SF仙女武侠伝 無自覚TSサイボーグ、江湖武林を逝く! 作:モリーマ
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近づいてきた足音は扉の前で止まり、ほどなくして、一人の女性が室内へ入ってきた。
年の頃は二十代半ばほどだろうか。すらりと背が高く、引き締まった身体には瑞軍の軍装をまとい、腰には一振りの長剣を佩いている。衣服や靴には長旅の土埃が残っていたが、姿勢は少しも崩れておらず、背筋を伸ばして歩く様子には、武人として長年培ってきたものが自然と表れていた。
女性は
「
「よく戻りました、雪衡。まずは顔を上げてください」
瑾寧の声は穏やかだったが、そこには長く前線を預けてきた将軍の無事を確かめる安堵が、わずかに滲んでいるように
雪衡が顔を上げる。
整った顔立ちに浮かぶ表情は落ち着いており、その眼差しには柔らかさと鋭さが同居していた。戦場から帰還したばかりだというのに、疲労を表へ出すこともなく、主君の次の言葉を待っている。
景承は思わず見入った。
――おお……!
噂に聞く
しかも、何という堂々たる立ち居振る舞いであろう。いささかの虚飾もなく、無理に威厳を示そうとしているわけでもないのに、ただそこに立っているだけで、そこらの武人とは一線を画す風格が伝わってくる。
景承が長年読み耽ってきた侠客たちの物語には、幾人もの女侠が登場した。白衣を翻して悪を討つ孤高の剣客、門派の名誉を背負って江湖を渡る麗しき武人、あるいは一剣をもって千軍万馬を退ける女傑。
そうした物語の登場人物たちは、時に景承が憧れ、時に自作の小説へ取り入れようとしてきた理想の武人たちである。もっとも、自分の筆ではその魅力を十分に描ききれなかったらしく、読者からの評判は芳しくなかったのだが、それはさておき。
目の前の趙雪衡は、まさしくそのような女侠が紙面から抜け出してきたかのようではないか。
――素晴らしいのう。これぞ女武仙というものじゃ。まこと、眼福、眼福。
《
――む。何でもないぞ。吾はただ、天下に名高い武人の風格を鑑賞しておるだけじゃ。
《鑑賞に伴う生理的変化として記録します》
――いちいち記録せんでよい。
もっとも、景承とて今は他人を眺めて感心するだけの立場ではない。
自分もまた、神獣
そう考えて姿勢を正し、いかにも高雅な仙女らしく、口元にかすかな微笑を浮かべてみせた。
――うむ。これでよかろう。
《姿勢に問題はありません》
――そこは少し褒めてもよいのではないか?
《評価対象が不明確です》
景承は心中で不満を漏らしたが、当然ながら、そのようなやり取りを知る者は誰もいない。
瑾寧は雪衡に座るよう勧めたものの、雪衡は丁重に辞退した。
「お気遣い、ありがとうございます。しかし、まずは長風原の状況をご報告させてください」
「分かりました。聞きましょう」
その一言で、室内の空気が引き締まった。
「我が軍は長風原の前進陣地を放棄し、現在は第二線まで後退しております。
雪衡の声は明瞭で、報告には無駄がなかった。もっとも、その内容は決して明るいものではない。
瑞軍は長風原の一角を守っていた前進陣地を失い、朔軍の攻勢に押し込まれている。第二線へ退くことで部隊の壊滅こそ免れたものの、失った場所を奪い返さない限り、これまで以上に厳しい防衛を強いられることになる。
「敵軍の主力は依然として健在です。こちらも撤退によって戦力を残すことはできましたが、前進陣地を失ったことで、街道と渡河点をめぐる戦いはさらに不利になりました。兵を休ませ、隊伍を整える時間が必要ですが、敵がその猶予を与えてくれるとは限りません」
瑾寧は雪衡の報告を静かに聞き終えると、少しばかり表情を険しくした。
「
「交戦いたしました。左腕に深手を負わせることはできましたが、討ち取るには至りませんでした」
雪衡は一瞬だけ言葉を切った。
「敵将の内力は、以前と比べても異常なほど強大です。
「あなたでも、ですか」
「はい。私一人であの男を討つことは、容易ではありません」
雪衡は自らの力量を過小にも過大にも語らなかった。
石猛の左腕に傷を負わせたことも、瑞軍が前進陣地を失いながら、どうにか撤退を成し遂げたことも、同じ落ち着いた口調で報告している。
そこに敗北を取り繕おうとする様子はなく、かといって、敵将を負傷させた自分の働きを誇るようなところもなかった。雪衡にとって重要なのは、何人の敵を斬ったかではなく、今後の戦いに備えてどれほど兵を残せたかということなのだろう。
景承は、そんな雪衡の横顔をじっと見つめていた。
――なるほど。これが本物の将軍というものか。
景承自身、瑞軍の雑兵として戦場に立った経験はある。もっとも、その頃の自分に戦況を見渡す余裕などなく、上官に命じられるまま荷を運び、陣を築き、敵が押し寄せればただひたすら生き延びることばかり考えていた。
その自分が今は国主の前に座り、将軍の報告を聞いているのだから、まことに人生とは不思議なものである。
しかし、雪衡の口から語られる戦況は、あの頃に見聞きしたものと何ら変わらない。
敗れれば陣地を失い、傷ついた兵を運び、逃げ遅れた者は敵の手にかかる。どれほど見事な武功を身につけたところで、戦そのものが華やかな英雄譚になるわけではないのだ。
かつての景承も、逃げ惑う兵の一人だった。雪衡の報告を聞いていると、戦場の土埃や汗の臭いまで思い出されるようで、先ほどまで胸を満たしていた女武仙への憧れにも、自然と別の感情が混じってくる。
「長風原の状況は理解しました。厳しい戦いを強いてしまいましたね」
瑾寧の声には、国主としての責任を引き受けようとする響きがあった。
「臣下として当然の務めです。それに、退却が成ったのは兵たちがよく踏みとどまってくれたおかげです。どうか彼らをお褒めください」
「もちろんです。必要な手当てと休息を与えるよう、すぐに手配しましょう」
瑾寧は頷き、それからわずかに表情を和らげた。
「それと、雪衡。あなたが戻る少し前に、こちらにも知らせが届きました」
瑾寧の視線が娘の
凌華は母の意図を察したのか、一歩前に進んだ。
「雪衡、
雪衡が目を見開いた。
「援軍が……?」
「ええ。梁公が正式に決定してくださいました。書状も母上にお渡ししています」
「それは……何よりの朗報です」
雪衡の口元がかすかに緩んだ。長風原では、一兵でも多く戦線に残すために苦心してきたのである。援軍の知らせがどれほど心強いものか、景承にも想像できた。
ただし、雪衡はすぐに表情を引き締めた。
「兵が実際に到着するまでには、まだ時間がかかるのでしょうね」
「そのとおりです」
瑾寧が答える。
「兵数も出発の時期も、まだ確定していません。こちらとしては、それまで何としても戦線を維持する必要があります」
「承知しました。第二線の守りを整え、敵がさらに攻勢を強めた場合に備えます」
雪衡は頷くと、改めて凌華へ視線を向けた。
「凌華様、ご無事で何よりです。梁国への道中も危険があったと伺っておりますが、お怪我はありませんか」
「私は大丈夫。危ないところだったけれど、こちらの方に助けていただいたの」
凌華が景承へ顔を向ける。
景承は内心で身構えた。
――む。吾の出番か。
《肯定。紹介されるものと推測します》
――ここは初対面に相応しい挨拶をせねばなるまい。
《通常の名乗りで十分です》
――おぬしには風情というものがないのう。
瑾寧が二人を見比べながら口を開く。
「雪衡、こちらは李景承殿です。梁国へ向かう途中で凌華を救い、その後も護衛してくださった方です。これから瑞国にも力を貸していただけることになっています」
雪衡の視線が景承へ向けられた。
目が合った瞬間、景承は、ほんのわずかに背筋を伸ばした。
これほど立派な女武仙を前にして、己の見栄えを損なうような真似はできぬ。幸いにも、今の景承は梁公から贈られた白と淡青の上質な衣をまとい、額には神秘的な宝珠まで備えている。
姿形だけなら、仙女として申し分あるまい。
問題は中身の方だが、それはまあ、わざわざ相手に知らせる必要もない。
景承は悠然と立ち上がり、軽く拱手した。
「李景承と申す。青嶺飛雪の名は、かねてより聞き及んでおる。こうして会えたこと、嬉しく思う」
「趙雪衡と申します。凌華様をお救いくださったと伺いました。瑞国の将として、心より御礼申し上げます」
雪衡もまた、端正な所作で拱手を返した。
その礼には、相手の年齢や容姿によって態度を変えるようなところがない。若い少女とも見える景承に対しても、一人の武人として敬意を払っていることが伝わってきた。
――おお、礼節まで見事ではないか。
景承はますます感心した。
自分の書いた物語に登場する女侠たちも、このように凛としていたなら、もう少し評判が良かったのではないか。
いや、あれらはそもそも読む者に見る目がなかったのである。今さら反省する必要などあるまい。
「礼には及ばぬ。吾が勝手に手を貸したことじゃ。それに、凌華殿には道中、何かと世話になったからの」
「景承殿はまた、そうやって大したことではないようにおっしゃるのですね」
凌華が横から口を挟んだ。
「私たちは本当に助けていただいたのですから、少しくらい誇ってくださってもよいのですよ」
「む……いや、恩を着せるようなことは好まぬのでな」
景承は涼しげな顔で応じた。
――どうじゃ。いかにも仙女らしいではないか。
《発言と過去の自己評価行動に相違があります》
――過去は過去じゃ。
《記録は保持されています》
――そういう意味ではない!
内心の騒がしさとは裏腹に、景承はあくまで穏やかな微笑を保った。
雪衡は二人のやり取りを聞き、わずかに表情を和らげた。
「凌華様がこれほど信頼を寄せておられるのですから、景承殿は武功だけでなく、お人柄も優れた方なのでしょう」
――むほっ。
思わぬ賛辞に、景承の胸が大きく弾んだ。
青嶺飛雪に褒められた。それも武功だけではなく、人柄まで褒められたのである。
あのような正統派の女武仙に認められるとは、これはもう、己が仙女としての道を正しく歩んでいる証左ではなかろうか。
《心拍数が再び上昇しています》
――放っておけ。
景承は口元が緩みそうになるのを堪え、ゆっくりと頷いた。
「過分な言葉じゃ。吾とて、まだまだ修行の身ゆえな」
実際のところ、修行らしい修行などほとんどしたことはないのだが、それを言い出せば話がややこしくなる。
幸い雪衡はその言葉を謙遜と受け取ったらしく、深く頷いた。
「そのお心がけ、私も見習わねばなりません」
――……これは、少々困ったのう。
景承は何とも言えない気持ちになった。
憧れの女武仙から真面目に敬意を寄せられるのは実に気分がよい。しかし、こちらが格好をつければつけるほど、相手が真剣に受け止めてくれるため、どうにも背筋がむず痒くなってくるのである。
とはいえ、いまさら自分の正体を明かすわけにもいかない。
ここは仙女として、堂々とその期待に応えるしかあるまい。
瑾寧は二人の挨拶が一段落したところで、再び雪衡へ向き直った。
「景承殿には、すでに瑞国への助力をお約束いただいています。今後の防衛については、あなたとも相談しながら考えていきたいと思います」
「承知しました。長風原の地形や敵将の戦い方について、私からもお伝えできることがあるはずです」
雪衡の言葉に、景承は小さく頷いた。
「うむ。吾もできる限りのことはしよう。瑞が危ういと聞いて、知らぬ顔をするわけにもいかぬからの」
その言葉を口にした時、景承はふと、かつて自分が雑兵として戦場を逃げ惑っていた頃のことを思い出した。
あの頃の自分には、他人を助けるどころか、自分の命を守ることさえ難しかった。
今は違う。
神獣から授かった力があり、叡艾もいる。
だからといって戦の勝敗を簡単に左右できると考えるほど、景承も楽観的ではなかったが、少なくとも何もできずに震えていた昔とは違うのだ。
今でも危険な戦場へ足を踏み入れることが怖くないわけではない。まして、雪衡ほどの武人が苦戦する敵将と戦うことになれば、自分がどのような目に遭うか分かったものではなかった。
それでも凌華を救った時と同じように、目の前で困っている者たちを見捨てる気にはなれなかった。
雪衡はそんな景承の言葉に、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます、景承殿。そのお力、瑞国のためにお借りいたします」
景承は満足げに微笑んだ。
憧れの女武仙と肩を並べ、国の危機に立ち向かう。まさしく、かつて夢見た武侠物語の一場面ではないか。
もっとも、目の前の雪衡が先ほど報告した戦況を思い返せば、浮かれてばかりもいられない。
英雄譚の中では、強大な敵を倒せば万事解決することも珍しくない。だが現実の戦場には、負傷兵もいれば、補給を運ぶ者もいる。敵将を退けたところで、それだけで戦が終わるとは限らないのだ。
瑾寧はしばし考え、改めて雪衡に言った。
「今夜のうちに第二線の状況を整理しましょう。梁国の援軍が到着するまで、我々自身の力で持ちこたえなければなりません」
「はい。私もそのために戻ってまいりました」
雪衡の返答に迷いはなかった。
景承はその姿を見つめながら、ひそかに考える。
――吾も、あのように立派な仙女として振る舞わねばなるまい。
ただし、そのためにまず何をすればよいのかとなると、今ひとつ思いつかない。
景承は取りあえず、もう一度だけ背筋を伸ばし、泰然とした微笑を浮かべてみせるのだった。
* * *
その頃、長風原に展開する朔軍の陣地では、夜も更けたというのに、まだ幾つもの篝火が燃えていた。
兵たちは翌日の備えに追われ、歩哨が陣地の周囲を巡っている。遠くからは馬のいななきや荷車の軋む音が聞こえ、ときおり風に煽られた軍旗が、夜空の下で重たくはためいていた。
その一角に設けられた大きな天幕の中で、熊石猛は酒を飲んでいた。
卓の上には肉料理の残りと酒壺が並び、灯火が粗い顔立ちを赤く照らしている。大柄な身体を椅子へ預け、片手で盃を持つ姿は、まるで山中に巣食う猛獣が獲物を食い終えて休んでいるかのようだった。
「ちっ……忌々しい女め」
石猛は酒を呷ると、左腕へ視線を落とした。
衣服の下には、趙雪衡につけられた傷が残っている。
あの女の剣は確かに鋭かった。鎮岳派の
思い出すだけで腹立たしい。
「青嶺飛雪だか何だか知らねえが、次に会ったらその澄ました顔を叩き潰してやる」
盃を卓へ乱暴に置くと、鈍い音が響いた。
石猛は大きく鼻を鳴らし、傷を負った左腕を軽く動かしてみた。痛みは残っているものの、動かせないほどではない。
何より、今の自分には並の武人とは比較にもならぬほどの内力がある。
鎮岳派で修行していた頃には、どれほど鍛錬を重ねても届かぬと思っていた武仙の境地。その力を手に入れて以来、石猛の前に立ちはだかる者は、次々と打ち倒されてきた。
普通の兵など、もはや相手にもならない。
内力を込めた大刀を振るえば陣形ごと叩き崩し、敵の刃は盤山功で弾き返せる。戦場では自分が進むだけで兵が逃げ惑い、味方の将兵でさえ、石猛の機嫌を損ねぬよう顔色を窺う始末であった。
実に愉快なことである。
かつては自分より上にいた連中が、今では揃って頭を下げるのだ。
もちろん、趙雪衡のような厄介な武仙もいる。だが、あの女とて最後には逃げ出したではないか。
次こそは、あの生意気な女の剣をへし折り、自分の足元へ這いつくばらせてやる。
石猛はそんなことを考えながら、再び酒壺へ手を伸ばした。
その時だった。
「ご機嫌よう、
不意に声がした。
「……ああ?」
石猛は顔を上げ、天幕の入口へ目を向けた。
そこには二人の人物が立っていた。
一人は長身細身の男である。三十代半ばほどに見える端正な顔立ちで、華やかな衣を優美に着こなし、口元には柔らかな微笑を浮かべている。
もう一人は、十三、四歳ほどにしか見えない少女だった。
白い肌に漆黒の長い髪。装飾の少ない淡色の道袍をまとい、冷たい眼差しで室内を見渡している。小柄で華奢な姿にもかかわらず、その表情には同年代の少女に見られるような幼さがほとんどなかった。
石猛は二人の顔を認めると、わずかに眉を上げた。
「……お前らか」
「あら、覚えていてくださったのね。嬉しいわ」
男は楽しそうに微笑んだ。
石猛にとって、忘れようにも忘れられない二人である。
何しろ、自分に仙丹を授けたのは、ほかならぬこの二人だったのだ。
かつて石猛は、どれほど腕を磨こうとも武仙の境地には届かなかった。鎮岳派の武功にそれなりの自負はあったが、武仙に選ばれるには内功の蓄積が足りず、己の限界を思い知らされていた。
そんな折、二人が現れた。
そして石猛の資質を認めたとして、一粒の仙丹を与えたのである。
その結果、石猛は武仙となった。
もっとも、二人がどこの門派に属し、なぜ自分へ仙丹を授けたのか、詳しいことは知らない。仙丹を入手できるほどの伝手を持つ者たちなのだから、それなりの地位にあるのだろうとは考えていたが、石猛にとって重要なのは、誰が仙丹を持ってきたかではなく、自分が仙丹を授かるに相応しい人物であったという事実だった。
天は、ついに自分の才能を認めたのだ。
そうでなければ、数ある武人の中から自分が選ばれた理由がつかない。
「久しぶりじゃねえか、確か……謝玉瀾。それに秦冷月だったな。何だ、また俺に何か用か?」
「ええ、少しね。お元気そうで何よりだわ」
謝玉瀾はそう答えながら、まるで自分の部屋であるかのような自然さで天幕の奥へ足を進めた。
石猛は二人がどうやって天幕まで来たのか訝しく思ったが、すぐにその疑問を振り払った。外には歩哨もいるのだから、入ってよいと誰かが判断したのだろう。それよりも、以前自分に仙丹を授けた二人が再び現れたという事実の方が、よほど気になる。
秦冷月も玉瀾の後に続いたが、石猛が食い散らかした料理や床に転がる空の酒壺を一瞥すると、わずかに眉をひそめた。
汚れた器、食べかすの散った卓、酒の染みた敷物。
冷月はそれらから目を逸らし、足元に転がっていた酒壺を避けると、石猛から少し距離を取って立ち止まった。
「何だよ。その顔は」
石猛が不機嫌そうに尋ねる。
冷月は答えなかった。
ただ、床に落ちた食べかすへ一度だけ目を向け、それから何事もなかったかのように視線を正面へ戻した。
「ちっ。相変わらず愛想のねえ小娘だ」
石猛の舌打ちにも、冷月は反応しなかった。
以前なら、仙丹を授けてくれた恩人ということで多少は遠慮しただろう。
だが今は違う。
自分は武仙である。
それも、ただの武仙ではない。朔軍にあって鉄山暴虎と恐れられ、戦場では幾多の敵兵を蹂躙してきた武仙なのだ。
目の前の二人がどれほど名のある門派に属していようと、武功で自分に敵うとは思えなかった。仙丹を扱う伝手があるからといって、それだけで戦場を知らぬ者たちに頭を下げ続ける必要などあるまい。
「ふん。まあいい。それで、何の用だ?」
秦冷月の視線が一瞬だけ石猛へ向けられたが、謝玉瀾は気にする様子もなく微笑んだ。
「実はね、
「ほう」
石猛は少しだけ身を乗り出した。
それは悪くない話である。
瑞軍の連中は、ここしばらく自分に散々煮え湯を飲まされている。大軍を率いて一気に押し潰してやれば、青嶺飛雪とて逃げ場を失うに違いない。
「ようやく本腰を入れる気になったか。最初からそうしてりゃ、瑞なんぞとっくに片づいてたんだ」
「頼もしいこと。でもね、今度の攻勢では、武仙の数も増やしておきたいのよ」
「武仙を増やすだと?」
「そう。貴方一人にばかり働いていただくのも、気の毒でしょう?」
謝玉瀾は袖の中から小さな容器を取り出し、卓の上へ置いた。
蓋を開くと、中には三粒の丹薬が収められている。
石猛は思わず目を見開いた。
「おい……まさか、それは」
「ええ。仙丹よ。それも、以前のものから少し手を加えた品なの」
謝玉瀾はさらりと言ってのけた。
仙丹。
武林に生きる者ならば、誰もがその名を知っている。
しかし、実際に手にできる者はごくわずかだ。門派に属して長年修行を重ね、十分な内功を積み、先達から資質を認められて初めて授かることができる、まさしく神仙の秘薬である。
石猛自身、その一粒を手に入れたことで人生が一変した。それが今、目の前に三粒も並んでいるのだから、さしもの石猛も一瞬は言葉を失った。
「……こいつを、俺に寄越すってのか?」
「ええ。ただし、貴方が飲むためのものではないわよ。朔軍の中から適当な武人を選び、武仙を増やしていただきたいの」
石猛は丹薬から視線を上げた。
「待てよ。武仙を増やすってのは、そんな簡単にできることじゃねえだろうが」
「あら、もちろん誰でもよいというわけではないわ。ある程度の内功は必要よ。でも、以前の貴方程度の内功を備えた武人なら、十分に見込みはあるはずだわ」
謝玉瀾は何でもないことのように説明した。
しかし、その一言が石猛の胸に引っかかった。
「……何だと?」
「だから、貴方が仙丹をいただいた頃くらいの内功があれば、武仙になる可能性はあるということよ。適当な者を選んでいただければ――」
「ふざけんじゃねえ!」
石猛は卓を強く叩いた。
酒盃が跳ね、料理の皿が音を立てる。
だが謝玉瀾は、突然の怒声にも眉一つ動かさなかった。
「あらあら。どうしたの、急に」
「どうしたもこうしたもあるか! 俺がどれだけの修行を積んで、武仙になったと思ってやがる!」
石猛は椅子から腰を浮かせた。
「仙丹を飲めば誰でも武仙になれるってんなら、俺のこれまでの苦労は何だったんだ! てめえらは、この俺がそこらの雑魚と同じだって言いてえのか!」
「そんなことは言っていないわよ。ただ、仙丹に適合できる者は、貴方一人ではないというだけのお話でしょう?」
「同じことだろうが!」
石猛の顔が赤くなった。
仙丹を得る以前の自分は、確かに武仙には及ばなかった。だが、それは己の素質が劣っていたからではない。十分な機会に恵まれなかっただけで、本来ならば自分こそ武林に名を轟かせるべき逸材だったのだ。
だからこそ、仙丹を授かった。
ほかの誰でもない、この熊石猛が選ばれたのである。
それなのに、目の前の男はどうだ。まるで少しばかり内功を積んだ武人なら、誰でも自分と同じ場所まで登ってこられるかのような口ぶりではないか。
そんなことがあってたまるものか。
「いいか、謝玉瀾。確かに俺は、お前らから仙丹を貰った。その恩は忘れちゃいねえ。だがな、仙丹を飲んで武仙になれたのは、俺自身にそれだけの素質があったからだ。勘違いするんじゃねえぞ」
謝玉瀾は少しだけ首を傾げた。
「ええ、そうね。仙丹を授かっても、必ず武仙になれるとは限らないもの。その点では、貴方は幸運だったと言えるでしょうね」
「幸運だと?」
石猛は歯を剥いた。
「運なんぞじゃねえ! 実力だ! 俺には元から、それだけの力があったんだよ!」
その怒声に、秦冷月がゆっくりと石猛へ視線を向けた。
少女の顔に浮かんでいたわずかな不快の色が消え、代わって、ひどく冷たい眼差しが石猛を捉えた。
「与えられた力を、自分の手柄にするな」
声は静かだった。
石猛が怒鳴り散らしているというのに、冷月は少しも声を荒らげず、ただ事実を指摘するように告げたのである。
それがかえって、石猛の神経を逆撫でした。
「何だと、この小娘!」
石猛は勢いよく秦冷月へ顔を向けた。
「さっきから聞いてりゃ、随分と偉そうじゃねえか。俺がお前らに遠慮してやってるのは、昔の恩があるからだ。いい気になるんじゃねえぞ!」
秦冷月は無言で石猛を見上げた。
その瞳には恐れの色など微塵もない。
やがて、石猛の顔から視線を外すと、まるでそれ以上眺める価値もないとでもいうように、わずかに顔を背けた。
「てめえ、人の話を聞いてんのか!」
石猛がさらに声を荒らげる。
その時、冷月の目が細くなった。
「……黙りなさい」
短い一言だったが、そこには相手へ言い聞かせようという気遣いも、怒鳴り返そうという興奮もなかった。
ただ、それ以上の無礼を許すつもりはないという断固とした響きがあった。
石猛のこめかみに青筋が浮かんだ。
「やれるもんなら黙らせてみろ!」
全身から、凄まじい内力が立ち上り始めた。
椅子が軋み、足元の敷物がわずかに波打つ。燭台の炎が不規則に揺れ、卓上の小さな器がかすかな音を立てた。
戦場で多くの兵を恐れさせてきた、鉄山暴虎の威圧である。
普通の武人であれば、これだけでも顔色を失うだろう。まして武功を修めた様子もない少女や、華奢な文人のような男ならば、恐怖に震えて当然のはずだった。
しかし秦冷月は、眉さえ動かさなかった。
石猛から視線を外し、隣に立つ謝玉瀾へ顔を向ける。
「玉瀾。もう十分でしょう」
それだけ告げると、冷月は口を閉ざした。
その声には、相手が武仙であることを恐れる様子も、これ以上言い争う必要があると考えている様子もなかった。むしろ、目の前の男へ費やしている時間そのものが無駄であると判断したかのようだった。
謝玉瀾はそんな彼女の様子を眺め、小さく息をつくと、軽く片手を上げた。
「あらあら、冷月。そんなに怖いお顔をしないの。せっかく鉄山暴虎殿にお会いできたのですもの、仲良くしましょうよ」
冷月は返事をしなかった。
ただ謝玉瀾を一瞥しただけで、それ以上は口を挟もうとしない。
「いいじゃない。今夜はお酒もあることだし」
謝玉瀾は柔らかく微笑み、卓の上の酒壺へ手を伸ばした。
「あら、よいお酒を召し上がっているのね。では、ここは一つ、天下に名高い鉄山暴虎殿に、私から一献お注ぎしましょうか」
石猛は一瞬、面食らった。
つい先ほどまで自分に偉そうな口を利いていた少女を、男が諫めたのである。
しかも、謝玉瀾自身は酒を注いで機嫌を取ろうとしている。
石猛はすぐにその意味を理解したつもりになった。
――ふん。ようやく分かったか。
自分が本気になれば、二人とも命はない。
謝玉瀾も、石猛の内力を間近で感じてようやく恐ろしくなったのだろう。先ほどまでの生意気な態度を改め、酒を注いで機嫌を取ろうというわけだ。
まったく、最初からそうしていればよいものを。
石猛は鼻を鳴らし、椅子へどっかりと腰を下ろした。
「分かりゃいいんだよ。ま、俺も昔の恩を忘れるほど薄情じゃねえ。お前がそういう態度なら、これ以上は言わねえでやる」
「あらぁ、ありがとう。鉄山暴虎殿はお心が広いのね」
謝玉瀾はにこやかに答えた。
石猛は満更でもない気分になった。
やはり力こそがすべてである。
いくら仙丹を持ってこられようと、実際に戦場で敵を倒すのは自分なのだ。武仙でもない連中が、武仙に対して偉そうに命令できると思う方がおかしい。
謝玉瀾はそんな石猛の前へ進み、盃を手に取った。
袖口が滑らかに動き、細い指が酒壺を傾ける。
澄んだ酒が細い流れとなって盃へ落ち、かすかな音を立てながら満ちていく。
実に優雅な所作だった。
石猛はそれを眺めながら、得意げに口を開いた。
「ふん。まあ、お前らも仙丹を扱うくらいだから、それなりの門派に属してるんだろうがな。結局、武林で物を言うのは腕っぷしだ。覚えとけよ」
「ええ、そうねえ」
謝玉瀾は相変わらず微笑んでいる。
「でも、あんまり野暮なことを言っていると、蛇に絞められちゃうわよ?」
「……ああ?」
石猛は眉をひそめた。
蛇とは何のことだろうか。今まで武功の話をしていたはずなのに、突然そんなものを持ち出すとは、いったい何を考えているのか。
あるいは、この男も酒でも飲みすぎたのか。
「てめえ、何の話を――」
そこまで言いかけた時だった。
盃の中の酒が、ゆらりと動いた。
石猛は思わず口を閉じた。
謝玉瀾は酒壺を置き、静かに微笑んでいる。誰も盃に触れていないというのに、酒の表面には小さな波紋が広がり、やがて中央が不自然に盛り上がり始めた。
初めは、酒が泡立っているのかと思った。
しかし違う。
盃の酒面が静かに持ち上がり、まるで水の底から蛇が浮かび上がるように、先端がぬめるような曲線を描いて立ち上がった。次の瞬間には、その先が平たい頭となり、裂けた口元を備えた鎌首へと変わる。さらに首から胴、胴から尾へと、透明な蛇体が酒面の中から絶え間なく引き出され、本物の蛇が盃の中から起き上がってきたように見えた。
「……何だ、こりゃ」
石猛は目を凝らした。
それは、紛れもなく一匹の蛇だった。
頭部の形も、緩やかに湾曲する胴の輪郭も、先細りになった長い尾も、石猛が野山で見かけた蛇と何ら変わりがない。身体の表面には鱗を思わせる細かな凹凸まであり、燭火の光が当たるたびに、一枚一枚の輪郭が淡く浮かび上がっていた。
ただし、その身体は透き通った酒でできていた。
透明な胴の向こうには卓や酒壺が透けて見え、蛇が身をくねらせるたび、背後の燭火がゆらゆらと歪む。眼の部分にも黒い瞳はなく、丸く盛り上がった透明な酒が、二つの眼の形を成しているだけである。
それでも不思議なことに、石猛にはその蛇がこちらをじっと見据えているように思えた。
蛇は鎌首をもたげ、細く裂けた口をわずかに開いた。
すると、その口から二股に分かれた透明な舌がするりと伸び、ちろちろと小刻みに揺れ動いた。舌は引っ込んだかと思えば再び伸び、周囲の気配を探るように空中を舐めている。
透明であるという一点を除けば、その姿形も仕草も、まさしく生きた蛇そのものだった。
石猛が見つめている間にも、蛇は盃から上半身をするりと乗り出した。やがて透明な胴が盃の縁を越え、卓の上へ滑り下りる。蛇は腹を卓面につけ、細かな波を描くように胴をくねらせながら進み始めた。
卓の上には細い濡れ跡が残り、燭火を映した透明な身体が左右へ滑らかに揺れる。酒でできているにもかかわらず、蛇は水たまりとなって広がることもなく、頭を上げ、胴を曲げ、尾を引きずるという本物の蛇さながらの動きで、石猛の方へ這い寄ってきた。
石猛は、その異様な光景に呆然としていた。
そして、卓の上を進んできた蛇が自分の方へ頭を向け、透明な舌をちろりと動かした瞬間、ようやく我に返った。
「何だ、てめえ!」
反射的に右手を伸ばし、卓上の蛇を払いのけようとした。
普通の蛇ならば、その一撃だけで身体が千切れ飛んでいたことだろう。
だが、拳が触れた瞬間、蛇の身体はぱしゃりと水を叩いたように形を崩し、石猛の手をすり抜けた。
確かに何かを打った感触はあった。しかし、それは生き物の肉でも骨でもなく、酒の入った器へ手を突っ込んだ時のような、冷たい液体の感触にすぎなかった。
卓面へ散った酒は、石猛の拳が通り過ぎると、細い流れとなって元の胴体へ戻っていく。あっという間に蛇の輪郭が整い、透明な頭部が再び持ち上がった。
そして蛇は、卓へ伸ばされた石猛の右手へ身を寄せ、袖口に頭を掛けたかと思うと、そのまま手首へするりと巻きついてきたのである。
「なっ……!」
冷たい感触が皮膚を伝った。
石猛は慌てて腕を振ったが、蛇は離れない。それどころか、手首から肘、肘から肩へと、まるで生き物のように身体をくねらせながら這い上がってくるではないか。
「くそっ、何なんだ、こいつは!」
石猛は左手を伸ばし、蛇を掴もうとした。
今度こそ逃がすまいと、透明な胴へ五本の指を食い込ませる。
しかし、そこには掴むべき肉も、指を引っかける鱗もなかった。
指が触れた場所だけがぐにゃりと窪み、力を込めると、蛇の胴体は握り締めた指の間から
石猛はさらに力を込めた。
岩を砕くほどの握力で握り潰そうとしたものの、指の間から逃れた酒はその腕を伝って流れ、すぐに蛇の胴体へと戻っていく。最後には、石猛の拳の中に何も残らなかった。
慌てて手を開いてみれば、透明な蛇は何事もなかったように元の太さへ戻り、相変わらず身体をくねらせている。
掴めない。
いや、掴んだところで、その力がまるで伝わらないのだ。
しかも、負傷した左腕を急に動かしたため、傷口から鋭い痛みが走った。石猛が思わず顔をしかめた隙に、蛇は右肩まで這い上がり、そこで一度、頭をもたげた。
透明な頭部の向こうに、天幕の燭火が歪んで見える。
蛇は石猛の顔を覗き込むように鎌首を傾けると、二股の舌をちろちろと蠢かせた。
石猛は一瞬、動きを止めた。
目の前にあるものが何なのか、まるで理解できなかったからだ。
そして、そのわずかな隙に、蛇は石猛の首へ巻きついた。
「ぐっ……!」
首筋に冷たいものが触れた。
石猛が反射的に顎を引くと、液体の蛇はその動きに逆らうように締まり始めた。
最初は、濡れた縄を巻きつけられた程度の感触だった。
だが、次の瞬間には締めつけが強まり、喉元に重苦しい圧迫感が生じる。
「て、てめえ……!」
石猛は謝玉瀾を睨みつけた。
しかし謝玉瀾は、変わらぬ微笑を浮かべている。
石猛は怒鳴ろうとしたが、その前に喉がさらに圧迫され、声が途中で潰れた。
――ふざけやがって!
反射的に内力を巡らせる。
丹田に満ちた膨大な力を一気に押し上げ、首筋から肩、胸元へと集中させた。
鎮岳派の硬気功、盤山功である。
この武功を用いれば、石猛の肉体は岩のような強靱さを獲得する。普通の刃物で斬りつけられた程度では傷一つつかず、強烈な打撃を受けても容易には崩れない。
まして、たかが酒でできた蛇などに、遅れを取るはずがない。
「ぬうううっ!」
石猛は歯を食いしばり、さらに内力を送り込んだ。
首の筋肉が盛り上がり、肩から背中へかけての肉が硬く張り詰める。普段であれば外からの衝撃を受け止め、耐えるために用いる内力を、今は首へ巻きついた液体を押し返すために集中させていた。
並の武人ならば、その内力の圧力だけで弾き飛ばされていただろう。
しかし、蛇は離れなかった。
石猛が首の筋肉を硬く締め上げても、液体はその表面に密着したまま、逃げ場を与えぬように圧力を加えてくる。しかも、石猛が硬気功を強めるほど、その締めつけまで強まっているように感じられた。
「ぐ……がっ……!」
石猛の喉から、押し潰されたような声が漏れる。
何故だ。
どうして、ただの酒がこれほどの力を持っている。
趙雪衡の
しかし、この蛇にはそのような技の気配がない。斬撃でも打撃でもなく、ただ首を締めているだけなのだ。
それなのに、己が誇る硬気功は、少しも役に立たない。
石猛は右手で蛇を掴み、力任せに引き剥がそうとした。腕の筋肉が盛り上がり、指先に岩をも砕くほどの握力が集まる。
ところが、指は蛇の身体を掴めなかった。
首に巻きついた部分を強く握っても、指は水面を押し分けるように透明な胴体へ沈み込み、そのまま反対側へ抜けてしまう。指の間からあふれた酒は一滴たりとも地面へ落ちず、石猛の手を回り込んで再び蛇の形へ戻った。
石猛は何度も掴み直した。
片手で駄目なら両手を使い、指を絡めるようにして引っ張ろうともしたが、液体には掴むべき端も、引っかけるべき場所もない。力を込めれば込めるほど、己の指が自分の首筋へ深く食い込み、皮膚を引っ掻くばかりだった。
――何だ、こいつは……!
石猛は初めて、胸の奥に冷たいものが広がっていくのを感じた。
戦場で強敵と向かい合う時にも、危険を感じたことはある。趙雪衡の剣が自分の防御を突き破り、左腕を深く斬り裂いた時でさえ、石猛はその痛みと怒りを力に変え、なお戦い続けることができた。
だが、今は違う。
敵が何をしているのか分からず、こちらの武功が何故通じないのかも理解できない。どれほど内力を巡らせても、いくら力任せに引き剥がそうとしても、蛇は少しも緩まず、むしろ己の命が刻一刻と削られているような感覚だけが強くなっていく。
自分の理解できないものが、自分の命を握っている。
そんな、これまで味わったことのない恐怖だった。
蛇の身体がさらに細く締まり、喉の奥が押し潰される。
息を吸おうとしても、空気が入ってこない。胸は大きく膨らもうとするのに、喉がそれを許さず、身体の内側から苦しさが込み上げてくる。
「が……ぐ……っ!」
石猛は椅子から立ち上がろうとした。
しかし、全身に力を込めた途端、蛇の圧迫がさらに強まり、身体が不自然に傾いた。
椅子が後方へ倒れ、大きな音を立てる。
石猛は足を踏みしめ、何とか倒れずに堪えたものの、首を締められたままでは姿勢を保つことさえ難しかった。足元がふらつき、卓の端へ手をつこうとした拍子に、酒壺が倒れて床へ転がった。
陶器の割れる音が響いたが、もはやそんなものに構っている余裕はない。
――外れろ! この……!
石猛は残された内力をさらに首へ集中させた。
普段ならば惜しげもなく攻撃へ注ぎ込む膨大な力を、今はただ自分の喉を守るためだけに使っていた。
しかし、蛇は少しも緩まない。
石猛は両手で首を掻きむしった。
指先が皮膚を裂き、爪の下に血が滲む。それでも液体の蛇には傷一つつけられず、ただ自分自身を痛めつけるだけだった。
次第に腕の動きが荒くなり、狙いも定まらなくなっていく。あれほど自在に振るってきた怪力が、今は何の役にも立たず、指先に伝わるのは自分の皮膚を引っ掻く感触ばかりであった。
もはや怒鳴ることさえできなかった。
喉から漏れるのは、潰れた獣の呻きのような音ばかりである。
石猛は霞み始めた視界の向こうに、謝玉瀾の姿を捉えた。
男はまだ微笑んでいた。
その隣では、秦冷月が冷ややかな眼差しを向けている。
二人とも、まるで動じていない。
石猛が死に物狂いで抵抗しているというのに、謝玉瀾は酒壺を置いた時と変わらぬ穏やかな表情で、ただこちらを眺めているのだ。
その余裕が、石猛には何よりも恐ろしかった。
謝玉瀾は一歩も動かず、武功を構えることもなく、ただ微笑んでいる。それなのに、石猛はその男へ近づくこともできず、命乞いの一言すら口にできない。
――た、助け……!
石猛は何かを叫ぼうとした。
だが、声にならなかった。
喉を締めつける力はなおも強まり、視界の端から暗い影が広がり始めていた。
肺の中に残ったわずかな空気が失われ、身体が必死に呼吸を求める。そのたびに胸が痙攣するように震え、全身の筋肉へ力が入るのだが、どれほど足掻いても空気は一筋たりとも流れ込んでこない。
石猛は自分が死にかけているのだと悟った。
武仙となって以来、数え切れぬほどの敵兵を殺してきた。
自分に斬りかかられた兵がどのような顔をするか、よく知っている。刃を向けられて腰を抜かす者、命乞いをする者、逃げようとして背中を見せる者。
石猛は、そうした連中を弱者だと笑ってきた。
だが今、その弱者たちが味わった恐怖を、自分自身が味わっていた。
目の前の男に、勝てない。
それどころか、抵抗することさえできない。
自分を武仙へと押し上げた膨大な内力も、山を砕くと自負してきた怪力も、この蛇の前では何の意味も持たなかった。
――死ぬ……!
頭の中で、その言葉だけが繰り返される。
石猛はなおも両手を動かし、蛇を引き剥がそうとした。しかし、指にはもう十分な力が入らず、液体の表面を撫でるような動きしかできなくなっていた。
膝が折れかけ、身体がぐらりと傾く。
意識が遠のき、天幕の灯火が幾重にも滲んで見えた。
その時、謝玉瀾がゆっくりと片手を上げた。
優美な指先が、宙に何かを描くように小さく動く。
「……解」
囁くような一言だった。
しかし、その声が響いた瞬間、石猛の首を締めつけていたものが、不意に形を失った。
つい先ほどまで生き物のようにうねり、石猛の命を奪おうとしていた蛇は、まるで見えない命令に従ったかのように崩れ落ち、ただの酒へと戻った。
生温い液体が首筋を伝い、襟の内側へ流れ込む。
そして、胸元から腹にかけて、石猛の衣服をじっとりと濡らしていった。
石猛は突然解放された喉へ反射的に空気を吸い込もうとしたが、締めつけられていた気道はすぐには元に戻らず、激しく咳き込みながら身体を折り曲げた。
「げほっ、がはっ……!」
ようやく吸い込めた空気は喉を焼くように痛み、胸の奥まで一気に流れ込んでくる。石猛は片手を卓へつき、もう一方の手で自分の首を押さえながら、荒い呼吸を繰り返した。
濡れた衣服が肌へ貼りつき、首筋には爪で掻きむしった傷が残っている。
自分を絞め殺しかけたものが、つい先ほどまで飲もうとしていた酒であったなど、どう考えても信じがたい。
それでも、謝玉瀾の指先が動き、あの一言が発せられた途端に蛇が消えたことだけは、はっきりと覚えていた。
石猛はまだ呼吸の整わぬまま、恐る恐る顔を上げた。
謝玉瀾はその有様を眺めながら、先ほどと少しも変わらぬ柔らかな微笑を浮かべていた。
「あらあら、随分とお酒をこぼしてしまったわねぇ」
男は優美な仕草で袖を整えると、まるで先ほどまで何事もなかったかのような穏やかな声で、石猛へ語りかけた。
「さて、鉄山暴虎殿。これで、少しはお話を聞いてもらえるかしら?」