SF仙女武侠伝 無自覚TSサイボーグ、江湖武林を逝く! 作:モリーマ
馬車が大きく跳ねた。
「っ……!」
直後、右の車輪が深い轍へ落ちたらしく、床が大きく傾く。足元へ置かれていた小箱が滑って反対側の壁へ激突し、その衝撃がまだ収まらないうちに、今度は車体全体が細かく震え始めた。
「もっと速度を上げられないの!?」
御者台へ向かって声を張ると、前方から苦しげな返答が飛んできた。
「これ以上は馬がもちません!」
「後ろは?」
「まだ来ています!」
聞くまでもないことだった。
馬車の軋む音や車輪が地面を叩く音に混じって、複数の蹄音がずっと追いすがっている。時折、その騒音の向こうから金属同士がぶつかる甲高い響きまで聞こえてくる以上、護衛たちが追手を近づけまいと戦っていることは嫌でも分かった。
凌華は唇を噛んだ。
馬車の窓には、身分を隠すための厚い布が掛けられている。外から中を覗かれにくくするためのものだが、今はそれがひどく邪魔だった。
隙間へ手を伸ばしたところで、
「お嬢様、お顔を出されませんよう!」
横を並走していた護衛から鋭く制された。
「状況が見えないじゃない!」
「見なくて結構です!」
「結構なわけないでしょ!」
反射的に怒鳴り返したものの、護衛はそれ以上応じず、馬を少し後ろへ下げて馬車の側面を守る位置へ移った。
その直後、背後から怒声が響く。
「来るぞ!」
剣戟の音が重なり、続いて馬の悲鳴と、何か重いものが地面へ落ちる鈍い音がした。
凌華の肩が跳ねる。
「……今のは?」
返事はない。
「ねえ、今のは誰!?」
「お嬢様!」
別の護衛が窓の外から叫んだ。
「前だけをお考えください!」
「そういう言い方するってことは――」
言い切る前に、再び馬車が大きく揺れた。
凌華は座席へ叩きつけられ、息を詰まらせる。
腹立たしかったし、怖くもあった。だが、それ以上に耐え難いのは、自分だけが馬車の中へ押し込められ、外で何が起きているのかさえ知らされないことだった。
誰が傷ついたのか。あと何人残っているのか。
それすら分からない。
ただ、自分が生き延びるために誰かが後方へ残り、追手を止めているという事実だけは、どれほど目を逸らしても消えてくれなかった。
*
本来なら、目立たぬ経路を選び、途中で何度か進路を変えながら梁国を目指すはずだった。
馬車には瑞国を示す旗も蘇家の紋章もなく、凌華自身も国主の娘と分かるような衣装を避けて、商家の令嬢と見られても不自然ではない旅装を身につけていた。護衛の人数まで少なくしたのも、大人数で動けばそれだけで目立つからだ。
それでも見つかった。
最初に遠くへ騎影を認めたときには、単なる旅人かもしれないと思った。だが、こちらが進路を変えても追ってきて、速度を上げれば向こうも上げる。やがて距離が縮まったところで、護衛の一人が敵の装備を見て叫んだ。
――
そこからは、ただ逃げ続けていた。
なぜ知られたのか、どこから自分たちの動向を掴まれたのか。それを考えなければならないとは分かっていても、今はまだ答えを探している余裕がない。
凌華の懐には、梁国へ届けるための書状がある。
瑞国の窮状を訴え、援兵を求めるためのものだ。
母――瑞公・
ただの使者では足りない。国主の娘である自分が直接赴くことで、瑞国がどれほど追い詰められているのかを梁国へ示すのだと、母はそう説明していた。
凌華自身も、その役目に異論はなかった。
むしろ、自分にもようやく国のためにできることがあると思った。
母が安陽へ残り、将兵が長風原周辺で戦い続けているというのに、自分だけ何もせず待っている方がよほど耐え難かったのだ。
だから行くと言った。
絶対に梁国まで辿り着くと決めた。
それなのに今は、窓を覆う布越しに傾き始めた陽を見ながら、梁国どころか次の宿場にさえ辿り着けないのではないかという不安を押し込めなければならなかった。
「……何人残ってるの?」
今度は、先ほどより低い声で尋ねた。
窓の向こうから、少しだけ間を置いて返答が来る。
「まだ戦えます」
「人数を聞いてるの」
「お嬢様」
「何人?」
また沈黙した。
その沈黙だけで、十分だった。
「……分かった」
凌華は膝の上で拳を握る。
本当は分かってなどいないし、分かりたくもなかった。
だが、今ここで護衛を問い詰めても何も変わらない。少なくとも、自分が梁国まで書状を届けなければならないという事実だけは、誰が傷つこうと変わらなかった。
*
背後で、誰かが叫んだ。
「ここは私が止める!」
凌華は弾かれたように窓へ顔を向けた。
「待って!」
布を押しのけると、後方で一騎だけが馬車から離れていくのが見えた。
「戻って!」
護衛の男は振り返らない。
馬首を返し、追ってくる騎兵へ真正面から向かっていく。
「戻りなさい!」
声を張り上げる。
届いたはずだった。
それでも男は止まらず、馬車との距離だけがどんどん開いていく。やがて追手の姿も護衛の背中も木々の陰へ隠れ、姿の代わりに剣がぶつかる音だけが聞こえた。
一度。
二度。
三度。
馬車は走り続ける。
音は少しずつ遠ざかり、最後には森と車輪の騒音に呑まれて何も聞こえなくなった。
凌華は開いたままの窓を見つめ続けた。
「……私のせいで」
口から漏れた瞬間、自分で首を振る。
違う。
今それを考えるな。
自分がここで立ち止まれば、あの男が残った意味までなくなる。
梁国へ着き、援軍を頼む。それが自分の役目であり、今できる唯一のことだった。
「前へ行って」
声が僅かに震えた。
自分でも気づき、唇をきつく結び直してから、もう一度言う。
「止まらないで。前へ行って」
「承知!」
御者が答え、馬車はさらに荒々しく道を進んだ。
*
だが、逃げ続けられるほど馬にも余力は残っていなかった。
しばらくして、前方から荒い息遣いが聞こえ始める。馬車を引く二頭の背は汗で濡れ、口元には白い泡が浮き、脚運びも次第に鈍っていた。
速度が落ちていることは、車輪が荒れた道を叩く間隔だけでも分かる。
対して、追手の蹄音は再び近づいてきた。
「このままじゃ追いつかれる。馬車を捨てましょう」
「なりません!」
即答だった。
「どうしてよ。馬を一頭外して、それに私が乗れば――」
「お嬢様の騎乗では追手を振り切れません!」
「でも馬車よりは速いでしょ!」
「単騎になればお守りできません!」
「だったら護衛の誰かと二人で――」
「追手にも騎兵がいます!」
そこまで言われ、凌華は歯を食いしばった。
分かっている。理屈では、護衛の言う方が正しい。
自分は馬に乗れないわけではないが、軍馬を自在に操って追撃を振り切れるほどの腕ではなく、剣も護身として多少習っただけだ。
武仙でもなければ、戦場を生き抜いてきた兵でもない。
それでも、何もできないまま守られ続けることには耐えられなかった。
「私だって役に立てるんだから!」
思わず声が大きくなる。
護衛たちは答えなかった。
その沈黙が、余計に腹立たしかった。
「私のせいで皆が戦ってるのに、私だけ中で座ってろっていうの!?」
「お嬢様を梁国へお届けすることが我らの役目です!」
「だからって――!」
その瞬間、馬車が大きく跳ね上がった。
右前輪が道から突き出していた太い根へ乗り上げ、ばきり、と嫌な音が床下から響く。
「きゃっ!」
車体が激しく傾き、凌華の身体は座席から放り出された。
肩から床へ落ちた直後、馬車は片側を引きずるように数間進み、御者が必死に手綱を引いたところでようやく止まる。
「車輪がもたん!」
「馬を外せ!」
「前方にもいるぞ!」
外から怒声が飛び交った。
凌華は痛む肩を押さえながら身体を起こし、嫌な予感とともに窓の外を覗く。
右前輪は大きく傾き、車軸まで歪んでいた。
そして、その先の道には馬に乗った兵が数人いる。
後方からも、追手の蹄音が迫っていた。
前後を塞がれた。
「……嘘でしょ」
口の中が急に乾いた。
*
「お嬢様、馬車の中へ!」
「嫌よ」
凌華は座席の下へ収めていた剣を引き出した。
旅装に合わせて用意された、装飾のほとんどない細身の剣だった。
「お嬢様!」
「ここまで来て、私だけ隠れていられるわけないでしょ!」
「しかし――」
「前には出ない。邪魔もしない。だから剣くらい持たせて」
護衛の男が何か言い返そうとしたが、追手の怒声に遮られた。
「来るぞ!」
凌華は馬車から降りた。
土を踏んだ瞬間、膝が思っていた以上に震えていることに気づいたが、見ないふりをして周囲を見る。
護衛たちは馬車を背にして防御陣を作っていた。
人数を数えた凌華は、思わず息を止めた。
出発したときより、あまりにも少ない。
しかも無傷の者はほとんどおらず、腕を血で染めた者もいれば、肩で息をしながら剣を持つ手の震えを必死に抑えている者もいる。
それでも全員が凌華より前へ立っていた。
敵兵は馬車を囲むように散開しながら、じりじりと距離を詰めてくる。服装も武器も揃っており、戦うために組織された兵であることは凌華にも分かった。
野盗などではない。
敵の一人が、ようやく獲物を追い詰めたと言わんばかりに口元を歪めた。
凌華は剣の柄を強く握る。
どうしてここまで正確に追ってこられたのか、その理由はまだ分からない。
ただ一つ確かなのは、もう逃げ切れないということだった。
「お嬢様」
最も近くにいた護衛が、敵から目を逸らさずに言った。
「我らの後ろから離れないでください」
「……分かってる」
「何があっても前へは」
「分かってるってば」
返した声が思ったより掠れていたため、凌華はそれをごまかすように剣を握り直した。
*
最初にぶつかったのは左側だった。
二人の敵兵がほぼ同時に踏み込み、護衛の一人へ左右から斬りかかる。
護衛は片方の剣を正面から受け、もう一方を身体を捻って避けた。その横から別の護衛が割り込み、敵の胴へ横薙ぎに剣を払う。
血が飛んだ。
凌華は息を呑む。
訓練で剣を振ったことはある。
模擬試合を見たこともある。
だが、本当に人を斬る音はまるで違った。
敵兵が倒れきるより早く、次の兵が踏み込んでくる。
「右!」
誰かが叫んだ。
凌華が振り返ると、馬車の反対側から一人が防御の隙間へ入り込んでいた。
「っ!」
反射的に剣を振る。
刃と刃がぶつかった瞬間、腕全体へ痺れが走った。
「くっ……!」
相手の力が強い。
凌華は歯を食いしばって耐えたものの、そのまま剣ごと押し込まれそうになる。
「お嬢様!」
横から護衛が割り込んだ。
敵の剣を受け、肩から体当たりするように押し返す。
「下がってください!」
「でも!」
「下がって!」
今度の声には、有無を言わせないものがあった。
凌華は一歩下がる。
その瞬間、護衛は自分を守るだけではなく、凌華の前まで塞ぐために無理な位置取りを強いられた。
別の敵がその隙を狙い、護衛の脇腹へ刃を走らせる。
「っ……!」
「大丈夫!?」
「お下がりを!」
衣へ血が滲んだ。
それでも護衛は凌華の前から動こうとしない。
凌華の胸が詰まる。
自分が前へ出れば役に立てると思った。
違った。
自分が出れば、護衛は敵と戦いながら自分まで守らなければならなくなる。
むしろ負担を増やしている。
その事実を、凌華は今になって初めて身体で理解した。
「……ごめん」
護衛には聞こえなかっただろう。
凌華は剣を握ったまま馬車際まで下がった。
何もできないことが、悔しかった。
*
敵も無傷ではなかった。
一人は先ほど斬られたまま動かず、もう一人も護衛の突きを受けて後退している。
それでも、こちらが一人傷つくたびに防御の輪は目に見えて狭くなった。
脚を斬られた護衛が膝をつけば、隣の男がその前へ出て二人分の間合いを受け持つ。その隙を狙って別方向から敵が踏み込めば、今度は肩を負傷していた護衛が片腕だけで剣を振り、辛うじて馬車への道を塞ぐ。
誰か一人が崩れるたび、残った者が無理をして穴を埋めていく。
その繰り返しだった。
凌華は彼らの背中を見つめながら、次第に自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。
手が震え、剣の柄が汗で滑りそうになる。
怖い。
そう認めてしまった途端、今まで見ないようにしていた感情が一気に押し寄せた。
死にたくない。
ここで死ぬのは嫌だ。
母のところへ帰りたい。
まだ梁国へも着いていないし、何一つ成し遂げていない。それなのに、この場所で終わるのかと思うと、喉の奥が締めつけられた。
「……嫌」
声が漏れる。
唇まで震えていることに気づき、凌華は強く噛んだ。
怖くないわけがない。
こんなもの、怖くない方がおかしい。
けれど、だからといって全部を放り出していい理由にはならない。
瑞国では、もっと多くの者が戦っている。
母も残っている。
将兵も民も、援軍が来るかもしれないという僅かな望みに縋っている。
だったら、自分だけが怖いなどと言ってはいられない。
「……まだよ。まだ終わってない」
凌華は剣を握り直した。
誰に言うでもなく口にした言葉は、自分自身へ言い聞かせるためのものだった。
*
護衛の一人が倒れた。
敵の剣を受け損ね、肩口を斬られた男が凌華の目の前で地面へ崩れる。
「っ!」
すぐに別の護衛が穴を埋めたが、その男もすでに腕から血を流している。
「お嬢様!」
「なに!?」
「お逃げください!」
凌華は耳を疑った。
「どこへよ!」
「森へ!」
周囲を見る。
敵兵は馬車の前にも後ろにもおり、森へ飛び込んだところで、すぐ追いつかれることくらい凌華にも分かる。
「無理でしょ!」
「我らが道を開きます!」
護衛が前へ出た。
その背中を見た瞬間、凌華には分かった。
この人も死ぬつもりだ。
自分をほんの少しでも遠くへ逃がすために。
「やめて」
護衛は聞かない。
「やめなさい!」
男が敵へ踏み込む。
「もういい!」
凌華は叫んだ。
「これ以上、私のために――!」
言葉が途切れる。
護衛の剣が敵の武器を受けた。
一撃。
すぐに二撃目。
さらに横から三撃目が重なる。
受けきれない。
男の体勢が崩れ、片膝が地面へ落ちた。
その頭上へ敵兵が剣を振り上げる。
「やめて!」
凌華は走り出した。
間に合わない。
分かっている。
それでも足が動いた。
敵の剣が振り下ろされる。
護衛はもう受けられない。
凌華が剣を構える。
遠い。
あと数歩。
届かない。
――間に合わない。
そう思った瞬間だった。
視界の端を、黒い影が駆け抜けた。
「え……?」
風が爆ぜた。
地面の枯れ葉が一斉に舞い上がり、砂埃が凌華の頬を打つ。
次に目を開いたときには、膝をついた護衛と敵兵の間へ一人の女が立っていた。
甲高い金属音が響く。
振り下ろされた剣の刃を、その女は素手の掌で受け止めていた。
「……な」
敵兵が目を見開く。
凌華も息を忘れた。
いつ来たのか分からない。
ほんの一瞬前まで、そこには誰もいなかったはずだった。
現れたのは若い女で、少女と言ってもよいほど若く見えた。
腰近くまで届く黒髪に、白い肌。額の中央には小さな宝珠のようなものがある。
にもかかわらず、着ているものはその容姿にはまるで似つかわしくない。上等な武人の装束でも名門門派の道服でもなく、むしろ兵卒が身につけるような、粗末で実用一辺倒の衣服に近かった。
だが、その異様な取り合わせ以上に凌華の目を奪ったのは、女の立ち姿だった。
息一つ乱れていない。
今まさに凄まじい速度で駆け込んできたはずなのに、本人だけが最初からそこに立っていたように静かで、振り下ろされた刃を受け止めている掌にも血の一滴すら流れていない。
「お、お前――!」
敵兵が剣を引こうとする。
刃が掌から離れると、女はゆっくり顔を向けた。
その横顔には、不思議なほど余裕があった。
「多勢に無勢とは、感心せぬのう」
静かな声だった。
血と怒号の渦中で口にするには、あまりにも場違いなほど落ち着いている。
敵兵が顔を歪めた。
「何者だ!」
女は答えず、わずかに身体の向きを変えただけだった。
敵兵は一歩退いたものの、すぐに剣を握り直し、そのまま女へ斬りかかる。
「危ない!」
凌華が叫ぶ。
だが、女は逃げなかった。
むしろ斬撃の内側へ、一歩踏み込んだ。
「え?」
敵兵の剣が髪の先を掠めるように空を切る。
同時に、女の右手が相手の胸へ触れた。
殴ったようには見えない。
掌を、ただ軽く当てただけだった。
次の瞬間。
どんっ、と低い音が響いた。
「がっ――!?」
敵兵の足が地面から離れ、その身体が数間後方へ弾き飛ばされる。
人一人が、まるで巨大な槌で打ち据えられたように宙を飛び、地面へ落ちて何度も転がった末、仲間の足元でようやく止まった。
その場にいた全員の動きが止まる。
追手も、護衛も、凌華も。
先ほどまで鳴り続けていた剣戟まで途切れ、森の風が枝葉を揺らす音だけが一瞬戻ってきた。
突然現れた黒髪の女だけが、何事もなかったように掌を下ろした。
凌華は呆然とその背を見つめた。
今のは剣術ではない。
普通の体術でもない。
掌を触れただけで、大の男があれほど吹き飛んだ。
あの動き。
あの力。
そして、素手で刃を受け止めた身体。
これほどのものを持つ人間を、凌華は一つの呼び名でしか知らなかった。
「……武仙……?」
声が掠れた。
女が僅かに振り返る。
その眼差しを受けた瞬間、凌華は知らず、剣を握る手から力を抜いていた。
「……武仙殿?」
誰なのか。
どこの門派なのか。
なぜここにいるのか。
何一つ分からない。
それでも、死が目の前まで迫っていたその場所に、今、正体不明の武仙が立っていた。