巨大な蜘蛛は、祥子の目の前で動きを止めていた。
あと一歩で、その大きな口が彼女を呑み込むはずだった。だが、見えない壁に阻まれたかのように、怪物の巨体は前へ進めなくなっていた。
祥子は息を呑んだ。
蜘蛛の前方に、薄い赤色の光膜が浮かび上がっている。怪物が何度脚を動かしても、その障壁を突破することはできなかった。
いったい、何が起きているのか。
祥子が理解できずに立ち尽くしていた、その瞬間――。
轟音とともに、強烈な風が吹き抜けた。
赤い光が夜の闇を切り裂く。
祥子は反射的に両腕で顔を覆った。
そして、光が弱まったとき。
彼女の目の前には、巨大な赤い影が立っていた。
赤い巨人は祥子に背を向け、両腕で巨大な蜘蛛を押さえ込んでいる。そのまま怪物を彼女から遠ざけるように押し出すと、巨人は腹部へ強烈な蹴りを叩き込んだ。
蜘蛛の巨体が宙を舞い、神社から少し離れた石畳へ叩きつけられた。
赤い巨人。
祥子は、その姿を呆然と見つめた。
赤い巨人はゆっくりと彼女を振り返った。
恐怖に染まった祥子の顔が、その視線の先にあった。
巨人は、彼女に向かって静かにうなずいた。
まるで、こう伝えるかのように。
もう、怖がらなくていい。
だが、戦いはまだ終わっていなかった。
地面が小さく揺れる。
叩きつけられたスパイダーオルガメントが、再び立ち上がろうとしていた。
唾液を垂らした牙をむき出しにし、憎悪に満ちた鳴き声を上げる。その巨体が身を低くした瞬間、赤い巨人は背後の祥子を守るように立ち位置を変えた。
そして、スパイダーオルガメントの突進を迎え撃つ。
両手を前方へ突き出すと、赤い巨人の周囲で空気が震えた。
念力によって生み出された波動が、目に見えない衝撃となって連続でスパイダーオルガメントへ叩きつけられる。
スパイダーオルガメントの巨体が押し戻され、脚が石畳を削った。
その衝撃で、神社の脇に敷かれた地面へ亀裂が走る。ひび割れは次々と広がり、古い柱の足元にまで達していった。
赤い巨人は攻撃の手を緩めなかった。
背後には祥子がいる。
彼女を戦闘に巻き込むわけにはいかなかった。
しかし、追い詰められた蜘蛛は、正面からの勝負を捨てた。
突然、何本もの糸がその口から吐き出される。
狙いは赤い巨人ではない。その背後で、燃えた車の陰へ逃げようとしていた祥子だった。
「祥子!」
駿平の意識に、彼女の姿が焼きついた。
赤い巨人は即座に身を翻し、祥子の前へ飛び込む。
スパイダーオルガメントが放った糸が、赤い巨人の右腕と胸から腹部にかけて巻きついた。
その色は、これまでの白い糸とは明らかに違っていた。
墨を溶かしたような、濃い緑色。
星明かりを反射して、糸の表面が不気味に輝いている。
直後、赤い巨人の身体から緑色の蒸気が立ち上った。
「くっ……! この糸、腐食性があるのか!」
駿平は苦痛に顔を歪めた。美術館で見た腐食の正体はこれだったのだ。
糸が触れた銀色の皮膚が、少しずつただれていく。まるで何千匹もの虫に身体の内側まで食い荒らされているような激痛だった。
それでも、駿平は祥子から離れなかった。
彼女を守るために、ここへ来たのだから。
そのとき、意識の奥から声が響いた。
『駿平。彼女を気にするあまり、目の前の敵への注意を失うな』
赤い巨人の声だった。
駿平は歯を食いしばった。
「分かってる……!でも、祥子がここにいるんだぞ!」
『だからこそだ。彼女を守りながら戦う必要がある』
「そんなこと、言われなくても……!」
『ならば、その焦りを力に変えろ。怒りに身を任せれば、敵の思うつぼだ』
駿平は、苦痛に耐えながらスパイダーオルガメントを睨みつけた。
先ほどのレストランでの戦いから、駿平はスパイダーオルガメントの逃走を許さないために追跡を続けていた。
河口湖周辺で相次ぐ失踪事件。その背後にいる怪物を見つけ出し、これ以上の犠牲を食い止めるためだった。
その追跡の果てに、ようやく見つけた標的。
そして、そこにいたのは自分が何よりも守りたい女性だった。
「……絶対に、祥子には指一本触れさせない」
『その決意を忘れるな』
赤い巨人の肘に備わった刃が、赤く輝き始めた。
次の瞬間、鋭い光が走る。
身体に巻きついていた糸が、一瞬で切り落とされた。
解放された赤い巨人はすぐさま腕を振り上げる。肘の刃から四発の赤い光刃が連続して放たれた。
スパイダーオルガメントは複数の脚を使って跳躍し、光刃をかわす。
そのまま巨大な口を開き、青い光弾を撃ち出そうとした。
だが、駿平はすでに次の手を打っていた。
両手を胸元へ引き寄せ頭上へ掲げ、そして一気に振り下ろした。
すると、空中を通り過ぎたはずの四発の光刃が、突然軌道を変えた。
蜘蛛の頭上へ回り込み、逃げ場を塞ぐように降下する。
赤い光刃が、蜘蛛の脚を次々と切断した。
粘ついた墨緑色の血液が飛び散り、青い光の粒がその中で瞬いた。古木やトーテム柱、神社脇の林が、飛び散った怪物の血で汚れていく。
脚を失った蜘蛛は、重々しい音を立てて地面へ落下した。
もはや、まともに動くこともできない。
赤い巨人は両腕を強く打ち合わせ、拳を握りしめた。
皮膚の内側から脈動する光が滲み出し、両腕を包み込んでいく。稲妻のような光が前腕を走り、拳へと集まった。
駿平は両腕をゆっくりと引き上げ、左右へ開いた。
腕の間に光流が伸びていく。
やがて、両手のひらへ凝縮されたエネルギーが、青い雷光となって放出された。
直後、スパイダーオルガメントが悲鳴を上げた。
その声には、明らかな恐怖が混じっていた。
怪物は本能的に理解していたのだろう。
この一撃が、自分の命を終わらせるものになると。
赤い巨人の両手に、波震光流のエネルギーが満ちた。
駿平は、動けなくなった蜘蛛を見据えた。
これで終わらせる。
もう誰も、こいつに殺させない。
そして、その決意の背後には、燃え尽きようとしている車のそばで、彼を見つめる祥子の姿があった。
赤い巨人は両手を十字に組んだ。
胸元の赤い光が激しく明滅する。両腕の間に集まっていた光流もまた、十字形の光束へと変化していった。
目標は、地面に倒れ伏すスパイダーオルガメント。
――放て!
十字形の光束が、一気に解き放たれた。
光はスパイダーオルガメントの身体を包み込み、その内部へ流れ込んでいく。
スパイダーオルガメントの巨体が、一瞬だけ透明な光に覆われた。
閃光奔流砲-ライジング・シュトローム-
やがて、光の注入が止まった。
赤い巨人は両手を腰の脇へ戻し、ただ静かに敵を見つめた。
直後、スパイダーオルガメントの身体が奇妙に震え始めた。
皮膚だけではない。身体を構成する細胞や分子の一つ一つが、激しく振動していた。
その振動は、長くは続かず赤い光が走った瞬間、スパイダーオルガメントの身体は粉々に砕け散った。
無数の破片が夜の闇へ飛び散る。
その中から、青い光が剥がれ落ちるように離れ、夜空へ漂っていった。
戦いは終わった。
赤い巨人はその場にしゃがみ込み、拳を地面についた。
全身を駆け巡る波動が荒れ狂っている。激しい戦闘によるエネルギーの消耗で、身体を支えることさえ難しくなっていた。
胸元の赤いY字型クリスタルと、五つのエネルギーランプが激しく点滅する。
その間隔が、次第に短くなっていく。
そして、すべての光が消えた。
赤い巨人の身体が、前方へ倒れ込んだ。
地面に伏した巨体から、かすかな赤い光が浮かび上がる。身体は徐々に縮んでいき、やがて一人の青年の姿へと戻った。
「駿平!」
祥子は叫んだ。
目の前で起きた一部始終を、彼女ははっきりと見ていた。
赤い巨人が戦い、怪物を倒し、そして人間の姿へ戻るところまで。
その正体が誰なのかを理解した瞬間、祥子の胸に衝撃が走った。
けれど、今は驚いている場合ではない。
駿平が地面に倒れている。
祥子はすぐさま駆け寄り、彼の身体を抱き起こした。
ぼろぼろになったジャケット。傷ついた腕。消耗しきった顔。
「駿平、しっかりして……!」
彼女は必死に身体の状態を確かめた。
心配でたまらなかった。
目の前で彼が倒れる姿を見たとき、自分の心臓まで止まってしまったように感じた。
「……祥子?」
朦朧とする意識の中で、駿平がかすかに目を開いた。
彼は何かを思い出したように、衣服の中へ手を差し入れた。
取り出したのは、カメラに似た小型の装置だった。
駿平はそれを祥子へ差し出した。
「早く……青い光だ。これを使って……祥子、あの光の周波数を捉えてくれ!」
「これ、どうやって使うの?」
駿平の切迫した様子に、祥子はすぐに装置を受け取った。
「上にある赤いダイヤルを回して……それから、丸いレンズをあの青い光へ向ける。ディスプレイに赤い波形が出るから……それが弱くなったら、電源を切っていい……」
駿平の説明は途切れがちだった。
それでも祥子は一つ一つ指示を聞き、装置を操作した。
赤いダイヤルを回し、レンズを夜空に漂う青い光へ向ける。
小型ディスプレイに波形が表示された。その波形は、時間が経つにつれて徐々に弱くなっていく。
やがて、表示が消え、祥子は装置の電源を切った。
「ふぅ……」
駿平は安堵の息を漏らした。
張り詰めていた緊張が、一気に途切れた。
視界が暗くなる。
身体に残っていた力が、すべて抜け落ちていく。
駿平はそのまま、祥子の腕の中で意識を失った。
「駿平!駿平、しっかりして!」
祥子の叫び声が、遠ざかる意識の最後に響いた。
そして、すべてが闇に沈んだ。