その頃、林の中を走っていた駿平の顔が、突然引きつった。
腕や掌の骨に、鈍い痛みが走る。
痛みに耐えるため、駿平は時折、歯を食いしばった。
やはり、生身の身体で真正面から受け止めるのは少々無理があった。
そう考えながらも、駿平はさらに遠くへ走り続けた。
逃げた巨大蜘蛛の反応は、すでに薄れ始めていた。
それでも、完全に見失うわけにはいかなかった。
あの怪物を放置すれば、再び誰かが襲われる。しかも、今は祥子も河口湖周辺にいる。
駿平は痛む腕をかばいながら、木々の間を駆け抜けていった。
夜の山中湖畔の小屋付近。
「あの野郎……一体どこまで逃げたんだ?」
ここまで追跡してきた駿平は、両手を膝につき、腰を曲げて激しく息を吐いていた。
まるで、今日一日の疲労をすべて吐き出すようだった。
しばらくして、ゆっくりと身体を起こす。
そして湖畔まで歩き、夜の山中湖を眺めた。
目に映る夜景には、どこか寂しげな雰囲気が漂っている。
時折聞こえる虫の声と、湖畔を吹き抜ける風の音。
それ以外には、ほとんど何も聞こえなかった。
「夜景……綺麗だな……でも今は、ゆっくり眺めてる場合じゃないか」
駿平は夜空を見上げた。まばらに浮かぶ星々を眺め、長いため息をつく。
その時、河口湖から山中湖へ吹き抜ける風が強くなった。
湖畔の蔓植物が風に揺られ、ざわざわと音を立てる。
静かな夜に、涼やかな旋律を添えていた。
その空気の中で、駿平は目を閉じた。
1日中追跡続けて疲れ切った心と身体を、徐々に解き放つ。澄んだ空気を深く吸い込む。
湖から吹く風が身体を通り抜け、全身の細胞へ流れ込んでいくような感覚だった。
2分ほど経った頃、駿平は目を開いた。
今日一日の出来事を、改めて思い返す。
昼過ぎにあの怪物と初めて遭遇してから、もう深夜近くになっている。
どれだけ探しても、結局、再び見つけることはできなかった。
まるで完全に消えてしまったかのようだ。
しかし危険な気配は、依然として河口湖全域を覆っていた。
「早く見つけて始末しなければ、さらに多くの人が犠牲になる。それだけじゃない。もし事態が大きくなれば、住民の間にさらに深刻なパニックが広がる。そうなったら……」
事態の重大さを考えた駿平は、再び意識を河口湖全域へ広げることを決めた。
今度は、別の方法を試す。
失踪者から追っていく。
失踪現場に残された痕跡の規則性を辿り、一歩ずつ怪物の手掛かりへ近づいていく。
それしか方法がなかった。
駿平は心の中で苦笑した。
そして、まだ河口湖に留まっている祥子の安否を思い出すと、表情を一気に険しくした。
感知意識が山中湖から河口湖全域を包み込み、あらゆる場所へ広がっていく。
同時刻。山中湖の反対側。
祥子は車の速度を落とし、まだ明かりのついている店の前で停車した。
「コンビニって、多分ここね」
車を降り、ドアを閉めた祥子は河口湖周辺では珍しい、夜になっても営業している小さなコンビニを興味深そうに眺めた。
入口の看板には「山中湖畔店」と書かれている。ここでほぼ間違いない。
鞘香と一緒に願いを託した、あの建物について何か聞けるかもしれない。
祥子は身なりを軽く整え、バッグを肩に掛けて店内へ入った。
一方、河口湖全域の異常な波動を全力で探していた駿平は、汗で顔をびっしょりと濡らしていた。
表情にも疲労が滲んでいる。
意識による追跡を続ける中で、駿平は失踪者の数が再び僅かに増えていることに気づいた。
しかも、非常に短い間隔で。
あの怪物は駿平との戦闘後、姿を隠しながらも、現地の観光客や住民を次々と捕食している。
世間が失踪事件をそれほど深刻に受け止めていないため、河口湖を訪れる観光客の数もほとんど減っていなかった。
それが、怪物にとっての犯行の温床になっていたのである。
駿平は、現場に残された破壊痕からさえ、犠牲者たちが食われる直前に浮かべていた恐怖の表情を感じ取ることができた。
そして、その断末魔の叫びまで聞こえてくる。
死の直前に発せられた、一つ一つの叫び。
それは駿平の心を強く揺さぶった。
(……また、間に合わなかったのか)
『駿平』
オーラが現れ、赤い人の声が響いた。
(分かってる。今、何が起きているのかも……)
『君が感じ取っているものは、過去の記憶ではない。今、この場所で命を奪われている者たちの苦痛だ』
(そんなことは分かってる!)
駿平は思わず心の中で声を荒らげた。
(分かってるからこそ、放っておけないんだ……!)
『10年前のことを思い出しているのか』
その言葉に、駿平の意識が一瞬揺らいだ。
過去の大災害が人々にもたらした苦痛。
あの時、駿平は間に合わなかった。
地震の中で仲間を救うことができず、さらに多くの罪のない犠牲者を救えなかった。
(あの時は……何もできなかった)
『……』
(目の前で助けを求めている人がいたのに、俺は全員を救えなかった。どれだけ手を伸ばしても、届かない命があった)
駿平は拳を握り締めた。
(だからこそ、今度だけは……)
『同じことを繰り返したくないのだな』
(ああ。今度だけは、絶対に同じことを繰り返さない)
赤い人は、しばらく沈黙していた。
『その思いを忘れるな』
(……分かってる)
『だが、すべての声に耳を傾けていては、目の前の一人を救うための判断が遅れることもある』
(そんなこと……)
『君が感じ取った苦痛を、すべて背負う必要はない。今、君にできることを見極めろ』
駿平は目を閉じた。
恐怖と絶望に満ちた声が、意識の中で重なり合っている。
それらを無理に振り払うのではなく、今、自分が追うべきものへと意識を絞っていく。
(……そうだな。俺が今、やるべきことは一つだ)
『ああ』
(あの怪物を見つけ出して、これ以上、誰も殺させない)
その時だった。
突然、悲鳴が聞こえた。
「これは……?」
駿平は驚いて顔を上げた。
女性の叫び声だ。
明らかに恐怖から発せられたものだった。
何か恐ろしいものを目にしたらしい。
駿平はほとんど反射的に、その声を辿った。
そして――。
ついに、探していた標的を見つけた。
「だが……少し距離がある。間に合わないかもしれない」
『迷っている時間はない』
(分かってる。けど、この距離じゃ……)
『それでも行くのだろう?』
駿平は、声の聞こえた方向を見据えた。
(ああ。間に合わせてみせる)
数秒、考えた。
しかし、駿平は行動することを決めた。
今は迷っている暇などない。
ほんの少しでも遅れれば、また一人、犠牲者が増える。
『駿平』
(何だ?)
『力を使うことを恐れるな。だが、力を使うことだけに囚われるな』
(分かってよ。俺は、誰かを救うために使う)
赤い光が、徐々に駿平の全身を覆っていく。
胸元の赤い細線が両腕へ絡みついた。
膨張した筋肉が、一瞬にしてジャケットの袖を引き裂く。
山中湖付近のレストラン。
凄まじい悲鳴が響いた瞬間、店内の照明が消えた。
田園風のテーブルや椅子が、無残に倒れている。
そこは怪物の食べ放題ビュッフェと化していた。あちこちに鮮血が飛び散っている。
暗闇の中、若い女性の恐怖に引きつった顔だけが浮かび上がっていた。
その目の前で、一緒にいた若い男が、巨大蜘蛛の吐き出した糸に縛り上げられ、引きずられていく。
「やめろ……ああっ!」
男が絶望の叫びを上げた。
次の瞬間――。
巨大蜘蛛が、男を丸ごと飲み込んだ。
「ああああああ!」
怪物が男を咀嚼するボリボリという音がする。それを聞いた女性は、腰が抜けて床に倒れたまま、恐怖に泣き叫んだ。
再び、蜘蛛の糸が発射される。女性の身体を縛り上げ、そのまま巨大蜘蛛へ引きずっていった。
女性は必死に抵抗した。
この死から逃れようと、必死に身体を動かす。
しかし、抵抗は何の意味も持たなかった。
「助け……助けて……誰か、誰か助けて!」
絶望と恐怖に満ちた声。
力を使い果たしたことで、その声は次第に掠れていく。
巨大蜘蛛が、唾液を垂らしながら大口を開いた。
捕らえた若い女性を食らおうとする。
その瞬間、レストランの天井が突然、轟音とともに崩れ落ちた。
その穴を、赤い光が貫く。
そして、巨大な影が地面へ降り立った。
巨大怪物と、蜘蛛の糸に縛られた女性。
その二者の間に立ったのは、高さ5メートルの赤い巨人だった。
突然の出来事に、巨大蜘蛛は捕食行動を止めた。
その瞬間、赤い巨人が、巨大蜘蛛へ赤い光刃を放った。
女性を拘束していた糸が切断される。
赤い巨人は両腕を伸ばして巨大蜘蛛の鋭い前脚を掴むと、力任せにレストランの外へ投げ飛ばした。
レストランの薄い壁が粉々に砕け散る。破壊された壁の破片が、地面へ降り注いだ。
黒い巨大な影が、外の林へ吹き飛ばされる。
赤い巨人もまた、その後を追って林へ飛び出した。
夜空の下。
弱々しい星明かりが林を照らし、二つの巨大な影が向かい合っていた。
そして――。
夜の河口湖に咆哮が響き渡った。