SF仙女武侠伝 無自覚TSサイボーグ、江湖武林を逝く! 作:モリーマ
森を抜ける寸前、
片方の車輪が大きく傾き、その周囲では十人を超える男たちが剣や槍を手に争っている。人数の少ない側は馬車を背にしており、残っている護衛は四人。そのうち一人はすでに地面へ倒れ、残る三人がなお娘を守っていた。
そして、その三人のうち一人も片膝をつき、今まさに頭上へ剣を振り上げられている。
「……あれはまずいの」
景承はまだ森の中にいた。
向こうから自分の姿が見えている様子はない。
当然ながら、本物である。
鋭く研がれた刃が陽光を返していた。
あれを止めなければ、膝をついている男は斬られる。自分だけ避けても意味はないのだから、剣そのものをどうにかしなければならない。
そこで景承は一瞬考えた。
「
《対象刀剣の形状・速度・推定材質を解析》
「急げ。もう振り下ろされるぞ」
《
「保証できるか?」
《現在取得可能な情報の範囲では保証可能です》
それを聞いた瞬間、景承の迷いが消えた。
剣を横から弾くこともできるだろうし、腕を掴んでもよい。あるいは相手そのものを先に吹き飛ばすという手もある。
だが、どうせ傷つかないのであれば――。
――素手で受け止めた方が、格好よいではないか。
物語に出てくる達人ならそうする。
まして自分は、仙女たらんとしている身である。
「……よし。ならば、決めるか」
《右手への局所防御を開始》
《
景承は地を蹴った。
そこから先は、一言も発しなかった。
森を抜け、最後の数歩を一息で詰める。
敵兵の剣が振り下ろされた。
その刃と、膝をついた男の間へ滑り込み、右手を上げる。
甲高い金属音が鳴った。
剣が掌へ食い込む――はずだった。
だが、痛みはない。皮膚が裂ける感触もなければ、骨へ響くような衝撃すらほとんど感じなかった。
――おお。本当に平気じゃ。
景承は素直に感心した。
もちろん、顔には出さない。
絶対に出さない。
今の自分は、剣を素手で受け止める程度では眉一つ動かさない、正体不明の武仙として振る舞っているのだ。
「……な」
剣を握った男が目を見開いた。
その向こうでは、馬車の傍らにいた若い娘もこちらを凝視しており、護衛たちまで動きを止めている。
――効いておる。
登場としては、かなり効いている。
景承は胸の内で満足しながらも、表面上は何事もなかったように相手へ顔を向けた。
「多勢に無勢とは、感心せぬのう」
声も落ち着いていた。
悪くない。
非常に悪くない。
「お、お前――!」
敵兵が慌てて剣を引く。
景承は抵抗せず、掌から刃を離させた。
本当なら、すぐに右手を確かめたい。傷一つないことを自分の目でも確認したい。
だが、ここで掌を裏返してまじまじと眺める達人はいない。
我慢した。
「何者だ!」
男が怒鳴る。
景承は答えなかった。
謎の達人というものは、尋ねられたからといってすぐ名乗ったりしない。少なくとも、景承がこれまで読んできた物語ではそうだった。
「くそっ!」
返事を待ちきれなかった男が、もう一度剣を構えて踏み込んでくる。
景承はその斬撃を見た。
以前の身体なら、何が起きたのか理解する前に斬られていただろう。
だが今は、相手の肩と腕の動きから剣が通る場所が見える。
右から振り下ろされる。
ならば、その内側へ入る。
そう決めた瞬間、叡艾の補助が働き、足の置き場所から腰の向き、重心の移動までが景承の意思へ沿って滑らかにつながった。
斬撃の内側へ踏み込む。
敵兵の目が見開かれた。
景承は右掌を相手の胸へ添える。
力任せに押すのではない。
ここへ勁を通す。
そう意識すると、内力が小周天から右腕を抜けて掌へ集まった。
《
「ふっ」
掌を押す。
どん、と腹へ響くような低い音が鳴った。
「がっ――!?」
男の身体が宙へ浮き、そのまま数間後ろまで吹き飛んだ。
地面へ落ち、二度、三度と転がった末、仲間の足元で止まる。
景承は僅かに目を細めた。
――ちと強かったか?
《対象の生命反応を確認。致命的損傷なし》
必要な情報だけが頭の内側へ届く。
景承は返事をしなかった。
後ろには先ほど助けた者たちがいる。ここで見えない相手と会話を始めれば、せっかくの謎めいた達人ぶりが台無しである。
「……武仙……?」
背後から若い女の声がした。
「……武仙殿?」
景承は危うく振り返りかけた。
――武仙殿。
よい。
実によい響きである。
今すぐ頷いてやりたいくらいだったが、ここは我慢しなければならない。
景承は敵たちから目を離さないまま、ゆっくりと両手を下ろした。
「さて。まだ続けるか?」
残る敵兵たちが顔を見合わせた。
先ほどまでの勢いは明らかに消えている。
当然といえば当然だった。
突然現れた若い女が剣を素手で止め、その直後には大の男を掌一つで吹き飛ばしたのである。景承自身が相手の立場でも、かなり戦いたくない。
だが、全員が逃げ出したわけではなかった。
「囲め!」
少し離れた場所にいた男が声を上げる。
「武仙だろうが一人だ!」
その号令で敵兵たちが左右へ散った。
正面から一人。左右から二人。さらに二人が距離を取りながら後ろへ回ろうとしている。
景承は相手の動きを見渡しながら、ゆっくりと太和拳の構えを取った。
外から見れば、場数を踏んだ達人の構えに見えるのかもしれない。
実際のところ。
――複数人との実戦など、ほとんど経験がないのじゃが。
兵として戦場にいたことはある。
だが、それは部隊の中で槍を構え、周囲と足並みを揃えて命令に従っていただけだ。物語の達人のように、一人で何人もの敵を相手にしたことなどない。
それでも、逃げようとは思わなかった。
先ほどの一撃で分かったからだ。
自分の身体は、思っていた以上に強い。
正面の男が最初に斬り込んでくる。
景承は剣筋を見て、左へ外れると決めた。
その意思に叡艾の補助が重なり、身体は必要最小限の幅だけ横へ滑る。剣先が衣服の脇を抜け、ほとんど同時に別の男が横から槍を突き込んできた。
今度は穂先ではなく、柄へ掌を添える。
太和拳で覚えていた通り、真っ向から力を受けずに方向だけを外へずらすと、自分では軽く押しただけのつもりなのに槍の軌道が大きく逸れ、持っていた男まで前のめりになった。
その空いた正面へ、三人目が踏み込んでくる。
景承は相手の胸へ掌を当てた。
先ほどほど強くする必要はない。
倒せれば十分だ。
そう意識すると出力が抑えられ、鈍い衝撃音とともに男が数歩後ろへ弾かれた。背中から地面へ倒れ、苦しそうに息を吐いたまま起き上がってこない。
――なるほど。
少しずつ分かってきた。
相手の動きを見て、どう対処するかを決めるのは景承自身だ。
叡艾が代わりに戦っているわけではない。
しかし一度方向を決めてしまえば、景承の頭の中にある太和拳の理合を、叡艾が身体の動きとして恐ろしく正確に再現してくれる。
剣は効かない。
相手の動きも見える。
多少判断が遅れても、今の身体能力にはそれを補って余りある余裕があった。
――吾、かなり強いのではないか?
大木を砕いた。
岩を殴った。
遠くの岩まで吹き飛ばした。
それでも、相手が動く人間になるまでは、自分の強さをどこか数字や現象のようにしか捉えられていなかった。
今初めて、自分が普通の武人からどれほど離れたところにいるのかが、実感として分かり始める。
「後ろ!」
先ほどの娘の声が飛んだ。
景承は背後を振り返るより先に、前へ抜けると決めた。
身体を沈め、そのまま一歩滑る。
直後、背後から振られた剣が頭上を通り過ぎた。
そこで振り返ると、空振りした敵兵と目が合う。
景承は口元へ浮かびかけた笑みを抑えた。
「遅いのう」
一度言ってみたかった台詞だった。
相手の腕を取り、引く。
同時に自分の身体を僅かに回すと、太和拳の動きに沿って男の重心が崩れ、そのまま自分から地面へ飛び込むように転がった。
武器が手から離れる。
さらに一人が踏み込んできたが、もう景承に最初の緊張はなかった。
斬撃を外へ流し、手首を払い、足を引っかける。
派手な武仙功を次々と使う必要などなかった。
本で読み、型として覚えていた太和拳の理屈が、今の身体と叡艾の補助によって実際の戦いへ変わっていく。一人を崩せばその身体が次の敵の進路を塞ぎ、武器の軌道を逸らせば後ろにいた者まで踏み込めなくなる。
数で囲もうとしていたはずなのに、景承が半歩ずつ立つ位置を変えるたび、包囲は形になる前に崩れていった。
数合もしないうちに、立っている敵は半分以下になった。
そこでようやく、残った兵たちが距離を取る。
景承は追わなかった。
殺すつもりはない。
何より、逃げる者を追い回して殴るのは、景承の考える仙女らしさから外れている。
「まだやるか?」
先ほどより低い声で尋ねる。
誰も動かなかった。
景承が一歩前へ出ると、敵兵たちは揃って一歩下がった。
さらに一歩。
今度は二歩下がる。
――おお。
これはかなり達人らしい。
少し楽しくなってきたが、表面上はあくまで淡々としておく。
「去れ。次は加減せぬぞ」
本当は、つい先ほど加減のやり方を覚えたばかりである。
もちろん言わない。
敵兵たちはしばらく景承を睨んでいたものの、やがて戦闘不能になった仲間を担ぎ、あるいは肩を貸しながら後退し始めた。
景承は追わず、連中が森の奥へ消えるまでその場に立っていた。
完全に姿が見えなくなったところで、ようやく胸の内で呟く。
――勝った。
初めて一人で複数の敵を相手にして、勝った。
しかも、かなり格好よく。
今すぐ大きく笑いたいくらいだったが、まだ後ろに人がいる。
景承は何事もなかったように息を整え、ゆっくり振り返った。
*
壊れた馬車の周囲には、四人の護衛と一人の若い女が残っていた。
四人のうち一人は、肩口を斬られたまま地面へ横たわっている。ほかの三人も無傷ではなく、一人は脇腹、一人は脚、一人は腕から血を流していた。
その中央に立つ女も剣を握ってはいたものの、兵士でないことは景承にも分かる。
年の頃は、今の自分と大きく変わらないように見えた。
旅装そのものは地味だが、姿勢や仕草にはどことなく育ちの良さが滲んでいる。
女は剣を収めると、景承へ深く頭を下げた。
「助けていただき、ありがとうございました」
「気にするでない。たまたま通りかかっただけじゃ」
景承はゆったりと答えた。
完璧である。
少なくとも本人はそう思った。
「それでもです。あなたが来てくださらなければ、私たちはここで全滅していました」
女は頭を上げ、それから少し躊躇うように景承を見る。
「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
来た。
名乗りである。
一瞬、何か仙女らしい号でも名乗るべきかと考えた。
太和仙女。
宝珠仙女。
……駄目だ。
自分で考えておいて何だが、どうにも安っぽい。
「李景承じゃ」
「景承殿」
即座に殿が付いた。
――よい。
これもよい。
景承は胸の内で大きく頷いた。
「私は
「蘇……」
聞き覚えのある姓だった。
というより、この辺りで蘇といえば限られている。
景承は表情を変えずに尋ねた。
「
「はい」
その返答を聞いて、景承はふと自分の身なりを意識した。
その身にまとっているのは、まさに瑞国軍の雑兵として支給された粗末な兵装である。
瑞国を知らぬどころではない。
ほんの少し前まで、自分もその軍勢の末端にいたのだ。
戦況の崩れた戦場から逃げ、この森へ入り、白沢と出会い、仙丹だと思って口にしたものによって女になり、内力まで得た。
そして今は、先ほどまで同じ格好で逃げ回っていた雑兵とは思えぬ顔をして、謎の武仙を演じている。
もちろん、その事情を口にする気はなかった。
――実は吾、つい先ほどまでそちらの雑兵でした。
などと告白すれば、せっかく整いつつある達人の風格が一瞬で消し飛びかねない。
「瑞国ならば知っておる」
それだけ答えた。
嘘ではない。
「なぜ朔国の兵に追われておった?」
凌華は一瞬、護衛たちを見た。
迷っている。
命を救われたとはいえ、景承が何者なのかは向こうも知らない。当然の警戒ではあった。
しかし、しばらくすると凌華は決意したように景承へ向き直った。
「私は、瑞公・
「……うむ」
景承は頷いた。
そして一拍遅れて、その言葉の意味が胸へ落ちる。
――娘?
「国主の?」
「はい」
――姫ではないか!
景承は表情を変えなかった。
かなり頑張った。
蘇瑾寧の娘。
瑞国の国主の娘。
つまり姫君である。
自分は今、姫を救ったのだ。
それだけでも十分すぎるほど物語めいている。
だが、話はそこで終わらなかった。
「私は母上の命を受け、梁国へ向かっています」
「梁国へ?」
「瑞国への援軍を求めるためです」
景承は再び黙った。
姫。
密使。
援軍要請。
敵国からの追手。
国の危機。
次から次へと出てくる。
――これは。
――これはもう。
――完全に物語の本筋ではないか?
国を救うため密かに隣国へ向かう姫。
そこを敵兵に襲われ、護衛が次々と傷つき、ついには絶体絶命。
その瞬間、森から現れた謎の武仙が敵を蹴散らす。
景承が昔読んできた物語に、そのままありそうな筋書きだった。
「景承殿?」
黙っていた時間が少し長かったらしい。
「……何でもない」
景承は咳払いした。
外から見れば、国同士の事情を慎重に吟味しているように見えたかもしれない。
実際の内面はかなり違う。
――姫じゃぞ。
――吾、姫を救ってしまったぞ。
――しかも密使じゃぞ!
――援軍を呼びに行く途中で敵国兵に襲われておったのじゃぞ!!
――こんなもの、ついて行くしかないではないか!!!
そこでようやく、景承は壊れた馬車と傷ついた護衛たちへ意識を戻した。
車輪は使い物にならない。
馬も疲弊している。
何より、護衛は四人とも傷を負っている。
「話は分かった。だが、その前に」
景承は地面へ倒れている男へ歩み寄った。
「怪我人を見せよ」
「え?」
「このままでは旅どころではあるまい」
凌華が驚いたように目を見開く。
「景承殿は医術まで修めておられるのですか?」
「……」
景承は僅かに止まった。
調子に乗って怪我人を見せよと言ってしまった。
当然ながら医術の心得などない。
何とかならぬかと叡艾へ問いかけたい。
しかし、凌華も護衛もこちらを見ている以上、今ここで声に出すわけにはいかない。
そこで景承は、ふと思った。
――待て。
そもそも叡艾の声は、耳から聞こえているわけではない。
いつも頭の内側へ直接響いている。
ならば、こちらも声に出さず、考えるだけで伝えられるのではないか。
半信半疑のまま、景承は何事もなかったような顔を保ち、負傷者へ視線を向けた。
――叡艾。こやつ、治せるか?
《負傷状態を解析》
景承は危うく目を見開きそうになった。
――通じた。
《右肩部裂傷。出血継続。主要血管および骨格への致命的損傷なし》
《局所修復処置が可能です》
――できるではないか!
《肯定》
返事まで来た。
景承は表情を崩さないまま、内心では別の意味でも感動していた。
――何じゃ。最初からこうして話せたのか。
《可能です》
――早く言わぬか!
《質問されていません》
何とも叡艾らしい答えだった。
だが、治せると分かったところで、もう一つ疑問が浮かぶ。
――して、どうやって治す?
《他者への治癒処置を構築》
《要求に対応する制御体系を形成》
《
――
景承はその名を胸の内で繰り返した。
何とも、それらしいではないか。
「少々心得がある」
何事もなかったように答え、倒れている護衛の傍らへ膝をつく。
肩口の衣服は血で濡れ、裂けた布の下から深い傷が見えていた。
景承はそこへ掌をかざした。
何となく、この方が仙女らしい。
《
《損傷部位への修復制御を開始》
《
景承の掌が僅かに温かくなった。
外から見える光も、派手な変化もない。ただ掌を傷の上へかざしているだけなのに、その下では流れ続けていた血が次第に勢いを失っていく。
護衛が小さく息を呑んだ。
「……熱い」
「動くでない」
景承は静かに言った。
顔には出していないが、胸の内では、
――本当に治っておるのであろうな。
とかなり心配している。
《止血完了》
《組織接合を継続》
やがて出血は完全に止まった。
凌華が目を見開く。
「血が……」
さらに数呼吸。
赤く開いていた傷がゆっくり狭まり、完全に消えこそしないものの、先ほどまでの深い裂傷とは見違える状態へ変わっていった。
「これは……」
護衛の一人が呆然と呟く。
「医功……?」
景承はその言葉を聞いた。
医功。
叡艾が付けた名と同じ言葉を、目の前の男も使った。
どうやら本当にそのような功法があるらしい。
実に都合がよい。
「珍しいものでもあるまい」
何でもないことのように言ってみる。
すると護衛たちが揃って顔を見合わせた。
どうやら珍しいらしい。
少し言いすぎたかもしれない。
しかし今さら訂正するのも格好が悪い。
《組織修復完了。患部への強い負荷は非推奨》
景承は掌を離した。
「身体を起こせるか?」
男が恐る恐る肩へ触れ、それからゆっくり上体を起こした。
「……痛みが、ほとんど……」
先ほどまで地面へ倒れていた男が、自力で座れるまでになったのを見て、凌華の目がさらに大きくなる。
「景承殿……これほどの医功を……」
「気を巡らせ、傷を塞いだだけじゃ」
嘘ではない。
内力らしきものを使ったのは事実である。
実際に何が起きているのかについては、景承自身にもよく分かっていなかった。
「傷を塞いだだけ……」
凌華が繰り返す。
その顔を見る限り、どうやら尋常の医功ではないらしい。
景承は少し気分がよくなった。
「次じゃ」
残る護衛たちを見る。
脇腹を斬られた者。
脚を負傷した者。
腕から血を流している者。
順番に座らせ、同じように傷へ掌をかざしていく。
《損傷部位を確認》
《
景承は余計なことを口にせず、一人ずつ処置していった。
傍から見れば、武仙が掌から内力を流し込み、その場で傷を塞いでいるようにしか見えないだろう。
脇腹の出血が止まり、裂傷が閉じる。
脚を負傷した男も、処置の後には支えがあれば立てるところまで戻った。
腕を斬られていた者も、強く動かしさえしなければ旅を続けられる程度には回復する。
完全に何事もなかった状態へ戻ったわけではない。
叡艾からも、全員に安静と負荷制限が必要だという情報が送られてくる。
それでも、先ほどまで命を落としかねなかった者たちが、今は少なくとも自分の足で動ける。
「……すごい」
凌華が小さく呟いた。
景承は聞こえないふりをした。
もちろん、しっかり聞こえている。
かなり嬉しい。
「これほどの医功……聞いたことがありません」
護衛の一人まで感嘆したように言う。
完全に医功として受け取られている。
――まあ、よかろう。
仙の道を歩む者ならば、傷くらい治せても不自然ではない。
景承の中では、早くもそういう理屈になりつつあった。
*
四人の処置を終えたところで、景承は改めて馬車を確認した。
車軸は歪み、右前輪が大きく傾いている。
応急的に直せる状態ではない。
馬も長い逃走で疲れ切っており、このまま馬車を引かせて長距離を進むのは無理だろう。
「この馬車で梁国まで行くのは無理じゃな」
「……はい」
凌華の表情が曇った。
「ですが、行かなければなりません」
「分かっておる」
「瑞国には時間がありません。母上も、兵たちも――」
そこで凌華は言葉を切り、先ほどまで死にかけていた護衛たちを見る。
「皆が命を懸けて、私をここまで連れてきてくれました。だから、ここで諦めるわけにはいかないんです」
景承は凌華を見た。
気の強そうな娘だとは思っていた。
だが、どうやら単に勝ち気なだけではないらしい。
怖くても進む。
自分より遥かに弱く、できることも限られているのに、それでも国のために自分の役目を果たそうとしている。
そんな相手を前にすると、
――物語っぽいからついていこう。
だけでは、さすがに少し格好がつかない気がした。
もちろん、この先がものすごく気になるという気持ちが消えたわけではない。
瑞国の姫が、国を救うため梁国へ援軍を求めに行く。
そこへ敵国の追手。
壊れた馬車。
負傷した護衛。
これで何も起きないと思う方が難しい。
ここで颯爽と去るのも、それはそれで物語の達人らしいだろう。
困っている者を救い、礼も求めず姿を消す。
そういう人物も、景承は嫌いではない。
だが、この状態の凌華たちを置いていけば、再び敵が来たときにはどうにもならない。
それを知りながら立ち去るのは、景承の思い描く仙女の姿とは違っていた。
「仕方あるまい」
景承はゆっくりと片腕を背へ回した。
「え?」
凌華が顔を上げる。
「梁国へ行くのであろう?」
「はい」
「ならば、しばらく吾が同行しよう」
凌華の表情が変わった。
「よろしいのですか?」
「この有様で放っておけば、寝覚めが悪いからの」
「ですが、景承殿には何の関係も――」
「関係がなければ、見捨ててよいというものでもあるまい」
景承はこともなげに答え、壊れた馬車と、傷を塞いだばかりの護衛たちへ視線を向けた。
「仙の道を志す者として、ここで立ち去っては寝覚めが悪い。梁国まで同行しよう」
言い終えた瞬間。
――今のは。
かなりよかったのではないか。
景承はそう思った。
自ら仙女と名乗ったわけではない。
しかし、仙の道を志していることは匂わせた。
しかも、困っている者を見捨てない。
非常にそれらしい。
凌華は笑わなかった。
むしろ、景承を見つめる目に、先ほどまでとは違う敬意とも困惑ともつかない色が混じる。
「……仙の道を」
「うむ」
景承はそれ以上説明しなかった。
謎というものは、残しておいた方が格好よい。
やがて凌華は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
護衛たちも続いて頭を下げる。
「景承殿。この御恩は決して忘れません」
景承は努めて静かに頷いた。
「礼は梁国へ着いてからでよい」
これもかなり決まった。
そこで景承は、改めて壊れた馬車へ目をやった。
「ところで、ここから一番近い宿場まではどれほどじゃ?」
凌華ではなく、護衛の一人が答える。
「街道へ戻れば、半日ほどです。急がず進んでも、日が落ちる前には着けるかと」
「宿場まで行けば、替えの馬車は手に入るか?」
「はい。金を積めば何とかなるはずです」
景承は馬車を引いていた二頭へ視線を移した。
どちらも汗に濡れ、疲れ切ってはいるものの、脚を傷めている様子はない。荷車を引かせ続けるのは無理でも、人を一人乗せてゆっくり歩かせる程度なら持ちそうだった。
「ならば、この馬車は捨てよ。必要な荷だけ持ち出して、傷の重い者を馬へ乗せる。もう一頭には荷を分ければよかろう」
「それなら宿場までは行けます」
「そこで新しい馬車と馬を調達する。梁国へ向かうのは、それからじゃ」
凌華が頷いた。
「分かりました」
行き先が決まると、護衛たちはすぐに動き始めた。
壊れた馬車から荷を運び出し、必要なものと置いていくものを選り分ける。景承も手伝おうかと思ったが、ふと今の自分の立場を思い出し、何となく腕を組んで見守ることにした。
――いや。
仙の道を志す者が、荷運びをしてはならぬという決まりもない。
そう思い直しかけたところで、凌華が護衛とともに荷を持ち上げるのが見えた。
結局、景承も無言でその横へ入り、一番大きな荷を片手で持ち上げた。
「……軽いのう」
自分でも驚くほど軽かった。
凌華と護衛たちがまた黙り込む。
景承は何も見なかったことにした。
やがて荷の整理が終わり、最も傷の深かった護衛を一頭へ乗せ、残る一頭へ荷を分ける。
徒歩で進める者は歩くことになった。
梁国まではまだ遠い。
だが、まず宿場へ辿り着けば、新しい馬車と馬を用意できる。
そこからなら、数日もあれば国境を越えられるという。
少なくとも、先ほどまでのように森の中で立ち往生しているよりは遥かにましだった。
景承は歩き始めた一行の最後尾につきながら、僅かに口元を緩める。
姫と同行。
密使を護衛して梁国へ。
しかも自分は、仙の道を歩む謎の武仙ということになっている。
どう考えても、物語が始まっていた。
その身にまとっているのは今も、少し前まで瑞国軍の一兵卒として泥にまみれていたのと同じ粗末な雑兵装束だというのに。
白沢と出会い。
仙女となる身体を得て。
武功を得て。
今度は姫を救った。
景承は木々の間から覗く空を見上げた。
差し込む光が、額の宝珠へ淡く反射する。
――やはり天命ではないか?
《因果関係は確認できません》
景承は無言のまま眉を寄せた。
少し前までなら、ここで口に出して言い返していただろう。
だが、今はもうその必要がない。
――少しくらい、そういうことにしておけ。
《要求を却下します》
景承はさらに眉を寄せた。
声を出さずとも話せるのは便利である。
便利ではあるが、叡艾が叡艾であることには、何の変わりもなかった。