でもなんかあったら消します。
第二幕 PART1 ――神秘事件
翌朝――。
陸上自衛隊基地。
「陸上自衛隊、不動駿平、参りました!」
作戦部の部屋で、制服姿の駿平は正面に立つ中年の男性へ敬礼した。
男性も敬礼を返す。
しばらく駿平の顔を見つめてから、懐かしそうに口を開いた。
「気がつけば、君も陸上部隊で随分長く勤務しているな。初めて会った時は、まだ青臭い若造だった。それが今では、立派な自衛官だ」
「ありがとうございます、長官!」
「だが、今日は訓練ではない」
「……?」
「君に別の任務を任せたい」
「どんな任務ですか?」
その時、部屋の扉が開いた。
入ってきたのは、二人の男だった。
一人は年長の男性。
もう一人は、その部下と思われる若い男だった。
「紹介しよう。こちらは警視庁公安部の羽生警部だ」
「よろしくお願いします」
駿平は羽生と握手を交わす。
「そして、こちらが大神刑事」
「よろしく」
大神とも握手を交わした。
「彼らは現在、横浜市内で発生している、ある奇妙な事件の担当をしている」
「奇妙な事件……?」
駿平は眉をひそめた。
羽生が口を開く。
「最近、全国各地で原因不明の突発事件が相次いでいます。特にここ横浜での発生頻度が突出している」
部屋の明かりが落とされ、羽生がタブレットを操作しスクリーンに写真を写す。
「行方不明事件。そして、正体不明の何者かによる襲撃事件です」
トンネル。
人里離れた道路。
森林。
その至るところに、巨大な裂け目が走っている。
道路そのものが大きく抉られている場所もあった。
別の映像には、真っ二つに切断された車両。
地面には赤黒い染み。
引き裂かれた衣服。
だが、遺体はない。
さらに映像が切り替わる。
二つの巨大な穴。
「これが、現在までに確認されている事件現場です」
羽生は説明を続ける。
「穴の深さは五百メートルから千メートル。形成された時間差は三秒以内。さらに周辺から、環形動物に似た生物の分泌物が検出されています」
「生物……?」
「我々もそう考えています」
羽生の表情が険しくなる。
「ですが、正体はまったく分かっていません」
「この事件を、公安では『神秘事案』と呼んでいます」
駿平はスクリーンを見つめた。
「市民には?」
「まだ公表していません」
「なぜです?」
「無用な混乱を避けるためです。現在は公共安全上の事件として処理しています」
「なるほど……」
駿平は資料へ目を落とした。
「では、これが自衛隊と何の関係が?」
羽生が答える。
「規模が多すぎて警察だけでは手が足りません。この事件は、横浜市民の生命に関わる可能性があります。そこで陸上自衛隊から協力者を出してもらうことになりました」
大神が駿平を見る。
「あなたには、我々の偵察行動へ参加していただきたい」
駿平は二人を見た。
何か引っかかる。
単なる合同捜査なら、自分を名指しする理由が分からない。
しかし。
「分かりました。協力します」
駿平は答えた。
「感謝します」
羽生が頭を下げた。
こうして、不動駿平は横浜で発生している「神秘事案」の調査に参加することになった。
この時の駿平はまだ知らなかった。
この任務が、自分自身の運命を大きく変えることになることを……
午後四時――。
横浜市内。
流行のデザインを扱う服飾店。初売りセールが行われるこの店で祥子は最後の客を見送っていた。
「ご来店ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
客が店を出ていくと、祥子は小さく息を吐いた。
「一日中立ちっぱなしだと、やっぱり疲れるなあ……」
「祥子さん、お疲れさま」
同僚が声をかける。
「ありがとう」
「そういえば、あの駿平さんとはまだ付き合ってるんでしょう?」
「え?」
「えって……こんなに長く付き合ってるのに、まだプロポーズされてないの?」
「もう……」
祥子の顔が赤くなる。
「自衛隊って、みんなそんなにお固いのかしら」
「そんなこと、私に言われても知らないわよ」
祥子は苦笑した。
その時だった。
「え……?」
店の外へ視線を向ける。
通りの向こうを、一人の青年が歩いていた。
歩き方がおかしい。
まるで周囲の景色が何も見えていないかのように、ふらふらと歩いている。
祥子の表情が変わった。
「……了?」
その青年は、つい昨日あったばかりの飛原了だった。
「祥子?」
同僚が声をかける。
「ごめん。ちょっと店を見てて?」
祥子はそのまま店を飛び出した。
「ちょっと、祥子!」
同僚の声が後ろから聞こえるが、祥子は気にしなかった。
「了!どこに行くの!」
了は祥子の声に反応しない。
祥子は追いかける。
やがて了が足を止めたのは、カトリック山手教会の前だった。
教会の中から、鎮魂の聖歌が聞こえてくる。
了はその歌声を聞きながら、両腕を広げていた。
そして――。
突然、地面へ倒れた。
「了!」
祥子は駆け寄った。
意識を失っているが、呼吸はある。
「よかった……」
祥子がスマートフォンを取り出した。
その瞬間。
了の目が開いた。
充血した目が、祥子を見つめる。
そして震える手を上げた。
教会の奥を指差す。
「鞘香……」
「え……?」
「生きている……」
了の指先が、暗い教会の奥を示す。
「そこにいる……」
それだけ言うと、了は再び意識を失った。
祥子は、指差された先を見つめた。
そこにはただ、静かな無が広がっていた。
同じ頃――横浜市南部
山手教会から少し離れた場所では、別の人生が動いていた。
花々と赤い絨毯で彩られたビーチ。
白いウェディングドレスを着た花嫁と、黒い礼装を身につけた花婿が手を取り合い、多くの祝福の声を浴びながら、藤の花で作られたアーチをくぐっていく。
二人は幸せそうな笑顔を浮かべていた。
この「神聖な」結婚式の最初の段階を終えると、二人は美しい音楽に送られながら控室へ入り、伝統的な和装へと着替えた。
そして再び手を取り合って外へ出る。
迎えの婚礼車へ乗り込み、伊勢山皇大神宮へ向かう。
そこで、伝統的な結婚式を挙げる予定だった。
海辺で行われていた結婚式を終えた新郎新婦が、婚礼車へ乗り込む。
海辺から横浜の中心部を抜け、桜木町方面へ向かい、そこから伊勢山へ上がる。
本来ならば、みなとみらいを経由して紅葉坂方面へ向かう、比較的分かりやすいルートだった。
しかし、その日は一部道路で点検の工事が行われていたため、婚礼車列は迂回を余儀なくされる。
先頭を走る婚礼車。その後ろに何台もの車が続いている。
車内からは、二人の甘い会話と笑い声が何度も聞こえてくる。
誰が見ても、世界で最も幸せな新婚夫婦だった。
きっとこれからの生活も、幸福に満ちたものになる。
誰もが、そう思っていた。
誰が見ても、幸福な一日だった…少なくとも、その瞬間までは。
車列が市街地から少し外れた道路へ入った。
前方には人影が少ない。
住宅も途切れ、道路脇には工事用の仮囲いが続いている。
「……おかしい」
新郎が顔を上げた。
「車が揺れているような気がする」
「この道、路面が悪いんじゃない?」
花嫁が答える。
しかし、運転手も助手席の同乗者も同じ違和感を覚えていた。
「いや……私も感じました」
「この振動は普通じゃない」
運転手が周囲を見る。
低い音が聞こえ始めていた。
「車体が揺れているんじゃない」
運転手の顔が強張る。
「地面が……震えている?」
次の瞬間――。
轟音と共に道路が突然、陥没した。
「きゃあああっ!」
路面全体が波打つ。
道路脇の小さな建物が振動で崩れ落ちる。
先頭の婚礼車の前方に、クワガタムシのような長いアゴがついた巨大な穴が口を開けた。
土砂が渦を巻きながら吸い込まれていく。
運転手が必死にブレーキを踏むが車体は止まらない。
ズルズルと地面へ引きずり込まれていく。
やがて婚礼車は、巨大な穴へ完全に飲み込まれた。
「ああああっ!」
「あれは何だ……!」
「怪物だ!」
穴の暗闇が蠢いた。
巨大な影が、地中から這い出してくる。
穴から伸びた巨大な身体が婚礼車を包み込み、金属が軋む音が響く。
次の瞬間、車体が引き裂かれた、ミキサーにかけられたかのように飛び散る自動車の部品と赤い液体が地面へ撒き散らされる。
後続車の中にいた人々は、何が起きたのか理解できなかった。
ただ、前方で車が消えた。
道路が崩れた。
そして――。
地面から、巨大な何かが現れた。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。
ドアが開く。
人々が道路へ飛び出す。
しかし、怪物は彼らを追った。
悲鳴が上がる。
やがて穴の底からぺっと何かを吐き出すように何かが飛び出してきた。
それは血に染まった白い婚礼衣装だった。
道路の入口には警備員が配置され、関係者以外の立ち入りが厳しく制限されていた。
「当該地域の関係者以外の人員は避難完了! 周辺区間も封鎖完了しました!」
警備員が報告する。
土手の上には羽生が立っていた。
「ご苦労。これから本格的に調査を開始する」
「はい!」
羽生は崩壊した道路を見た。
「ところで、生存者は?」
「あちらです。瓦礫に長く潰されていた為、腕の傷が少し悪化していますが、命に別状はありません。ただ……かなり驚いているようです」
道路脇の仮設テント。
そこでは、白い服を着た若い女性が医師から手当てを受けていた。
女性は羽生田の姿を見ると、すぐに立ち上がった。
「警察官さん!私たちを助けてください!」
「落ち着いてください」
「怪物です!怪物が襲ってきたんです! 本当に怪物が……みんなを……!」
女性は震えながら叫んだ。
羽生は、女性を制止しようとした警備員を手で止めた。
「お嬢さん。まず落ち着いてください。今ここには怪物はいません」
女性の肩が震えている。
「あなたが見たことを、最初から全部話していただけますか?」
その時だった。
「羽生警部!」
陸上自衛隊の制服を着た駿平が、封鎖線の向こうから歩いてきた。
事故の知らせを受け、基地から駆けつけた駿平は、現場を見渡した。
道路は大きく崩壊している。
周囲には破壊された建物。
路面には巨大な裂け目。
土砂と大量の血痕。
そして、二つの大きな穴。
「状況は?」
「ええ、それなりに収穫がありました」
羽生が説明する。
「一時間半ほど前、新婚夫婦が婚礼車列に伴われ、伊勢山皇大神宮へ向かっていました。しかし、この区間を通過した時、事故に遭った……新郎新婦を含め、現場にいた人間はほぼ全員死亡」
羽生田は一度言葉を切った。
「ただし、一人だけ生存者がいました」
「それが、あの女性ですか」
「ええ」
羽生田は現場を見る。
「本当に大きな惨事です」
駿平は眉をひそめた。これは単純な道路崩落ではない。
「彼女の証言によって、事件の性質が急速に明らかになりました」
羽生の表情が険しくなる。
「この事件は、怪物による襲撃事件だとほぼ断定できます」
「怪物……」
「しかも――相手は、かなりでかい」
その言葉に、駿平も表情を変えた。
「まさか……」
「彼女が何度否定しても、現段階では『強いショックによる幻覚』と説明するしかありません」
羽生は苦い顔をする。
「事態をこれ以上拡大させるわけにはいかない」
しかし、現場を見れば分かる。
何かがいる。少なくとも、単なる幻覚では説明できない。
「具体的な現場の状況については、あちらの若い隊員に説明してもらいましょう」
羽生の視線の先から、一人の自衛官が走ってきた。
二十一歳ほどの青年だった。
駿平の前で立ち止まり、敬礼する。
「不動先輩、羽生警部!現場の路面調査は完了しました。これが分析結果です!」
「状況を説明してください」
「了解!」
青年はタブレットを操作しつつ駿平に挨拶した。
「不動先輩、はじめまして!私は市川修一。陸自の新兵です」
「よろしく」
市川は姿勢を正した。
「現場調査と目撃者の証言によると、午後4時40分31秒、横浜中心部から数キロ離れたこの区間で道路崩落が発生しました」
表示された図面を指す。
「この地域を通過していた婚礼車列のうち、先頭を走っていた数台が路面崩落によってできた穴に落下。その後、何らかの力によってまるですり潰されたかのように乗員もろとも粉々にされました。後続車両は崩落そのものには巻き込まれていません。しかし」
市川の表情が変わる。
「女性の目撃証言によれば、道路に開いた穴から巨大な謎の生物が現れ、後方に残っていた車両を次々と破壊した。車内に残っていた人々だけではありません。車から降りて逃げようとした人々も、その怪物に喰われたと証言しています」
駿平は黙って聞いていた。
「現場では粉々になった自動車の部品、地面に飛び散った血痕などが発見されています。さらに、穴の周辺からは、生物が移動したと思われる痕跡も確認されています」
「分かった」
駿平は図面を羽生へ渡した。
「少し現場を見てきます」
駿平は崩壊した道路へ向かった。
路面に残された鋭い断層や崩壊した建物。
砂と土に埋もれた自動車の残骸。
錆びた鉄管から細かな砂が流れ落ちている。
まるで、壊れた蛇口から細い水が滴り落ちているようだった。
駿平は道路の断裂部分を歩く。
前後五メートルほどしか離れていない二つの砂の穴。
周囲に散らばる赤い液体。
駿平は静かに目を閉じた。
事故が起こった瞬間の光景を、頭の中で組み立てようとする。
一体ここで何が起こったのか、少なくとも人間の理屈を超えた何かが…
その時だった。
何かが――。
駿平の脳の深層で、目を覚ました。
次の瞬間。
意識が時間の断層を越えた。
無数の悲鳴。
「助けて!」
砕けた地面。
激震。
道路から滑り落ち、深淵へ飲み込まれていく車両。
まるでペッパーミルにかけられたかのごとく粉々にすりつぶされた車体と人体。
穴から離れた車両から、人々が飛び出す。
そして。
地面から巨大な影が這い出した。
影は一瞬で車両へ襲いかかった。
頭部を叩きつける、車体が次々と粉砕される。
逃げる人々を追う。巨大な身体が蛇のようにうねる。
そして――。
彼らを喰った。
「助けて……」
かすかな声。
駿平の意識が、その方向へ向かう。
崩れた小さな建物。
瓦礫の下に、一人の女性がいた。
白い服。
石板と鉄筋の間に身体を挟まれ、片腕から血を流している。
この女性が、現実に生き残った目撃者だった。
彼女は必死に助けを求めている。
だが、声は誰にも届かない。
やがて女性の声が止まった。
瞳が大きく見開かれる。
何かを見ている。
言葉では表現できない恐怖。
駿平は彼女の視線の先を追った。
その瞬間、背後の地面が激しく震えた。
先ほどより、はるかに強烈な振動。
駿平は振り返った。
割れた地面の穴から、巨大な影が現れていた。
その先端が、車両と逃げ惑う人々へ向けられている。
巨大。あまりにも巨大である。
直径十メートルほどの穴の縁に、その身体の幅がほぼぴったりと収まっている。
穴から伸びている部分だけでも、十メートル以上。
柔らかな質感。
まるで巨大な排水用の伸縮パイプのような体の表面には、隆起した環状の模様が幾重にも走っている。
それが生き物のように蠢いていた。
怪物が突進する。
車両が粉砕される。
逃げる人々が追われる。
そして喰う。
やがて怪物は、柔らかくなった地面へ身体を沈めていく。
地中へ潜り込み、周囲を探し始めた。
瓦礫の下の女性は、必死に息を殺す。
見つかれば喰われる。
怪物は周囲を探し回る。
だが、女性を見つけることはできなかった。
数分後。
怪物は周囲に生きているものがいないことを確認すると、身体をうごめかせ、地中へ消えた。
激しい振動。
怪物は地下を進み、別の方向へ移動していった。
やがて、周囲は静かになった。
その光景を見つめていた駿平の意識に、突然――。
別の声が重なった。
『……見えるのか』
「……誰だ?」
どこから聞こえているのか分からない。
だが気配はする。姿こそ見えないが脳内で表現はできる。
「赤い何か」と形容すべき何かが。
『まだ……その力を理解していない』
「何を言ってる……?」
『いずれ、お前自身が知ることになる』
「待て!」
声と気配は消えた。
駿平は、怪物が去った方向を見つめた。
数百メートルにも及ぶ地殻の中。
そこに、わずかな異変を感じ取る。
追える。確かに追える。
明確ではないが、地下を進む何かの存在を感じる。
次に現れる場所を予測できるかもしれない。
「不動さん!」
突然、現実の声が響いた。
駿平の感応が遮られる。
「不動さん!どうしたんですか?何か見つかりましたか?」
羽生だった。
駿平は我に返る。
「……」
まだ頭の中には、先ほど見た巨大な影が残っている。
そして、無意識のうちに呟いた。
「ミミズ……」
「え?」
羽生田が聞き返す。
「この怪物は……巨大なミミズです!」
口にしてから、駿平自身も奇妙なことを言ったと気づいた。
羽生が怪訝そうな表情をした。
駿平は慌てて言葉を繋いだ。
「ああ……もちろん、分かっていますよ。刑事部も馬鹿じゃありませんからね」
羽生は、なんだか可笑しいような、腹立たしいような複雑な表情を浮かべた。
こいつは自分たちを馬鹿にしているのか。
それとも、本当に何かを知っているのか。
しかし。
羽生は、その疑念をいったん頭から追い出した。
二人は事件について意見を交わし始めた。
「すみません。この近辺の地図を持っていますか?」
「ありますけど、どうして?」
駿平は周囲を見渡した。
「私はこう考えます」
地図が広げられる。
「相手は、ここを通りかかった人間を襲って捕食した後、まだこの近くに留まっている。おそらく、あまり遠くへは移動していないはずです」
「そして、これまでの襲撃パターンを見る限り、この怪物はいつも人里離れた、人気の少ない場所を選んでいる」
「しかも、夜に出没して人間を襲い、捕食している」
駿平は地図上の道路を指でなぞった。
「まるで、人間の目を意図的に避け、生存者を残さないようにしているように見える」
羽生が頷く。
「だとすれば次に現れる場所も、この近辺のどこか人里離れた場所になる可能性が高い」
羽生は周辺の路線分布図を受け取った。
二人は地図を広げ、怪物が次に現れる可能性のある場所を探し始めた。
その時だった。
駿平のポケットの中で、スマートフォンが振動した。
横浜・山手
その頃。
教会では、救急車のサイレンが近づいていた。
祥子は、倒れた青年を見つめていた。
さっき聞いた言葉が頭から離れない。
――鞘香……生きている。
あり得ない。
そんなはずはない。
それでも。
青年が指差した、教会の奥。
あの無の向こうに何かがあるような気がしてならなかった。
救急隊員が到着し、青年を担架へ乗せる。
「ご家族の方ですか?」
「いえ……友人です」
「病院まで付き添えますか?」
「はい」
祥子は頷いた。
教会を出るて。山手の坂道を下る。
元町方面へ向かう道路には、夕方の人通りが増え始めていた。
その一方で、街のあちこちでは、先ほどの道路崩落の話がスマートフォンを通じて広がり始めていた。
「横浜でまた何かあったらしいよ」
「ニュース見た?」
「道路が落ちたって……」
「怪物っていう投稿もあるよ」
「そんなのデマでしょ」
誰も、その正体を知らない。
誰も、これが始まりに過ぎないことを知らない。
そして――。
駿平の携帯電話にも、祥子からの着信が入った。
「もしもし、祥子? どうした?」
電話の向こうから、祥子の声。
「駿平、病院に来てもらえる?」
「病院?」
「彼は……」
駿平の表情が僅かに変わった。
「彼?彼がどうしたんだ?」
胸の奥に、大きな波が押し寄せる。
だが、それを顔には出さない。
「どうした?」
しばらくして、通話が終わった。
羽生が尋ねる。
「何かありましたか?」
駿平は一瞬だけ黙った。
そして、何事もなかったように答えた。
「大したことじゃありません。ちょっとした用事です」
再び地図へ視線を落とす。
「それより、今後の調査について話し合いましょう」
羽生は黙って駿平を見つめた。
横浜の街のどこかでは、すでに次の「神秘事案」が動き始めている。
そして駿平自身もまた、まだ知らない何かへと少しずつ引き寄せられていた。
その先に待っているものが何なのか――。
この時点では、誰にも分からなかった。