NEIGHBOR-鎮魂戦争-   作:トライアゲイン

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望郷

「じゃあ、またね。祥子」

 

「うん。またね、駿平」

 

 路地を挟んで向かい合った二人は、微笑み合った。

 

 言葉にできない想いを、互いの視線に託す。

 

 やがて二人は、それぞれ別の方向へ歩き出した。

 

 祥子と別れた駿平は、古い木造家屋へ戻った。

 

 母の由梨絵は家事に追われていた。

 

 駿平はしばらく母を手伝い、その後、自分の部屋へ向かった。

 

 扉を開ける前に、ふとテレビへ目を向ける。

 

 そこでは、ここ数日に起きた謎の事件について報道していた。

 

 しかし――

 

 巨大生物。

 

 謎の怪物。

 

 そういった言葉は、一切使われていない。

 

 報道は極めて淡々としていた。

 

 上層部による情報統制は、うまく機能しているらしい。

 

 駿平はテレビから目を離し、部屋へ入った。

 

「……うっ」

 

 ベッドへ腰を下ろした瞬間、左肩に激痛が走った。

 

 駿平は顔をしかめ、反射的に肩を押さえた。

 

 服の下には、巨大生物に噛まれた傷を覆う包帯が巻かれている。

 

 医師の話では、傷が塞がるまで四日ほどかかるはずだった。

 

 実際、昨日まではほとんど痛みを感じなかった。外部から何かが触れたときに、わずかな灼けるような痛みが走る程度だった。

 

 しかし、今は違う。

 

 何にも触れていないのに、痛みが増している。

 

 筋肉そのものが焼かれ、内側から引き裂かれているような感覚だった。

 

「……何なんだ、いったい」

 

 駿平はすぐに上着を脱ぎ、包帯を外した。

 

 そして、息を呑んだ。

 

 巨大生物の牙によって深く抉られ、壊死していたはずの筋肉組織が――肉眼で分かるほどの速度で再生していた。

 

 傷口の縁から、新しい肉が少しずつ盛り上がっている。

 

 しかも、再生した組織は以前よりも密度が高く、強固なものへ変化しているように見えた。

 

 その奥から、微かな赤い光が滲み出していた。

 

 まるで、新しく生まれた血液そのものが光を放っているかのようだった。

 

「……こんなこと、普通じゃない」

 

 駿平は傷口を見つめた。

 

 その瞬間――。

 

『当然だ』

 

「……!」

 

 すぐ横に赤いオーラが現れる。

 

「お前か……」

 

『その傷は、通常の人間の身体ならば、簡単には塞がらない』

 

「だったら、どうして俺の傷は治り始めてるんだ?」

 

『君自身が、すでに以前と同じ身体ではないからだ』

 

 駿平は眉をひそめた。

 

「……どういう意味だよ」

 

『君は、まだ自分の身体に起きている変化を理解していない』

 

「理解できるわけないだろ。傷が勝手に治って、しかも赤く光ってるんだぞ」

 

 駿平は包帯を握り締めた。

 

「俺は人間だ。少なくとも、昨日まではそう思ってた」

 

『今も人間だ』

 

「だったら、こんなことが起きるはずないだろ!」

 

 思わず声が大きくなった。

 

 家の外から物音が聞こえた気がして、駿平は口を閉じる。

 

 しばらく耳を澄ませたが、母の由梨絵がこちらへ来る様子はなかった。

 

 駿平は改めて、意識の中にいるネイザースへ問いかけた。

 

「……お前が関係してるのか?」

 

『関係している』

 

 あまりにもあっさりとした返答だった。

 

「やっぱり……」

 

『だが、すべてが私の力というわけではない』

 

「どういうことだ?」

 

『君の身体が、私の力を受け入れようとしている。今起きている変化は、その結果の一つだ』

 

 駿平は傷口へ目を落とした。

 

 赤い光が、脈を打つように微かに明滅している。

 

「俺の身体が……お前の力を受け入れてる?」

 

『そうだ』

 

「じゃあ、この傷が治ってるのも、そのせいなのか」

 

『その可能性は高い』

 

「可能性って……お前にも、はっきり分からないのか?」

 

 返事が途切れた。

 

 駿平はしばらく待ったが、ネイザースはすぐには答えなかった。

 

「……おい」

 

『私にも、まだ分からないことがある』

 

「お前の力なんだろ?」

 

『私の力が、君の身体の中でどのように作用しているのか。そのすべてを、今ここで説明することはできない』

 

「……肝心なところは、いつもそれだな」

 

『分からないことを、分かったふりで説明するつもりはない』

 

 駿平は小さく息を吐いた。

 

 確かに、赤い人の言うことにも一理はある。

 

 だが、自分の身体に何が起きているのか分からないままでは、安心できるはずもなかった。

 

「それで……この先、俺の身体はどうなる?」

 

『それは、君次第でもある』

 

「また曖昧な答えかよ」

 

『君が力を使うたび、身体には変化が生じる。だが、その変化がどこまで進むのか、私にも断言できない』

 

 駿平の表情が険しくなった。

 

「……もし、元に戻れなくなったら?」

 

『何をもって元に戻ると言う?』

 

「何って……普通の人間の身体だよ。傷が勝手に治ったり、赤く光ったりしない身体だ」

 

『君は、以前と同じ自分であり続けたいのか』

 

「当たり前だろ」

 

 駿平は即座に答えた。

 

「俺は怪物になりたいわけじゃない。誰かを守るために力が必要なら使う。でも、それで自分が自分じゃなくなるのは……」

 

 言葉が途切れた。

 

 自分が何を恐れているのか、駿平にも完全には分かっていなかった。

 

 身体が変わってしまうこと。

 

 人間ではなくなってしまうこと。

 

 それとも、自分の意志とは関係なく、何かに支配されてしまうことなのか。

 

『駿平』

 

「……何だよ」

 

『君は、まだ私の力を完全には理解していない。だからこそ、恐れるのも無理はない』

 

「だったら、教えてくれよ」

 

『教えられることには限りがある』

 

「……」

 

『だが、一つだけ言える』

 

 赤い人の声が、静かに響いた。

 

『この身体をどう使うか。その選択まで、私が奪うつもりはない』

 

 駿平は黙っていた。

 

 傷口の赤い光が、また一度だけ明滅した。

 

「……俺の意志で、決められるんだな?」

 

『そうだ』

 

「だったら、いい」

 

 駿平はゆっくりと包帯を巻き直した。

 

「少なくとも、今はな」

 

『それでいい』

 

 会話が途切れる。

 

 駿平は背もたれへ身体を預け、天井を見上げた。

 

 五年前。

 

 あの森林地帯で見た赤い光。

 

 地面に開いた巨大な裂け目。

 

 炎の中から現れた、心臓のように脈打つ巨大なY字。

 

 あの日、自分の身に何が起きたのか。

 

 なぜ、あの光は自分へ迫ってきたのか。

 

 そして、赤い人は何者なのか。

 

 今なら、あの日の出来事と現在の変化が繋がっているのかもしれない。

 

「……なあ」

 

『何だ』

 

「五年前、俺が森で見た赤い光。あれも、お前と関係があるのか?」

 

 長い沈黙が落ちた。

 

 やがて、ネイザースが答えた。

 

『無関係ではない』

 

「……それだけか?」

 

『今は、それ以上のことを話せない』

 

「どうしてだよ」

 

『君が、まだその意味を知らないからだ』

 

「……またそれか」

 

 駿平は苦笑した。

 

 それ以上、問い詰める気にはなれなかった。

 

 今すぐすべての答えが得られるわけではない。

 

 ならば、自分にできることを一つずつ確かめていくしかなかった。

 

 駿平は包帯を巻き終えると、上着を羽織った。

 

「……分かった。今はそれでいい」

 

『駿平』

 

「ん?」

 

『無理をするな。身体の変化を確かめようとして、必要以上に力を使うな』

 

「分かってるよ」

 

 駿平はベッドへ横になった。

 

「明日になれば、何か分かるかもしれないしな」

 

『そうだな』

 

 目を閉じる。

 

 疲労が、ゆっくりと全身を包んでいった。

 

 それでも、意識が沈み込む直前まで、駿平の頭から赤い光のことが離れることはなかった。

 

 自分の身体の奥で、何かが確実に変わり始めている。

 

 それだけは、間違いなかった。

 

 

 脳裏にいくつもの記憶が浮かんだ。

 

 幼い頃。

 

 中学時代。

 

 自衛隊へ入ったばかりの頃。

 

 厳しい訓練。

 

 父を失った悲しみ。

 

 そして、記憶の空白。

 

 そこへ、五年前の出来事が浮かび上がった。

 

 あの日。

 

 自分が初めて、赤の力に触れた日。

 

 五年前――

 

 とある森林地帯

 

「指揮本部、こちら神1。神戸1号。3号任務区域へ到着しました。周辺に異常なし」

 

『指揮本部了解。京4、現在位置を報告せよ』

 

 通信機から別の部隊への呼びかけが響く。

 

『こ……こちら……京……4……』

 

 雑音が混じる。

 

『こちら……京4……聞こえ……ますか……指揮……本部……神1……』

 

 通信状態が急激に悪化していく。

 

『周辺に……強い……磁場干渉……目標位置が……現在位置から……約二百メートル……ずれて……再計算が……』

 

「京4! 京4、応答しろ!」

 

 神1の隊員が叫ぶ。

 

「聞こえているなら返答してください!」

 

 しかし、もう返事はなかった。

 

『指揮本部より神1。京4との通信が途絶しました。今回の捜索は、そちらが引き継いでください』

 

 別の通信回線から指揮本部の声が入る。

 

『受信した信号から判断すると、事象発生地点はそちらの七時方向。距離は約1560メートルです』

 

「神1了解。これより目標地点へ向かいます」

 

 通信を終えた駿平たちは、互いに頷いた。

 

 三人の自衛官は、森林の奥へ進んでいく。

 

 だが――

 

 密生した木々。

 

 複雑な地形。

 

 視界を遮る草木。

 

 気づけば、三人は迷路のような森林の中で、それぞれ別の方向へ分かれていた。

 

 駿平は枯れ葉を踏みしめながら歩く。

 周囲は静まり返っていた。

 

 あまりにも静かだった。

 

 自然の中にいるはずなのに、何かがおかしい。

 

 その静寂の奥に、異様な気配が潜んでいる。

 

 そのとき、駿平は、ある音を聞いた。

 

「……?」

 

 心臓の鼓動に似た音。

 

 だが、自分のものではない。

 

 森林の奥。

 

 どこかから聞こえている。

 

 その音は、まるで駿平を呼んでいた。

 

 もっと奥へ来い、と。

 

「……何なんだ」

 

 額の汗を拭う。

 

 それでも、足は止まらなかった。

 

 森林の奥へ進むほど、身体を押し潰すような熱が強くなる。

 

 まるで森を進んでいるのではなく、煮えたぎるマグマの中へ向かっているようだった。

 

 通信機は、すでに何の信号も受信していない。

 

 強烈な磁場干渉が周囲を覆っている。

 

 駿平は、雑音を吐き続ける通信機の電源を切った。

 

 それでも歩き続ける。

 

 なぜ、こんな場所へ向かっているのか。

 

 その理由さえ分からない。

 

 ただ、何かに呼ばれている。

 

 その感覚だけがあった。

 

 熱がさらに強くなる。

 

 もう一歩進めば、身体そのものが燃え上がる。

 

 そう思った瞬間、熱が消えた。

 

「……?」

 

 周囲の森林は、再び冷たい空気に包まれている。

 

 しかし駿平は、そのことを気にする余裕がなかった。

 

 目の前に広がっていた光景は、それまで見てきた何よりも異様だった。

 

 枯れ枝が散らばった地面。

 

 その中央に巨大な裂け目が開いていた。

 

 周囲の空気が歪んでいる。

 

 まるで地面そのものが、つい先ほどまで溶けていたかのようだった。

 

 裂け目は逆さまの漏斗のような形をしている。

 

 その奥から、灼熱の赤い光が漏れ出していた。

 

 まるで小さな太陽が地面へ埋め込まれている。

 

 高熱。

 

 磁場。

 

 常識では考えられないエネルギー。

 

 それが周囲へ放出されている。

 

 なのに。

 

 これほど近くにいるにもかかわらず、駿平は熱を感じなかった。

 

 そのとき、ポケットの通信機が鳴った。

 

『神1、応答してください。神1、応答してください』

 

「神1、こちら佐渡。聞こえます」

 

『現在、目標地点に最も近い隊員は?』

 

「陸自二隊、佐渡駿平。俺です。現在、目標地点に到着しました」

 

『了解。周囲の状況を報告してください』

 

「俺は……」

 

 駿平は目の前の光景を見つめた。

 

「……見た」

 

『何ですか? もう一度報告してください』

 

「見つけました。目標区域の異常は――」

 

 その瞬間。

 

「うわあっ!」

 

 通信機から駿平の叫び声が響いた。

 

『どうした!? 何があった! 応答しろ!』

 

 しかしその通信は、そこで完全に途絶えた。

 

 駿平は、そのとき初めて人生で最も異様で、最も壮絶な光景を目にした。

 

 地面の裂け目。

 

 その奥にあった巨大な赤い球体。

 

 それは突然、周囲へ無数の灼熱の炎を吐き出した。

 

 森が燃える。

 

 大地が焼ける。

 

 炎が視界のすべてを埋め尽くす。

 

 そして炎の海の中から、四本の巨大な火柱が噴き上がった。

 

 それらは空中で交差し 巨大な抽象化された「Y」の字を形成した。

 

 赤く燃え上がる「Y」。

 

 それはまるで、生きている心臓のように激しく明滅していた。

 

 ゆっくり。

 

 しかし確実に。

 

 その巨大な「Y」が、駿平へ迫ってくる。

 

 速度が増していく。

 

 視界を覆う。

 

 そして、意識が途切れた。

 

 次に目を覚ましたとき、駿平は医療施設の簡易ベッドに寝かされていた。

 

 そこにいた隊員から聞いた話では、駿平は蔓の絡みついた枯れ葉の中で倒れていたという。

 

 意識はなく、身体には軽度の火傷。

 

 別の自衛隊部隊が発見し、近くの医療施設へ運び込んだらしい。

 

 そして、あの事故の調査結果は単なる火災事故と結論づけられた。

 

 駿平がいた地点の少し先で大規模な火災が発生していたため、煙を吸い込み、意識を失ったのだろう。

 

 それ以外に、特筆すべき異常は確認されなかった。

 

 しかしその日を境に、駿平は自分の身体に変化が起きていることを、少しずつ理解するようになった。

 

 それが今の自分の力。赤い人との出会いだった。

 

 

 翌朝。

 

 薄明かりの中で、駿平は目を覚ました。

 

 身体を起こした瞬間、ふと違和感を覚える。

 

 左腕をベッドについても、痛みがない。

 

「……あれ?」

 

 駿平は左肩へ手を伸ばした。

 

 昨夜、あれほど激しく痛んでいた場所。

 

 包帯を外すと、そこには信じられない光景があった。

 

 深く刻まれていた歯形は、ほとんど塞がっている。

 

 傷つき、壊死していた肉も、表面からは確認できない。

 

 残っているのは、数本の薄い傷跡だけだった。

 

 駿平は何度も肩を動かした。

 

 痛みはない。

 

 腕を上げても、下ろしても、昨日まで感じていた引きつりはなかった。

 

「……一晩で、ここまで?」

 

 驚きながら、傷跡にそっと触れる。

 

 その時、意識の奥から声が響いた。

 

『傷は塞がったようだな』

 

「お前、起きてたのか?」

 

『私は眠らない』

 

「そうなのか……」

 

 駿平は傷跡を見つめた。

 

「昨日、お前が言ってた身体の変化って、これのことか?」

 

『その一つだろう』

 

「こんなに早く治るなんて……」

 

 駿平は手を握ったり開いたりしながら、身体の調子を確かめた。

 

 どこにも異常は感じられない。

 

 むしろ、いつもより身体が軽いようにさえ思えた。

 

「なあ。これからも、こうやって傷が治るのか?」

 

『傷の程度や、君の身体の状態にもよるだろう。すべての傷が同じように治るとは限らない』

 

「……つまり、無茶をしても平気ってわけじゃないんだな」

 

『当然だ。回復できることと、傷つかないことは違う』

 

 駿平は真剣な表情で頷いた。

 

「分かった。覚えておく」

 

『それでいい』

 

 駿平は最後にもう一度、左肩を確認した。

 

 薄い傷跡の下には、確かに自分の肉体がある。

 

 だが、その肉体はもう、以前とまったく同じものではないのかもしれない。

 

 その事実に不安がないわけではなかった。

 

 それでも――。

 

「……この力が、誰かを守るために使えるなら」

 

 駿平は小さく呟いた。

 

「俺は、ちゃんと使いこなしてみせる」

 

『その意志を忘れるな』

 

 赤い人の声を胸の奥に聞きながら、駿平はベッドから立ち上がった。

 

 そして、朝の光が差し込む部屋を出ていった。

 ジャケットを羽織り、枕へ頭を預ける。

 

 そして、ゆっくりと目を閉じた。

 

 やがて眠りへ落ちていった。

 

   ……

 

翌朝

 

 薄明かりの中で、駿平は目を覚ました。

 

 身体を起こした瞬間――

 

 違和感に気づいた。

 

 左腕をベッドへついても、痛くない。

 

「……?」

 

 駿平は左肩を確認した。

 

 そこには、驚くべき光景があった。

 

 深く刻まれていた歯形。

 

 傷つき、壊死していた肉。

 

 それらが――完全に塞がっている。

 

 残っているのは、数本の薄い傷跡だけだった。

 

 腕を動かしてみる。

 

 昨日までのような引きつりはない。

 

 自由に動く。

 

「……すごいな」

 

 駿平は、自分の身体に宿った力の異常な回復能力に改めて驚いた。

 

 ベッドから降りる。

 

 窓を開ける。

 

 朝の光が部屋へ差し込んだ。

 

 冷たい朝の空気を吸い込む。

 

 そして部屋を出た。

 

 居間へ入った瞬間――

 

 ふわりと、甘い香りが鼻をくすぐった。

 

 どこか懐かしい、少女のような柔らかな香り。

 

「……祥子」

 

 そこにいた。

 

 母の由梨絵と楽しそうに話している祥子。

 

 朝日を浴びたその姿は、まるで一枚の絵画のように清らかだった。

 

「あら駿平、起きたのね。ほら、早くこっちへ来なさい」

 

 由梨絵が振り返る。

 

「祥子ちゃんが、あなたのお母さんにってデザインしてくれた服が届いたのよ。前に注文していたものなんだって。ほら、似合ってるでしょう?」

 

 由梨絵が身につけていたのは、これまで見たことのない古風な雰囲気の衣装だった。

 

 皺の増えた母の顔には、満面の笑みが浮かんでいる。

 

 父が亡くなってから。駿平は、母がこれほど嬉しそうに笑う姿を見たことがなかった。

 

「伯母さまのために、特別にデザインしたんです」

 

 祥子が笑う。

 

「似合っているなら、私も嬉しいです」

 

「あなたがこんなに気を遣ってくれるからよ」

 

 由梨絵は嬉しそうに言った。

 

「こんな娘が家にいてくれたら、どれだけいいことか。うちの駿平なんて朝から晩まで仕事だ仕事だって出たり入ったりして、この年寄りを一人で家事させて……」

 

 そして駿平を睨む。

 

「……まったく」

 

「伯母さま、駿平も一生懸命仕事をしているんですよ」

 

 祥子が笑って駿平を庇う。

 

「みんなを守る正義のヒーローになるために、頑張っているんですよ。……ね、駿平?」

 

「……うん」

 

 駿平は微笑んだ。

 

 祥子を見つめたまま頷く。

 

 そのため、母が呟いた言葉には気づかなかった。

 

「正義のヒーローねえ……もういい歳なのに、子供の頃の夢をまだ追いかけてるんだから」

 

「祥子、腕の怪我は?」

 

「擦り傷だけだから、もう大丈夫」

 

 祥子は小さな包帯が巻かれた手首を見せた。

 

 その下の傷は、ほとんど目立たなくなっている。

 

「その服は?」

 

 駿平は祥子の服を見た。

 

 きちんとした印象がありながら、どこかカジュアルさもある女性用の服。

 

 こういう格好をした祥子を見ることは珍しかった。

 

「特別に見える?」

 

 祥子は微笑んだ。

 

「実はこれから河口湖へ行くの。うちのデザイン部が新しく契約した商品の納品があるから」

 

「そうなんだ」

 

 駿平も穏やかに笑う。

 

「祥子がデザインしたものなら、きっと人気になるね」

 

 祥子の頬が、ほんの少し赤くなった。

 

 そして、駿平を見る瞳に、柔らかな感情が宿る。

 

「ねえ、駿平」

 

「ん?」

 

「河口湖の神社で、最近見つかった古物が展示されているんだって」

 

「古物?」

 

「うん。『トーテムボール』っていうものらしいの。観光客にも公開されるみたい」

 

 祥子は少しだけ迷ってから言った。

 

「……よかったら、一緒に見に行かない?」

 

「誘ってくれてありがとう」

 

 駿平は申し訳なさそうに笑った。

 

「でも……今はちょっと難しいかな。自衛隊の仕事があるから」

 

「……そっか」

 

 祥子の表情がわずかに曇った。

 

 それでも、すぐにいつもの柔らかな笑顔へ戻る。

 

「じゃあ……また今度ね」

 

 祥子は由梨絵へ軽く頭を下げた。

 

「それじゃ、失礼します。伯母さま、駿平。またね」

 

「うん」

 

 駿平が見送る。

 

 祥子は車へ乗り込んだ。

 

 車は、駿平と由梨絵が見つめる前で、ゆっくりと遠ざかっていった。

 

「……あんたねえ」

 

 由梨絵が呆れたように言う。

 

「祥子ちゃん、どう見てもあんたに会いに来たんでしょう?」

 

「でも、俺が言ったことは本当だから」

 

「この子は昔から気に入ってるんだけどねえ」

 

 由梨絵は腕を組んだ。

 

「あんたたちは小さい頃から一緒に育ってきたんだし……いつになったら、うちに嫁として迎えるつもりなんだい?」

 

「えっ!?」

 

 駿平の顔が一瞬で赤くなる。

 

「母さん、何言ってるんだよ!」

 

「何って、言って何が悪いのよ」

 

 由梨絵は呆れた。

 

「祥子ちゃん、ずっとあんたのことを待ってるじゃない。今だって一人でしょう?どう考えても、あんたの返事を待ってるんじゃないの」

 

「……」

 

「そこまで自分から来てくれてるのに、どうしてあんたはそんなに鈍いのよ」

 

「今は……そういう話は、まだ……」

 

 駿平は俯いた。

 

 そして、そのまま部屋へ入っていった。

 

「もう……」

 

 由梨絵は大きくため息をつく。

 

「ほんとにこの子は、本当にどうしたらいいんだか……」

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