SF仙女武侠伝 無自覚TSサイボーグ、江湖武林を逝く! 作:モリーマ
長風原に布陣する朔軍の天幕には、昼だというのに薄暗い陰が落ちている。外では兵士たちの掛け声が響き、時折、馬の嘶きも聞こえてきたが、石猛はそれらに耳を貸そうともしなかった。
容器には三粒の仙丹が収められている。昨夜、
「……ちっ」
石猛が首筋へ手を伸ばすと、掻き傷が鋭く痛んだ。
酒から生まれた大蛇に首を締め上げられた恐怖は、まだ消えていない。盤山功で硬めた身体も、岩を砕く怪力も、あの蛇にはまるで通じなかった。
青嶺派の女武仙に傷を負わされ、得体の知れない仙人には首を絞められる。腹立たしいことばかりだったが、それ以上に石猛の機嫌を損ねているものが、目の前の仙丹だった。
仙丹とは、金銀をいくら積もうが容易には手に入らぬ秘宝である。名門の高弟であっても授かれるとは限らず、服用には長年の内功修練が必要とされていた。
石猛もまた、そのような仙丹を得て武仙となった男である。選ばれた者だけが手にする力だという自負があった。
それなのに、玉瀾が寄越した三粒は違うという。
人間の身体に馴染みやすく改良され、ある程度の内功があれば、安全に武仙へ至れるようになっているらしい。
そんなものを三粒も渡しておいて、適当な武人へ与えろというのだ。
「ふざけやがって……」
石猛は卓へ拳を叩きつけかけたが、容器を壊しかねないと気づいて思いとどまった。その自分の慎重さにも腹が立つ。
しかし、仙丹を粗末に扱えるはずがなかった。
玉瀾は、二粒目を胸の膻中へ定着させれば、武仙を超える中尸地仙になれると教えていた。
数百年もの寿命を持ち、酒や水を蛇に変えるような仙術まで操る存在。もし自分もその力を得られたなら、あの二人に頭を下げる必要もなくなるかもしれない。
石猛は容器を開き、一粒へ指を近づけた。
『二粒目に身体が耐えられず、憤死してしまっても構わないというなら、ね?』
玉瀾の声が蘇る。
「……くそっ!」
石猛は慌てて手を引っ込めた。
一粒目なら安全でも、二粒目が膻中へ正しく定着できるとは限らない。失敗すれば命を落とすという。そんな真似は御免だったが、だからといって、さらに上位の力を諦めきれるものでもない。
しばらく容器を眺めていた石猛は、やがて不機嫌そうに口元を歪めた。
「……まあいい。まずは、あいつらを武仙にして働かせてやるか」
どうせ玉瀾の命令に従わねばならないのなら、役に立つ者を選ぶまでである。
「おい! 誰かいねえのか!」
呼びつけた兵士へ、石猛は怒鳴った。
「
馮赤峰は、石猛と同じ鎮岳派の武人である。
三十一歳ながら内功と刀法に優れ、朔軍では先鋒部隊を率いていた。石猛からすれば、兵の損耗だの陣形だのと細かなことに拘る小賢しい男だったが、その力量は認めていた。
一方の柳紅燕は、青嶺派を破門された二十九歳の女剣士である。
細身の長剣と鋭い軽功を使いこなし、並の武人では相手にならない。ただし、敵を斬ることそのものに喜びを見出す、少々厄介な性根の持ち主だった。
もっとも、石猛にとってはどうでもよい。強ければ、それで十分だった。
ほどなく二人が天幕へ入ってきた。
「お呼びと伺いました。何か急ぎのご用でしょうか」
肩幅の広い赤峰は、礼を取りながら石猛の左腕へ視線を向けたが、何も言わなかった。
その後ろでは、紅燕が薄く笑っている。
「将軍直々のお呼びとは珍しいですね。何か面白い獲物でも?」
「てめえは少し黙ってろ」
「あら、これは失礼」
紅燕は肩をすくめたものの、面白がるような笑みを浮かべたままだった。
石猛は二人を見比べ、卓上の容器を引き寄せた。
「……てめえら、運がいいぜ。俺が武仙の力をくれてやるってんだ」
赤峰が眉をひそめ、紅燕は冗談でも聞いたように笑った。しかし、石猛が蓋を開くと、二人の表情が変わった。
「……仙丹、ですか?」
「ほう。分かるじゃねえか」
赤峰は息を呑んだ。
鎮岳派の高弟でさえ、仙丹を自由に得られるわけではない。それほどの秘宝が三粒も存在し、しかも自分たちに授けられるというのか。
「将軍。これは、どちらから……」
「くだらねえ詮索をするな。俺が手に入れた。それだけ知ってりゃ十分だ」
赤峰はなお困惑していたが、石猛の顔を見て、それ以上の追及を控えた。
「しかし、仙丹の服用には危険が伴うと聞いております。修練の足りぬ者が飲めば、命を落とすこともあると」
「ふん。こいつは普通の仙丹とは違うんだ」
「違う……?」
「人の身体に馴染みやすいよう、特別に仕上げてある。てめえら程度の内功がありゃ、危なげなく武仙になれるって代物だ」
赤峰は眉間に皺を寄せた。
そんな都合のよい仙丹が本当に存在するのだろうか。しかし、実際に武仙となった石猛がそう断言する以上、容易に否定もできない。
「……それほどの秘宝を、なぜ私たちに?」
「これから瑞国をぶっ潰すのに、武仙が俺一人じゃ面倒だろうが。てめえらにも少しは働いてもらうんだよ」
赤峰は慎重に頷いた。
「ありがたいお話です。ただ、内力が急に増せば、それを使いこなすにも修練が必要でしょう」
「相変わらず細けえことを言いやがる。武仙の力がありゃ、雑兵どもなんざまとめて吹っ飛ばせるんだよ」
赤峰は反論しなかった。
内力の強大さと武理の巧拙は、別の問題である。鎮岳派で学んできたその教えを、石猛が理解するとは思えなかった。
そんな二人のやり取りを見て、紅燕が笑った。
「赤峰殿は慎重なのですね。私は、この仙丹を飲めばどれほど強くなれるのか、それが楽しみです」
彼女は長剣の柄へ指を添え、愉しげに続けた。
「青嶺飛雪の剣も、今度こそ斬り伏せられるかしら」
趙雪衡の名を聞いた途端、石猛の左腕がじくりと痛んだ。
「……てめえも、あの女に恨みがあんのか」
「ええ。昔から一度、決着をつけたいと思っていたんです」
紅燕は微笑んでいたが、仙丹へはまだ手を伸ばしていなかった。
「何だ、怖いのか?」
「死んでしまっては、まだ斬りたい相手を斬れませんから」
赤峰が不快そうに目を細める。石猛は二人の顔を見比べて鼻を鳴らすと、容器から二粒を取り出して布へ載せた。
残る一粒は容器へ収め、蓋を閉じる。
――こいつは俺のものだ。
石猛は容器を手元へ引き寄せると、二粒の仙丹を二人へ差し出した。
「こいつは、どんなに金を積んでも手に入らねえ代物だ。俺が特別に選んでやったんだぜ。ありがたく思いやがれ!」
赤峰は目の前の丸薬を見つめた。
鎮岳派で内功を修め、幾度も実戦を経験してきた。仙丹を授かるには、まだ足りぬものがあると考えていたが、これほどの機会が再び訪れる保証はない。
「将軍。服用に際し、先達による内気の補助は必要ないのでしょうか」
「いらねえよ。何度も言わせるな」
石猛は苛立たしげに答え、二粒の仙丹を顎で示した。
赤峰は覚悟を決め、一粒を手に取った。隣では紅燕も、もう一粒を摘み上げている。
「では、いただきます」
二人は仙丹を口へ運んだ。
赤峰の舌に触れた丸薬は滑らかで、ほとんど苦味もなかった。思いのほか容易に喉を通り、腹の底へ落ちていく。
紅燕も飲み下したのを確かめると、石猛は腕を組んだ。
「さあ、丹田へ気を収めろ。せいぜい俺の手を煩わせるんじゃねえぞ」
赤峰は返事をしようとした。
しかし、その時、下腹の奥に微かな熱が生まれた。
最初は酒を飲んだ後のような温もりだった。それが臍の下へ集まり、丹田の深いところに留まる。
赤峰はゆっくりと呼吸を整えた。
内気を丹田へ収めることなら、これまで幾万回となく繰り返してきた。しかし、今感じている熱は、自分の意思で練り上げた内気とは少し違う。
息を浅くしても、温もりは消えなかった。むしろ、ごく微かな律動を刻みながら、腹の奥で静かに存在を主張しているようだった。
――これが仙丹の力か。
赤峰は意識を丹田へ集中させた。
すると、それに応じるように熱が強まった。
腹の奥が内側から押し広げられ、そこから細い温もりが周囲へ伸びていく。やがて熱は腰から背を昇り、肩を通って両腕へ流れ込んだ。さらに胸や両脚へ広がり、身体中の血脈が一斉に脈打ち始める。
赤峰は眉を寄せた。
これまで意識することもなかった細かな経脈の存在が、はっきりと感じられる。だが、丹田から湧き出す熱は勢いを増し、馴染んだ内気の流れを押し分け始めていた。
肩へ向かう気と胸へ戻ろうとする気がぶつかり合い、脇腹に鈍い痛みが走る。心臓の鼓動まで速まり、その脈動に合わせて、四肢の奥から熱が押し寄せてきた。
――まずい。このままでは気脈が乱れる。
赤峰は咄嗟に呼吸を深めた。
鎮岳派の内功は、重厚な剛を養いながら、その内に柔を収める。押し寄せる力へ力で対抗すれば、かえって自らの気脈を傷つけかねない。
――焦るな。流れに逆らうな。
赤峰は両足を踏みしめ、重心を落とした。
背を昇る内気を受け止め、肩から腕、胸を巡らせて下腹へ戻す。一度に収めきれぬ気は無理に押し込まず、再び経脈へ流した。
全身を巡らせ、丹田へ収める。
幾度も繰り返してきた内功の修練と同じだった。ただし、今は内気の量が違う。呼吸を重ねるたびに新たな熱が湧き、収めたはずの力が再び腕や背へ溢れ出ようとする。
額から汗が流れ、衣の内側を濡らした。
赤峰は、増え続ける熱を一息に抑えようとはしなかった。呼吸を保ち、経脈の流れが乱れたところだけを整え、戻ってくる気を少しずつ丹田へ導く。
やがて、肩や脇腹の圧迫感が和らぎ、荒れ狂っていた熱が経脈に沿う流れへ変わっていった。
しかし、丹田の奥に留まる小さな熱だけは消えなかった。
むしろ、全身を巡って戻ってきた内気を受け入れるたび、その存在が確かなものになっていく。
――内気が丹田へ集まっているのか。それとも、丹田の奥から引き寄せられているのか。
赤峰には、その区別がつかなかった。
それでも、やるべきことは変わらない。丹田を中心として気を巡らせ、乱れを生じさせぬよう、呼吸に合わせて収めていくのである。
繰り返すうちに、丹田の奥の律動が、赤峰自身の呼吸と重なり始めた。
息を吸えば熱が広がり、吐けば下腹へ戻っていく。初めは呼吸と関わりなく感じられた微かな律動も、次第に内気の巡りと歩調を合わせるようになった。
そして、幾度目かの呼吸を終えた時だった。
丹田の奥で、小さな熱が収縮した。
身体の内側へ細く伸びていた温もりが、ふっと一つに結ばれる。
何かが、丹田の奥深くへ根を下ろしたようだった。
次の瞬間、全身の気脈が一斉に開いた。
背を昇る内気は以前とは比較にならぬほど太く、両腕へ流れる力も、足裏へ通じる勁も、まるで別物である。赤峰は思わず拳を握ったが、ただ指を曲げただけで、腕の奥まで驚くほどの力が満ちてくるのを感じた。
――何という内力だ。
丹田には深く静かな充実感があり、その奥底では、ごく微かな律動が続いていた。呼吸に合わせれば静かになり、内気を巡らせれば、またわずかに応じる。
まるで丹田そのものが、以前より深く息づき始めたかのようだった。
――これが、武仙の丹田というものか。
赤峰は慎重に息を吐いた。
天幕の外の足音も、布を揺らす風の動きも、以前より明瞭に感じられる。身体の隅々へ内気が巡り、長年使い慣れた手足さえ、新しい力を宿した別物のように思えた。
丹田への定着は果たせた。
赤峰は、そのことを確信した。
「……将軍。仙丹は丹田へ収まりました」
「へっ。言ったとおりだろうが」
赤峰は立ち上がろうとして、思いのほか強く身体が持ち上がり、慌てて足を踏み直した。
「ははっ! 力が増えたくらいで足元までおぼつかなくなりやがったか!」
石猛の嘲りを、赤峰は受け流した。
以前と同じように内力を送っただけで、想定を超える力が生じてしまうのだ。これを自在に御するには、まだ修練が必要だった。
隣では紅燕が、ゆっくりと目を開いていた。
彼女は指を曲げ伸ばしし、手首を返してから、軽く重心を移した。その身体は滑るように動き、足運びにも以前とは異なる軽やかさがある。
「……面白い」
紅燕は薄く笑った。
「丹田へ気を収めた途端、身体中を力が巡り始めたわ。剣を抜かなくても、こんなにはっきり感じられるなんて」
赤峰は、その言葉を聞いて彼女も定着に成功したのだと悟った。
紅燕は早くも長剣の柄へ手を伸ばしていたが、石猛が怒鳴ると、さすがに手を止めた。
「おい! 試し斬りなら外でやりやがれ! 俺の天幕をぶっ壊す気か!」
「あら、残念」
紅燕は楽しそうに笑い、ようやく剣から手を離した。
赤峰は、その姿を眺めながら自分の丹田へ意識を戻した。
そこには、確かに新しい力がある。
長年求めてきた武の高みへ至るための力だった。
しかし、丹田の奥の微かな律動は、今も残っている。
呼吸を整えるほどに、その律動は内気の巡りへ馴染んでいく。いつしか、どこまでが以前から自分の中にあった気で、どこからが仙丹によってもたらされた力なのか、区別することさえ難しくなっていた。
赤峰はゆっくりと拳を握った。
これからは、この力とともに武を修めていくのだ。
武仙となった喜びと、まだ知らぬ力を身体の内へ迎え入れたことへの畏れが、静かに入り交じっていた。
* * *
同じ頃、瑞国の都では、長風原の防衛について軍議が開かれていた。
瑞公府の一室には、国主・
卓上には長風原周辺の地図が広げられ、前進陣地と第二防衛線の位置が記されていた。兵力や物資に関する書状も積まれている。
賓客として招かれた
――ううむ。まさか、軍議にまで招かれるとはのう。
先ほどまで中庭で土の兵士を戦わせていたというのに、今度は本物の軍勢について話し合わねばならない。しかも、相手は瑞国の国主と将軍たちである。
実に名誉なことだった。
――ここは一つ、仙女らしい見識を示してやらねばならぬな。
もっとも、軍略について特別な知識があるわけではない。物語の名将ならばいくらでも知っているが、実際の戦場では、兵が腹を空かせれば戦えず、負傷者は運ばねばならず、命令一つで幾百もの命が失われる。
雑兵として戦場に立った経験があるからこそ、その違いは理解していた。
景承は背筋を伸ばし、静かに茶盃を手に取った。
「景承殿。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
瑾寧が穏やかに声をかけた。
「何を申される。瑞国のためとあらば、吾も力を惜しむつもりはありませぬ」
景承が悠然と答えると、瑾寧は頷いて地図へ目を向けた。
「では、現在の戦況を確認しましょう。雪衡」
「はい」
雪衡が席を立ち、地図の一角を指した。
「先の戦闘で、我が軍は長風原の前進陣地を放棄し、第二防衛線へ後退しました。現在は兵の再編、負傷者の後送、陣地の補修を進めています」
彼女は旧陣地から第二防衛線へ指を滑らせた。
「撤退命令は各部隊へ届きましたが、損耗は小さくありません。特に前方を支えていた部隊では、指揮官と熟練兵が不足しています」
軍務官が書状を開いた。
「負傷兵の一部は復帰できる見込みですが、今すぐには戻せません。城内から補充できる兵にも限りがございます」
瑾寧は地図へ視線を落とした。
安陽の守備兵をすべて前線へ送り出せば、都そのものが危うくなる。しかし、長風原を失えば、その都へ敵軍が迫ることになる。
「梁国からの援軍については、正式な派兵決定が届いています。ただし、到着日はまだ確定していません」
室内の空気が重くなった。
援軍は大きな希望だったが、到着していない兵を今の戦力として数えることはできない。
「援軍が来るまで、我らだけで持ちこたえる必要があります」
瑾寧の言葉に、雪衡が頷いた。
「第二防衛線の陣地を利用して迎え撃つべきと考えます。兵力に勝る朔軍へ野戦を挑めば、包囲される危険が高まります」
「正面を守れても、側面から回り込まれては危ういのでは?」
軍務官が問いかける。
「そのとおりです。敵の突破や迂回に備え、予備兵力を残さねばなりません。特に主要街道を奪われれば、補給が途絶えます」
「食糧と矢は当座の備えがございます。ただ、戦闘が長引けば不足するでしょう。薬材も十分ではありません」
景承は説明を聞きながら、地図へ目を向けた。
なるほど、戦とは難しいものだ。
敵を倒すことだけ考えていても勝てない。兵を配置し、食糧を運び、負傷者を後送し、敵の迂回まで防がねばならない。
かつて雑兵だった頃、景承にはそのような事情など分からなかった。命令に従って進み、退けと言われれば退く。自分の見えないところで、なぜそのような命令が下されるのか、考える余裕すらなかったのである。
しかし今は、地図の上で一本の線を引き直すことが、実際には多くの兵士の命に関わるのだと理解できた。
景承は茶盃を置き、改めて軍議へ耳を傾けた。
やがて、話題は朔軍の武仙へ移った。
「もっとも警戒すべきは、やはり熊石猛です」
雪衡の声が鋭くなる。
「あの男の内力と膂力は尋常ではありません。盤山功によって身体を硬められれば、普通の武器では傷を負わせることさえ困難です」
「将軍は、左腕に深手を負わせたと聞いておりますが」
「はい。しかし、討ち取るには至りませんでした」
雪衡は地図から顔を上げた。
「あの男が再び前線へ現れれば、我が軍は大きな損害を受けるでしょう」
瑾寧は静かに尋ねた。
「雪衡。再び相対することになれば、勝てますか」
雪衡は少しだけ間を置いた。
「必ず討ち取れるとは申し上げられません。ですが、彼を自由に動かすわけには参りません。再び現れたなら、私が迎え撃ちます」
その言葉には、迷いがなかった。
瑾寧は雪衡の顔を見つめていたが、すぐには答えなかった。将軍の覚悟は頼もしい。しかし、その覚悟に頼るほかない状況を、国主として喜べるはずもなかった。
「あなた一人に負担を集中させることは避けたいと思っています」
「お気遣いはありがたく存じます。しかし、普通の兵では、あの男に立ち向かうことさえ困難です」
瑾寧は黙って頷いた。
雪衡を失えば瑞国にとって大きな痛手となる。だが、石猛を放置すれば、それ以上の兵が犠牲になるかもしれない。
景承は二人のやり取りを聞きながら、かつて雑兵として戦場を逃げ惑った頃を思い出した。
あの時、自分には何の力もなかった。
しかし、今は違う。
太和拳の諸功を身につけ、梁国では長河派の
無論、親善試合と本物の戦場を同じには考えられない。熊石猛の武功も、実際に見なければ分からぬ。
それでも、以前のように何もできず、ただ逃げ惑うだけではないはずだった。
「瑞公殿。少し、よろしいかのう」
景承が声をかけると、瑾寧は顔を向けた。
「もちろんです。景承殿」
「吾も瑞国のために力を貸すと約した身じゃ。朔軍が攻め寄せるのであれば、吾も戦場へ赴こうと思う」
室内の視線が景承へ集まった。景承はできる限り泰然とした態度を保ち、言葉を続ける。
「熊石猛とやらの相手ができるかは、実際に会うてみねば分からぬ。されど、瑞国の兵たちが苦しんでおるのを、ただ眺めているつもりはないのじゃ」
瑾寧は深く頭を下げた。
「そのお言葉だけでも、心強く思います」
雪衡も景承へ向き直った。
「景承殿のお力をお借りできるのであれば、我が軍にとって大きな助けとなります」
「うむ。できる限りのことはするつもりじゃ」
景承は静かに頷き、仙女らしい余裕を見せた。
――無茶なことまではやらぬぞ。あくまでもできる限りのことじゃ。そもそも熊石猛とやらが、どれほど恐ろしい男なのか、吾はまだ知らぬのじゃからな。
そんな胸中は、もちろん顔へ出さなかった。
瑾寧は雪衡へ目を向ける。
「景承殿のお力をいただくとしても、配置は慎重に決めましょう」
「はい。武仙二人を同じ場所へ集中させるべきか、別々の役割を担うべきか、敵の動きを見て判断する必要がございます」
瑾寧は頷き、景承へ向き直った。
「出陣については、朔軍の動きを確認したうえで、改めてご相談させてください」
「承知した」
景承は静かに答えた。
今すぐ出陣するわけではないと聞き、少しだけ安堵したことは誰にも悟らせなかった。
軍議はその後も続いた。
雪衡は第二防衛線の各陣地を地図上で示し、軍務官たちは兵力と物資の状況を報告した。瑾寧はそれぞれの意見を聞き、正面の守備を維持しながら側面と補給路にも兵を残す方針を確認していく。
景承は意見を求められることもあったが、分からぬことには無理に口を挟まなかった。武功と軍略は別物であり、自分が迂闊な発言をすれば、かえって実際の指揮官たちを困らせると理解していたからである。
それでも、梁国の援軍が到着するまで長風原を守り抜くことが、何より重要だという点は理解できた。
やがて、当面の方針がまとまり始めた頃だった。
廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
「失礼いたします! 長風原方面より、急報にございます!」
瑾寧が顔を上げ、伝令を通すよう命じた。
部屋へ入ってきた男の衣には土埃がつき、息も整っていなかった。差し出された書状を軍務官が受け取り、瑾寧へ渡すと、彼女はすぐに封を解いた。
書面へ目を走らせていた瑾寧の指先が、僅かに止まった。
「……雪衡。朔軍の前線で、部隊の集結が確認されたそうです」
雪衡の表情が引き締まる。
「規模は?」
「まだ正確には分かっていません。ただ、複数の部隊が前方へ移動しており、これまでの偵察や小規模な攻撃とは明らかに異なる動きだと」
雪衡は書状を受け取り、内容を確かめた。それから地図上の朔軍陣地へ目を落とし、敵の進路になり得る街道と第二防衛線を見比べた。
「……敵は、兵をまとめ始めています」
「大攻勢でしょうか」
軍務官の問いに、雪衡は慎重に答えた。
「まだ断定できません。しかし、我が軍が第二防衛線の再編を終える前に攻めるつもりならば、今が好機でしょう」
瑾寧は静かに頷いた。
前進陣地を失い、負傷者の後送と兵の再配置に追われる瑞軍にとって、敵の大攻勢は最も恐れるべき事態だった。
景承は卓上の地図を見つめた。
長風原。
かつて自分が雑兵として立ち、逃げ惑った戦場。その場所で、再び大きな戦いが始まろうとしているのかもしれない。
胸の奥が冷たくなった。
今の自分は、あの頃とは違う。太和拳があり、叡艾もいる。それでも、本物の戦場へ戻ることを考えれば、恐ろしさが消えるわけではなかった。
景承は膝の上で両手を重ね、静かに息を整えた。
仙女たる者、ここで取り乱すわけにはいかぬ。
瑾寧はすでに決断していた。
「各部隊へ警戒を強めるよう伝えてください。第二防衛線の補修を急がせ、予備兵の配置も再確認を」
「はっ!」
軍務官は指示を書き留め、急ぎの伝達に取りかかった。
瑾寧は雪衡へ向き直った。
「前線から届く報告の確認と、迎撃態勢の最終調整をお願いします」
「承知いたしました」
雪衡は一礼すると、卓上の地図へ視線を戻した。先ほどまで議論していた配置が、まもなく現実の戦場で試されるかもしれないのである。
瑾寧は最後に景承へ向き直った。
「景承殿。お力をお借りする時が、近いかもしれません」
景承は静かに頷いた。
「うむ。その時は、遠慮なく申し付けられよ」
口にした言葉は、我ながら実に仙女らしく、頼もしいものだった。
だが、胸の奥では、かつて戦場で味わった恐怖と、今の自分ならば人々を助けられるはずだという期待が、静かにせめぎ合っていた。
窓の外では陽が傾き、瑞公府の庭に長い影が伸び始めている。
その向こう、長風原では、朔軍の大軍が新たな動きを見せていた。まだ戦端が開かれたわけではないが、前線へ集まる兵の数が増えれば、それだけ瑞軍に残された準備の時間は短くなる。
景承は地図に記された第二防衛線を見つめたまま、先ほど交わした約束を思い返していた。
戦雲は、確かに濃くなりつつあった。
そして景承もまた、その戦雲の下へ赴く日が、もはや遠くないことを感じていたのである。