背後の何かが、猛烈な速度で接近していた。
駿平は自衛隊の軍用拳銃を強く握りしめた。
そして振り返ると、銃を抜き、パルス振動をまとわせた弾丸を撃ち放った。
数発の銃声が響く。
高速で移動していた影が止まった。
そして、陽光の下にその本当の姿をさらした。
駿平の意識が捉えていたものと同じだった。
巨大な蜘蛛。
その怪物は馬上槍のような長く鋭い前脚を含めた何本もの脚を曲げ、駿平から二メートルほど離れた場所に身を伏せていた。
巨大な口から吐き出された糸が、パルス波を帯びた弾丸を受け止めている。
「今度は化け蜘蛛かよ!」
撃ち出した弾丸が地面へ落ちる音を聞きながら、駿平は表情を変えなかった。
しかし、その身体はすでに戦闘態勢に入っている。
二つの拳の表面には赤い光が浮かび、全身の周囲で歪んだ空気が渦巻いていた。
拳から高熱が放たれている証拠だった。
(こいつが河口湖の失踪事件に関係しているのか?)
『おそらく。先ほどの糸と、ここまでお前が追ってきた波動は無関係ではないはずだ』
(なら、ここで捕まえる)
駿平は拳を握り直した。
しかし、相手も駿平の動きを察知したらしい。
巨大蜘蛛は、逆向きの牙が並んだ巨大な口を開いた。
青い光を帯びた四本の糸が、勢いよく飛び出す。
それは駿平が攻撃するよりも速かった。
「――ッ!」
危険を感じた駿平は、拳にまとわせていた赤熱光を解除し、素早く左へ身体を寄せた。
四本の糸をかわす。
だが、安心する暇はなかった。巨大蜘蛛はすでに、木の枝へ張り巡らせた巨大な巣へ登っていた。
そして、上空から一気に飛び降りる。
粘ついた唾液を垂らす巨大な口を開き、駿平を丸ごと飲み込もうとした。
駿平は歯を食いしばる。
両手を地面につき、四肢をばねのように使って跳躍した。
空中へ飛び上がり、巨大蜘蛛の噛みつきをかわし、そのまま側面から、徒手でパルス振動を叩き込んだ。
巨大な身体が吹き飛ばされ、蜘蛛は地面へ叩きつけられた。
周囲に桜の落ち葉が舞い上がる中、駿平は拳銃を抜いた。
起き上がろうとする巨大蜘蛛へ向け、連続して銃弾を撃ち込む。
弾丸に込められた高熱パルスは、巨大蜘蛛へかなりのダメージを与えた。
怒り狂った巨大蜘蛛は、駿平へ向けて青い光弾を吐き出した。
駿平は両腕を交差させ、身体を屈めた。
真正面から飛来した光弾を、真正面から受け止める。
腕と顔には血管が浮き上がった。
肉体そのもので、光弾の衝撃を受け止めているのだ。
赤い光が、浮き上がった血管の筋を走る。
そして、駿平は光弾を素手で引き裂いた。
全身から蒸気のような気流が立ち上る。胸元の赤い光がさらに激しく点滅し、そこから無数の赤い細線が両腕へ伸びていった。
駿平は体内の超能力を最大まで解放し、変身しようとした。
その瞬間だった。
巨大蜘蛛は突き出た尻尾から後方へ向けて、長く太い糸を噴射する。
空気を引き裂く音とともに、その糸を使って一気に逃走した。
「……逃げた?」
あまりにも危険を察知するのが速い怪物に、駿平は呆れて言葉を失った。
すぐに通常の身体へ戻る。
膨張していた両腕の筋肉も、元の状態へ戻っていった。
今では、この力を最大限まで使用する感覚にも少しずつ慣れてきていた。
駿平は再び意識を使い、蜘蛛を探った。
しかし、もうその波動は捕捉できなかった。
また完全に身を隠したらしい。
「逃げ足だけは速いな!」
『力を解放する直前に逃走した。お前が変身する気配を察知したのかもしれない』
「だとしても、ここまで早く逃げるとはな……」
駿平は地面へ腰を落とし、額の汗を拭った。
このままでは、あの怪物が再び姿を現して騒ぎを起こすまで、捕まえることができない。
その間に、どれだけ罪のない人間が命を落とすか分からない。
そして何より、まだ河口湖にいる祥子が巻き込まれる可能性もあった。
「まずは警察と合流する。それから、検出器に最後に記録された波形を基地へ送ろう」
先ほどの戦闘中、駿平は上官から渡されていた波動検出器を密かに起動させていた。
ジャケットの中へ忍ばせ、戦闘中の怪物の活動波形を記録させていたのだ。
駿平は検出器の状態を確かめようとした。
だが、すぐに手を止める。
「いや、それより……まず祥子と河口湖の人たちの安全を確保しないと」
考え直した駿平は、最初の判断を取り消した。
「どうやら、残業になりそうだな……」
『あの怪物を追うのか』
「ああ。少なくとも、祥子が安全な場所にいることを確かめるまでは放っておけない」
駿平は立ち上がった。
そして、巨大蜘蛛が逃げた山中湖方面へ向かって走り出した。
その頃。
ガソリンスタンドでは、祥子が店員からデザイン素材の入った袋を受け取っていた。
「本当にすみません。まさか、ここに置き忘れていたなんて……」
祥子は感謝するように頭を下げた。
「いえいえ。見つかってよかったですね」
ガソリンスタンドの男性店員は笑顔で答えた。
祥子も笑顔を返し、袋を手にして立ち去ろうとする。
その時、ガソリンスタンドの脇に立っていた、風景を示す案内板が目に入った。
他の風景案内板とは違い、その板には河口湖周辺の観光スポットを示す表示が何もなかった。
描かれているのは、一枚の看板。
そして、その前に立つ弓形のトーテム柱だった。
「これって……」
その絵を見た瞬間、祥子の脳裏に中学時代の記憶が蘇った。
弓道の試合を前にした、ある光景。
あの頃、祥子は鞘香とともに、県リーグ昇格を目指していた駿平のために祈った。
二人の友情の証として、あの弓形のトーテム柱が立っている看板の前で願いを込めたのだ。
その後、願いが叶ったことを報告しに行こうと思っていた祥子だった。
しかし、鞘香が震災で亡くなったことで、そのこと自体を忘れてしまった。
そして後になって、あの建物も地域の事情によって廃棄されたと聞いていた。
それが今、再び目の前にある。
祥子がその絵に見入っていると、店員が不審な顔で声を掛けてきた。
「どうしましたか?」
「あ、いえ。それより、この絵って……?」
「ああ、これですか。どうやら、どこかの神社を建て直すために移設されてきた廃建築らしいですよ。移送した人が、こんなものをそのまま荒れさせておくのはもったいないって言ってました」
「そうなんですか……」
祥子は少し迷ってから、さらに尋ねた。
「では、これがどこにあるのか教えてもらえませんか?」
「うーん、具体的な場所は、すぐには思い出せないですね。でも、この辺りで見たという人はいます。たぶん山中湖の向こう側だったと思いますよ。あそこのコンビニの店主のおばちゃんなら知ってるんじゃないでしょうか?」
「ありがとうございます」
「でも、あっち方面へ行くなら帰りはかなり遅くなると思いますよ。最近この辺りは危ないですから。ニュースで報道されている事件も知ってるでしょう?今すぐじゃないなら、探しに行かないほうがいい。あなたこの辺の人じゃないでしょう。早めに帰ったほうがいいですよ」
「ご忠告ありがとうございます。でも、自分で決めていますから」
祥子はそう答え、ガソリンスタンドを後にした。
運転席に座ってからも、頭の中には、あの絵に描かれていた建物の姿が浮かび続けていた。
どうしても頭から離れない。
まるで、その建物そのものが何かの力で彼女の心を強く引き寄せているようだった。
そのせいで、今やるべきことに集中できなくなっていた。
やがて車は、林道脇で突然停止した。祥子はシフトをパーキングに入れ、エンジンを切る。
そして、ブレーキペダルからゆっくりと足を離した。
目を閉じ、乱れた思考を整理しながら、頭を冷静にしていく。
その間にも、店長とガソリンスタンドの店員から受けた忠告が、何度も脳裏へ蘇った。
それと同時に、鞘香と一緒にトーテム柱の前で祈った光景も浮かび上がる。
まるで、二つの記憶が彼女の中で争っているようだった。
祥子は眉を寄せ、迷い続けた。
そして、ついに小さく息を吐いた。
「やっぱり……まあ、一晩くらいなら大丈夫よね」
そう呟いたものの、その表情にはまだ迷いが残っていた。だがあの場所を探しに行くことを決心した祥子は、片手をハンドルへ置き、もう片方の手をエンジンキーへ伸ばした。
その時、キーを回そうとした手が、突然止まった。
祥子の視線が、フロントガラスの向こうに広がる林へ向けられる。
そこを、緑色のジャケットを着た男が走り抜けていった。
何かを追っているようだった。
「駿平!」
林の中を通り過ぎた人影を見て、祥子は思わず叫んだ。
反射的にドアを開け、車から降りて確認しようとする。
しかし、すでにその姿は消えていた。
「……そうだよね。駿平がどうしてこんなところにいるのよ」
祥子の顔に、失望が浮かんだ。
駿平は今、自衛隊で働いているはずだ。たとえ本当に自分を心配していたとしても、基地からの命令がなければ、勝手に神戸市を離れてここまで来ることなどできない。
自分は少し、自意識過剰だったのかもしれない。
そう考えると、祥子の表情には、少し恨めしそうな色が浮かんだ。
まるで、恋人に振られた少女のようだった。
もともと見に行こうと思っていた「古社トーテム物展」も、このことで気分が削がれてしまい、結局、行く気にはなれなかった。
祥子はゆっくりと嫌な感情を振り払い、エンジンキーを回した。
そして、山中湖の反対側へ向けて車を走らせた。