SF仙女武侠伝 無自覚TSサイボーグ、江湖武林を逝く! 作:モリーマ
半ばから粉砕され、地面へ横たわった大木を前にして、李景承はしばらく動かなかった。
最初に殴ったときにはびくともしなかった巨木である。それが今は、拳を触れさせただけにしか思えない一撃によって幹の内部から砕かれ、枝葉を周囲へ散らしながら無残に倒れている。
景承は右手を開き、もう一度握った。
最初に素手で殴ったせいで残っている鈍い痛みを除けば、異常はない。
「……ふむ」
もう一度、大木を見る。
「ふむふむ」
自然と頬が緩んだ。
太和拳そのものは珍しい武術ではない。武仙でもない市井の老人が養生のために型を打つことすらあるし、景承自身も若い頃、物語の主人公になった気分で覚えたことがある。
だが、そのありふれた太和拳で、この大木を一撃で砕いた。
長年修行したわけでもない。ほんの少し前まで、自分は内力すら持たない雑兵だったのだ。
「……
《はい》
「先ほど、軽身功と硬気功も作れると申したな」
《肯定》
「ほかには?」
ほんの少し前まで慎重さを口にしていたことなど、景承の中ではすでに遠い昔の話になりつつあった。
《あなたの記憶情報と現在の身体機能を照合した結果、複数の
「複数」
景承の目が輝いた。
《現在、太和拳を基礎とした候補として、
「……全部できるのか?」
《理論上は可能です》
景承は黙った。
一日にして五つの武仙功を得る。
普通の武人なら、どれほどの年月を費やすのだろう。門派へ入り、師へ頭を下げ、冬も夏も型を繰り返し、内功を積み、ようやく一つの絶技を身につける。それでも生涯届かぬ者すらいる。
その過程を思い浮かべたところで、景承の口元がゆっくり持ち上がった。
「ならば、一つずつ後日に回す意味がないではないか」
《身体状態に問題はありません》
「そうであろう?」
誰に同意を求めるでもなく、景承は大きく頷いた。
「今日すべて作ってしまおう」
《要求を受理しました》
「うむ」
返事をした景承の胸には、もはや先ほど木を殴って大声で痛がっていた面影などほとんど残っていなかった。
仙丹を得て仙女となり、天機を知る使令を宿し、その使令へ自ら名を与え、今や独自の武仙功まで編み出そうとしている。
こう並べてみれば、どう考えても自分は物語の主人公側である。
「やはり、天命というものはあるのじゃな……」
《因果関係は確認できません》
「そこは黙っておれ」
*
最初に景承が選んだのは、
「仙女といえば、やはりこれであろう」
森を見上げる。
高い枝の間から陽光が差し込み、風に揺れる葉が細かな光を地面へ落としている。
物語に登場する仙女や女侠なら、地を蹴れば羽のように舞い上がり、細枝の上へ音もなく降り立つものだ。水面を走り、屋根から屋根へ渡り、ときには相手の剣先へすら立つ。
景承が幼い頃から何度となく憧れてきた光景だった。
「まずは軽身功じゃ」
《
その声と同時に、景承には分からないところで叡艾の処理が始まる。
《太和拳における歩法・重心移動情報を抽出》
《
《
《局所重力補正モデルを形成》
景承には、難しいことは分からない。
ただ、腹の底を中心に満ちていた内力が小周天を巡り、その一部が両脚へ染み込むように広がっていく感覚だけははっきりと分かった。
同時に、身体が妙に軽くなる。
「お……」
試しに踵を浮かせると、それだけで地面から身体を引き離す力が以前よりはるかに小さく感じられた。
「これは……よいな」
《初回動作を実行してください》
「うむ」
景承は近くの木へ目を向けた。
地上から一丈半ほどの高さに、ちょうど足を置けそうな太い枝が伸びている。
「あそこへ乗ればよいのじゃな」
《対象を確認》
「では――」
膝を緩める。
軽く飛ぶ。
そのつもりだった。
「――お?」
目的にしていた枝が、一瞬で足元へ消えた。
「……おお?」
さらに上の枝まで通り過ぎていく。
幹がものすごい勢いで下へ流れ、枝葉が顔の横を次々に抜けていった。
「待て」
まだ上がる。
「待て待て待て」
梢が迫る。
そして、それすら突き抜けた。
「――ひ、ひぇぇぇぇっ!?」
一気に視界が開けた。
足元にあるのは地面ではない。
広大な森の梢だった。
「高い! 高い高い高い! 何じゃこれは!? 降ろせ! 叡艾、吾を降ろせぇっ!」
《跳躍出力は使用者の要求強度を参照しました》
「そんな説明はいらぬ! 地面! 地面へ戻せ!」
《要求時、強い上昇意図を検出しています》
「仙女らしくとは思ったが、ここまで飛べとは思っておらん!」
上昇が止まった。
ほんの一瞬だけ、身体が空中へ静止する。
景承はそこで、見てはいけないと思いながら足元を見てしまった。
「…………」
遥か下に森がある。
先ほどまで見上げていた木々の梢が、今では緑色の地面のように広がっていた。
景承の顔から血の気が引いた。
「落ちる」
身体が下降へ転じた。
「落ちる落ちる落ちる! 叡艾ぃぃぃっ!」
《落下制御を実行します》
「今すぐやれぇっ!」
《
次の瞬間、胃が浮くような感覚が薄れ、加速しかけていた身体が急速に減速していく。
地面へ叩きつけられるはずだった景承は、風へ乗った木の葉のように姿勢を整えながら、ゆっくりと森の中へ降り始めた。
「……お?」
恐る恐る足元を見る。
梢が近づき、枝が近づき、やがて見慣れた地面が戻ってくる。
最後にはほとんど音も立てず、景承の両足が柔らかな土を踏んだ。
着地した瞬間、膝から力が抜けかけた。
「ふ、ふう……」
慌てて踏みとどまり、二、三歩その場で足踏みする。硬い大地が自分の足元にあることを確かめてから、ようやく景承は長く息を吐いた。
それから周囲を見回す。
誰もいない。
倒れた大木と森しかない。
それを確認した途端、背筋を伸ばした。
「……まあ、少々高かっただけじゃな」
《心拍数の大幅な上昇を確認しています》
「言うな」
《呼吸数も――》
「それ以上言うでない!」
景承は咳払いして気を取り直した。
「初回としては悪くない」
《上昇高度は目標値を大幅に超過していました》
「初回としては悪くない」
《再調整を推奨します》
「そう言っておる」
言っていない。
だが景承はそのまま腕を組み、今度は少し離れた岩へ目を向けた。
「では、あそこへ」
先ほどの恐怖が蘇って一瞬だけ膝が鈍ったものの、今度は望む高さと距離をはっきり意識して地を蹴る。
身体は岩の上まで滑らかに運ばれ、着地してもほとんど衝撃を感じなかった。
「ほう」
続いて木の枝へ移り、そこからさらに別の枝へ飛ぶ。
今度は自分が「移動する」と考えるだけで、叡艾が重心と内力の出力を調整し、景承の身体が意図した場所へ吸い寄せられるように森を渡っていった。
着地のたびに長い黒髪が遅れて流れ、動きにはほとんど無駄がない。
先ほど空中で悲鳴を上げていたときとは、まるで別人だった。
「……これは、かなり仙女らしいのではないか?」
《姿勢安定性に問題はありません》
「そうではなくてな」
枝からふわりと降り、今度はわざと両手を背中へ回して歩いてみる。
叡艾の補正が働くせいか、足取りは自分で見ても驚くほど滑らかだった。
「吾には元々、こういう才があったのやもしれぬ」
《否定》
「即答するでない」
*
次に試すのは、
景承はまだ少し赤みの残る右拳を見つめた。
「二度と先ほどのような醜態は晒さぬ」
《右手拳部の損傷は軽微です》
「そういう問題ではない。仙女が木を殴って泣き叫ぶなど、あってはならぬのじゃ」
《周辺に観測者はいませんでした》
「吾が知っておる」
《理解しました》
「本当に理解しておるか?」
疑わしい。
ともかく景承としては、二度目は避けたい。
《
《
《体内ナノマシン集積を開始》
《皮膚・皮下組織・骨格の構造強度を補正》
右腕の内側を内力が巡ったあと、拳の周囲へ何か薄い膜でも重ねられたような感覚が生じた。
見た目は何も変わらない。皮膚が金属になったわけでも光り輝いたわけでもなく、試しに反対の指で押してみれば、いつも通りの柔らかな手である。
「これで硬くなっておるのか?」
《肯定》
「見た目は変わらぬな」
《外観変更は不要です》
「それはよい」
岩のような拳になるよりは、仙女の白い手のままの方がいい。
景承は満足して試験相手を探そうとした。
《試験対象として岩石を推奨します》
「岩?」
叡艾が示した先へ目を向ける。
人の腰ほどまである、灰色の岩が転がっていた。
「……」
岩を見る。
まだ少々じんじんする右拳を見る。
もう一度岩を見る。
最初に殴ったのは木だった。
あれですら、あれほど痛かった。
まして岩となれば――という考えが脳裏をよぎる。
「……いや」
《はい》
「木にしよう」
《理由を確認します》
「比較じゃ」
景承は即座に答えた。
もっともらしく見えるよう、少し胸まで張る。
「先ほど吾はこの大木を殴って拳を痛めた。ならば同じ対象へ拳を打ち込み、結果を比較する方が、硬功の効き目を正確に確かめられるであろう」
《合理性を確認》
「そうであろう」
景承は静かに岩から視線を逸らした。
幸い叡艾は、それ以上何も言わなかった。
倒れた大木へ歩み寄る。
太和発勁で幹の中央部は大きく損壊しているものの、地面へ横たわった太い部分には、まだ十分に殴れる場所が残っていた。
「少なくとも同じ木ならば、先ほどよりは比較しやすい」
《肯定》
右拳へ硬功を集中する。
景承は幹の前へ立ち、拳を近づけた。
そして。
こつん。
触れるような力で殴った。
「……」
すぐに拳を引き、恐る恐る表と裏を確かめる。
「痛くない」
《その出力では防御性能を検証できません》
「いや、まずは段階というものがあるであろう」
《接触時の衝撃が検証基準を下回っています》
「慎重さは仙女の美徳じゃ」
《先ほど大木へ全力で拳を打ち込んだ行動とは整合しません》
「それは忘れよ」
《記録は保持されています》
「記録から消せとは言っておらぬ!」
少しむっとしながら、今度は先ほどより強めに拳を打ち込む。
こつ、と乾いた音がした。
痛くない。
《衝撃強度を上昇してください》
「分かっておる」
さらに力を込める。
ごつん。
先ほど素手で殴ったときと同じくらいの重い音がしたため、景承は反射的に肩をすくめ、すぐに拳を引いた。
だが痛みは来ない。
赤くもなっていない。
「……おお」
今度は明らかに表情が変わった。
もう一度。
今度はさらに強く打ち込む。
幹の表面が僅かにへこみ、樹皮がぱらぱらと落ちたが、それでも拳には何の痛みもない。
「おお……!」
《
景承は拳を何度も開閉した。
さっきまで残っていた恐怖心が薄れていくにつれ、代わりに妙な自信がむくむくと膨らんでくる。
「なるほど」
少し離れた場所へ視線を向けた。
「叡艾」
《はい》
「先ほどの岩はどれじゃ」
《右前方、約十二歩》
「あれか」
つい先ほどまで避けていた岩へ、今度は堂々と歩いていく。
「やはり最終的には、硬いもので確かめねばの」
《当初から岩石を推奨しています》
「順序というものがある」
岩の前へ立ち、太和発勁は使わず、太和硬功だけを右拳へ集中させる。
先ほどまでは見るだけで拳が疼くような気がしていた岩だったが、木を何度殴っても平気だったことで、今はむしろ試してみたくなっていた。
「ふっ!」
腰を入れて殴る。
鈍い音が響いた。
景承は一瞬だけ身体を強張らせたが、右拳には痛みが来ない。
恐る恐る引いて確かめれば傷一つなく、それどころか、殴った岩の表面に小さな欠けと細い亀裂が走っていた。
「……吾の拳の方が硬い」
《対象表層部の破損を確認》
「見れば分かる」
今度こそ、景承の顔いっぱいに笑みが広がった。
「これなら剣を素手で受けてもよいのではないか?」
《条件次第では可能です》
「試したいのう!」
《試験用の刀剣がありません》
「……そうであったな」
そこだけが少し残念だった。
*
次に景承が目をつけたのは、全身そのものを強める
「では次じゃ」
もはや景承は止まらなかった。
「軽功で速く動ける。硬功で身体を守れる。発勁で大木も砕ける。ならば、身体そのものを強くすることもできるのであろう?」
《可能です》
「やはりか!」
叡艾が答えるなり、景承は嬉しそうに声を上げた。
欲しいと思ったものが次々と手に入る。
幼い頃に読んだ物語の中ですら、ここまで都合よくは進まなかったかもしれない。
《
《全身への
《筋出力補正》
《神経伝達速度補正》
《骨格・腱・関節保護を同期》
《全身運動制御モデルを形成》
内力が小周天を巡り、今度は拳や脚といった一部へ集中するのではなく、身体の隅々まで染み渡っていく。
軽功を使ったときの、重さそのものが抜けていくような感覚とは違った。
両脚は確かに地面へ体重を預けている。それなのに膝を曲げれば、いつでも大地を蹴り抜いて飛び出せそうな力が溜まり、腕を握れば、自分の筋肉とは思えないほど素直に力が集まってくる。
身体が軽いのではない。
同じ身体を動かすために使える力が、桁違いに増えている。
「これは……」
景承は近くに落ちていた石を拾った。
掌に収まるほどの大きさとはいえ、硬い岩片である。
さすがにこれを握り潰すのは無理であろうと思いながら、指へ少しずつ力を込める。
ぱき、と乾いた音がした。
「……」
慌てて手を開くと、石は中央から二つに割れていた。
「叡艾」
《はい》
「今、吾は石を握り潰したぞ」
《確認しています》
「吾、力まで強くなっておるぞ」
《
「ほう……」
今度は近くの太い枝を掴んでみる。
力を入れた途端、抵抗らしい抵抗を感じる前に枝が折れた。
「ほう……!」
ならば脚はどうか。
景承は森の中へ駆け出した。
軽功は使っていない。それでも雑兵だった頃とは比較にならない速度で木々の間を走り抜け、足を踏み込むたびに地面から返ってくる力まで以前とは違って感じられる。
視界へ木が迫れば身体が自然に横へ抜け、止まろうと思えば、叡艾の補正によって足運びと重心が即座に切り替わる。
何本もの木を縫うように走って元の場所へ戻ったときにも、息はほとんど乱れていなかった。
「これはよい!」
景承はすっかり上機嫌になっていた。
「これなら雑兵百人程度――」
《戦闘結果を保証する情報は不足しています》
「少しくらい夢を見せよ」
《要求内容を理解できません》
「やはり分からぬか」
だが、この程度の水差しではもう景承の機嫌は損なわれなかった。
*
三つの武功を立て続けにものにすると、景承はさらに欲を出した。
次に欲しくなったのは、離れた相手へ勁を届かせる
「叡艾」
《はい》
「武仙というものは、離れた相手へも勁を飛ばすであろう?」
《該当する記憶情報を確認しています》
「太和拳にも遠当ての理はある。掌風じゃな。達人なら、触れずとも人を吹き飛ばす」
景承は自分の掌を見つめた。
発勁で大木を砕いたとき、内力が拳へ集まる感覚はすでに知っている。
ならば、あれを拳の内へ留めず、離れた場所へ送り出せばよいのではないか。
「できるのであろう?」
《可能です》
「やはりか!」
もう驚くより先に喜んでいた。
「作れ」
《
《既存の
《接触点依存処理を解除》
《
《体外投射時の拡散補正を設定》
景承の中では、太和発勁と同じように腕へ内力を集める感覚が生じた。
ただし今度は拳へ閉じ込めるのではない。
掌へ集まった力の向きを定め、そのまま前方へ押し出す。
景承は周囲を見回し、少し離れた場所にある大きな岩を標的に選んだ。人の腰ほどまでの高さがあり、距離も十歩以上離れている。
「まずはあれでよかろう」
《対象を確認》
普通なら、いくら拳を振ろうが掌を突き出そうが届くはずのない距離である。
景承は右掌をゆっくり前へ向け、何となく仙女らしい気がしたので、左手は背中へ回してみた。
「……ふむ」
姿勢も悪くない。
「では」
岩へ向けて掌打を放つ。
《
《
《
掌から何かが抜けた。
目には見えない。
しかし景承には、自分の中にあった内力の一部が掌を離れ、一直線に飛び出していったことだけははっきりと感じ取れた。
その軌道に沿って、地面の枯れ葉が遅れて舞い上がる。
一拍後。
離れた岩の前で、空気がどん、と爆ぜた。
岩は砕けこそしなかったものの、地面を抉りながら半回転し、そのまま横へ転がった。
「……」
景承の掌は、まだ前へ向けられている。
発勁ならば拳を届かせなければならなかった。
だが今は、一歩も動いていない。
「……叡艾」
《はい》
「触れておらぬぞ」
《肯定》
「それなのに、あれが飛んだ」
《
景承はゆっくり自分の手を見た。
それから、十歩以上先で転がっている岩へ視線を戻す。
「仙人ではないか」
《あなたの定義する仙人との一致率は――》
「よい」
景承は満足げに掌を下ろした。
「仙女であることは、もう分かっておる」
《……》
叡艾は何も言わなかった。
少なくとも景承には、余計な訂正をしないことを少しずつ覚え始めたように思えた。
*
景承は指を折りながら、今日得た武功を一つずつ数えていった。
「太和発勁」
一つ。
「太和軽功」
二つ。
「太和硬功」
三つ。
「太和剛身功」
四つ。
「そして、太和飛打功」
五本の指をすべて握る。
その手を見つめているうちに、胸の奥からじわじわと得意げな気分が込み上げてきた。
発勁で大木を砕き、軽功で梢より高く舞い、硬功では岩を殴っても拳を痛めず、剛身功を使えば石さえ握り割れる。挙げ句、離れた岩まで掌一つで吹き飛ばした。
ほんの少し前までの自分からすれば、どれ一つとして夢物語でしかなかった力である。
景承はゆっくりと背筋を伸ばした。
折よく風が吹き、長い黒髪が肩の後ろへ流れる。
ここで何か一言あるべきだ、と景承は思った。
武林に新たな絶技を打ち立てた大宗師ならば、こういうとき、後世まで語り継がれる言葉を残すものである。
景承は片手を背へ回し、もう片方の手を胸元へ添えた。
「――吾が武功、一日にして成れり」
我ながら悪くない。
景承は少し顎を上げ、そのまましばし余韻へ浸ろうとした。
《訂正。最初の制御系構築から現在まで、一日は経過していません》
「……」
《また、既存武術である太和拳を基礎としており、すべてを新規に創始したわけではありません》
「叡艾」
《はい》
「今のは、そういう話ではない」
《事実関係を補足しました》
「格好をつけておるときに事実を並べるでない!」
せっかくの余韻を台無しにされ、景承は一度咳払いした。
だが、五つの武功が使えるようになったという事実まで否定されたわけではない。
「されど五功じゃぞ。発勁、飛打、軽功、硬功、剛身功。攻め、守り、遠近、すべて揃ったではないか」
《基本機能の初期制御系が構築された段階です。実戦データは不足しています》
「完成したと言わせよ」
《完成度を評価するための実戦データが不足しています》
「……おぬしは本当に風情がないのう」
それでも、五つ揃ったという事実は景承の中でまったく揺るがなかった。
腕を組み、倒れた大木や欠けた岩、遠くまで転がった別の岩を見渡す。
これだけの武功があれば、もはや一人の武人というより、一つの流派を名乗ってもよいのではないか。
「これ、一派を興せるのではないか?」
《現在、組織構成員は一名です》
「叡艾がおる」
《私は門弟ではありません》
「では二名ではないか」
《定義上、一名です》
「細かいのう」
景承は気にしなかった。
「名は……太和仙門などどうじゃ」
《名称候補として記録しますか》
「いや、待て。仙女たるもの、そう簡単に門弟を取るものでもないな。世俗を離れた隠世の仙女が、縁ある者にのみ絶技を授ける方が格好がよい」
《現在、弟子候補は存在しません》
「分かっておる!」
夢くらい見させてほしかった。
しかし、それでも景承の機嫌はまったく損なわれていない。
むしろ自分の未来像が次々に膨らんでいく。
武林を震撼させる謎の仙女。
どこの門派にも属さず、しかし天下の絶技を身につけ、弱きを助け強きを挫く。
名乗れば誰もが息を呑み、去った後には伝説だけが残る。
「……悪くない」
《何がですか》
「こちらの話じゃ」
景承は軽功で岩の上へふわりと上がった。
腕を背中へ回し、少し顎を上げる。
「叡艾」
《はい》
「今の立ち姿はどうじゃ」
《姿勢安定性に問題はありません》
「そうではない。仙女らしいかと聞いておる」
《仙女らしさを判定する客観的基準がありません》
「吾の記憶を見たのであろう。物語に出てくる仙女と比べよ」
《比較対象の多くは架空人物です》
「だからこそよいのではないか」
景承は少し角度を変えた。
風が黒髪を揺らし、額の宝珠へ差した木漏れ日が一瞬だけ淡く反射する。
「これは?」
《先ほどより重心が右へ偏っています》
「そういう話ではない!」
能力については恐ろしいほど有能なのに、こういうところではまるで役に立たない。
岩から降りながら、今後は叡艾へ美意識というものも学ばせねばならぬと、本気で考え始めたときだった。
《警告》
声色は変わらない。
だが、それまでとは明らかに違う言葉が入ったことで、景承の足が止まった。
「何じゃ」
《複数の人間による戦闘を確認》
浮かれていた意識が少しだけ現実へ戻る。
「どこじゃ」
《南西方向。距離、およそ二里》
景承は耳を澄ませた。
以前の身体なら、森のざわめきしか聞き取れなかっただろう。
だが今は、風に揺れる葉の音の向こうから、僅かに異なる響きが混じっていることが分かる。
金属同士がぶつかる音。
馬の嘶き。
何人もの男が上げる怒声。
そして風向きが変わった一瞬、悲鳴らしき声まで耳へ届いた。
「……戦か」
《小規模な戦闘と推定》
景承は黙った。
つい先ほどまで、自分は兵だった。
正確には、兵と呼ぶにも微妙な雑兵である。
戦場から逃げ、この森へ入り、白沢と出会った。
ならば今さら、どこの誰かも分からない争いへ首を突っ込む義理などない。
少なくとも、雑兵だった頃の自分ならそう考えただろう。
だが今、景承の頭に浮かんだのは、幼い頃から何度も読んできた仙女や侠客の姿だった。
道中で悪漢に襲われる旅人。
そこへ偶然通りかかる名もなき達人。
圧倒的な力で悪を退け、礼など求めず立ち去る。
いかにも物語らしい場面である。
《介入しますか》
「待て」
景承は考えた。
誰が善で誰が悪かは、まだ分からない。
音が聞こえるというだけで飛び込むのは、さすがに仙女ではなく無鉄砲というものである。
ならばまず、様子を見ればよい。
もし弱き者が理不尽に害されているのであれば――そのときは、話が違う。
困っている者を救うのは仙女らしい。
非常に仙女らしい。
しかも。
景承は右拳を見た。
太和発勁。
太和飛打功。
太和軽功。
太和硬功。
太和剛身功。
覚えたばかりである。
実戦で一度くらい使ってみたいという思いが、まったくないと言えば嘘になる。
「……なるほど」
景承の口元が、ごく僅かに上がった。
「天は早くも、吾に力を振るう場を与えたようじゃな」
《因果関係は確認できません》
「黙っておれ」
景承は南西へ身体を向けた。
まだ何が起きているかは分からない。
だからこそ、まずは確かめる。
そのうえで助けるべき者がいるのなら――今度こそ、仙女として格好よく現れればよい。
「叡艾。行くぞ」
《
景承が地面を蹴った。
一歩目で身体が軽くなり、二歩目には木々の間を風のように抜けていく。
かつて雑兵として必死に走っていた頃とは、比較にもならない速度だった。木の根も倒木も斜面もほとんど障害にならず、景承が進む方向を意識するだけで、叡艾が足場と重心を整え、次の一歩へ繋げていく。
枝を踏み、地面へ降り、岩を蹴ってまた跳ぶ。
遠くで響いていた金属音が、急速に近づいてきた。
馬の嘶きも、男たちの怒声も、先ほどよりずっと鮮明になっている。
その向こうで、また誰かが叫んだ。
景承はさらに速度を上げた。
「待っておれ。今、仙女が参るぞ」
《対象はあなたの来訪を認識していません》
「雰囲気というものがあるであろう!」
その声を森へ残し、景承の姿は戦いの音がする方角へ消えていった。