診察室を出た駿平は、中央ホールを歩いていた。
広い空間。
白い壁。
行き交う医師や看護師。
そのとき、壁に設置された大型モニターが目に入った。
『横浜市内で発生した一連の怪事件について、警察は引き続き捜査を進めています』
駿平は足を止めた。
『先日、横浜市西部の造船所周辺で確認された巨大生物について、政府は公式な見解を発表していません。現場から回収された生物の残骸についても、詳しい分析結果は明らかになっていません』
画面には、造船所周辺の映像が映し出されていた。
破壊された建物。
地面に残った巨大な溝。
規制線の向こうで撮影する報道陣。
『インターネット上では、現場で撮影されたとされる映像が拡散しています。映像には、巨大な生物の姿に加え、正体不明の赤い光が映り込んでいるという情報もあります』
駿平の表情が変わった。
画面には、遠くから撮影された不鮮明な映像が映っていた。
砂塵の向こうに立つ巨大な影。
赤い光。
そして、一瞬だけ映り込む、赤と銀の輪郭。
映像はすぐに切り替わった。
『専門家からは、映像の加工や誤認の可能性も指摘されています。警察と自衛隊は、現時点で詳細な説明を行っていません』
駿平は画面を見つめていた。
自分の姿を見た者がいる。
少なくとも、あの夜の出来事は、すべて隠し通せるものではないのかもしれない。
そのとき、赤いオーラが隣に現れ、声が聞こえた。
『見たか』
「……ああ」
『人間は、理解できないものを前にすると、まず名前を与えようとする』
「名前?」
『名前をつければ、理解したような気になれる。分類すれば、管理できるような気になれる。だが、名前を与えたところで、本質が分かるわけではない』
駿平はモニターから目を離した。
「お前は、人間を信用していないのか」
『信用する、しないという話ではない』
「じゃあ、何なんだ」
『人間は、人間の尺度で世界を測る。それだけのことだ』
駿平は、先ほどの尋問室を思い出した。
審査官の視線。
説明を求める声。
そして、言葉にできないものを前にしたときの、あの疑念。
「……お前が言っていた恐怖って、こういうことなのか」
『そうだ』
「俺があの姿になったと知られたら、みんなも同じように俺を見るのか」
『可能性はある』
「……」
『だが、すべての人間が同じ答えを出すわけではない』
「どういう意味だ?」
『恐怖を抱く者もいれば、理解しようとする者もいる。利用しようとする者もいれば、排除しようとする者もいる』
赤い人は静かに続けた。
『君が人間を守ったという事実と、君が人間の理解を超えた存在であるという事実。その二つを、同時に受け入れられる者ばかりではない』
駿平は目を閉じた。
「……それでも、俺は守る」
『誰を』
「目の前にいる人を。助けを求めている人を。俺が守りたいと思った人を」
駿平は、再びモニターを見た。
「俺が何者なのか、今はまだ分からない。でも、それを理由に誰かを見捨てるつもりはない」
赤い人は、しばらく沈黙した。
『ならば、その意志を忘れるな』
「……ああ」
駿平は、ゆっくりと息を吐いた。
そのとき――
モニターの映像が切り替わった。
『続きまして、河口湖周辺で発生している観光客の連続失踪事件についてお伝えします』
駿平の表情が変わった。
『河口湖周辺では、ここ数日、観光客が相次いで行方不明になっています。現場からは衣服の残骸や破損した所持品などが見つかっていますが、失踪者の所在は分かっていません』
画面には、河口湖の湖畔と、湖を囲む山々が映し出されていた。
観光客が行き交う湖畔の遊歩道。
土産物店が並ぶ観光地区。
そして、木々に覆われた神社へ続く道。
昼間の穏やかな風景と、夜の薄暗い湖畔の映像が交互に映し出される。
『警察は事件と事故の両面から捜査していますが、現在まで有力な手掛かりは得られていません』
駿平は、画面を食い入るように見つめた。
河口湖。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが反応した。
造船所で感じたものと、よく似た感覚だった。
「おい、これ」
『分かっている』
「この事件……」
『あの夜の生物と、無関係ではないだろう』
駿平は拳を握った。
河口湖で起きている失踪事件。
現場に残された説明のつかない痕跡。
そして、あの夜に感じた異様な気配。
それらが偶然重なったとは、どうしても思えなかった。
そのとき、ポケットのスマートフォンが鳴った。
陸上自衛隊の専用回線だった。
「……はい!」
『不動か?』
「俺です」
『すぐ基地へ来い。緊急任務だ』
駿平は、モニターを見た。
河口湖。
相次ぐ失踪。
説明のつかない痕跡。
「……河口湖ですか?」
『お前もニュースを見たか』
「はい。今、見ました」
『詳しい説明は基地でする。すぐに来い』
「了解しました」
電話を切る。
駿平は病院の出口へ向かった。
その胸の奥で、赤い人が静かに告げた。
『駿平』
「……何だ」
『今度の相手が、前回と同じものだとは限らない』
「分かってる」
『そして、人間が恐れるものも、一つとは限らない』
駿平は足を止めずに答えた。
「だったら、確かめるしかないだろ」
『そうだ』
駿平は病院を出た。
夕暮れの光が、街並みを赤く染めていた。
人々はまだ、いつもどおりの日常を送っている。
買い物を終えて帰宅する者。
駅へ急ぐ者。
家族や友人と談笑しながら歩く者。
誰もが、目の前の日常が明日も続くと信じている。
しかし、その日常のすぐそばで、次の異変が動き始めていた。
横浜方面基地・作戦会議室
駿平が会議室へ入ると、すでに多くの隊員が集まっていた。
前回の造船所作戦に参加した隊員たち。
そして、警視庁から派遣された二人の捜査員。
室内には、重苦しい緊張感が漂っていた。
壇上の自衛官が、スクリーンに映し出された河口湖周辺の地図を指した。
「現時点で確認されている痕跡から判断すると、今回の事件は、前回の巨大生物襲撃事件と複数の共通点があります」
画面には、失踪者の発見地点と、衣服や所持品が見つかった場所が示されていた。
湖畔の遊歩道。
観光施設の周辺。
森林へ続く道路。
そして、神社の近く。
失踪者たちは、河口湖周辺の複数の場所で消息を絶っていた。
「さらに、研究班が河口湖周辺を調査した結果、特殊な微量元素の変動が検出されました」
誰も口を開かなかった。
全員が、その意味を理解している。
再び、異常な生物が現れた可能性がある。
「前回の作戦では、我々は大きな犠牲を出しました。今回も、対象の正確な能力や性質は分かっていません」
自衛官は続けた。
「上層部は、これ以上の無用な犠牲を避けることを決定しました。今回は大規模部隊を投入せず、少人数で現地調査を行います」
「何名で行くのですか?」
隊員の一人が尋ねた。
「三名以下です」
会議室に小さなざわめきが起こった。
誰が選ばれるのか。
そんな視線が交錯する。
しかし、駿平の頭の中には、別のことがあった。
河口湖。
祥子は、仕事で河口湖を訪れると言っていた。
新しく契約した商品の納品。そして、現地の神社で公開されるという古物を見に行くつもりだとも話していた。
今、彼女はどこにいるのか。
無事なのか。
事件が起きている場所に、彼女がいる可能性は高い。
胸の中の不安は、一瞬たりとも消えていなかった。
駿平は立ち上がった。
「長官」
全員の視線が集まる。
「俺を一人で行かせてください」
会議室が静まり返った。
江国三尉が、駿平をじっと見つめている。
「不動、お前はすでに一度、同様の任務を経験している」
壇上の自衛官が言った。
「今回の人数制限を考えれば、ほかの隊員と組ませることだって」
「いいえ」
駿平は首を横に振った。
「だからこそ、俺が行きます」
「……」
「俺は前回、あの生物と最後まで直接対峙しました。どれだけ危険な相手なのか、誰よりも分かっています」
声に迷いはなかった。
「今回の任務は、俺が行かなければなりません」
長官は、しばらく駿平を見つめていた。
やがて、静かに頷いた。
「分かった。そこまで言うなら任せよう」
「ありがとうございます!」
駿平は深く頭を下げた。
「会議終了後、残れ。詳細を説明する」
「了解しました」
やがて、ほかの隊員たちが会議室を出ていった。
最後に残った駿平へ、長官が改めて説明を始めた。
「今回の事件について、政府は現段階で公表するつもりはない。対象の正体が明らかになれば、住民や観光客に無用な混乱を招く」
「……」
「河口湖周辺は通常どおり開放し、大規模な封鎖も行わない」
長官は駿平を見た。
「お前は観光客を装って私服で現地へ入り、警察と合同で調査を行え。対象を発見しても、できる限り正面からの戦闘は避けること」
「分かりました」
「そして、こちらを持っていけ」
長官は、小型カメラに似た機器を取り出した。
「小型波動検知器だ。今回の怪物事件を調査している臨時研究班の責任者から預かっている」
駿平は機器を受け取った。
「活動時の波形を記録しろ。現在の我々には、こうした生物変異が発生する具体的な原因を正確に突き止める手段がない」
「了解しました」
「それと、前回お前が報告した青い光。今回それを確認できた場合は、その波形も記録してくれ」
「……分かりました」
駿平は機器をポケットへしまった。
しかし、心の中では別のことを考えていた。
祥子が危険にさらされているのなら、ただ記録するだけで終わらせるつもりはなかった。
そして、もう一つ。
あの赤い光と、河口湖周辺で検出された異常波動。
二つの現象が、どこかで繋がっているような感覚があった。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
だが、駿平は、確かめなければならなかった。
会議室を出た駿平は、窓の外へ目を向けた。
横浜方面基地の向こうに、夕暮れの空が広がっていた。
河口湖は、ここから遠く離れている。
山々に囲まれた湖。
観光客で賑わう湖畔。
その静かな風景の裏側で、何かが人々を襲っている。
これから向かう場所。そして、何かが待ち受けている場所。
『駿平』
またしても横に赤いオーラが現れた。
「……分かってる」
『まだ何も分かっていない』
「それも分かってるよ」
駿平は小さく息を吐いた。
「だから、今度こそ確かめる。あの青い光の正体も、お前のことも。そして……人間が何を恐れているのかも」
『人間の恐怖を、すべて理解する必要はない』
「でも、知らないままでいいとも思わない」
駿平は歩き出した。
「俺は、人間だからな」
赤い人は答えなかった。
ただ、駿平の意識の奥で、静かな気配だけが残っていた。
向かう先は河口湖。
そしてそこには、駿平がまだ知らない新たな脅威が待ち受けていた