基地を出た駿平は、人々の波の中を歩いていた。
駅へ向かう会社員。
買い物袋を提げた人々。
道路を走る車。
スマートフォンを見ながら歩く若者たち。
誰もが、それぞれの日常を送っている。
少し離れた場所には、横浜港のクレーンが並んでいた。
高層ビルの窓に夕日が反射し、海面が赤く染まっている。
見慣れたはずの街並み。
それなのに、駿平の心には何も映っていなかった。
自分はこれから、どうすればいいのか。
あの力を、どう扱えばいいのか。
不可解な出来事が何度も蘇ってくる。
――赤い巨人。
自分自身が、あの巨大な存在へと変わった。
あまりにも現実離れしている。
それなのに、夢ではない。
自分の身体に宿った、この異常な力。
その正体も、いまだに何一つ分かっていなかった。
時折現れて話しかけてきても、肝心な事は教えてくれない。
考えれば考えるほど、頭の中が重くなる。
駿平は一度頭を振り、それらの考えを追い払った。
「……家に帰ろうかな」
そう呟いたとき、不意に思い出した。
祥子と、了。
病院にいる二人は、今どうしているだろう。
もう何日も経っている。まだ病院にいるのだろうか。
駿平はポケットからスマートフォンを取り出した。
祥子へ電話をかけようとした、そのときだった。
画面が点灯する。
そこには、着信履歴とメッセージが一件。
どちらも、祥子からだった。
一時間ほど前に送られている。
任務中だったため、携帯電話の着信設定を切っていた。
だから、気づかなかったのだ。
メッセージを開く。
『すぐ病院に来て。了が目を覚ました!』
「……了!」
駿平は顔を上げた。
祥子と了。
幼い頃から、ともに過ごしてきた二人。
了が目を覚ましたのなら、すぐに会いに行かなければならない。
駿平は帰宅するつもりだった足を反転させ、病院へ向かって走り出した。
横浜市内の病院の入口へ駆け込んだ駿平は、廊下の異様な騒ぎに気づいた。
医師や看護師たちが、同じ方向へ走っている。
誰かが大声で叫んでいた。
そして、聞き覚えのある女性の悲鳴。
「……祥子?」
駿平は走った。
病室の前には、数人の医療スタッフが集まっていた。
扉を開けた瞬間、強烈な薬品臭が鼻を突いた。
床には砕け散ったガラス片が散らばり、薬液が広がっている。
ベッド脇の検査機器は滅茶苦茶に破壊され、カーテンの支柱が倒れていた。
その中心で、了が暴れていた。
「了!」
数人の医師が、必死にその身体を押さえている。
しかし、了は力任せに振りほどいた。
乱れた衣服。
荒い呼吸。
真っ赤に充血した目。
そこには、駿平が知っている了の面影がほとんど残っていなかった。
「駿平、危ない!」
祥子が叫んだ。
了が透明な薬液の入ったガラス瓶を投げつけたのだ。
駿平は祥子を抱き寄せ、壁際へ押し込んだ。
瓶は誰にも命中せず壁に激突し、砕け散った。
「祥子、大丈夫か!」
「私は大丈夫!それより、了が……!」
「分かってる」
駿平は祥子を背後へ下がらせ、了へ向き直った。
「了!俺だ。駿平だ!」
了が振り返った。
その目に、駿平の姿が映る。
一瞬だけ、動きが止まった。
しかし、次の瞬間。
「……駿……平?」
「ああ。俺だ」
「お前……今まで、どこにいたんだよ」
了の声は震えていた。
「どうして……どうして来てくれなかったんだ!」
了が駿平へ飛びかかる。駿平は祥子を後ろへ押しやった。
「祥子、下がって!」
そして、自分は了の両腕を掴んだ。
激しく抵抗する了を押し返し、倒れかけたカーテン支柱のそばまで追い込む。
「了!」
駿平は腕を押さえながら、その目を真正面から見た。
了の目は真っ赤だった。
そこには怒りだけではない。
涙が滲んでいる。
何かに心を抉られ、理性を失うほど激しく動揺している。
「落ち着け、了!」
しかし、了は聞く耳を持たない。
二人はしばらく押し合った。
身体能力では、駿平のほうが明らかに上だった。
やがて了の身体が床へ押し倒される。
だが――相手は、幼い頃からともに育った親友だった。
駿平には、本気で傷つけることなどできない。
自然と腕を押さえる力が弱くなる。
その隙を突き、了が駿平の両腕を逆に掴んだ。
「くっ……!」
再び二人は揉み合う。
駿平は意図的に力を緩めていた。
了の怒りを、すべて自分にぶつけさせる。そして、どうすれば安全に彼を抑え込めるかを考えていた。
駿平は両腕を掴み、力を抑えながら押し返した。
「落ち着け、了!」
「うるさい!」
了は必死に抵抗した。
「お前に何が分かる!お前に、お前に俺の何が分かるんだ!」
「……」
「お前はいつもそうだ!いつもいつも自分だけ正しいと思ってる!自分なら何でも救えると思ってる!」
駿平の胸が締めつけられた。
「俺は……」
「黙れ!」
了は叫んだ。
「もう、何も言うな!」
駿平は反論できなかった。
すると了の身体から力が抜けていき、身体が崩れ落ちる。
その背後には一人の若い女性看護師が立っていた。
手には注射器が握られている。
「鎮静剤です」
看護師が説明する。
駿平と祥子は顔を見合わせ、ようやく息を吐いた。
「患者さんはこれから精神科の治療区域へ移します。お二人とも、少し離れてください」
数人の医師が入ってきて、眠りに落ちた了を担架へ乗せる。
そして、そのまま病室の外へ運び出していった。
他の医療関係者も次々と退室する。
最後に残ったのは、駿平と祥子だけだった。
「申し訳ありませんが、お二人はついてこないでください」
看護師が廊下で頭を下げた。
「現在は非常に混乱していますので、ご家族以外の方は精神科の治療区域へ入ることができません」
そう告げると、看護師は了を乗せた担架を押す医師たちの後を追い、廊下の向こうへ消えていった。
静寂が戻った。
駿平と祥子は、しばらく何も言わなかった。
二人とも、了が運ばれていった方向を見つめている。
心配が消えることはなかった。
やがて駿平は何かを思い出したように、病室の隣にある医療区画へ走っていった。
一分ほど後、駿平は戻ってきた。
「祥子、腕を出して」
戻ってきた駿平の手には、医療用のガーゼと止血薬があった。
祥子の腕を慎重に処置する。
「……これでいい」
包帯を巻き終えると、駿平は傷口を確認した。
出血は止まっている。
「ありがとう、駿平」
祥子は微笑んだ。
普段は不器用で、どこか抜けているように見える。それなのに、こういうときの駿平は驚くほど細やかだった。
「……了は」
駿平が眉を寄せる。
祥子はしばらく黙ってから、静かに話し始めた。
「二日間、ずっと眠ってたの」
「……」
「ちょうど駿平に電話しようとしていたときだった。突然目を覚まして……」
祥子の声が震える。
「何度も『鞘香……鞘香……』って叫んでた。目が真っ赤で……そのあと、まるで別人みたいになって、近づく人を誰彼構わず攻撃し始めたの」
「……」
「私にも何が起きたのか分からない。でも、あんな了を見るのが怖くて……だから、何とか落ち着かせようとしたんだけど……」
祥子は俯いた。
「そのうち医師や看護師さんが来て……あとは、駿平が見た通り」
「祥子……」
駿平は、了のことが気になって仕方なかった。
だが、今は祥子も動揺している。
これ以上、彼女を追い詰めるわけにはいかなかった。
「大丈夫だ」
駿平は祥子を抱き寄せた。
「今は、もう考えすぎなくていい」
「駿平……私、怖い」
祥子の声が震える。
「本当に分からないの。了が……鞘香の死で、これからどうなってしまうのか」
祥子は駿平の胸に顔を埋めた。
「昔の了は、正義感の強い人だった。自分の理想のために、一生懸命頑張って……でも、今は……」
駿平の胸に残る温もりが、祥子の不安を少しずつ和らげていく。
その感覚は、幼い頃と変わらなかった。
「祥子。もう考えすぎるな」
駿平は優しく背中を叩いた。
「俺たちができることには限界がある。了にできるだけのことをしてやる。それ以外は……了自身が向き合わなきゃいけない」
そう言って、駿平は祥子の身体を離した。
そして両手を彼女の肩に置き、真剣に目を合わせる。
「……うん」
祥子が小さく頷く。
二人の視線が重なった。
祥子の瞳に、これまでとは少し違う色が浮かぶ。
それに気づいた駿平は、急に視線を逸らした。
顔が赤くなる。
「し、祥子……さっきは……ご、ごめん」
「ふふっ」
祥子は思わず吹き出した。
慌てて口元を手で隠す。
駿平の顔はさらに赤くなった。
しばらくして、二人はようやく普段の空気を取り戻した。
「行こう」
駿平が言った。
「了の気持ちが落ち着いたら、また来よう」
「うん。お店のほうは二日間休みをもらったの。今から戻れば、まだ交代には間に合うと思う」
二人はもう一度、了が運ばれていった方向を見た。
そこにはもう、先ほどまでの騒ぎはない。
数人の当直医が残っているだけだった。
二人はそれぞれの胸に不安を抱えたまま、病院を出た。