同じ頃、駿平は、再び青い波動を捉えようとしていた。
感知意識が示す方向を追い、山中湖畔にある美術館の近くまでやって来たのである。
館外から見える湖は穏やかだった。
風に揺れる水面が陽光を反射し、何事も起きていないかのような静けさを保っている。
駿平はしばらくその景色を眺めた後、開館したばかりの美術館へ入っていった。
館内には、写真を中心とした美術作品が展示されていた。
構図や瞬間の切り取り方が巧みで、どの作品にも強い現実感がある。
駿平は標的を探しながら、気分転換も兼ねて作品を眺めていた。
そして、ふと考えた。
もし、了が夢を諦めていなかったら、彼の作品も、ここに展示されていただろうか。
そんな思いが胸をよぎった。
その時だった。
一枚の写真が、駿平の目に留まった。
倒壊した瓦礫の前。
背を向けて立つ、大勢の人々。
その顔には恐怖が刻まれ、誰もが目の前の光景に圧倒されている。
一目見ただけで分かった。
あの大災害の記録写真だった。
駿平の脳裏に、過去の記憶が蘇る。
瓦礫。
救助活動。
そして、救うことのできなかった人々。
彼は写真から目を離せなかった。
『駿平』
突然赤い人の声がした。
『危険だ!』
突然、背後からシュッと風を切る音がした。
駿平は反射的に振り返った。
糸のようなものが、背中へ向かって飛んできている。
駿平は身体をひねり、紙一重でそれをかわした。
糸状の物体はそのまま飛び、展示されていた写真作品へ粘りついた。
次の瞬間。
人間の声のような奇妙な叫び声が、美術館の中に響いた。
駿平は音のした方向へ目を向けた。
螺旋階段の下。
そこには、暗室らしき部屋があった。
閉じていたはずの木製扉が、なぜか僅かに開いている。
その隙間から、一瞬だけ、星のような光がいくつも見えた。
まるで、何匹もの目がこちらを睨んでいるかのようだった。
開館したばかりで、館内の来館者はまだ少ない。
幸い、今の出来事に気づいた者はほとんどいなかった。
駿平はゆっくりとポケットの中の拳銃へ手を伸ばした。
だがそこで一瞬、ためらった。
拳銃の握りから手を離す。
しかし、そこで一瞬ためらった。
開館したばかりの美術館には、まだ来館者がいる。
ここで銃を撃てば、周囲を巻き込む恐れがあった。
(……拳銃は使えないか)
『その判断でいい』
意識の奥で、赤い人が答えた。
(扉の向こうに何かいる。しかも、あの糸……普通の生物が吐き出すものとは思えない)
『正体を確かめるまでは、決めつけるな』
(分かっている)
駿平は拳銃のグリップを握っていた手を離した。
代わりに、その手を固く握りしめる。
拳をパルス波で包み込む。
そして、暗がりへ向けて稲妻のような速度で拳を振り抜いた。
鈍い衝撃音が美術館内に響き、空気そのものが大きく揺らいだ。
暗室の扉の向こうから聞こえていた怪物の叫び声が、さらに鋭くなる。
それに混じって、ガラスが砕けるような音も響いた。
次の瞬間、扉の隙間から、二本の糸状の影が飛び出した。
駿平は扉の向こうで起きている異変を察知すると、何食わぬ顔で足を動かした。
特殊な歩法で身体の軌道を変え、二本の太い糸をかわす。
二本の糸はそのまま、背後にあった美術彫刻へ突き刺さった。
駿平が攻撃をかわした瞬間、扉の向こうから再び怪物の声が響いた。
しかし、その声は次第に弱くなっていく。
さらにザァザァとまるでコンクリート板を引きずるような音が続いた。
しかし数秒後にはその音も消えた。
それ以降、何も聞こえてこない。
駿平は眉をひそめ、暗室へ入って確認しようとした。
(……どうなった?)
『まだ分からない。気配が弱まっているが、消滅したとは限らない』
(逃げた可能性もあるか)
『ある。慎重に動け』
駿平は扉の隙間を見つめた。
その時だった。
突然、警報音が鳴り響いた。
先ほどの異変に気づいた来館者たちが、ほとんど一斉に集まってきた。
しかし、彼らの視線は駿平には向けられていなかった。
目を奪われていたのは、破壊された美術彫刻と、先ほど引き裂かれた写真作品だった。
来館者たちは、口々に何が起きたのかを推測している。
「いったい、何があったんだ?」
「今の音、ここから聞こえたのか?」
「彫刻が……壊れているぞ!」
警報音が二十秒ほど鳴り続けたところで、美術館の館長と警備員たちが現場へ駆けつけた。
床に散らばった彫刻の破片。
そして、引き裂かれた写真作品。
それらを目にした館長は頭を抱え、顔を真っ赤にした。
「どうしてこんなことに!」
館長は叫んだ。
その後も、怒り狂ったように何度も悪態をつき続けた。
どうやら、展示品は相当に高価なものらしい。
駿平はその様子を眺めながら、意識の奥でネイザースに問いかけた。
(怪物は、まだあの暗室にいると思うか?)
『分からない。先ほどの衝撃で傷を負った可能性はあるが、今の段階では断定できない』
(ここで騒ぎを起こした以上、すぐに確認するのは難しそうだな)
『人間たちが集まっている。今は状況を見極めろ』
事件現場に最も近かった駿平は、当然のように警備員から事情を聞かれた。
駿平は素直に応じ、起きたことをありのままに説明した。
ただし、面倒を避けるため、自分が陸上自衛隊員であることは明かさなかった。
事情を一通り聞いた警備員たちは、半信半疑といった様子で駿平を見た。
それから館長へ視線を向ける。館長が頷くと、警備員たちは揃って螺旋階段の下にある暗室へ向かった。
好奇心から、その場に集まっていた来館者の一部も後をついていく。
館長は止めなかった。駿平もまた、人々に紛れてその後を追った。
暗室の前まで来ると、館長が扉を開けようと手を伸ばした。
しかし僅かに開いていた扉へ手が触れた瞬間、オーク材の扉は轟音とともに後方へ倒れた。
床へ叩きつけられた扉は、いくつもの破片へと砕け散った。
館長と警備員たちは、唖然としてその光景を見つめた。
すぐに我に返り、木製扉を固定していた金具を調べようとする。
だが、その時、彼らの視線が突然止まった。
そして、ゆっくりと扉の正面へ向けられる。
驚きの表情が、一気に引きつった。
暗室入口の正面にある壁。
そこには、トラック三台分の車体前部を横に並べても余裕があるほど巨大な穴が開いていた。
穴の向こうは美術館の裏手へ通じている。
その先には、桜の林が広がっていた。
昼間の明るい光が外から差し込み、真っ暗だった暗室の内部を半ば照らし出している。
入口まで歩いてきた駿平は、この光景に少しも驚かなかった。
落下した木製扉の固定金具を観察する。
金属製のネジ頭が、明らかに強力な腐食性物質によって溶かされていた。
鉄板そのものも、三分の一ほどしか残っていない。
床にうずくまり、眼鏡まで落としてしまった館長の横を通り過ぎながら、駿平は何気ない様子を装って室内を観察した。
どうやら、ここは雑物や廃棄物を置いておく倉庫らしい。
広さは七、八平方メートルほど。
普通の物置と大差ないが、室内の荒れ具合から考えると、相手の体格はかなり大きい。
もっとも、以前に遭遇した怪物ほどではないようだった。
駿平はさらに、壁の穴の両側にある断面へ近づいた。
そこには、まるでつい先ほど腐食したばかりのような痕跡が残っていた。
(……奴は、まだ遠くへ行っていない)
『そう判断できる根拠は?』
(腐食の痕跡が新しい。あの穴を開けてから、そう時間は経っていないはずだ)
『ならば、痕跡を追える可能性がある』
(ああ。今なら追いつけるかもしれない。新しい手掛かりも掴めるはずだ)
駿平は壁の穴を見つめた。
怪物は、ここから美術館の裏手へ逃げたのだろう。
その時――。
「うわ、何これ?」
背後から声が聞こえた。
駿平が振り返ると、美術館の警備員と来館者たちが一か所に集まり、皆が驚いた表情を浮かべていた。
駿平は自然な動作で近づいた。
周囲の好奇心旺盛な来館者と同じように振る舞い、誰にも怪しまれないようにする。
「これ……糸ですよね!?この質感、人間が人工的に作ったものとは思えない。蚕の糸か、蜘蛛の糸みたいだけど……こんなに長くて密度の高い糸を吐き出せるような、そんな巨大な奴がいるんですか?」
話していたのは警備員だった。
駿平は、彼の手に乗せられている糸の束を見た。
先ほど自分を襲ったものだ。
他の来館者も、同じような糸を手にしていた。
それらはすべて繋がっており、破壊された彫刻のところまで伸びている。
長さは少なくとも10メートル。太さも手で抱えた部分から人間の頭ほどの高さまで積み重なるほどだった。
「糸……」
絡まり合ったそれを見つめていた駿平の頭に、突然、閃きが走った。
糸を吐き出す巨大な生物。
暗室の奥から聞こえた奇妙な叫び声。
そして、青い光。
それらが頭の中で結びついていく。
(こいつは……)
『まだ断定するな。だが、その糸は重要な手掛かりになる』
駿平は人々に気づかれないよう、糸の束を見つめた。
そして、脳波に赤い光を乗せ、神秘的な意識をその糸へ一気に走らせた。
捕捉した波形を逆方向へ辿る。
糸がどこから伸びてきたのか。
壁の穴が、どの方向へ通じているのか。
駿平は意識を集中させた。
やがてぼんやりとした影を捉えた。
鮮明ではない。
しかし、おおよその位置なら分かる。
(見つけた……かもしれない)
『位置は不確かだ。見失わないようにしろ』
(分かっている。ここで逃がすわけにはいかない)
「ちょっと、通してください!」
その時、人混みの中から太い声が響いた。
駿平が顔を上げる。
人の群れをかき分けて、一人の警察官がやって来た。
おそらく館長が事態の深刻さを察して通報したのだろう。
だが、その警察官には見覚えがなかった。
河口湖の失踪事件を捜査している警察官たちとは別の人物だ。
ここで鉢合わせすれば、余計な面倒を招く可能性がある。
駿平は、警察と美術館職員が現場を調べている隙をつき、別の扉からひっそりと美術館を抜け出した。
外へ出ると、先ほど感知したぼんやりとした影の方向へ視線を向ける。
(早くあいつを見つけないと。これ以上、時間をかけるわけにはいかない)
駿平は歩きながら考えた。
(もし、あいつが人目につかない場所に隠れて、一人になった人間を狙っているなら……)
その考えの先に、一つの可能性が浮かぶ。
(俺自身を囮にして、逆に誘い出せる)
『危険は承知の上か』
(ああ。あいつが次に誰を狙うか分からない。なら、俺が先に見つける)
赤い人は、それ以上何も言わなかった。
駿平は脳波で感知した存在を追い続けた。
桜の林の中を駆け抜ける。
木々の間を進み、やがて密林の中心部にぽっかりと開いたような、広く荒涼とした場所へ辿り着いた。
五年前、あの林の中で感じた感覚が、再び胸の奥へ蘇ってきた。
駿平は激しく鼓動する胸へ手を当てた。
そして、ゆっくりと身体を起こす。
その姿は、地面へ突き立てられた槍のように真っ直ぐだった。
「……来た」
背後から聞こえる、ザワ……ザワ……という風に揺れる音。
駿平はその音を聞きながら、静かに呟いた。
地面から伝わってくる微かな振動。
その周波数が、変化し始めていた。