SF仙女武侠伝 無自覚TSサイボーグ、江湖武林を逝く! 作:モリーマ
重い扉が、左右へ開いた。
部屋は、景承が想像していたほど広くはなかった。
もちろん庶民の家とは比べものにならないが、何十人もの臣下がずらりと並び、遥か奥の玉座に国主が座っているような大広間でもない。床には磨かれた板が敷かれ、柱や梁には控えめな彫刻が施されている。正面には一段高くなった場所があり、その中央に一人の男が座っていた。
五十をいくらか越えた頃だろう。
髪にも短く整えられた髭にも白いものが混じっている。衣は見るからに上等だが、金糸銀糸をこれでもかと縫いつけたような派手さはなく、むしろ質のよいものを静かに身につけているという印象だった。
顔立ちは穏やかである。
だが、その目は景承と凌華が入ってきてから、一度も二人を見落としてはいなかった。
それが梁国国主、
梁公その人だった。
その少し下手には、もう一人の男が立っている。
こちらは国主とは対照的に、ひと目で武人だと分かった。四十代の後半ほどで、長身に広い肩を持ち、派手さのない武将装束を身にまとっている。壁際には、持ち込むことを許されたらしい長槍が立て掛けられていた。
立っているだけなのに、妙に隙がない。
景承は男を見た瞬間、少しだけ姿勢を正した。
――こやつ、強そうじゃのう。
敵兵を相手にしたときとは違う。
何がどう違うのかを説明しろと言われても困るが、足の置き方から肩の力の抜き方まで、何一つ無駄がないように見えた。
その男――梁国将軍、
しかも、かなり念入りにである。
視線が顔から額の宝珠へ移り、そこから粗末な雑兵装束へ落ちたかと思えば、もう一度ゆっくりと顔まで戻ってくる。
――やはり服なのか?
城門でも似たような視線を向けられたことを思い出し、景承は自分の袖へちらりと目を落とした。
しかし今さらどうしようもない。
景承は何事も気にしていない達人らしい顔を作り、凌華に続いて礼を取った。
「瑞公、
「よく来られた、凌華殿」
姚文泰の声は低く、落ち着いていた。
「道中で襲撃を受けたと、城門からの報せにありました。まずは無事に錦城まで辿り着かれたことを喜びたい」
「ありがとうございます。ただ、護衛の者たちが命を懸けてくれたからこそ、ここまで来ることができました」
「その話も、後ほど詳しく聞かせてもらいましょう」
姚文泰が頷く。
そこで、それまで黙っていた魏長鋒が景承へ視線を向けた。
「しかし、戦のさなかに、音に聞こえた
景承は一瞬、動きを止めた。
青嶺飛雪。
もちろん知っている。
瑞国を代表する武仙にして将軍、趙雪衡。武林にさほど興味がない者でも名くらいは聞いたことがあり、景承ともなれば当然、その異名まで知っていた。
――吾、青嶺飛雪に間違われたのか?
これは悪くない。
いや、むしろ大変よい。
あの青嶺飛雪と同じくらい、それらしい武仙に見えたということではないか。
景承の口元が僅かに緩みかける。
その横で、凌華が慌てて首を振った。
「いえ、違います。こちらは雪衡ではありません」
「……違うのですか」
魏長鋒の眉が僅かに動き、景承へ向ける視線が変わった。
「では、こちらの方は?」
「李景承殿です。道中、私たちを助けてくださいました」
凌華はそう答えると、自分たちが包囲されたときの状況を簡潔に説明した。
「朔国の兵に囲まれ、護衛も皆傷を負い、もう逃げることもできなくなっていたところを……景承殿がお一人で助けてくださったんです」
「お一人で、十人を超える朔兵を?」
「はい。しかも、それだけではありません。負傷していた護衛たちも景承殿の医功によって助けていただきました。ここまで旅を続けられたのも、そのおかげです」
「医功まで扱われるのですか」
魏長鋒が僅かに目を細めた。
その反応を見て、景承は内心で少し得意になる。
やはり珍しいらしい。
姚文泰は景承をしばらく見た後、静かに口を開いた。
「事情は分かりました。李景承殿」
「何であろう」
「まずは、凌華殿を救っていただいたことについて、梁国からも礼を申し上げたい。瑞国が崩れれば梁国にも影響は及びます。その使者がここまで辿り着けなかったとなれば、我らにとっても軽い話ではありません」
「礼には及ばぬ。たまたま通りかかっただけのこと」
景承は静かに答えた。
決まった。
やはり、この返しは使いやすい。
凌華が横から一瞬こちらを見たが、何も言わなかった。
何度か聞いているので、もう慣れたのかもしれない。
「では、凌華殿。瑞公殿からの書状を」
「はい」
凌華の表情が変わった。
先ほどまで景承について話していた娘の顔が消え、再び瑞国の使者になる。
懐から丁寧に包まれた書状を取り出し、両手で差し出した。近侍がそれを受け取り、封を確かめてから姚文泰へ渡す。
姚文泰が書状を開くと、部屋は静かになった。
紙をめくる小さな音だけが聞こえる。
景承は少し離れたところから、その顔を眺めていた。
ほとんど表情は変わらない。
時折、文字を追う目が止まるだけである。
凌華も黙って待っていたが、その肩には僅かに力が入っていた。
いよいよ、自分が命を懸けてここまで運んできた援軍要請が読まれているのだ。
しばらくして、姚文泰が書状を閉じた。
「凌華殿。一つ確認しておきたいのですが、この書状に何と記されているか、あなたはどこまでご存じです?」
凌華が僅かに眉を寄せる。
「瑞国の現状と、梁国への援軍要請について記されていると聞いております」
「それだけですか」
「……はい」
姚文泰はすぐには答えなかった。
手元の書状へ一度目を落とし、それから凌華を見る。
その間が妙に長く感じられた。
「援軍要請は、確かに記されています。ただ、それと同時に、もう一つ頼みが書かれている」
「もう一つ、ですか?」
「援軍の派遣が叶わぬ場合、あるいは今後、瑞国の存続が困難となった場合には――あなたを瑞国へ戻さず、梁国において保護してほしい、と」
凌華は動かなかった。
最初は、意味そのものが理解できなかったように見えた。
「……私を、梁国に残すようにと?」
「そうです。瑞公殿の書状には、そのようにあります」
「でも、私は援軍をお願いするためにここへ……」
「その任についても、書状に相違はありません」
凌華は何かを言おうとしたが、言葉が続かなかった。
景承には、彼女の顔から少しずつ血の気が引いていくのが分かった。
援軍を求めに行け。
母はそう命じた。
国を救うための役目だと、凌華は思っていた。
もちろんそれは嘘ではなかった。
だが、それだけではなかったのだ。
「……母上は、最初から私を帰すつもりがなかったんですか?」
凌華の声が震えた。
「少なくとも、この書状を記した時点では、最悪の場合を想定しておられたのでしょう」
「最悪の場合というのは、瑞国が滅びるということですよね。母上はそこに残って、私だけここにいろと……そういうことですか?」
「凌華殿」
「国が危ないときに、皆が戦ってるときに……私だけ安全なところにいろって?」
先ほどまで保たれていた外交使節としての口調が、完全に崩れた。
凌華は俯き、唇を噛んだ。
「そんなの……聞いてない……」
肩が小さく震える。
そして次に顔を上げたときには、もう感情を押さえ切れていなかった。
「何でよ……! 何で、私だけ……! 母上!」
声が部屋に響いた。
近侍たちが僅かに身じろぎする。
だが姚文泰も魏長鋒も、咎めるような言葉は発しなかった。
景承も黙っていた。
ここで軽々しく何かを言うべきではない気がした。
凌華は国を救うためにここまで来た。
敵に追われても戻ろうとはしなかった。護衛が傷ついても、梁国へ行かなければならないと言った。
そんな娘が、実は自分だけが生き残る道まで母に用意されていたと知ったのだ。
怒るのも当然だった。
けれど、やがて凌華の表情から激しい怒りだけが少しずつ抜けていった。
「……そんなこと、頼んでない。私だけ生き残るなんて……そんなの、頼んでないのに……」
今度の声は、ひどく小さかった。
怒りが消えたわけではない。
ただ、その奥に隠れていたものまで抑え切れなくなっている。
母は凌華を見捨てたのではない。
むしろ逆なのだ。
瑞国が滅びても、自分だけは生き残らせようとしている。
凌華自身も、それが分かってしまったのだろう。
だからこそ、なおさら受け入れられない。
国に母を残し、兵を残し、民を残し、自分だけが梁国で生き延びる。
彼女がここまで命を懸けて旅を続けてきた理由とは、あまりにも逆だった。
姚文泰は何も急かさなかった。
凌華が俯いたまま、自分で呼吸を整えるのを静かに待っていた。
やがて凌華は大きく一度息を吸い、握り締めていた手をゆっくりと開いた。
「……申し訳ありません。取り乱しました」
「構いません。瑞公殿も、あなたをここへ捨て置きたいわけではないでしょう」
「分かっています。母上が何を考えたのかも……たぶん分かっています。でも、だからって、私だけ安全な場所に残るなんて……」
そこまで言って、凌華は口を閉じた。
しばらくして顔を上げたときには、まだ目の奥に感情を残しながらも、再び使者としての表情を取り戻そうとしていた。
「援軍のことを、先にお願いします。私のことは、その後で構いません」
姚文泰が僅かに目を細める。
「分かりました。では、援軍について話しましょう」
書状を机の上へ置き、今度は真正面から凌華を見る。
「瑞国が置かれている状況については、我が国もある程度把握しています。長風原方面で朔国が攻勢を強めていることも、瑞国軍が消耗していることも」
「はい」
「我々も、瑞国を見捨てれば済むとは考えていません。瑞国が崩れれば、次に朔国の圧力を受けるのは梁国です」
凌華の目に希望が浮かんだ。
「では、援軍を――」
「ですが、すぐに兵を出すと約束することもできません」
その言葉に、凌華の表情が引き締まる。
「援軍を送るとは、梁国も朔国との戦へ本格的に足を踏み入れるということです。兵を出せば死者が出る。兵糧も必要になる。残された土地の守りも薄くなるでしょう。皇朝内での名目も整えねばならない」
姚文泰の口調は穏やかだった。
それだけに、一つ一つの言葉が重かった。
「どれほどの兵を、どの道から、いつ出すのか。瑞国軍があとどれほど持ち堪えられるのか。戦へ入った後、梁国自身の守りをどうするのか。それらを確かめず、友好国だからという情だけで兵を動かすことはできません」
「……分かっています。それでも、瑞国には時間がありません」
「でしょうな。だからこそ、詳しく聞く必要があります」
そこから凌華は、瑞国を出てからここまでの経緯を話した。
密使として動いていたにもかかわらず朔国側に察知され、追撃を受けたこと。逃げる途中で護衛の一人が敵を足止めするために残り、その後も追撃が止まらなかったこと。
馬車の車輪が街道脇の根へ乗り上げて壊れ、ついには徒歩で逃げることすらできなくなった。残った護衛たちも傷を負い、朔兵に包囲され、あと僅かで一行すべてが斬られるところまで追い詰められた。
そして、そこで現れたのが景承だった。
「景承殿に助けていただかなければ、私はここにはいませんでした」
凌華がそう言うと、再び部屋の視線が景承へ集まった。
――来たか。
景承は静かな顔を保ったが、内心では少しだけ緊張した。
先ほどまでは凌華の話だった。
今度は、自分が調べられる番らしい。
「李景承殿。不躾を承知で、一つ伺いたい」
魏長鋒が口を開いた。
「構わぬ。申されよ」
「どちらの門派で修行を?」
景承は一瞬黙った。
――門派か。
当然の質問である。
普通の武仙なら、どこかの門派で内功を修め、そこで仙丹を得て武仙になる。
青嶺派、長河派、鎮岳派。有名どころだけでもいくつもある。
だが景承は、どこにも属していない。
「特定の門派には属しておらぬ」
魏長鋒の目が僅かに細くなる。
「では、師はどなたです。今の内功は、どなたから学ばれた?」
「定めた師はおらぬ」
景承は少しだけ考えた。
白沢は師ではない。
叡艾も、師と言うのは違う気がする。
ならば、ここはもっと大きなものを持ち出せばよい。
「敢えて言うならば――天こそが我が師なり」
魏長鋒の目が更に細くなり、姚文泰も口を挟まなかった。
景承としては、かなり良い返答ができたつもりだった。
天を師とする。
いかにも門派の枠に収まらぬ仙人めいた言葉ではないか。
しかし、二人の沈黙を見る限り、それだけでは説明として足りないらしい。
景承は、その沈黙を「もっと詳しく聞きたいのだ」と都合よく解釈することにした。
「吾は元より仙道を志しておってな。俗世を離れ、山中に籠って修行しておった」
どれほどの間とは言わない。
そこは重要である。
実際に森にはいた。
籠ったと言っても嘘ではない。
時間を聞かれさえしなければよい。
「その折、幸いにも仙縁に恵まれ、神獣、
今度は姚文泰の表情にも変化が出た。
魏長鋒の細くなった目に鋭さが追加された。
効いている。
景承はそう判断した。
「白沢殿より仙丹を授かり、これを服して内力を得た。そして、その力をもって太和拳の拳理を得るに至った。今の吾の武は、そこから生まれたものじゃ」
言い終えたところで、部屋へ静寂が落ちた。
景承は動かなかった。
表情も崩さない。
――決まった。
仙を志し、山中に籠り、天を師とし、神獣と出会って仙丹を授かり、拳理を得る。
我ながら完璧な来歴である。
これ以上、武侠物語の主人公らしいものがあるだろうか。
――叡艾。
声に出さず、
――今のは、かなりよかったのではないか?
《評価基準が不明です》
――格好よかったかと聞いておる。
《回答不能》
――そこは肯定せぬか。
《事実関係について複数の省略を確認しています》
景承は表情を保ったまま、内心だけでむっとした。
――嘘は言っておらぬぞ。
《山中滞在時間について補足しますか》
――絶対にするでない。
《了解》
危ないところだった。
危うく一日にも満たない仙道修行の実態を暴露されるところである。
もちろん叡艾の声は、景承にしか聞こえていない。
外から見れば、景承は自らの数奇な来歴を語り終えたあと、静かに佇んでいるだけだった。
それがかえって怪しかった。
「……白沢、ですか。伝承に現れる、あの神獣の?」
姚文泰がゆっくりと尋ねる。
「その通りじゃ。吾が会ったものが伝承の白沢であれば、そうなる」
景承なりに少しだけ慎重に答えた。
姚文泰も魏長鋒も、しばらく何も言わなかった。
景承は少し不安になった。
――あれ?
思っていた反応と違う。
もっとこう、「なんと」「まさか神獣に」「さすがは仙縁を得た者」とでも感心されるものだと思っていた。
実際に返ってきたのは、ひどく長く感じられる沈黙だった。
やがて魏長鋒が口を開く。
「太和拳と仰いましたが、失礼ながら、私の知る太和拳は皇朝のどこにでもある拳法です。健康のために習う者すら珍しくない。その太和拳を、武仙功にまで高められたと?」
「そうじゃな。広く知られた拳ではあるが、拳理そのものが浅いわけではない。吾はそこへ得た力を重ねたにすぎぬ」
また僅かな沈黙が落ちた。
今度は景承にも、何となく分かってきた。
――もしかして、信じておらぬのか?
考えてみれば、少しおかしいのかもしれない。
いや。
景承の中では何一つおかしくない。
実際に白沢には会ったし、仙丹らしきものも貰った。太和拳を基に武功を作ったのも事実である。
しかし他人から聞けば、どこの門派にも属していない。定まった師もおらず、敢えて言えば師は天。山に籠っていた期間は不明で、そこで伝説の神獣と出会い、仙丹を授かり、誰でも知っている太和拳を武仙功へ昇華した。
――む。
確かに、少しだけ怪しいかもしれない。
「李景承殿」
姚文泰の声は変わらず穏やかだった。
「あなたが凌華殿を救ってくださったことを疑っているわけではありません。護衛たちの傷も確認させていますし、彼らがあなたに救われたと口を揃えていることも聞きました」
「承知しておる」
「しかし、こちらも国を預かる身です。朔国との戦が続くこの時期に、出自の知れない武仙が突然現れ、瑞公の娘を救い、そのまま梁都まで同行している。事情を問わず、そのまま信じるわけにはいきません」
言葉は丁寧だった。
だが、意味は明確だった。
疑われている。
しかも、どうやら先ほどより疑いが深くなっている。
――叡艾。おかしくないか?
《何がでしょうか》
――吾はきちんと来歴を説明したであろう。なぜ説明する前より怪しまれておる。
《一般的な武仙の経歴との乖離が大きいためと推測します》
――神獣に仙丹を授かったのじゃぞ。むしろ立派な来歴ではないか。
《立派であることと、信頼性が高いことは同義ではありません》
景承は危うく眉をひそめそうになった。
――……おぬし、たまに妙に腹立つことを言うのう。
《評価不能》
まったく、頼りになるのかならないのか分からない相棒である。
「梁公」
凌華が口を挟んだ。
「景承殿が私たちを助けてくださったことだけは、私が保証します。景承殿がいなければ、私はここへ辿り着けませんでした」
「それは疑っていません」
姚文泰は凌華へ向けて僅かに表情を和らげた。
「問題は、この方が何者なのかということです。なぜ今まで名を聞かなかったほどの武仙が、この時期に突然現れたのか。なぜあなたを助け、そのまま梁都まで同行したのか。朔国との戦が続く今、それを確かめぬまま済ませることはできません」
凌華は何か言い返そうとしたが、結局その言葉を飲み込んだ。
それについては、彼女にも答えられない。
景承自身ですら、まともに説明しようとすれば非常にややこしいのである。
姚文泰の言い方は穏やかだったが、警戒していることだけは景承にも分かった。
先ほどの話を信じていないのか、それとももっと別の何かを疑っているのか。
そこまでは読み取れない。
そこで魏長鋒が、それまで組んでいた腕を解いた。
「梁公。一つ、よろしいでしょうか」
「何だ」
「言葉だけでは確かめられぬこともあります」
魏長鋒が景承を見る。
先ほどまでの探るような視線ではない。
武人が武人を見る目だった。
「李景承殿。凌華殿と護衛たちの証言が一致している以上、あなたが武仙に比肩する力を持つこと自体を疑う必要はないのでしょう。もし差し支えなければ――私に一手、ご指南いただけませんかな」
景承は目を瞬いた。
「……吾と、魏将軍が?」
「はい。無論、あくまで手合わせです」
景承は改めて魏長鋒を見る。
壁際に立て掛けられた長槍、鍛えられた身体、そして先ほどから崩れない静かな立ち姿。
「魏将軍は、梁国でも指折りの武仙です」
凌華が小声で教えてくれた。
「長河派の達人で、
――銀槍鉄壁。
景承もその名には聞き覚えがあった。
梁国の武仙について詳しく調べたことまではなかったが、武林に名の通った者の異名となれば、景承の記憶にも残っている。
それほどの人物が、自分へ手合わせを求めている。
胸の奥が、俄然むずむずしてきた。
これまで戦ったのは兵士だけであり、普通の武人を遥かに上回る力を得たことは理解している。しかし、本物の武仙、それも異名を持つほど名の通った上位武仙とは、まだ一度も拳を交えたことがない。
これは、非常に試してみたい。
ただし、ここで即座に喜んではならない。
達人は、強敵との手合わせを頼まれて子供のようにはしゃいだりしないのである。
景承は胸の内に湧き上がる期待を押し隠し、静かに頷いた。
「承知した。吾も、梁国で名高い武仙の技には興味がある。一手、お相手願おう」
魏長鋒が静かに一礼した。
「感謝します」
景承も小さく礼を返す。
――叡艾。
《はい》
――今の返しはどうじゃ?
《先ほどより社会的摩擦の可能性は低下しています》
――そこでは「格好よい」と言えばよかろう!
《要求を受理しません》
景承は表情を変えないまま、内心だけで唇を尖らせた。
梁国へ来て最初の謁見は、いつの間にか援軍の話だけでは済まなくなっている。
魏長鋒が何を考えて手合わせを申し出たのか、景承にはまだ読み切れない。
自分の来歴を疑っている以上、ただ武を競いたいだけではないのかもしれないが、その辺りを考え続けるより、今の景承にはもっと気になることがあった。
これから初めて、名のある本物の武仙と拳を交える。
その事実だけで、胸の内に湧く期待を完全に押し隠すのは、なかなか難しかった。