執政に転生って…そりゃないよ… 作:おーまいぐっどねす
数千年という時間は、人間にとってあまりにも長い。
国が生まれ、王朝が滅び、かつて栄華を誇った都市が土の下へ埋もれる。神々の名さえ忘れ去られ、歴史書に記された出来事が、いつしか民間伝承と区別できなくなることも珍しくない。
だが、それほどの歳月を経ても、消えずに残るものがある。
ロノヴァは今、その一つを前にしていた。
「……何だ、これ」
金色の瞳に映っているのは、モンド城内の小さな交易商会だった。
石造りの建物の一階には商人たちが集まり、荷の受け渡しや運搬経路について話し合っている。壁には周辺地域の地図が掛けられ、机の上には帳簿と伝票が山積みになっていた。
どこにでもありそうな光景だ。
少なくとも、神がわざわざ注目するような場所には見えない。
しかし、その建物の入口には、一つの印が掲げられていた。
荷車の車輪。
その片隅に添えられた、細い葉の模様。
先ほど古い記録の中で見つけた印と、ほとんど同じものだった。
(……まだ使われてるのか)
ロノヴァは観測の焦点を絞り、建物の内部へ意識を向けた。
帳簿を整理している商人。
出発時刻を確認する荷運び人。
窓際では、若い女性が小さな木箱へ薬品や包帯を詰めている。箱の蓋にも、例の印が刻まれていた。
どうやら、単なる商会の紋章ではないらしい。
女性は箱を閉じると、近くにいた男へ声を掛けた。
「南の街道へ出る荷車には、これも載せてください。昨日、あちらで魔物が出たそうなので」
「またか。最近は風魔龍の噂だけでも物騒だってのに」
「だからこそですよ。怪我人を見つけても、何もできなければ困るでしょう?」
男は少し面倒そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「分かったよ。いつもの救護用品だな」
「ええ。使わずに済めば、それが一番です」
女性はそう答え、次の木箱を手に取った。
ロノヴァは黙ってその様子を見つめていた。
救護用品を荷車へ積む。
ただそれだけのことだ。
現代日本なら、特に驚くような発想でもない。だが、魔物が徘徊し、都市と都市の間を移動するだけでも危険を伴うテイワットでは、こうした備えに意味がある。
何より、その取り組みが一つの商会だけで終わっていないらしいことが気になった。
壁に貼られた連絡先には、モンド各地の商人や宿場の名前が並んでいる。さらに遠方の璃月方面へ荷を運ぶ商隊との取り決めまで記載されていた。
荷車を貸し出す。
怪我人を運ぶ。
街道沿いの集落と連絡を取り合う。
必要な薬品を事前に準備しておく。
その一つ一つは小さな工夫でしかない。
しかし、組み合わせれば随分と役に立つだろう。
(……民間の救護網、みたいなものか)
興味を覚え、ロノヴァは商会の記録をさらに調べ始めた。
もちろん、すべての文書を一瞬で理解できるわけではない。記された文字を読み、異なる時代の資料を照らし合わせ、途切れた系譜については別の記録を探す必要があった。
それでも、執政としての知覚を使えば、通常の人間より遥かに広い範囲を調べられる。
ロノヴァは建物の奥に保管されていた古い帳簿へ意識を向けた。
最も古いものでも、書かれたのは数百年前だった。
しかし、そこにはさらに古い商人たちの慣習についての記述があった。
交易路で負傷者を見つけた場合、可能な範囲で安全な場所へ運ぶこと。
荷車に余裕があれば、怪我人の搬送を優先すること。
そして、救護のために使われた物資の費用は、関係する商人たちが分担すること。
内容は時代によって少しずつ違っていたが、共通する考え方は変わっていない。
さらに調べていくと、その慣習の起源について、興味深い一節が見つかった。
遠い昔、璃月の山間部で商いをしていた一族が、旅人に命を救われた。
その恩を忘れぬため、彼らは負傷者を運ぶ荷車を用意し、困窮した旅人を助けるようになったという。
商いの規模が広がるにつれ、その習慣は別の商人たちにも伝わっていった。
もっとも、記録の筆者自身も、その話がどこまで事実なのかは分からないと断っていた。
四千年近くも前の出来事だ。
途中で別の伝承が混ざっていたとしても、不思議ではない。
「……ふむ」
ロノヴァは小さく唸った。
分身が地上へ降りた時期と、伝承の起点とされる年代は近い。
しかも、記録に残された白髪の旅人という特徴まで一致している。
偶然と考えるには、少々出来すぎていた。
しかし、もう一つ気になることがある。
(……これ、私が知っている原作にはなかったよな)
いや、違う。
そう考えてから、ロノヴァはすぐに自分の認識を訂正した。
原作に登場しなかったことと、存在しなかったことは同じではない。
ゲームで表現されたモンドは、この世界のほんの一部分に過ぎない。交易商会や地方の商人たちについて、すべての情報が描かれていたわけでもなかった。
だから、この組織が存在すること自体を原作改変の証拠と呼ぶのは早計だ。
問題は、別のところにある。
その起源に、自分の分身が関わっている可能性が高いことだった。
もし本当にそうなら、分身が助けた一人の人間をきっかけに生まれた習慣が、数千年を経てモンドにまで伝わっていることになる。
個人の救済が、本人の寿命を超えて影響を残したということだ。
「……いや、待て待て」
ロノヴァは片手で額を押さえた。
別に悪いことではない。
むしろ、誰かを救うための仕組みが広まったというなら、喜ばしい話ですらある。
それ自体を責めるつもりはなかった。
だが、分身には歴史へ過剰に介入しないよう、何度も注意したはずだった。
実際、本人も了承していた。
にもかかわらず、残された記録を見る限り、あの女は地上へ降りて早々、人間の生活に深く関わっていたらしい。
(……あいつ、最初から全然遠慮してないじゃないか)
長い沈黙の後、ロノヴァは小さくため息をついた。
自分で作っておいて何だが、分身の行動原理は実に分かりやすい。
困っている人間を見つける。
助ける。
その後の面倒も、必要なら見る。
そういう人格を残したのは、他ならぬ自分自身だった。
問題は、その性格を持った存在が、普通の人間とは比較にならない寿命を持っていることだ。
一人を助ける。
その人間が家庭を持つ。
子供が生まれる。
子孫が新たな文化や仕組みを作る。
そうした変化が幾世代も積み重なれば、やがて国境を越えることもある。
分身が直接何かを命じなくても、歴史は変わっていく。
(……これ、思ったより厄介だな)
ロノヴァは、改めて壁に掲げられた小さな紋章を見つめた。
たった一人の人間を助けただけで、数千年後の世界に何かが残る。
ならば、数千年間にわたって人助けを繰り返した場合はどうなるのか。
その答えについて、あまり考えたくなかった。
その頃、モンド城の外では、一台の荷車が慌ただしく準備を進めていた。
御者台に座る若い男が手綱を確かめ、その隣では商会の女性が積み荷の状態を確認している。荷の大半は食料や生活用品だったが、片隅には救護用品を収めた木箱が二つ載せられていた。
「南の道は使わないでくださいね。昨日、ヒルチャールの群れが見つかったそうですから」
「分かってる。少し遠回りにはなるが、清泉町の方から回るさ」
「それと、途中で怪我人を見かけたら――」
「運べるなら運ぶ。何度も聞いたよ」
御者は苦笑しながら答えた。
女性も小さく笑う。
「分かっているならいいんです」
二人のやり取りを眺めながら、ロノヴァは少しだけ眉を緩めた。
どうやら、例の慣習は今でも形だけではないらしい。
救護用品を積み、怪我人を見つければ可能な範囲で助ける。
簡単なことのように聞こえるが、実際に続けるには費用も人手も必要だ。商売をしている以上、他人のために時間を使えば、その分だけ利益が減ることもあるだろう。
それでも、彼らは続けている。
遠い昔に誰かが始めた習慣を、今の時代に合わせて少しずつ変えながら。
(……まあ、悪い影響ではないか)
少なくとも、今見ている限りでは。
そう考えた直後だった。
モンドの西方、囁きの森の奥で、風の流れがわずかに乱れた。
ロノヴァは視線を向ける。
巨大な龍の気配。
そして、その近くにいる二つの存在。
一方は小柄な浮遊する生き物。もう一方は、金色の髪を持つ少女だった。
「……あ」
思わず声が漏れた。
蛍。
前世の記憶に残る、原神の主人公。
長く待ち続けていた旅人が、ついに物語の舞台へ現れたのだ。
ロノヴァは交易商会から意識を離し、森の様子へ観測を集中させた。
木々の間に、大きな青い龍がいる。
その前には、緑色の服を纏った少年の姿をした存在。
バルバトス。
今はウェンティという名で、人間の吟遊詩人として活動している風神だ。
どうやら、彼がトワリンと接触している場面らしい。
蛍とパイモンは、少し離れた場所からその様子を窺っていた。
(……ここか)
懐かしさが込み上げてくる。
何度も見たゲーム序盤の光景が、今まさに現実として起こっている。
蛍が身を隠そうとした、その時。
風の元素が微かに揺らいだ。
トワリンが警戒する。
ウェンティの声が途切れ、次の瞬間、龍の咆哮が森を震わせた。
巨大な翼が広がる。
突風が木々を揺さぶり、落ち葉が激しく舞い上がった。
蛍とパイモンが身を低くする間に、トワリンは空へ飛び去っていく。
残されたウェンティも、ほどなくして姿を消した。
ロノヴァはしばらく、その光景を見つめていた。
「……原作通り、か」
少なくとも、この場面は記憶していたものと大きく変わっていなかった。
蛍はこれからアンバーと出会い、モンド城へ向かう。
そこで風魔龍による騒動に巻き込まれ、西風騎士団と関わりを持つことになるはずだ。
ロノヴァは胸を撫で下ろした。
分身が数千年にわたって何をしていたとしても、旅人の物語が始まる条件は保たれているらしい。
それは少し安心できる材料だった。
ただし、油断はできない。
何しろ、あの分身が関わった範囲について、まだほとんど把握できていないのだから。
ロノヴァは観測を続けようとして、ふと考え直した。
(……いや、今はこっちを追うべきか)
蛍の旅を見届けたい気持ちはある。
しかし、少なくともモンド序章については、前世の知識が残っている。
大筋が原作と一致しているなら、必要以上に観測する意味は薄い。
それよりも優先すべきことがあった。
自分の分身が、過去に何をしたのか。
そして、それが現在の世界へどのような影響を残しているのか。
そちらを把握しなければ、今後の展開についても判断できない。
「……まったく」
ロノヴァは小さくため息をついた。
せっかく原作が始まったというのに、のんびり見物する余裕もない。
いや、今まで数千年も細かく調べてこなかった自分にも問題はあるのだが。
それを認めると、余計に気が重くなった。
モンド城に風魔龍が現れたのは、それから間もなくのことだった。
巨大な影が城壁を越え、鋭い咆哮が石造りの街並みに響き渡る。暴風が通りを駆け抜け、屋台の布が引き裂かれ、積み上げられた木箱が次々と崩れていった。
人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。
西風騎士団の騎士たちが市民を誘導し、店主たちは慌てて扉を閉めていた。
ロノヴァは、その光景を静かに見下ろしていた。
当然ながら、何も感じないわけではない。
突風に煽られた人々が転倒し、荷物の下敷きになった者もいる。傷ついた者の気配が、街のあちこちに生まれていた。
その一つ一つを感じ取るたび、手を伸ばしたくなる。
しかし、今回の事件には蛍がいる。
そしてウェンティもいる。
彼らが動き、トワリンを救うことで、モンドの物語は進んでいく。
ここで死の執政が姿を現し、龍を力ずくで押さえ込む理由はない。
ロノヴァは自分へ言い聞かせるように、ゆっくりと息を吐いた。
(……任せよう)
その判断に、偽りはなかった。
ただ、だからといって市民の被害を見ていて平気というわけでもない。
視線を逸らそうとした、その時だった。
広場に近い通りで、一人の男が崩れた荷物の下敷きになった。
木箱の角が脚に当たったらしく、男は苦痛に顔を歪めている。
周囲の人々は避難に追われており、すぐには助けられそうになかった。
ロノヴァは反射的に意識を集中させた。
まだ命に関わる状態ではない。
しかし、このまま風が強くなれば、さらに荷物が崩れる可能性がある。
ほんの少しだけ干渉すれば、男を安全な場所へ移すこともできるだろう。
そう考えた直後、通りの向こうから人影が現れた。
「こっちです! 怪我人がいます!」
叫んでいたのは、先ほど商会で救護用品を準備していた女性だった。
彼女の後ろから、数人の男たちが駆け寄ってくる。
そのうち二人が崩れた木箱を押さえ、残りの者が下敷きになった男を引き出した。
「立てますか?」
「……足が、痛くて……」
「無理に動かないでください。荷車を持ってきていますから」
女性は素早く傷の状態を確かめ、持参した布で出血している箇所を保護した。
その間にも、別の男が救護用の荷車を引いてくる。
怪我人は慎重に荷台へ寝かされ、数人がかりで安全な場所へ運ばれていった。
ロノヴァは、その一部始終を黙って見つめていた。
自分が何かをする必要はなかった。
人間たちだけで、必要な対応を終えてしまったのだ。
「…………」
しばらくして、ロノヴァは小さく息を吐いた。
男は助かった。
少なくとも、今のところ命に関わる危険はない。
救護を担当した者たちも、慣れた様子で次の負傷者を探し始めていた。
特別な力など使っていない。
神の加護があったわけでもない。
彼らは人間としての知識と経験を使い、目の前の誰かを助けた。
そして、その人間たちが使用していた荷車には、あの印が刻まれていた。
車輪と、一枚の葉。
(……そういうことか)
ロノヴァは、ようやく少し理解した気がした。
分身が救った人間たちは、寿命を迎えれば当然死んでいく。
それでも、救済の影響は本人の死によって消えるわけではない。
助かった人間が、別の誰かを助ける。
その経験が次の世代へ伝わる。
そして何百年、何千年もの時間を経て、まったく別の場所で新たな命を救うこともある。
なるほど。
これは確かに、原作で描かれた歴史とは少し違うのかもしれない。
だが、少なくとも今見た光景については、悪い変化だとは思えなかった。
「……困ったな」
ロノヴァは苦笑した。
分身が歴史へ介入したことを確認するため、調査を始めたはずだった。
ところが、最初に見つかったのは、責めるどころか褒めたくなるような結果である。
しかも、この結果を見てしまうと、一つの疑問が浮かんでくる。
もし分身が、同じような救済を数千年間にわたって続けていたとしたら。
その中には、もっと大きな影響を残したものもあるのではないか。
そして、それがすべて良い結果だったとは限らない。
ロノヴァは、改めて地上へ意識を向けた。
やはり、分身に直接話を聞く必要がありそうだった。
風魔龍の騒動がひとまず収まり、人々が片付けを始めた頃。
ロノヴァは再び、例の商会へ観測を戻していた。
建物の一階では、負傷者の搬送に使った物資の確認が行われている。
幸い、商会そのものに大きな被害はなかったらしい。
女性は帳簿を開き、使用した薬品や布の数を書き込んでいた。
その傍らで、年配の商人が小さく笑う。
「いやあ、備えておいて正解だったな」
「だから言ったでしょう。何かあってからでは遅いんです」
「分かってるよ。お前の言う通りだ」
男は肩をすくめ、壁に掛けられた紋章へ目を向けた。
「しかし、あの印も随分と長いこと使われてるもんだ」
「そうですね。うちの祖父も、昔からある印だと言っていました」
「祖父どころの話じゃないらしいぞ。元を辿れば、璃月の古い商人たちが使っていたものだそうだ」
女性は興味深そうに顔を上げた。
「そういえば、先月も似たようなことを言っている旅人がいましたね」
ロノヴァの意識が、わずかに止まった。
「……旅人?」
思わず呟く。
もちろん、地上の二人にその声は届かない。
年配の商人も、同じように聞き返していた。
「ああ、あの白い髪の?」
「ええ。ずいぶん変わった方でしたけど」
女性は小さく笑った。
「うちの印を見て、懐かしいって言うんです。しかも、最初からその形だったわけじゃないとか、随分詳しく知っているみたいで」
「歴史に詳しい旅人だったんだろうな」
「それにしては、妙に嬉しそうでしたよ。『まだ残ってたんだ』って、何度も印を眺めていましたから」
「はは。古いものが好きなんだろう」
男は何でもないことのように笑った。
女性もそれ以上は気にせず、帳簿へ視線を戻す。
だが、ロノヴァは笑えなかった。
(……おい)
長い白髪。
金色の瞳。
歴史の古い紋章を見て、懐かしいと笑う女。
しかも、最初の形まで知っているらしい。
普通の旅人にしては、随分と事情に詳しいではないか。
(……先月?)
ロノヴァは思わず眉を寄せた。
つまり分身は、つい最近までモンドにいた可能性がある。
数千年前の伝承だけではない。
今でも地上を歩き、普通に人間と交流しているのだ。
何とも言えない気分だった。
自分が天上で執政の務めを果たしている間、分身は各地を旅し、食事を楽しみ、知らない人間と出会っている。
しかも、その結果として残されたものが、こうして数千年後の世界へ影響している。
「……お前、楽しそうだなあ」
半ば呆れたように呟く。
しかし、そこで一つ気付いた。
もし分身が自分の過去の行動を認識しているなら、話は少し変わる。
最初は偶然の救済だったとしても、その後に影響が広がっていることくらい、長く生きていれば気付くはずだ。
それでもなお、人間社会との関わりを続けている。
つまり分身は、結果をある程度理解したうえで行動している可能性がある。
(……いや、あいつのことだからな)
何も考えていないとは思わない。
しかし、考えた末に、
『まあ、何とかなるだろ』
と結論づけている可能性は十分にあった。
実に困ったことだ。
なぜなら、それは前世の自分にも覚えのある思考だったからである。
「……駄目だ。やっぱり直接会って聞こう」
ロノヴァは静かに決意した。
ただし、すぐに地上へ降りるわけにはいかない。
本体として降臨する以上、天理の影としての性質を不用意に露出させることは避けたい。そもそも、自分が地上へ直接介入することには、分身を作った時から警戒していた理由がある。
まずは現在の居場所を絞り込む。
それから、本体としての権能をどこまで抑えられるか確認する。
必要なら、地上で目立たず行動するための準備もしておかなければならない。
ロノヴァは頭の中で手順を組み立て始めた。
相手は自分の分身だ。
人格も、元になった記憶も同じ。
だから事情を説明すれば、きっと理解してくれるはずだ。
……多少は言い訳をするかもしれないが。
「……まあ、まずは話し合いだな」
そう呟いた時、不意に一つの考えが頭をよぎった。
もし分身が、本当に数千年間にわたって人々の命を救っていたとしたら。
原作開始時点で死んでいるはずの存在が、今も生きている可能性はないだろうか。
普通の人間なら、寿命がある。
たとえ救われたとしても、数千年を生き延びることはまずない。
だが、テイワットには長命な種族が数多く存在する。
仙人。
妖怪。
元素生命。
そして、魔神。
彼らの中には、数千年という時間を生きる者もいる。
もし分身が、そうした存在の死に介入していたら。
「…………」
ロノヴァは、ゆっくりと口を閉じた。
嫌な想像だった。
いや、考えないようにしていた可能性と言うべきだろう。
自分は、分身に魔神級の力しか与えていない。
死の権能も限定的なものだ。
だから、世界規模の改変など起こせないと思っていた。
だが、よく考えてみれば、強大な権能を使わなくても歴史を変えることはできる。
傷ついた魔神を安全な場所へ運ぶ。
死にかけた仙人へ治療の時間を与える。
暴走した妖怪を殺さずに拘束する。
そうした行為の一つ一つは、分身にも実行可能だ。
そして、救われた者が長命であるなら。
その結果は、数千年後の現在まで残り続ける。
「……いやいや」
ロノヴァは首を振った。
「さすがに、そこまでは……」
だが、言葉は最後まで続かなかった。
目の前には、例の商会の紋章がある。
数千年前の小さな救済から始まったかもしれない習慣が、今ではモンドの人間たちを助けている。
それは確かな事実だった。
ならば、もっと大きな救済があってもおかしくない。
むしろ、四千年近い時間を考えれば、何もなかったと思う方が不自然なのかもしれない。
ロノヴァは、しばらく沈黙した。
やがて意識をモンドから離し、南西へ向ける。
山々が連なり、古い伝承と神々の記憶が数多く残る国。
璃月。
そこは、分身が最初に降りた土地に近い。
そして何より、自分の知る原作では、魔神戦争によって数多くの神々が命を落とした場所でもあった。
ロノヴァは静かに息を吐いた。
「……一応、確認するか」
まずは過去の記録を調べよう。
可能なら、分身が地上へ降りてからの出来事を、年代ごとに整理する。
そのうえで、明らかに不自然な点がないかを確かめればいい。
何もなければ、それでいい。
仮に多少の改変があったとしても、対応できる範囲なら問題ない。
そう考えながら、ロノヴァは璃月の古い歴史へ意識を向けた。
魔神戦争。
帰離集。
岩王帝君。
そして、塵の魔神。
前世の記憶に残る名前が、一つずつ浮かび上がる。
そこで、ロノヴァはふと考えた。
(……帰終、か)
塵の魔神・帰終。
魔神戦争の時代に命を落とし、後世に多くの伝承を残した存在。
彼女の死は、帰離集の歴史と深く結びついている。
もし、そのような重要人物にまで分身が介入していたとしたら。
さすがに、原作の歴史へ大きな影響が出るだろう。
「……まあ、ないか」
ロノヴァは小さく笑った。
いくら分身でも、そんな都合よく重要人物の死に立ち会えるはずがない。
そもそも、魔神戦争の戦場へ首を突っ込まないよう、最初に注意していたのだ。
自分の人格を元にしている以上、それくらいの判断はできるだろう。
そう考え直し、ロノヴァは古い記録の確認を始めた。
しかし、しばらくして。
ある一節を読み進めていた彼女の指先が、ぴたりと止まった。
「…………ん?」
もう一度、記述を確認する。
そこに書かれている歴史そのものは、前世の知識と大きく矛盾していなかった。
帰離集は滅びた。
塵の魔神は死亡した。
人々は土地を離れ、後の璃月港へと繋がる歴史を歩んでいる。
問題は、その後に続いていた、ごく短い記述だった。
当時の戦乱について後世に残された、出所の定かでない伝承。
そこには、戦場の跡で白髪の女が何かを探していたという話が記されていた。
それだけなら、単なる逸話で済む。
しかし、女が何を探していたのかという問いに対して、伝承は奇妙な答えを残していた。
――まだ、間に合うものを。
「…………」
ロノヴァは動かなかった。
記録の信憑性は分からない。
後世に作られた話かもしれない。
偶然、似たような姿の女性がいただけという可能性もある。
そして、その言葉が本当に何を意味していたのかも不明だった。
だが、どうにも引っ掛かる。
見覚えがあるのだ。
その考え方に。
その言葉の選び方に。
何より、目の前で失われようとしているものへ手を伸ばさずにはいられない、その性分に。
ロノヴァはゆっくりと目を閉じた。
それから、深く息を吐く。
「……お前、まさか」
数千年前、地上へ送り込んだもう一人の自分。
あの女は、果たしてどこまで歴史へ介入していたのだろう。
そして、何を救ったのだろう。
ロノヴァは、もう一度記録へ目を向けた。
今度は、先ほどよりも遥かに慎重に。
塵の魔神の死を巡る、約三千七百年前の記録。
その調査は、これまでの楽観的な予想を覆すことになる。
だが、この時のロノヴァは、まだそれを知らなかった。