、痛いのも嫌だ。まして死ぬのはもっと嫌だった。
自分が以前の身体のままだったなら、間違いなく行きたくないと答えていただろう。
だが今の自分には、叡艾がいる。
昨日は梁国でも名高い武仙の槍を素手で捌き、最後にはその槍の上へ立ってしまった。
少なくとも、以前の雑兵だった頃とは事情が違う。
そして何より――
――ここまで来て「では吾はこれにて」と去るのは、あまりにも締まらぬと思わぬか?
《質問の意図を解析中》
――姫君を助け、梁まで送り、梁公へ引き合わせて、援軍まで動きそうなのじゃぞ。そこで仙女が「後はそちらで」と消えるのは、物語としてどうなのじゃ。
《行動判断に物語構造を用いる合理的必要性を確認できません》
――分かっておらぬな。
《肯定できません》
――英雄譚ならば、ここはもう一働きするところであろう。
《現実の戦争と英雄譚は異なります》
――それは知っておる!
危うく顔に出そうになり、景承は慌てて表情を整えた。
姚文泰は急かさない。
凌華も黙って景承を見ている。
その目に期待を見つけてしまい、景承はますます断りにくくなった。
そして、もう一つ。
――まあ……瑞は古巣じゃしのう。
口に出すつもりはなかった。
だからこそ、素直に思えた。
瑞国軍に良い思い出ばかりがあるわけではない。
雑兵として扱われ、命令され、戦場へ放り込まれ、最後には怖くなって逃げた。
それでも、あの国で暮らした。
歩いた町があり、食べた飯があり、自分と同じ言葉を話す人々がいる。
どこかの誰かが暮らしている、ただそれだけの国ではない。
――別に愛国心というほど大層なものではないぞ。
《その点について質問していません》
――分かっておるわ!
景承は心の中で叫んだ。
しかし不思議と、迷いはそこで小さくなった。
今の自分なら行けるし、できることもある。
ならば、行けばよい。
問題は――
――何と言えば格好がつく。
《回答不能》
――そこは少しくらい考えてくれてもよいではないか。
景承は顔を上げた。
ここから先は、仙女の時間である。
声を整え、わずかに目を細める。
「吾も瑞国には少々縁がある」
姚文泰が黙って聞く。
「凌華殿をここまで送り届け、それで全て終わりというのも無責任であろう。それに――」
一度だけ言葉を切った。
本当は、次に何を言えば一番格好よいか考えただけである。
「目の前で滅びようとしておる国を、見ぬふりをして去るほど、吾も薄情ではない」
我ながら悪くない。
景承は内心で満足した。
「戦の勝敗まで約することはできぬ。されど、吾にできることがある限り、瑞国には力を貸すつもりじゃ」
静寂が落ちた。
――どうじゃ。
《発言内容を記録しました》
――感想を申せ。
《必要性を認めません》
――まったく、風情のない奴じゃ。
景承が叡艾に不満を言っている間に、凌華が席を立った。
「景承殿」
「む?」
凌華は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
声は震えていなかったが、そのまましばらく頭を上げなかった。
景承は少し困った。
そこまでされると、先ほど半分ほど「格好がつくから」という理由で台詞を選んだことに、微妙な後ろめたさが湧いてくる。
「頭を上げられよ。吾が勝手に決めたことじゃ」
凌華が顔を上げる。
その目には、昨日より明らかに強い光が戻っていた。
――む。
《何でしょう》
――今のはかなり仙女らしかったのではないか?
《評価基準が不明確です》
――もうよいと言うておる!
もちろん、外から見れば景承は穏やかに凌華へ頷いただけである。
姚文泰はその一連を静かに見ていた。
やがて魏長鋒へ目を向けると、魏長鋒も小さく頷いた。
それだけだった。
だが昨夜の軍議で、必要な検討はすでに済んでいる。
瑞国が崩れれば梁国自身の安全保障が悪化する。瑞軍は劣勢ではあるが、まだ戦っており、ここで支えれば戦線を維持できる可能性がある。
そして、魏長鋒ですら測り切れない武仙が、明確に瑞国側へ立つと自ら口にした。
姚文泰は決断した。
「蘇凌華殿」
「はい」
「梁国は、瑞国へ援軍を送ります」
凌華が目を見開き、すぐには言葉が出なかった。
「ただし、梁国のすべてを動かすことはできません。兵数も進軍路も、我が国の防備を損なわぬ範囲に限ります。皇朝側への名目も整えねばならない」
「それでも――」
凌華が息を整える。
「それでも、十分です」
再び頭を下げた。
「梁公。この恩は、瑞国は決して忘れません」
「恩だけで決めたことではありません」
姚文泰は静かに答えた。
「瑞国を守ることが、今は梁国を守ることにもなる。私はそう判断しました」
それは情義だけでも、景承一人の力だけでもない。
梁国という国を預かる者としての決断だった。
姚文泰は控えていた臣へ顔を向ける。
「昨夜まとめた案を基に、出兵準備へ移ってください。糧秣を確保し、部隊編成を急ぐ。進軍路の安全確認も同時に」
「はっ!」
臣が一礼し、足早に部屋を出ていく。
景承はその背中を見送った。
さっきまで地図の上の話だったものが、本当に動き始めたらしい。
兵が集められ、兵糧が運ばれ、軍旗が立つ。そして、その軍は瑞国へ向かう。
そこまで考えて、景承はようやく実感した。
――もしや吾、思ったより大事に首を突っ込んでしまったのではないか?
《肯定》
返答が早かった。
――そこは少しくらい否定してくれてもよいではないか!
叡艾は答えなかった。
景承は外面だけは泰然としたまま、心の中で小さく呻いた。