会議室前
「でも、どうしてそのオルガメントは人の少ない場所ばかり襲うんだ?」
「人口密集地へ行ったほうが、捕食できる人間も多いだろうに」
「自衛隊に気づかれるのを警戒しているんじゃないか?」
「それもあり得るな」
「上も上で、そこについては何も説明しなかったしな」
「……そもそも、上層部自身がまだ分かってないんじゃないか?」
隊員たちの話し声が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
駿平は一人、会議室の扉の前に立っていた。
頭の中に浮かんでいるのは――
赤い光。
青い光。
色は違う。
しかし、駿平にはどうしても、この二つの光が無関係には思えなかった。
遠い過去。
まだ自分が知らない、遥かな時間。
そのどこかへ繋がっているような感覚。
赤と青。
二つの光が脳裏で衝突する。
火花が散る。
その瞬間――
巨大な「Y」が再び浮かび上がった。
「……!」
駿平は我に返った。
そこで、もう一つの人物を思い出す。
了。
ここ数日、精神科で治療を受けている。
自衛隊の任務があったため、駿平はまだ見舞いに行けていない。
状態はどうなっているのだろう。
駿平は複雑な思いを抱えたまま、陸上基地を後にした。
河口湖
日本有数の観光地であるこの湖は夜になっても、その美しさを失ってはいなかった。
湖面に広がる静けさ。
周囲の木々。
夜空。
それらが重なり、昼とは違う幻想的な景色を作り出している。
しかし、夜も深くなるにつれ観光客の姿は減っていった。
やがて残ったのは、景色に魅せられて帰る時間を忘れた数組の男女だけ。
彼らは紅葉の木々の間を歩き、河口浅間神社へ続く石段の前で足を止めた。
古びた神社。
古い木々。
風が吹くたび、葉が揺れる。
その音の中に、何か別の奇妙な音ざ混じっていた。
糸が切れるような音。
そして…呼吸音。
「……なあ」
男が足を止める。
「今、変な音聞こえなかった?」
「え? 変な音?」
隣の女が首を傾げる。
「何も聞こえないよ?」
「いや……」
男は周囲を見る。
「さっき紅葉のところでも聞こえたんだ。誰かが俺たちをつけてるみたいな……」
「気のせいじゃない?」
女が笑う。
男もそれ以上気にせず、彼女の手を取った。
「行こう」
二人は先に歩いていった仲間たちを追った。
しかし――
古い木々の奥。
暗闇の中。
いくつもの巨大な目が、微かな光を放ちながら、神社から立ち去っていく四人の背中を見つめていた。
神戸市内・病院精神科治療区域
「彼のようなケースは、かなり珍しいんです」
白い壁に囲まれた病室。
カーテン越しに、駿平はベッドへ寄りかかる了を見ていた。
頭を垂れ、目は虚ろ。
担当医が説明を続ける。
「身体的には非常に健康です。脳波にも大きな異常はありません。ですが、精神状態が非常に不安定です。感情の起伏が激しく、急激に興奮したかと思えば、突然無気力になる」
「これまで何度も心理テストと治療を行ってきましたが、結果はあまり芳しくありません」
駿平の眉が寄った。
「……一体、何があったんですか?」
医師へ尋ねる。
「彼が以前、何を経験したのか。もし話せるのなら、教えていただけませんか。それが治療の助けになる可能性があります」
医師は駿平の表情を見る。
「もちろん、話したくないのであれば――」
「いえ」
駿平は首を横に振った。
「話したくないわけじゃありません」
少し苦笑する。
「ただ……この話は、何年も前にこの街で起きた大きな出来事に関係しています」
「今でも、思い出したくない人がたくさんいる事件です」
「……あの事件ですか?」
医師の声も低くなった。
駿平は頷く。
「はい「……あの大地震ですか」
「はい」
駿平は窓の外を見た。
「10年前の、1月1日です」
2020年1月1日――相模湾沿岸
年明けを迎えたばかりの住宅街には、まだ正月の飾りが残っている。
遠くの道路を走る車も少なく、建物の窓から漏れる明かりだけが、静かな街を照らしていた。
一軒の住宅の前に、一人の青年が立っていた。
青年は、手にしたカメラの画面を確認していた。
一枚。
また一枚。
時間をかけて撮影した写真を見返すたび、その表情から満足が消えていく。
「……駄目だ」
青年は呟いた。
「こんな写真じゃ、誰にも認めてもらえない」
画像を消去する。
「もっと真剣に撮らないと。もっと、いい写真を……」
そう呟き、カメラをバッグへしまった。
そして家の中へ戻っていった。
新年が来たことを告げる日の出が顔を出した街。
遠くで、時計の針が時を刻んでいた。
その瞬間、地響きと共に大地が唸り、次の瞬間、激しい揺れが街を襲った。
建物が軋む。
窓ガラスが砕ける。
道路が波打ち、地面に亀裂が走った。
相模湾を震源とする巨大地震。
その揺れは沿岸部を直撃し、横浜の街を激しく揺さぶった。
高層建築が大きく傾く。
道路が裂ける。
港の岸壁が崩れ、係留されていた船が激しく揺れた。
そして、海が動いた。
湾内の海面が異様なほど大きく持ち上がり、沿岸へ向かって押し寄せてくる。
津波だった。
海水が岸壁を越え、道路へ流れ込む。
車が押し流され、建物の一階が水に呑まれていく。
逃げ惑う人々の声が、街中に響き渡った。
火災も発生した。
炎が建物を飲み込み、濃煙が夜空を覆っていく。
ほんの数分前まで存在していた日常が、音を立てて崩れていった。
青年は飛び起きた。
衣服を身につけ、枕元に置いてあったカメラを掴む。
天井から落ちてくる瓦礫を避け、崩れかけた家の側面から外へ飛び出した。
目の前に広がっていたのは、炎と水だった。
倒壊した建物。
流される車。
助けを求める人々。
青年はカメラを握りしめた。
そして、シャッターを切った。
一枚。
また一枚。
この光景を記録する。
失われていく街を。
そこで生きる人々を。
青年は恐怖と興奮の中で、写真を撮り続けた。
「おい!やめろ!」
そのとき、後ろから怒鳴り声が聞こえた。
「それを奪うな!もうそれしか残ってないんだ!」
「……あれは!」
青年が振り返る。
「鞘香!」
そこには、ピンク色の服を着た少女がいた。
数人の避難民が、少女の持つ袋を奪おうとしている。
少女は押し倒された。
「お前ら!」
青年はカメラを放り出し、夢中で駆け寄った。
揉み合いの末、なんとか男たちを追い払った。
「鞘香、大丈夫か!」
青年――了は、倒れている少女を抱き起こした。
「……うん。大丈夫」
鞘香は小さく答えた。
「了……どうしてここに?」
「よかった……」
了は彼女の頬に触れ、安堵したように笑った。
しかし、鞘香はすぐに立ち上がり、地面に落ちていた袋を拾った。
「これは?」
「食べ物」
鞘香は袋を抱えた。
「百貨店が崩れる前に、誰かが食料と飲み水を運び出したの。それを見た人たちが取り合いになって……そのとき落ちたものを、私が拾ったの」
「そうだったのか」
「家を出たとき、途中で子供たちを見たの。この子たちには食べ物が必要だから、早く届けようと思って」
鞘香は周囲を見渡した。
「でも……こんなことになるなんて」
「誰も予想できないよ。街中が狂いはじめてる」
了は、崩れた建物と押し寄せる海水を見た。
「救援隊が早く来てくれればいいんだけどな」
「そういえば、私、駿平にも連絡しようとしたの。でも、通信が止まっていて電話が繋がらなかった」
「連絡したって、あいつは来ないだろ」
了は吐き捨てるように言った。
「父親が亡くなったばかりなんだ。まだ家で喪に服してるんじゃないか?」
「そんなことないよ」
鞘香は首を横に振った。
「駿平は自衛隊の実習生なんだから。こんなときに、何もしないわけない」
「お前は昔から、あいつのことを信じすぎなんだよ」
了は苦笑した。
「あいつ、自衛隊に入ってから全然連絡してこないじゃないか。俺たちを友達だと思ってないんじゃないのか?」
「もう。連絡がないっていっても、一年も経ってないでしょう?」
「ははは。冗談だよ」
了は笑った。
「それより、俺たちも手伝おう。困ってる人たちを助けるんだ」
「うん」
「みんなで協力して、この災害を乗り越えよう」
鞘香は笑顔で頷いた。
「そうだね!」
しかし、食料を配っている最中、悲劇は起きた。
崩れかけた木造家屋。
その軒下で、鞘香は最後のパンを一人の少年へ渡した。
「これ、食べてね」
そして了とともに、倒れた老人を助けようとした。
老人の足が、壊れた木戸に挟まっていたのだ。
「せーの!」
二人で老人を引き出す。
その瞬間、ミシッと音を立てて家屋が大きく軋んだ。
「危ない!」
了が叫ぶ。
屋根が崩れ落ちる。
鞘香は、とっさに了を突き飛ばした。
「鞘香!」
了が地面へ倒れた瞬間、鞘香の姿が瓦礫の中へ消えた。
「鞘香ぁぁぁ!」
了は無我夢中で駆け寄った。
瓦礫を掘る。
木材を投げ捨てる。
瓦をどかす。
手から血が流れても構わなかった。
「鞘香!鞘香!返事しろ!」
しかし、そのとき大地が再び大きく揺れた。
せっかく掘り進めた場所へ、さらに瓦礫が落ちてくる。
光が差し込んでいた隙間も、完全に塞がれた。
「……鞘香……」
了の目から涙が溢れた。
その向こうで、破裂したガス管から漏れた炎が木造家屋へ燃え移る。
瓦礫が赤く染まっていった。
「鞘香ぁぁぁぁ!」
了の絶叫が響いた。
「嫌だ……!」
拳を地面へ叩きつける。
「駿平……」
涙で顔を濡らしながら、了は叫んだ。
「どうして来ないんだよ……!」
そのとき、遠くから足音が聞こえてきた。
「向こうに、まだ人がいる!」
「救助隊だ! 急げ!」
「……あれ、了じゃないか?」
了は顔を上げた。
そして、聞き覚えのある声を聞いた。
最後の希望を掴むように立ち上がる。
「……駿平!」
駿平がいた。
実習自衛官の制服を着て、ほかの隊員たちとともに救援活動を行っていた。
その姿を見た了は、夢中で駆け寄った。
だが何もかもが手遅れだった。
救援部隊の本格的な投入は遅れ、駿平たちが現場へ到着したときには、鞘香はすでに炎に飲まれた瓦礫の下にいた。
「俺には……救えなかった」
駿平は、燃え崩れる家屋を見つめていた。
「間に合わなかった……」
「何でだよ!」
了が駿平へ掴みかかった。
「どうして救えないんだ!?」
「了……」
「鞘香だぞ!?俺たちが子供の頃から一緒にいた鞘香なんだぞ!」
理性を失った了が、炎の中へ飛び込もうとする。
だが、二人の自衛隊員が必死に押さえ込んだ。
「離せ!」
「もうだめだ!」
「鞘香を助けるんだ!」
「君まで死んでしまう!」
「離せよ!」
「もう助からない!」
「鞘香ぁぁぁ!」
炎が瓦礫を飲み込んでいく。
やがて木造家屋は完全に崩れ落ちた。
了はその場に膝をつき、泣き崩れた。
まるで、理性を失った獣のように。
その悲痛な声を、誰も止めることはできなかった。
そして、その場には祥子もいた。
駿平とともに救援活動へ来ていた祥子は、目の前の光景を見つめ、静かに涙を流した。
炎の前に立つ駿平。
実習自衛官の制服。
何も言わず、燃え盛る家屋を見つめている。
その横顔には、深い悲しみが刻まれていた。
「……皮肉なことに」
駿平は、医師へ語り続けた。
「彼が最後に撮影した写真は、鞘香が崩れ落ちた家屋の瓦礫に潰された瞬間だったんです」
駿平は苦し気に言った。
「燃え盛る炎が、了の目の前を埋め尽くしていた。その直後、あいつはカメラを落として壊しました」
少しだけ言葉を止める。
「……そして、あいつが追い続けていた夢も」
駿平は俯いた。
「正義というものへの信頼も、一緒に壊れてしまったんだと思います」
医師は黙って聞いていた。
「その後、鞘香に助けられた人たちは……彼女のことを忘れてしまった」
駿平の声が低くなる。
「自分たちを助けてくれた少女が、そこで命を落としたことを。まるで、意図的に忘れようとしているみたいに。誰もその話をしない。あるいは……そんな奴は知らないとまで……」
「了さんは、それが許せなかったのですね」
「はい。助けた人たちに問いただしに行った。でも、誰も相手にしなかった。それどころか、あいつは狂人扱いされて、笑われて、叩かれて、最終的には暴力事件を起こして警察に連れていかれた」
駿平は拳を握った。
「それからの了は、写真を撮ること自体はやめませんでした。でも、撮るものが変わったんです」
「変わった?」
「以前は、人の美しさや街の美しさを撮っていた。それが、人間の醜さばかりを撮るようになった。社会の腐敗とか、不平等さとか。どんどん塞ぎ込んで、笑わなくなって、一人で暗い部屋に閉じこもるようになった」
医師は静かに頷いた。
「……つまり、彼は政府の救援が遅れたことを憎み、鞘香さんが亡くならなければならなかったことを憎み、そして、彼女に助けられた人々が、その少女のことを覚えていないことを憎んでいる」
「はい」
駿平は答えた。
「そして、俺も……」
そこで言葉を詰まらせる。
「俺自身、あのとき一歩遅れた。仲間を死の淵から救えなかった。そのことが、ずっと残っています」
目を伏せたまま続けた。
「了にも……取り返しのつかない心の傷を残してしまった」
医師はしばらく考えていた。
「あなたたちも、その鞘香さんの死に強い罪悪感を抱えているんですね」
「……はい」
駿平は頷いた。
医師は慎重に言葉を選んだ。
「彼の状態を考えると、深い催眠療法を用いた精神治療を検討する必要があります。過去の記憶のうち、彼を強く苦しめている部分を一時的に封じることで、現在の現実を受け入れられる心理状態へ導く方法です」
「催眠……」
「ただし、脳の神経活動に影響を与える可能性があります。将来的に、何らかの後遺症が残る危険性も否定できません」
駿平は了のいる病室へ目を向けた。
幼い頃、みんなで笑い合っていた日々。
鞘香の笑顔。
了が夢を語っていた姿。
そのすべてが、遠い過去のものになってしまった。
「……お願いします」
駿平は迷わず答えた。