河口湖を囲む山々の間から差し込んだ、朝一番の光が湖畔を覆う薄霧を静かに照らしていた。
草葉の先に宿っていた朝露が、やがて重みに耐えきれず、ころりと転がり落ちる。
ぽたり。
雫は傍らに建つ小さな小屋の窓枠へ落ち、軒先に吊るされた風鈴のような、澄んだ音を響かせた。
その音に呼び起こされたかのように、畳の上で寄り添って眠っていた二人が、ゆっくりと目を覚ます。
先に目を開けた駿平は、窓の向こうへ視線を向けた。東の空には夜明けを告げる白みが広がり始め、昨夜までの騒然とした出来事が嘘だったかのように、河口湖の朝は静けさに包まれていた。
しばらく景色を眺めていた駿平は、隣へ視線を戻す。
すぐそばには、祥子がいる。
その事実を確かめるように、駿平は彼女の寝顔を見つめた。長い間、互いの気持ちを伝えられずにいた二人。昨夜、ようやくその距離を越えたのだと思うと、胸の奥が温かくなった。
やがて、駿平の肩口で小さな動きがあった。
彼の肩に頭を預けていた祥子が、薄く瞼を開いたのだ。
二人の視線が重なる。
祥子の頬に、淡い赤みが差した。
「おはよう、祥子」
「うん……おはよう」
まだ眠気の残る声で答えた祥子は、そのまま駿平をじっと見つめた。
「よく眠れた?」
駿平が尋ねると、祥子はいたずらっぽく笑った。
「……ふふっ。駿平、よくそんなこと聞けるね」
「え?」
「私がどうだったかなんて、駿平自身が一番よく分かってるんじゃない?」
「まあ、それは……否定できないかな」
駿平は苦笑した。
祥子も笑う。そこには、これまで二人の間にあった遠慮やためらいは、もうほとんど残っていなかった。
「それじゃあ、そろそろ起きよう。もう出ないと」
「うん」
二人は身体を起こし、昨夜脱いだ服を身につけた。
ところが、駿平が右腕を動かした瞬間、小さな呻き声が漏れた。
「ぐっ……!」
「駿平?」
祥子の表情がたちまち心配そうなものへ変わる。
駿平は右腕と腹部へ一瞬だけ目を落とし、何事もなかったかのように笑ってみせた。だが、額には汗が浮かんでいる。
「まだ傷、治ってないんでしょう?」
「たぶん、あと何日かはかかるかな。こういう傷って、思ったほど簡単には治らないみたいだ」
「だったら病院で診てもらおうよ」
「祥子、前は病院に行ったら面倒なことになるって言ってなかった?」
駿平が苦笑すると、祥子は俯いた。
「あの時は、ここまで酷いとは思ってなかったから……。もし最初からこんな状態だって分かっていたなら、何かが知られてしまったとしても病院へ連れていったよ」
祥子は駿平の腕にそっと触れた。
「あなたが命を落とすかもしれないのに、それを黙って見ているなんてできないもの」
「大丈夫だよ。そこまで酷くない。あと一、二日もすれば治るさ」
「本当に、自分の身体のことを全然大事にしないんだから……」
祥子は少し怒ったような顔をした。けれど、駿平が頑固に考えを変えないことを悟ると、これ以上説得するのを諦めた。
「それで、これからどうするの?」
駿平はしばらく考えた後、表情を引き締めた。
「まず警視庁の公安部へ行く。昨日の事件について、分かっていることを伝えておきたい。あれだけの騒ぎになったんだ。向こうでも、ある程度は調べがついているはずだ」
「うん」
「それから陸上基地へ戻って、現地で起きたことを上に報告する」
「分かった」
祥子は頷いた。だが、すぐに何かを思い出したように顔を上げる。
「でも、その前に何か食べようよ」
「朝飯?」
「うん。せっかく河口湖まで来たんだし、地元の名物を食べてみよう。ほうとうとか」
「いいね」
二人は顔を見合わせて笑った。
そして、ごく自然に手を繋ぐ。
昨夜までの恐怖も、怪物のことも、今はひとまず胸の奥へしまっておく。二人はまるで普通の恋人同士のように、静かな小屋を後にした。
河口湖の朝は、穏やかだった。
朝食を済ませると、駿平は祥子と一度別れ、河口湖の警察関係者のもとへ向かった。
そこでは、今回の事件の捜査に関わった警察官たちが待っていた。
失踪した観光客の多くは、巨大な蜘蛛の怪物に襲われ、捕食された可能性が高い。現場には激しい戦闘の痕跡が残されており、ただの失踪事件として片づけることは、もはや不可能だった。
「彼女の話によれば、突然、赤い巨人が現れて助けてくれたそうです」
河口湖の警察官が説明した。
「その後、巨人は怪物と戦いながら、彼女と一緒にレストランの外にある林へ向かい、そのまま姿を消した。林の中からも、何者かが激しく戦ったと思われる破壊の跡が見つかっています」
「しかし、彼女の証言をそのまま信じていいんですか? 赤い巨人に巨大な蜘蛛の怪物……まるで怪談か、SFの話ですよ」
別の警察官が疑わしそうに言った。
「いや、私たちはこれまでにも同種の事件を実際に捜査しています」
横浜から応援に駆けつけていた警視庁の警察官が口を挟んだ。
「横浜の刑事部では、すでに未知の怪物による襲撃事件として扱われている。特別捜査班の羽生警部や大神刑事も、実際にあの怪物と交戦し、赤い巨人の出現を目撃しています」
「それについてはこちらも聞いています」
だが地元警察官は、納得のいかない顔をした。
「ですがあなた方はその後、わざわざ『そんな怪物も巨人も存在しない』と世間に説明して、噂を否定したんでしょう?それなのに今度は、実際に怪物が出たと言われても、こちらとしては簡単には信じられませんよ」
「事態が大きくなり、社会全体にパニックが広がるのを防ぐためです。実際には、怪物の存在を知ってしまった人間も少なくありません。そのため、政府や自衛隊とも協力して、怪物がすでに駆除され、二度と同じことは起きないと説明してきたんです」
「ところが今度は、その隠蔽が思い切り裏目に出たわけですね」
地元警察官は皮肉げに笑った。
「それで、今回も我々に事実を隠せと言うんですか?」
「現在、政府と自衛隊が対処します。それまでは、何としても事件を拡大させない。これは上からの要請です」
「ふん……まあ、いいでしょう」
地元警察官は肩をすくめた。
「ですが、あの女性が真実を口外しないという保証はありませんよ。事実を突き止めた警察官が、今度は真実を隠す側に回るなんて、皮肉な話です」
「それでも、怪物の脅威そのものが消えたわけではありません」
別の警察官が言った。
「いつまた出現して人を襲うか分からない。それに、あの赤い巨人も正体不明の存在です。まったく、厄介なことが次から次へと起きる」
「ならば河口湖一帯を封鎖し、自衛隊にも連絡して、怪物の脅威が完全に排除されるまで――」
「その必要はありません」
それまで黙っていた駿平が、静かに口を開いた。
警察官たちの視線が、一斉に彼へ集まる。
「あの怪物は、もう倒されています。俺はこの目で見ました」
「ああ、不動さん。そういえばあなたを忘れていました」
神戸の警察官が思い出したように言った。
「陸上自衛隊の方でしたね。では、昨夜何が起きたのか説明していただけますか?あなたがどうしてあの場にいたのかも含めて」
「はい。昨夜、俺は仲間が怪物に襲われているところを目撃し、救うために戦いました。その際に負傷して、意識を失ったんです。そして、俺が気を失っている間に赤い光が爆発した。直後、巨大な蜘蛛の怪物が粉々になっていました」
駿平は、自分自身が赤い巨人に変身したことには触れず、事実の一部だけを伝えた。
「つまりあなたが意識を失った直後に怪物が消滅した、と?」
「はい」
「どうしてそんな突然……」
警察官は首を傾げたものの、現時点ではそれ以上追及する材料がなかった。
「その場にいたのはあなたとご友人だけ。他に目撃者もいない。現時点では、その説明で処理するしかなさそうですね」
そして、もう一つの疑問を口にした。
「赤い巨人は見なかったんですか?」
「俺は気を失っていたので見ていません。祥子なら何か知っているかもしれませんが、昨夜のことを話したがらないんです。思い出すことすら嫌がっている」
「それなら仕方ありませんね。あれだけ恐ろしい目に遭ったんですから」
警察官は頷いた。
「それなら仕方ありませんね。あれだけ恐ろしい目に遭ったんですから」
警察官は頷いた。
「昨日、我々が彼女を見つけた時も、相当怯えていました。意識を失ったあなたを抱きかかえながら、身体を震わせていた。あれでは詳しい話を聞いても何も出てこないでしょう」
「むしろ、その方が都合がいいかもしれません」
別の警察官が言った。
「河口湖美術館でも昨日、不可解な破壊事件が起きています。館長は作品や建物を壊されたとして、いまだに警察へ抗議していますが……これもあの怪物の仕業だったと考えれば説明がつく。こちらとしても頭の痛い話ですよ」
「では、こうしましょう」
横浜の警察官がまとめる。
「対外的には、今回の事件はすでに解決したと発表する。ただし、万一に備えて捜査そのものは継続する。これでいいですね、不動さん?」
「問題ありません」
駿平は頷いた。
結局、対外的には今回の事件を解決済みとして発表し、捜査そのものは継続することになった。
話が終わると、駿平は警察署を後にした。