NEIGHBOR-鎮魂戦争-   作:トライアゲイン

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これはどこかであった「絆」のお話


10年目のプレリュード

誰もがこの世界に対して様々な期待や夢、願いを抱いている。

 

愛する人と幸せな人生を共に過ごすこと。

 

世界の平和を守ること。

 

自分の夢をかなえること。

 

それは特別な人間だけが抱くものではない。

横浜の街を行きかう人々も同じようにそれぞれの人生を生きている。

朝になれば仕事へ向かい、学校へ行き、家族を送り出す。休日になれば恋人や友人と街へ出かけ、海を眺め、食事をし、何気ない会話に笑う。

それは誰かにとっては当たり前の一日。誰かにとっては人生で一番幸せな一日。

 

そして……その一日が明日も続くと誰もが信じている。

けれど人々が抱く願いや希望は、時に現実との衝突により悲しい争いを引き起こす。

これは、そんな「願い」と「現実」の狭間で翻弄された人間たちの物語である。

 

 

 

雨の夜。

横浜市内のとある震災慰霊碑。その日は夜から小雨が降っていた。

闇の中、雨粒が絶え間なく碑を叩いている。済んだ雨音はまるでピアノが奏でられる静かな、小さな曲のようであった。

慰霊碑を囲む木々からは雨に濡れた葉の匂いが漂う。

遠くでは濡れた道路を走る車の音がする。

だがその「演奏」の音は、次第に早くなり、やがて夜の静寂を切り裂く世話債なく騒がしい雑音へと変わった。

 

その中に別の音が混じっている。

それは足音だった。ゆっくりと、次第に早く、そして再びゆっくりと。

最後にその足音は止まった。

 

同時に周囲の雨に生じていた僅かな揺らぎも消えた。

慰霊碑の中央に円弧状の影が浮かび上がった。

 

そこに漂う重苦しい空気も、いっそう深まった。

 

影の主である青年が腰を屈めた。

 

片手には黒い傘。

 

もう片方の手には、白百合の花束。

 

青年はそれを、目の前に立つ墓碑の下へ静かに置いた。

 

そして、ゆっくりと立ち上がる。

 

視線は、墓碑に刻まれた碑文から離れない。

 

街灯に照らされた澄んだ瞳が、かすかな光を帯びている。

 

その瞳は、この暗い夜に灯る一つの明かりのようだった。

 

墓碑の闇を照らし、そしてそこに刻まれた、ひときわ目立つ三文字を浮かび上がらせる。

 

――樟鞘香。

 

青年――佐渡駿平は、ただ黙ってその名を見つめていた。

 

その頃。

 

横浜の街では、十年前の1月1日に発生した災害を振り返る投稿が、SNSのタイムラインを埋め始めていた。

元日の早朝に発生したこの地震は、強い揺れや家屋の倒壊、液状化、火災、そして元日の初日の出客を襲った大津波といった数多くの災厄として人々の記憶に刻まれた。

 

《今日は相模湾地震から十年》

 

《あの日のこと、今でも覚えてる》

 

《横浜駅で帰れなくなって、何時間も歩いて家まで帰った》

 

《当時まだ小学生だったけど、家族と連絡がつかなかった時の怖さは忘れられない》

 

《もう十年なんだな……》

 

古い写真を添えた投稿もあった。

 

崩れた道路。

 

倒壊した建物。

 

煙に覆われた横浜の街。

 

避難所に並ぶ人々。

 

そして、救助を待つ人々の姿。

 

十年前にはニュース映像として流れていた光景が、今では誰かのスマートフォンから再び拡散されていた。

 

《この写真、当時父親が撮ったやつ》

 

《震災の記録を消しちゃいけないと思う》

 

《十年経ったからこそ、もう一度見ておきたい》

 

一方で、別の投稿も流れていた。

 

《あの時、自衛隊の救援が遅れたことは忘れてない》

 

《今でも納得できない》

 

《現場にいた人の話をもっと聞きたい》

 

《あの事件で何が起きていたのか、結局全部は分かってないよね》

 

その投稿には、当時の報道記事や動画が次々と引用されていった。

 

十年前の出来事を「過去」として語る人。

 

今もなお「あの日」として記憶している人。

 

そして、災害そのものを知らない世代。

 

同じ横浜に暮らしていても、その記憶は人によってまったく違っていた。

 

ある若者が、タイムラインを眺めながら呟いた。

 

「……十年前って、こんなだったんだ」

 

隣にいた友人がスマートフォンを覗き込む。

 

「知らないの?」

 

「俺、その頃まだ子供だったし。被災地から遠かったからニュースで見たくらい」

 

「そっか」

 

二人はしばらく画面を眺めた。

 

そこには、十年前の横浜が映っていた。

 

そして、その画面の下には、新しい投稿が流れていく。

 

《今日は犠牲になった人たちのために黙祷します》

 

《亡くなった人たちが、どうか安らかに眠れますように》

 

《あの日を忘れない》

 

人々は、それぞれの方法で過去を振り返っていた。

 

だが、その中に――。

 

今もなお、あの日の責任を背負い続けている人間がいることを、ほとんどの人は知らなかった。

 

その一人が、今、墓地に立っている。

 

不動駿平。

 

彼にとって十年前は、SNSに投稿された写真でも、ニュース記事でもない。

 

今も終わっていない、現実だった。

 

そのときだった。

 

 

雨音の中に、新たな足音が混じった。

 

濡れた靴底が地面を叩く音。

 

その足音は、駿平のいる場所へと急速に近づいてくる。

 

そして――

 

バシャッという音とともに最後の一歩が強く踏み込まれ、地面に溜まった雨水が小さく跳ねた。

 

続いて、何かが水の中へ落ちる音がする。

 

傘だった。

 

「どうして……どうしてお前が、まだここに来られるんだよ」

 

男の怒鳴り声が、雨の夜を切り裂いた。

 

駿平が振り返る。

 

そこに立っていたのは、濡れた服の男だった。

 

「お前と!あの遅れてやって来たあのクソみたいな自衛隊員たちのせいでどれだけの人が犠牲になったと思ってる!」

 

声は震えていた。

 

怒りだけではない。泣き声が混じっている。

 

「鞘香が……鞘香が、どうして死ななきゃならなかったんだよ!」

 

男は駿平の胸ぐらを掴んだ。

 

拳を握り、その顔面へ振り抜こうとする。

 

しかし――。

 

駿平の顔に浮かんだ、あまりにも悲痛な表情を見た瞬間、拳から力が抜けた。

 

男は何もできなくなった。

 

そして、そのまま駿平の胸へ顔を押しつけた。

 

雨に濡れた迷彩服に顔を埋め、嗚咽を漏らす。

 

「ああああ……鞘香……。あいつは……あんな風、あんな風に死んじまったんだ……俺の目の前で……」

 

男の身体が崩れていく。

 

「ああああっ!駿平……!」

 

膝から地面へ落ちた。

 

雨水に遮られ、その顔に本当に涙が流れているのか、駿平には分からない。

 

だが、流れていたことだけは間違いなかった。

 

男の悲しい泣き声は激しい雨音と混ざり合い、慰霊碑に響く悲壮曲となった。

 

やがて男は、顔を地面に溜まった水へ深く埋めた。

 

駿平もまた、手にしていた傘を離した。

 

小雨が容赦なく身体を打ちつける。

 

それでも駿平は何も言わなかった。

 

ただ黙って立ち尽くすことしかできなかった。

 

胸の奥に押し込められた悲痛だけが、雨よりも重くそこに存在していた。

 

「了、駿平!」

 

墓地の入口から、女性の声が響いた。

 

布製の傘を差した細身の女性が、こちらへ駆けてくる。

 

弱い街灯に照らされたその姿は、落ち着いた服装をした、成熟した雰囲気の女性だった。

 

その女性、三木谷祥子は、地面に膝をついて泣いている了と、その前に立つ駿平を見て、二人が再び衝突したのだと思った。

 

「大丈夫だよ、祥子。俺は平気だ。ただ、了が……」

 

駿平は祥子に向かって、無理に笑った。

 

それが、慰霊碑へ来てから初めて口にした言葉だった。

 

その声には、彼の顔と同じ深い悲しみが滲んでいた。

 

小雨はまだ降り続いている。

 

そしてこの短い言葉を境に、物語の第一幕が静かに始まった。

 

墓地に眠るすべての犠牲者たちの魂が、雨の向こうですすり泣いているかのように。

 

だが――。

 

この悲しい雨幕の中には、まだ誰にも知られていない物語が隠されていた。

 

その物語が今、ゆっくりと幕を開けようとしている。

 

 

 

やがて雨は止んだ。

横浜の街を、祥子と駿平は並んで歩いていた。

 

濡れたアスファルトに街灯が映り、二人の足元で揺れている。

 

つい先ほどまで降っていた雨が、街の熱を少しだけ冷ましていた。

 

「ごめんね、駿平。了もこの時間に来るなんて知らなかったの。もし知っていたら……」

 

「気にするなよ」

 

駿平は静かに答えた。

 

「今日はあの災害から十年目の命日だ。鞘香が亡くなって、もうすぐ十年になる。了が墓参りに来るのも当然だよ」

 

駿平は夜空を見上げた。

 

雨雲の向こうから、星が少しずつ姿を現している。

 

「鞘香の死は、あいつにとってあまりにも大きな打撃だった。この日になると、俺と同じように、あの悪夢を思い出すんだろう……」

 

その瞳にあった悲しみは、すでに深く押し殺されていた。

 

祥子が言う。

 

「そうだね。了の鞘香に対する気持ちは、私たちの中でも一番強かった。あの残酷な現実を受け入れるのは、どうしたって難しかったんだと思う」

 

祥子は少し間を置いた。

 

「震災以来、了はまるで別人になった。人付き合いもしなくなってずっと引きこもって。でも……それでも、心の奥にあるあの脆さだけは消えなかった」

 

駿平は足を止めた。

 

両拳を握りしめる。

 

その目には血走った筋が浮かび、瞳の奥に、十年前の炎が蘇る。

 

祥子が静かに言った。

 

「でも、責任を全部あなた一人に負わせるなんて、あまりにも酷すぎるよ。あなたは上からの指示で…」

 

「俺が弱すぎたんだ」

 

駿平が遮った。

 

「俺がもっとしっかりしていれば、救援の時間を無駄にすることもなかった。あれだけ多くの人を死なせた。鞘香さえ助けられなかった……」

 

拳が震える。

 

「そんな自分を、俺は許せない」

 

祥子には、前髪に隠れた駿平の表情が見えなかった。

 

それでも、彼の心が激しく揺れていることは分かった。

 

二人は再び歩き始めた。

 

やがて、住宅街から少し離れた築数十年の古い木造家屋の前に着く。

 

駿平の実家だった。

 

自衛隊に入って何年も経つというのに、彼はまだ自分の家を持っていない。

 

この古びた家には、駿平にとって特別な記憶が残されているようだった。

 

「ここまででいいよ、祥子。今日は早く帰れ。明日から初売りがあるんだろ」

 

「そんなこと、駿平が心配する必要ないでしょう」

 

祥子はそう返した。

 

遠ざかっていく駿平の背中を見つめながら、彼女は言えなかった言葉を胸に残す。

 

その瞳には、悲しみ、憂い、そしてほんの少しの恥じらいが浮かんでいた。

 

やがて祥子は背を向け、冷たい夜の街へ歩き出した。

 

駿平は横開きの引き戸がゆっくりと開き、淡い竹と木の香りが漂う玄関へ入った。

 

家の中は暗かった。だが窓から差し込む弱い光だけが、室内の一角を照らしている。

 

駿平は手探りで靴を脱ぎ、一足ずつきちんと揃えた。

 

足音を殺して、自分の部屋へ向かう。

 

「おかえり、駿平」

 

しゃがれた声が聞こえた。

 

木製の窓の前にいた、少し腰の曲がった女性がゆっくりと立ち上がる。電球に明かりがともり、小さな居間が一瞬で明るくなった。

 

「ただいま、母さん。ああ、立たなくていいよ。こんなことくらい、俺がやるから」

 

駿平の母である不動由梨絵は、温かいお茶を一口飲んだ。

 

「今回は、どのくらい家にいるの?」

 

「今晩だけだよ。明日には陸自の基地へ出勤しないと」

 

「そう……」

 

由梨絵は頷いた。

 

そして、皺の寄った駿平の迷彩ジャケットを見る。

 

「仕事でも何でも、あまり無理をしちゃ駄目よ。服も着替えて、洗濯しなさい」

 

「分かったよ」

 

駿平は自分の部屋へ入った。

 

襖を閉めた瞬間、それまで平静だった瞳に、やるせなさと哀しみが滲む。

 

母の呟きが聞こえた。

 

「はぁ……父さんは早くに亡くなったし、気がつけば家には、もうすぐ独り身の老婆になろうとしている私だけ……」

 

駿平は部屋を見渡した。

 

懐かしい家具。

 

変わらない配置。

 

そして、過去の記憶。

 

それらが一気に胸の中へ押し寄せる。

 

 

 

 

駿平はベッドのそばまで歩き、濡れて皺だらけになった迷彩ジャケットを脱いだ。

 

シャツとパジャマに着替える。

 

眠ろうとした、そのときだった。

 

窓際の小さな木製テーブルに置かれた写真立てが目に入った。

 

そこには、四人の少年少女が写っていた。

 

金色の陽光が降り注ぐ草原。

 

肩を寄せ合う四人。

 

そこにある笑顔は、何の曇りもない。

 

無邪気で、純粋で、何ものにも汚されていない。

 

人生で最も美しい時間。

 

駿平は、いつしかその写真を見つめながら記憶の中へ沈んでいた。

 

二十年前。

 

最も幸せだった、小学生の頃。

 

「みなさん、これから『夢』についての授業を始めましょう!」

 

名前は忘れてしまったが、若い女性教師の声が、教室に響く。

 

「はーい!」

 

子供たちの声が一斉に返ってくる。

 

「大人になったら何になりたいですか? 恥ずかしがらずに、自由に話してください」

 

最初に指名されたのは、教室の隅でおずおずと手を挙げた少女だった。

 

「では三木谷さん、どうぞ」

 

「わ、私は……デザイナーになりたいです。きれいな服や、きれいなものをデザインして……家も『塗る』みたいにして、きれいにするような……」

 

 

先生は笑顔で頷く。

 

「素敵な夢ですね。三木谷さんが夢を叶えたら、先生も何かデザインしてもらおうかな」

 

「ありがとうございます!」

 

祥子は嬉しそうに席へ戻った。

 

次に手を挙げたのは、一人の少年。

 

「飛原くん!」

 

「僕は、大きくなったらカメラマンになりたいです!たくさん美しいものを撮って、未来までカメラの中に残したいです!」

 

「飛原くんなら、きっと最高にカッコいいカメラマンになれますよ」

 

了は席へ戻った。

 

その直前、斜め向かいに座る物静かな少女へ目を向ける。

 

少女も手を挙げていた。

 

「樟さん!」

 

「私は、モーツァルトのような偉大な音楽家になりたいです!」

 

鞘香は柔らかな声で答えた。

 

「モーツァルト?この間の授業で聞いた曲に心を動かされたのかな?」

 

鞘香は静かに頷いた。

 

「素晴らしい夢ですね」

 

少女は静かに席へ戻った。

 

そして最後に残ったのが、駿平だった。

 

「不動くん、あなたの夢は?」

 

駿平は立ち上がり、先生へ一礼した。

 

そして、少年らしい真っ直ぐな声で答えた。

 

「僕の夢は、正義のヒーローになることです」

 

教室が静かになる。

 

「映画に出てくるような、僕が愛するすべての人を守れるヒーローに……」

 

「すべての人……」

 

その言葉を呟いた瞬間。

 

駿平の脳裏に、別の光景が蘇った。

 

十年前――相模湾地震

 

それは、十年前。

 

神奈川県南部を襲った、あの悪夢だった。

 

突然、大地が揺れた。

 

横浜の街を歩いていた人々は、何が起きたのか理解する暇もなかった。

 

立っていられない。

 

道路が波打つ。

 

建物が激しく軋む。

 

窓ガラスが割れ、看板が落下する。

 

「うわああ!」

 

「助けてくれ!」

 

「火だ! 火が!」

 

「あそこだ! まだ人が瓦礫の下に埋まってる!」

 

「誰か来てくれ! 人はどこにいるんだ!」

 

「建物が崩れる! 逃げろ!」

 

叫び声がすべてを覆い尽くしていた。

 

倒壊した建物。

 

崩壊した道路。

 

横倒しになった車。

 

混乱する人々。

 

古い住宅街から燃え上がる炎が、逃げ道のほとんどを塞いでいる。

 

一人の母親が、泣きながら子供を抱えて走っていた。

 

そのすぐ横では、老人が瓦礫の下敷きになった家族へ必死に声をかけている。

 

誰もが、自分の大切な人を探していた。

 

誰もが、自分の知っている誰かを助けようとしていた。

 

そして、誰もが恐れていた。

 

この日常が、二度と戻ってこないのではないかと。

 

交通網は、突然襲いかかった激しい揺れによって完全に破壊された。

 

炎の中に立ち込める黒煙は、巨大な手のように逃げ惑う人々の喉を締めつけていた。

 

しかし、その混乱は永遠には続かなかった。

 

やがて人々は自発的に救援隊を組織し、互いに助け合い、励まし合いながら、生き残った者たちを安全な場所へ運び始めた。

 

自力で動けない高齢者や弱者は、その場で救援を待った。

 

少しずつ、現場に秩序が戻っていく。

 

そして、雑然としていた声が次第に聞き分けられるようになった。

 

その大半は――。

 

愛する人を失った者たちの、悲痛な泣き声だった。

 

だが、駿平の心を最も深く傷つけたのは、それではない。

 

今もなお彼の心に巨大な傷を残し続けている、あの叫びだった。

 

「鞘香!鞘香!」

 

「嫌だ!誰でもいい! 早く来てくれ! 鞘香を助けてくれ!」

 

「どうして、駿平! どうして助けられないって言うんだ!」

 

「どうしてなんだよ!」

 

「許せない……!」

 

「お前たちはどうしてこんなに遅れて来たんだ!」

 

「どうしてそんなに何もしないんだ!」

 

「鞘香が……もう焼け死んじまう!」

 

「駿平、このクズ野郎……!」

 

「俺はお前を許さない……永遠に許さない!」

 

怒りの声が、突然、炎へと変わった。

 

燃え盛る火の海が駿平の意識を飲み込む。

 

視界の先には、果ての見えない炎の回廊。

 

駿平の身体は、その中を前へ、前へと流されていく。

 

そして――。

 

巨大な光が彼を照らした。

 

眩しい。

 

熱い。

 

身体そのものが焼き尽くされていくようだった。

 

どれほど時間が経ったのか。

 

やがて駿平は目を開けた。

 

目の前に広がっていたのは、奇妙で壮大な光景だった。

 

無数の炎が、遥か彼方にある一つの光へと吸い込まれていく。

 

数秒後。

 

すべての炎が消えた。

 

残ったのは、何もない漆黒の世界。

 

そして――。

 

その闇の中に、巨大な…アルファベットの「Y」を抽象化したような何かが浮かび上がった。

 

炎のように赤く燃える、巨大な「Y」。

 

それは凄まじい速度で駿平へ接近してきた。

 

駿平は両腕を伸ばした。

 

だが、逃げることはできない。

 

どうあがいても、避けられない。

 

彼はただ、その「Y」が自分の身体へ突っ込んでくるのを見つめるしかなかった。

 

「ううっ!」

 

苦痛の叫び。

 

そして。

 

「……!」

 

駿平は現実へ戻ってきた。

 

顔を上げる。

 

そこは、見慣れた自分の部屋だった。

 

身体は汗でびっしょり濡れている。

 

胸の奥が、鋭く痛んだ。

 

いつの間にか、ほんの少し眠っていたらしい。

 

「正義のヒーロー……か……」

 

駿平は苦く笑った。

 

「一番大切な友達さえ救えなかった俺が正義のヒーローになれるもんかよ……どうやって、そんな俺が『正義』を守れる……」

 

過去と現実。

 

その間に横たわる、あまりにも大きな隔たり。

 

駿平はもう、それ以上考えることをやめた。

 

布団を頭までかぶり、目を閉じようとする。

 

そのときだった。

 

ベッド脇に置いてあったスマートフォンが鳴った。

 

駿平は反射的に顔を上げる。

 

画面に表示された「飛原了」の名前を見た瞬間、慌てて電話を取った。

 

「もしもし、了!お前、大丈夫か?」

 

しばしの無言の後、電話の向こうから、弱々しい声が返ってきた。

 

『今、話せるか?』

 

「ああ」

 

『駿平……さっきは、ごめん。取り乱してしまった……』

 

駿平は少し笑って言った。

 

「気にするなよ。お前が気に病むことじゃない。今は大丈夫なのか?傘もささずに走って帰っていったから、俺も祥子も心配してたんだぞ」

 

また少しの沈黙。

 

『駿平……実は、少しお前に話しがあるんだ』

 

「ん?」

 

そして、了は言った。

 

『俺さ……鞘香は、まだ死んでないんじゃないかと思うんだ』

 

駿平の表情が止まる。

 

『まだ……あの炎の中で生きてるんじゃないかって』

 

もうすでに雨はやみ、空は満天の星空

 

しかし、十年前に終わったはずの悪夢は。

 

時を超えて今、再び動き始めようとしていた。

 

NEIGHBOR-鎮魂戦争-

 

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