SF仙女武侠伝 無自覚TSサイボーグ、江湖武林を逝く! 作:モリーマ
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喉が痛む。息を吸うたびに内側を擦られるような痛みが走り、深く呼吸しようとすれば咳が込み上げてくる。首を締めつけていた酒蛇はすでに消えていたが、あの冷たい胴が巻きつく感触は、まだ皮膚の下に残っているようだった。
石猛は卓に片手をつき、荒い呼吸を繰り返した。胸元の衣服は酒に濡れ、首筋には自分で掻きむしった傷が走っている。
その目の前で、
「さて、鉄山暴虎殿。お返事はいただけないのかしら?」
石猛は顔をしかめた。
武功の構え一つ見せず、酒の入った盃だけで、この鉄山暴虎を絞め殺しかけた男が、まるで行儀の悪い客をたしなめただけのように微笑んでいる。今すぐその顔を殴りつけてやりたかったが、怒鳴ろうとした途端、首筋に冷たいものが這い上がる感覚が蘇り、思わず喉を押さえた。
もし、再びあの蛇が現れたら。今度こそ謝玉瀾が術を解かなかったら、どれほど内力を振り絞っても、息もできずに死ぬしかない。
「……分かった」
石猛は、ようやく掠れた声を絞り出した。
「話は聞いてやる。だから……もう、あんな真似はするんじゃねえ」
「あらぁ、よかった。ようやく落ち着いてお話ができそうね」
謝玉瀾は嬉しそうに両手を合わせた。
石猛は歯噛みしたものの、反論する勇気はなかった。隣に立つ
先ほどまで、その小娘を黙らせようと内力を放っていたというのに、実際に声すら出せなくなったのは自分の方だった。
――畜生……こいつら、一体何者なんだ。
仙丹を授けた時から、二人が特別な伝手を持つ者であることは分かっていた。しかし、武功まで自分より優れているとは思っていなかったのである。
ところが謝玉瀾が使ったものは、拳でも剣でも、内力を放つ技でもなかった。ただの酒を蛇に変え、武仙の首を絞めるなど、石猛の知るどの武功とも違っていた。
「……おい、謝玉瀾。さっきのは何なんだ」
「ああ、そうねえ。口で説明するより、もう少し見ていただいた方が早いかもしれないわ」
謝玉瀾は天幕の片隅へ目を向けた。
「お、おい! 俺は話を聞くって言っただろうが!」
「ええ。だから、これからちゃんと説明して差し上げるの」
男は石猛の抗議など意に介さず、飲み水を蓄えた大きな水瓶へ歩み寄ると、その縁へ細い指を添えた。
「あら、たっぷり入っているのね。これなら十分だわ」
ちゃぷん、と水音がした。
水瓶には誰も触れていないというのに、水面に幾重もの波紋が広がり、中央がゆっくりと盛り上がり始めた。
――まさか……!
石猛の予感は、すぐに現実となった。
水面から透明な先端がぬめるような曲線を描いて立ち上がり、平たい頭部を形作る。左右には丸い眼が現れ、裂けた口元から二股の舌が覗いた。やがて鎌首が高くもたげられ、続いて長い胴が水面からするすると引き出されていく。
まるで深い淵の底に潜んでいた蛇が、ゆっくりと姿を現したかのようだった。
「な……!」
今度の蛇は、先ほどの酒蛇とは比較にならないほど大きかった。
頭部だけでも石猛の拳ほどあり、太い胴の表面には細かな鱗の輪郭が浮かんでいる。燭火を受けた身体は透き通り、背後の天幕や卓の脚が水を通して歪んで見えた。
蛇は鎌首をもたげ、二股の舌を幾度か出し入れすると、その透明な眼を石猛へ向けた。
「ひっ……!」
後ずさった踵が倒れた椅子へぶつかり、がたんと音を立てた。
その間にも大蛇は水瓶の縁を越え、太い胴を瓶の外側へ滑らせていた。重みのある身体が垂れ下がり、頭部が床へ届くと、そこを支えにして残りの胴を引き出していく。
ぴちゃり、ぴちゃりと濡れた音を響かせながら、蛇は腹を敷物へ押しつけ、緩やかに身体をくねらせて石猛へ近づいてきた。
石猛は右手を握り締めた。
酒蛇を殴りつけた時、拳は相手を捉えたはずだった。それなのに砕くべき骨も肉もなく、冷たい液体が指の間から溢れただけだったのである。
今度の大蛇も同じなら、あの太い胴に首を巻かれたところで、引き剥がすことなどできまい。
石猛が顎を引いて身構えると、大蛇はその足元でゆっくりと身体を曲げ、幾重にも重なる透明な輪を作り始めた。やがて石猛を取り囲むようにとぐろを巻き、その中央から太い首を持ち上げた。
蛇は何もしていない。ただ、こちらを見つめているだけである。
それなのに石猛は、また首を締めつけられるのではないかという恐怖から、身じろぎ一つできなかった。
「あらぁ、そんなに怖がらなくても大丈夫よ」
謝玉瀾がのんびりと声をかけた。
「この子は、貴方を絞めたりしないわ。今はね」
「い、今はって……!」
「ふふっ。冗談よ」
その隣では秦冷月が、蛇によって濡れた敷物を一瞥し、衣の裾を持ち上げて乾いた場所へ足を移している。
あれほど巨大な蛇を目の前にしながら、少女は衣服が濡れることの方を気にしているらしい。
石猛は、ようやく問いかけた。
「……お前ら、一体何者なんだ」
謝玉瀾は、その言葉を待っていたかのように微笑んだ。
「ようやく、そこが気になったのね。では、まずはこちらのお話から始めましょうか」
男が卓上の容器を指先で叩くと、石猛の視線は自然と中に収められた三粒の仙丹へ向いた。
「貴方は、仙丹がどこから来るものなのか、ご存じかしら?」
「各門派に伝わる秘伝の練丹術で作るんだろうが。俺だって、それくらいは知ってる」
「ええ。世間では、そういうことになっているわね。でも、それは本当のことではないの」
「……何だと?」
石猛は眉をひそめた。
鎮岳派でも仙丹を授かれる者は限られていた。長年の修行で内功を蓄え、先達から資質を認められた者だけが手にできる、まさしく門派の秘薬である。
しかし謝玉瀾は、門派の人間が仙丹を作っているわけではないと告げた。
「仙丹を管理しているのは、貴方たちが知らない別の者たちなの。世俗から離れた場所に、私たちのような者が暮らす世界があるのよ」
「……別の世界だと?」
「同じ大地の上にあるのよ。ただ、普通の人には知られていないだけ。私たちは、そうした本拠地を
石猛にも、その言葉には聞き覚えがあった。山奥の険しい谷や人跡未踏の洞窟に神仙が住んでいるという昔話なら、酒の席で何度も耳にしたことがある。
だが、それが現実の話だとは思っていなかった。
「……待て。じゃあ、鎮岳派の仙丹も……」
「ええ。多くの門派では、関係する洞府から仙丹を授かり、掌門を通じて選ばれた門弟へ渡しているのよ」
「掌門が……?」
「普通の門弟は知らなくても不思議ではないわ。武仙になった者でさえ、そのまま何も知らずに生涯を終えることは珍しくないもの」
謝玉瀾は楽しそうに微笑んだ。
「知る必要のないことは、知らなくても困らないでしょう?」
石猛は言葉を失った。
自分が門派の秘薬と信じていた仙丹は、さらに上位の存在から供給されていたというのである。掌門がその事情を知っていたのかどうかも分からず、長年の修行で聞かされてきた教えの裏側に、別の世界が隠れていたことになる。
「……お前らも、その洞府ってところの人間なのか」
「まあ、そんなところね。もっとも、詳しい事情は今の貴方に知っていただく必要はないわ」
石猛は唇を噛んだ。
普段なら馬鹿にするなと怒鳴り返していただろうが、足元の水蛇がわずかに頭を動かしただけで、反射的に喉元を庇ってしまった。
謝玉瀾は、その様子を眺めながら話を続けた。
「さて。では次に、貴方が誇っている武仙についてお話ししましょうか」
「……武仙がどうしたってんだ」
「武仙はね、仙道においては、まだ入り口に立ったばかりの存在なのよ」
「ふざけるなよ! 武仙がどれだけ特別な存在か、お前だって――」
声を荒らげた途端、喉に鋭い痛みが走った。
石猛が顔をしかめると、謝玉瀾は柔らかく微笑んだ。
「もちろん、武仙が常人を遥かに凌ぐ力を持つことは知っているわ。でも、武仙になったところで、老いも病もなくなるわけではないでしょう?」
その言葉に、石猛は思わず左腕へ目を落とした。
確かに、仙丹を得た自分も不死ではない。
「武仙は、一粒目の仙丹を下腹の丹田へ定着させた者。その中から仙人社会に迎えるに相応しいと認められた者だけが、
「……下尸道士?」
「仙人社会へ迎えられた者の資格のようなものね。なったからといって、急に内力が増えたり、寿命が延びたりするわけではないわ。武功だけでなく、人となりも見られるのよ」
石猛は顔をしかめた。
人となりなど、何の役に立つというのか。武林では強い者が上に立つ。それが当然ではないか。
だが、目の前の男が酒一杯で自分を制圧したことを思い出せば、その考えを口にすることはできなかった。
「……じゃあ、下尸道士になれば、お前らみたいなことができるのか」
「あら、残念ながら違うのよ。そこからさらに修行を重ね、二粒目の仙丹を授かって、初めて次の段階へ進めるの」
「二粒目……?」
石猛の視線が卓上の容器へ向いた。
「一粒目の仙丹を下腹の丹田へ定着させるのに対して、二粒目は胸の
「……中尸地仙」
「中尸地仙となれば、武功だけではなく仙術や神通力を扱えるようになるの。肉体も老いに縛られなくなり、寿命は数百年、長ければ千年ほどに延びるわ」
「せ、千年……?」
荒唐無稽な話だった。
しかし、石猛の足元では、水でできた巨大な蛇が今も静かにとぐろを巻いている。武仙の力などでは説明できないものを見せつけられた以上、仙人の長寿についても容易に否定することはできなかった。
それに、仙丹をもう一粒定着させれば、自分もその境地へ至れるというのか。
石猛の胸に、小さな欲が芽生えた。
「……おい。じゃあ、お前は……」
「ええ。私も冷月も、中尸地仙よ」
謝玉瀾は、自分の名前を名乗るのと変わらぬ気軽さで答えた。
石猛は思わず秦冷月を見た。
十三、四歳ほどにしか見えない華奢な少女。だが、その小さな身体にも、自分などとは比較にならない力が宿っているという。
石猛は、先ほどまで少女へ浴びせていた罵声を思い出した。
小娘と呼び、黙らせてみろと怒鳴りつけた。もし、あの時に冷月が本気になっていたなら、どうなっていたのだろうか。
その視線に気づいた冷月が、ゆっくりと顔を向けた。
「……何?」
「い、いや……」
石猛は慌てて目を逸らした。
「あらぁ。ようやく冷月のことも、少しは分かっていただけたみたいね」
謝玉瀾が楽しそうに微笑む。
冷月は玉瀾を一瞥しただけで、何も言わなかった。
石猛は改めて二人を見た。
華やかな衣をまとった細身の男と、幼い少女にしか見えない女。そのどちらからも、武林の強者に特有の猛々しい気配は感じられない。
それは弱いからではなかった。
武功を誇示して相手を威圧する必要など、最初からなかったのである。
「せっかくだから、今度はこの子のお話もしましょうか」
謝玉瀾は足元の水蛇へ視線を落とした。
巨大な蛇が鎌首を持ち上げ、透明な舌をちろちろと動かす。石猛が反射的に身を引くと、謝玉瀾は楽しそうに目を細めた。
「これが中尸地仙の扱う仙術――
「……八易神功?」
「ええ。易の八卦に基づく仙術の体系なの。貴方たちが内力を拳や剣へ込めるように、私たちもそれぞれの理に従って術を扱うのよ」
男が指先を動かすと、水蛇はその動きに合わせて頭を傾けた。
「ちなみに、私が得意とするのは水を司る
石猛は、透明な胴を見つめた。
盤山功は肉体を岩のように強靱にし、刃や拳、凄まじい衝撃を防ぐ武功である。しかし、酒蛇には通用しなかった。
どれほど筋肉を硬くしても、蛇は首筋へ密着して締めつけを強め、掴もうとすれば指の間から液体が溢れ出した。それでいて、掴むことのできない蛇の方は、武仙の肉体を締め潰すほどの力を備えていたのである。
自分が長年磨いてきた武功は、そもそもこのような相手と戦うことを想定していなかった。
「……馬鹿な。こんなもの、勝てるわけがねえだろうが」
「あら、ようやく分かってくださったのね」
謝玉瀾の笑顔には、自慢するようなところがなかった。
その余裕が、石猛にはいっそう堪えた。
自分は武仙となって以来、戦場で幾多の敵を打ち倒してきた。趙雪衡には左腕を斬られたものの、あの女とて最後には退却していった。
だから、己の強さを疑ったことなどなかった。
しかし謝玉瀾を前にしては、その自信を支えるものが何一つ見つからなかった。石猛は拳を開き、掌に残る酒の湿り気を確かめた。
あれほどの怪力を持ちながら、細い酒蛇一匹すら握り潰せなかったのである。
「……じゃあ、俺は……」
石猛は口を開きかけ、言葉を呑み込んだ。
自分も中尸地仙になれるのか。
そう尋ねようとしたのだが、謝玉瀾が語った下尸道士の条件が頭をよぎった。内功だけでなく、人となりを見極められ、仙人社会から選ばれなければならないという。
目の前の二人から自分がどう見られているかなど、考えるまでもなかった。
謝玉瀾は石猛の沈黙を眺めると、話を切り替えるように軽く手を叩いた。
「さてさて。これで、少しは私たちのお話を聞いていただけるようになったかしら」
「……ああ」
「それなら、ようやく本題に戻れるわね」
謝玉瀾は卓へ歩み寄り、三粒の仙丹が収められた容器を手に取った。
「この三粒は、以前のものより人の身体に馴染みやすくした仙丹なの。朔軍の中から、適当な武人を選んで服用させていただきたいのよ」
石猛は黙っていた。
「あら、今度は反対なさらないのね」
「……お前らがそうしろってんなら、そうするさ」
本当は面白くなかった。
自分が苦労して手に入れた武仙の力を、ほかの武人へ与えるなど、喜ばしいはずがない。今まで頭を下げてきた連中が自分と同じ境地へ上がってくるなど、考えるだけで腹立たしかった。
だが、謝玉瀾と秦冷月を前にして、これ以上意地を張るつもりもなかった。
石猛は容器の中に並ぶ三粒の仙丹を見つめた。
仙丹を二粒、下腹の丹田と胸の膻中へ定着させることができれば、中尸地仙となれる。
それならば、このうち一粒を自分が飲んだらどうなるのだろう。
すでに一粒目を定着させ、莫大な内力を得た自分ならば、二粒目も受け入れられるのではないか。
石猛が知らず知らずのうちに手を伸ばしかけた時、謝玉瀾が楽しそうに声をかけてきた。
「あらぁ。そんなに気になるの?」
「な、何がだよ」
「仙丹よ。ずいぶん熱心に見ていらっしゃるから」
謝玉瀾は容器を石猛の目の前へ差し出した。
「別に貴方が飲んでもいいのよ。二粒目に身体が耐えられず、憤死してしまっても構わないというなら、ね?」
「……なっ!」
石猛の手が止まった。
「でも、せっかく武仙になれたのに、欲をかいて死んでしまうなんてもったいないでしょう? 今は素直に、私の言うことを聞いておきなさいな」
「ま、待てよ! さっき、お前は仙丹を二粒飲めば、中尸地仙になれるって言ったじゃねえか!」
「あら、そうよ。ただし、二粒目を無事に定着させることができれば、というお話ね」
謝玉瀾は小首を傾げた。
「仙丹そのものに、一粒目と二粒目で種類の違いはないのよ。最初の一粒を下腹の丹田へ、次の一粒を胸の膻中へ定着させることができれば、中尸地仙へ至れるわ」
「だったら、この俺がもう一粒飲めばいいだけじゃねえか!」
「ふふっ。飲むことと、定着させることは別のお話よ。二粒目を膻中へ収められるだけの素養と備えがなければ、身体が耐えられずに憤死してしまうでしょうね」
石猛の顔が引きつった。
仙丹の力は強大であり、十分な内功を持たぬ者が服用すれば命を落とすこともある。それは鎮岳派で修行していた頃から、幾度となく聞かされてきた話だった。
しかし、自分はすでに武仙である。
並の武人を遥かに上回る内力を持つ今ならば、二粒目を受け入れられる見込みもあるのではないか。
石猛がそんなことを考えていると、謝玉瀾が容器を僅かに傾けた。
「もっとも、この三粒は以前よりも人の身体に馴染みやすくしてあるから、試してみる価値はあるかもしれないわよ?」
「……本当か?」
「あら、そんなに嬉しそうなお顔をしないで。馴染みやすいというだけで、必ず無事に定着するとは言っていないわ」
男は、口元に柔らかな微笑を浮かべた。
「命を賭けてまで試す勇気があるなら、止めはしないけれど」
石猛は容器から手を引っ込めた。
先ほどまで、酒蛇に首を絞められて死にかけていたのである。あの苦しさをもう一度味わうことになったとして、謝玉瀾が助けてくれる保証などない。
まして、仙丹が体内で定着せずに力を暴走させたなら、自慢の盤山功でも防ぎようがあるまい。
「……分かったよ。俺が飲むんじゃねえ。朔軍の中から適当な奴を選べばいいんだな」
「ええ。ただし、誰でもよいというわけではないわ。ある程度の内功を修めた者を選びなさい。いくら以前より馴染みやすくなっていても、素養のない者には危険だから」
「……ああ」
「それと、貴方が使うのではなく、選んだ武人へ与えるためのものだということも忘れないでちょうだいね」
「分かってるって言ってるだろうが……」
石猛は不機嫌そうに答えたが、謝玉瀾がわずかに眉を上げただけで、慌てて言葉を継いだ。
「……分かってる。言われたとおりにする」
「あらぁ、よろしいこと」
謝玉瀾は満足そうに微笑み、容器の蓋を閉じて石猛の前へ置いた。
三粒の仙丹が、石猛の手に委ねられた。
かつて初めて仙丹を授かった時には、自分こそが選ばれた人間なのだと胸を躍らせた。しかし今は、謝玉瀾にとって自分が仙丹を預ける相手でしかないことを思い知らされている。
石猛が重苦しい気分で容器を手に取ると、謝玉瀾が再び口を開いた。
「そうそう。今後の攻勢では、新たな武仙たちにも働いていただくことになるでしょう。だから、選抜はなるべく早く済ませてちょうだいね」
「……分かった」
「頼りにしているわよ、鉄山暴虎殿」
柔らかな声だったが、石猛には少しも嬉しくなかった。謝玉瀾が本当に自分の武功を頼りにしているなどとは、到底思えなかったのである。
男はそれ以上何も言わず、足元の水蛇へ目を向けた。
「あら、いけない。いつまでもこの子を出しておくわけにもいかないわね」
指先が軽く動くと、水蛇は鎌首を下げ、とぐろを一巻きずつ解き始めた。
長い胴を伸ばして水瓶へ戻った蛇は、瓶の外側へ身体を巻きつけ、その部分を支えにしながら頭を持ち上げていく。やがて縁へ顎を掛けると、上半身を内側へ乗り出し、透明な頭部を水面へ沈めた。
ちゃぷん、と小さな音がした。
首から胴、そして細い尾へと、蛇の身体が次々に瓶の内側へ滑り込んでいく。最後の尾が水面へ消えると、大きな波紋が一度だけ広がり、ほどなくして瓶の中は静まり返った。
石猛は、その水面をしばらく見つめ続けた。
あれほど巨大な蛇が、ただの水へ戻ってしまったのである。先ほどの酒蛇と同じように、術が解かれれば、そこには何の変哲もない液体しか残らない。
石猛は、思わず首筋の傷へ触れた。
自分の爪で裂いた皮膚がひりつき、まだ完全には整わぬ呼吸に合わせて胸の奥が鈍く痛む。
あの蛇は幻ではなかった。
武仙の硬気功を圧倒し、怪力を無意味なものにした恐るべき仙術だったのである。
――中尸地仙……八易神功……。
石猛は教えられたばかりの言葉を心の中で繰り返し、手にした容器へ視線を落とした。
三粒の仙丹。
そのうち一粒が、いつか自分をあの二人と同じ境地へ押し上げるかもしれない。しかし、二度目の服用に失敗すれば、待っているのは死である。
「……おい、謝玉瀾。俺は――」
顔を上げたところで、言葉が途切れた。
先ほどまで卓の向こうに立っていた男が、いつの間にかいなくなっていたのである。秦冷月の姿も見当たらず、天幕の入口には誰もいない。
外からは相変わらず歩哨の足音や兵たちの話し声が聞こえてくるだけだった。
「……何だよ、あいつら」
水蛇へ目を向けていた間に立ち去ったのか、それとも何か別の術を使ったのか。石猛には分からなかったし、今夜見せつけられたものを思えば、どちらであっても不思議ではないように感じられた。
石猛は大きく息を吐き、痛む喉を押さえながら倒れた椅子を起こした。
卓には食い散らかした料理が残り、床には割れた酒壺の欠片が散らばっている。酒と水に濡れた敷物からは湿った臭いが立ち上り、燭火の揺らめきが天幕の内側へ不規則な影を落としていた。
その惨状を見渡して、石猛は改めて自分がどれほどの醜態を晒したのかを思い知らされた。
武仙となって以来、己の強さを疑ったことなどなかった。戦場で敵を打ち倒すたび、自分こそが選ばれた特別な存在なのだという確信を深めてきたのである。
しかし、真の仙人を前にして、その自負はあっけなく打ち砕かれた。
石猛は舌打ちし、仙丹の容器を開いた。
小さな三粒が並んでいる。
それを朔軍の武人に与えれば、自分と同じ武仙が新たに生まれるかもしれない。今まで頭を下げてきた連中が同じ境地へ登ってくるなど、考えるだけで腹立たしかった。
だが、謝玉瀾の命令に逆らうことはできない。
石猛は仙丹へ指を伸ばしかけた。
――二粒目を膻中へ定着させられれば、俺も……。
もし中尸地仙となり、あの恐るべき仙術を自分も扱えるようになれば、謝玉瀾や秦冷月に頭を下げる必要などなくなるかもしれない。
まして、今回の仙丹は人の身体へ馴染みやすくなっているという。
しかし、指先が一粒へ触れる寸前、謝玉瀾の柔らかな声が耳の奥に蘇った。
――憤死してしまっても構わないというなら、ね?
石猛の手が止まった。
首筋の傷が、思い出したように疼く。
先ほどまで死の恐怖に震えていたばかりではないか。仙丹をもう一粒飲んで命を落としかけたとして、今度は誰が助けてくれるというのだろう。
石猛は乱暴に蓋を閉じた。
「……今は、言われたとおりにしてやるさ」
その言葉を聞く者は、誰もいなかった。
容器を懐へしまうと、石猛は椅子へ深く身を預けた。
外では兵たちが翌日の戦に備え、慌ただしく行き交っている。普段ならばその物音を聞くだけで血が騒いだものだが、今夜ばかりは立ち上がる気になれなかった。
それでも、いつまでもあの二人に頭を下げ続けるつもりなど毛頭ない。
石猛は懐の仙丹へ手を当て、誰もいない天幕の入口を険しい眼差しで睨みつけた。
三粒のうちの一粒が、いつか自分をさらに高みへ押し上げるかもしれない。
その可能性だけは、どうしても捨てきれなかったのである。