正面玄関を出たところで、すぐに前方へ視線を向ける。
そこには、一人の女性が立っていた。
「祥子……」
「ちゃんと話は済んだ?」
祥子は柔らかな笑顔を浮かべながら歩み寄ってきた。
「うん。帰ろう」
「うん」
祥子は道路脇へ目を向けた。そこには、彼女が乗ってきた車があるはずだった。
「でも……車がぺちゃんこになっちゃった。保険でちゃんと補償されるのかな。まさか、こんなことになるなんて」
「大丈夫だよ。俺が送るよ」
「本当?」
「もちろん」
二人は再び手を繋いだ。
河口湖の林道を並んで歩きながら、周囲の景色を眺め、他愛のない話を交わしていく。
以前の二人の会話には、どこか遠慮やわだかまりがあった。しかし今は、それがない。昨夜、互いの気持ちを確かめ合った二人は、もう相手の言葉を恐れたり、返事をためらったりする必要がなかった。
「そういえば、駿平」
「ん?」
「駿平があんな力を持っていたのって、いつからなの?」
「五年前かな」
駿平は少し考えてから答えた。
「あの頃、森の中で任務についていたんだ。その時に赤い光に遭遇して、それから意識を失った」
「それがきっかけ?」
「うん。その後しばらくして、自分が普通じゃない力を持っていることに気づいた」
「誰にも知られなかったの?」
駿平は首を振った。
「当時は正直自分でも何が起きたのか分からなかった。夢だったんじゃないかと思っていたくらいだ。部隊も普通の事故として処理して、それ以上詳しくは調べなかった」
「じゃあ、ずっと自分にそんな力があることを隠していたんだ」
「うーん、それも少し違う」
駿平は苦笑した。
「俺自身、あんな巨人に変身できるなんて知らなかったんだ。この五年間は、できるだけ慎重に力を使っていた。ただ、人間離れした身体能力を発揮できる程度だと思っていた」
「それが、怪物と遭遇して……」
「初めて全部引き出せた。そして初めて、あの巨人になった」
「……不思議な話だね」
「そうだね」
祥子はしばらく考えるように黙っていたが、やがて駿平を見上げた。
「ねえ、駿平。あの赤い巨人って……あなた自身なの?」
「そうだよ。俺が変身している」
「やっぱり……」
祥子は、昨夜の出来事を思い返すように目を伏せた。
「怖かった。でも、あなたが私を守ってくれたことは分かった。あの時、あなたは私のことを見て、頷いてくれたでしょう?」
「ああ」
「だから、あなたなんだって思えたの」
駿平は、繋いだ手にそっと力を込めた。
「祥子を守りたかった。それだけだよ」
「うん……ありがとう」
祥子は微笑んだ。
少し歩いたところで、駿平はふと思い出したように尋ねた。
「ところで祥子。俺も気になっていたことがあるんだけど」
「何?」
「どうしてあんな時間まで河口湖に残っていたんだ? 君たちの仕事はもう終わっていたんだろう?それなのに、危険だと分かっている場所に残っていた」
「それは……」
祥子は少し迷った。
「別の用事があったの」
「別の用事?」
「鞘香との約束」
「鞘香と?」
「私たち、ある秘密をお互いに守るって約束していたの。でも、今となっては、もう隠しておく必要もないと思う」
祥子は駿平を見つめた。
「駿平。お願い。帰る前に私と一緒に来てくれる?」
「どこへ?」
「昨日の、あの古い神社へ」
駿平は頷いた。
やがて二人は、昨日の戦闘によって損壊した旧神社へ到着した。
境内では、すでに修復作業が始まっていた。倒れた木材や崩れた石材が片づけられ、作業員たちが慎重に建物の状態を確かめている。
「あ……」
祥子が足を止めた。
「なくなってる……」
彼女の視線の先には、弓のような形をしたトーテムの柱があった場所がある。昨日の戦いで大きく損壊し、周囲にはまだ撤去された部材が残っていた。
「昨日の戦い、相当激しかったからね。ここも建て直さないといけないみたい」
駿平が言うと、祥子は寂しそうに頷いた。
「大したものじゃないよ。トーテムみたいな柱と、願いを書いた札。それだけ」
「そう……」
駿平は祥子の横顔を見た。
彼女は大したものではないと言った。だが、その目には明らかな落胆が浮かんでいた。
しばらくして、祥子はようやく話し始めた。
「駿平。あなたが高校を卒業する頃、サッカーで全国大会、そしてプロへの道に進もうとしていたでしょう?」
「ああ」
「その頃、私と鞘香で、あなたのためにお参りしたの。この弓のような形をしたトーテムの下で、あなたの成功を祈った。それから、願掛けの札に私たちそれぞれの言葉を刻んだ」
「そんなことがあったんだ……」
「うん。あの頃の私たちにとって、大切な思い出だった」
祥子は修復中の神社を見つめた。
「でも、もともとあの二つは、ここにあったものじゃないの。神戸の桜の木の下にあったの」
「そうだったのか」
「私たちにとっては、あの頃を見届けてくれたものだったんだよ」
祥子の声には寂しさが滲んでいた。
駿平は一歩前へ出て、修復作業が進む神社をしばらく見つめた。それから祥子へ振り返る。
「大丈夫だよ」
「え?」
「祥子と鞘香が俺に込めてくれた気持ちは、ちゃんと分かってる」
駿平は微笑んだ。
「俺たち四人は、ずっと親友だった。あの頃の思い出まで、ここでなくなってしまったわけじゃない」
「駿平……ありがとう」
祥子は何かを言おうとして、結局言葉を失った。
駿平が自分の気持ちを理解してくれたことが、ただ嬉しかった。
「それから……」
駿平は少しだけ間を置いた。
「基地へ戻って今回のことを報告したら、俺たち、婚約しよう」
「えっ……!」
祥子の頬が淡く赤く染まった。
「祥子も、ずっと待ってくれていたんだろう?」
駿平は穏やかに笑った。
「母さんも、この日が来るのをずっと待っていた」
「うん!」
祥子は大きく頷き、差し出された駿平の手をしっかりと握った。
二人は並んで歩き出す。
かつての思い出を刻んだ場所を、今度は新しい未来へ向かって。
横浜の陸上基地へ戻った駿平は、今回の任務で記録したデータを上官へ提出した。
秘密会議室の机に置かれたのは、小型カメラのような形状をした波動測定器だった。スパイダーオルガメントとの戦闘の際、駿平が祥子へ託し、青い光の波動を記録させたものだ。
「ご苦労だったな、佐渡」
上官は測定器を受け取った。
「今回の任務中に起きたことは君が戻ってくる前から聞いている。相当危険な任務だったそうじゃないか」
「はい」
「それにしても、今回もまたあっという間に倒されてしまったな。結局、自衛隊が出動する暇もなかった」
上官は苦笑した。
「あの赤い巨人、一体何者なんだろうな。オルガメントが出現した場所には、毎回のように奴の姿がある。今回も我々より先に現れて、標的を始末したと考えるのが自然だろう」
駿平は何も答えなかった。
上官は、彼が持ち帰った測定器へ目を落とす。
「この記録は研究班へ回す。向こうから君に直接話を聞きたいと言ってくる可能性もある」
「分かりました」
「それと、もう一つ。最近、オルガメント出現が頻発している。専門に調査する人間が必要になった」
上官の表情が真剣になった。
「君はこれまで、何度も奴らと接触している。だから、今後の調査を君に任せたい」
「はい。了解しました」
駿平は敬礼した。
任務は終わったわけではない。
怪物の出現が続く限り、彼は再び戦場へ向かうことになる。自分の中に宿った力の正体も、赤い光が何をもたらしたのかも、まだ分からないことばかりだった。
それでも、今の駿平には、以前とは違うものがあった。
守りたい人がいる。
そして、自分の隣にいてくれる存在がいる。
そのことを胸に刻みながら、駿平は基地を後にした。
夕暮れの訓練場では、隊員たちが走り込みを続けていた。赤く染まり始めた陽光が地面へ長い影を落とし、その頭上を陸上自衛隊のヘリコプターが轟音を響かせながら飛んでいく。
駿平が基地の出口へ向かっていると、門の脇に見覚えのある上官が立っているのに気づいた。
「三尉……」
江国三尉だった。
「聞いたぞ。今回の任務、ずいぶん派手なことをやったらしいな」
江国は笑った。
「部隊内でもかなり話題になっている」
「ありがとうございます」
駿平は改めて頭を下げた。
部隊内では、謎の赤い巨人についてさまざまな憶測が飛び交っている。しかし、真実を知っているのは江国だけだった。そして江国は、これまでずっと駿平の秘密を守ってくれている。
「ところで、これからどこへ行くんだ? 随分と急いでいるように見えるが」
「はい」
駿平は少し照れくさそうに答えた。
「婚約することになりました」
「本当か?」
江国の顔に驚きと喜びが浮かんだ。
「そいつはおめでとう。ようやく身を固める気になったか」
「長い間、待たせてしまいましたから。これから少しずつ、その分を取り戻したいと思っています」
「なるほど、あの女性か」
江国は頷いた。
「あれだけ長い間待ってくれたんだ。今度こそ幸せにしてやらないとな」
「はい」
「で、結婚式はいつだ?その時は俺たちもちゃんと呼べよ?」
「もちろんです。その時は必ず」
二人は笑い合い、もう少し言葉を交わした。
やがて駿平は江国に別れを告げ、陸上基地の門を出ていった。
夜。駿平は自室の窓辺に立ち、静かな街並みを眺めていた。
河口湖での事件から数日が過ぎ、右腕と腹部の傷もようやく癒えていた。祥子とは、あの日に交わした約束どおり、婚約することになった。
そのことを思い返すと、自然と頬が緩む。
長い間、互いに想いを抱えながらも、言葉にできなかった二人。ようやく一歩を踏み出せたのだ。
駿平はふと、心の中へ意識を向けた。
「なあ、いるんだろ」
『何だ、駿平』
横に赤いオーラが現れる。
「ちょっと報告しておきたいことがあるんだ」
『報告?』
「ああ。俺、祥子と婚約することになった」
しばらく沈黙があった。
『……コンヤクとは何だ?』
「え?」
駿平は思わず目を瞬かせた。
「いや、婚約だよ。結婚する約束をすること」
『結婚……』
赤いオーラは首を傾げているようだった。
「そう。俺と祥子が、これから夫婦になるための約束をするんだ」
『なぜ、そのような約束をする必要がある?』
あまりにも真面目な問いに、駿平は返事に困った。
「なぜって……お互いに好きだから、かな」
『互いに好意を抱いていることと、婚約というものは同じではないのか?』
「うーん……似ているけど、少し違うんだ。好きだって気持ちを確かめるだけじゃなくて、これから一緒に生きていこうって決めることでもある」
『一緒に生きていく……確約されていない未来の事まで考えるのか』
赤いオーラは、その言葉を確かめるように繰り返した。
「まあ、俺も偉そうに説明できるほど詳しいわけじゃないけどさ」
駿平は苦笑した。
「でも、祥子とはずっと一緒にいたいと思ってる。今まで待たせてしまった分も、これから大切にしていきたいんだ」
『そうか』
赤い人の声は静かだった。
『君にとって、彼女はそれほど大切な存在なのだな』
「ああ。俺にとって、かけがえのない人だよ」
駿平は迷いなく答えた。
窓の外に目を向ける。街の灯りが遠くまで続いていた。
「それでさ、もう一つ考えていたことがあるんだ」
『何だ?』
「いつまでも『赤い巨人』とか『赤い人』じゃ、よそよそしいだろう?」
『よそよそしい?』
また赤い人は首を傾げた。
「ああ。俺たちは何度も一緒に戦ってきた。これからだって、きっと一緒に戦うことになる。だったら、お互いに呼びやすい名前があった方がいいと思ってさ」
駿平は、幼い頃の記憶を思い起こした。
祥子、鞘香、了、そして自分。四人で過ごした日々。仲間同士でしか通じない合言葉を使い、秘密を共有していた、かけがえのない時間。
あの頃の思い出は、今も駿平の中に生きている。
「昔、俺たち四人で使っていた合言葉があっただろう。あの言葉を思い出したんだ」
『四人で使っていた言葉……』
「そう。それに、お前はいつも俺の隣に現れる。危険な時も、怪物と戦う時も、ずっと一緒にいてくれた」
駿平は小さく笑った。
「だから、俺はお前を『ネイバー』と呼びたい」
『……ネイバー』
隣人を意味するその名を、ネイバーは静かに繰り返した。
「どうかな?」
『呼び方は気にしない。君の好きに呼んでいい』
「そっか。ありがとう」
駿平は安堵したように笑った。
「じゃあ、これからもよろしくな。ネイバー』
『ああ、駿平』
短いやり取りだった。
けれど、駿平にとっては大切な一歩だった。自分の中に宿った力と、その力を通じて語り合う存在。正体も由来も分からない相手に、初めて名前を与えたのだ。
もう、ただの赤い巨人ではない。
自分の隣に立ち、同じ敵と向き合い、共に歩んでいく存在――ネイバー。
その名が、二人の間に新たな絆を刻んでいた。
横浜の百貨店・服飾デザイン店
河口湖での事件によって、車と一緒にデザイン用の素材まで失ってしまった祥子は、店へ戻るなり店長へ頭を下げた。
「本当にすみません、店長。材料まで全部、駄目になってしまって……」
「気にしなくていいわよ」
店長は穏やかに笑った。
「まさか、そんな事件に巻き込まれるなんてね。でも、無事だったんだから、それが一番よ」
「でも……こんなことが起きたのに、店長は驚かないんですか?」
「最近は妙な事件が多いでしょう?」
店長は肩をすくめる。
「横浜でも、少し前に怪物が人を襲ったなんて騒ぎがあったじゃない。物はなくなってもまた作れるわ。それに、祥子の腕なら同じものを作り直すくらい簡単でしょう?」
「店長……」
祥子は感謝を込めて深く頭を下げた。
「ありがとうございます。すぐに同じものを作り直します」
「うん」
店長は頷いた。
そして、ふと思い出したように祥子を見つめる。
「そういえば祥子。あんたここ二、三日、なんだか顔つきが違わない?」
「え?」
「何かあったの?」
「そうですか? 別に変わったことは……」
祥子は自分の顔に触れる。
店長は少し考えた。
「前のあなたは仕事中も真面目だったけど、いつもどこか寂しそうな雰囲気があったでしょう?」
「……」
「でも河口湖から帰ってきてから、その憂いが全部消えてるのよ」
店長は意味ありげに笑った。
「それどころか、なんだか幸せそう。まるで……そうね。花嫁になる人みたい」
「……そうですか?」
祥子の声は平静だった。
しかし、口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。
その笑みには、幸せと恥じらいが入り混じっていた。
「やっぱり何かいいことがあったのね?」
店長が尋ねる。
祥子は数秒黙りゆっくりと答えた。
「私……婚約することになりました」
「本当?」
店長の顔がぱっと明るくなる。
「おめでとう、祥子!それで、お相手は誰なの?」
その時だった。
「祥子さん、お店の外にお客さんが来てますよー」
若い女性店員が声をかけてきた。
「分かった。誰?」
「自衛隊の人みたいです。不動さん……とか」
「駿平でいいですよ、祥子さん」
店内へ入ってきた青年が、女性店員へ穏やかに声をかけた。
その物腰の柔らかさと整った顔立ちに、若い店員は思わず頬を赤くする。
そして駿平の視線は、店の奥にいる祥子へ向いた。
その目には、隠しきれない優しさが宿っている。
「駿平、どうしてここに?」
祥子の顔に、嬉しそうな笑みが広がった。
「君に会いに来た。仕事、あとどれくらい?」
「あら」
店長が二人を見比べる。
「ははーん、なるほどね。祥子を射止めたのは、あなたってわけ」
「店長さん、こんにちは」
駿平は丁寧に頭を下げた。
「あら礼儀正しいじゃない」
店長は腕を組む。
「でも、祥子をこんなに長いこと待たせて、今になって婚約するっていうのは、ちょっと遅すぎなんじゃない?」
「……はい。少し遅かったと思います」
駿平は苦笑した。
「だから、これから少しずつ埋め合わせをしたいと思っています」
「ふむ……」
店長がさらに何か言おうとしたところで、祥子が慌てて止める。
「もう、店長。これは私と駿平の問題だから」
「はいはい、分かってますよ」
店長は笑った。
「どうせこれから二人で用事があるんでしょう?」
そして祥子へ告げる。
「今日は特別に早上がりしていいわ。婚約祝いってことで」
「ありがとうございます!」
「ただし――」
店長は駿平へ視線を移す。
「祥子はうちでも本当に頑張ってくれている子だから。もしこの子を泣かせるようなことをしたら、店長として黙ってないからね」
「店長、そんな……」
「冗談よ」
店長はケラケラ笑った。
「でも、私はあなたなら大丈夫だと思ってる。祥子、幸せになりなさいよ」
そう言うと、店長は興味津々で二人を見ていた他の店員たちまで追い払うようにして、その場を後にした。
店内に二人だけが残る。
「……傷、もういいの?」
祥子が最初に尋ねたのは、やはり駿平の身体のことだった。
「もう大丈夫」
駿平は穏やかに頷く。
「言っただろう? 二日くらいで治るって」
祥子は駿平の顔色をじっと見る。
無理をしている様子はない。
ようやく安心したように頷いた。
「それで……これからどうするの?」
「婚約指輪を買いに行こう」
「え?」
「いい店を知ってるんだ。そこで作られる指輪は評判がいい」
駿平は少し照れながら言った。
「俺たちも、そこで婚約指輪を選ぼう」
「そんなにすぐ……?」
「唐突すぎるかな」
「うん……ちょっと」
「それなら待とう。祥子がそう思うなら、俺は尊重するよ」
駿平は真面目な顔で言った。
「しばらく普通の恋人同士として付き合って、それからでもいい」
祥子はしばらく考えた。
そして、くすっと笑う。
「駿平って、本当に男女のことになると不器用だよね」
「え?」
「婚約するにしても、そんなに真正面から言ったら、相手だって驚くよ」
「じゃあ……祥子はどうしたい?」
駿平は困ったように尋ねた。
「あなたが言った通りでいいよ」
祥子は笑った。
「婚約指輪、買いに行こう。だって私、もう半分くらい駿平のお嫁さんみたいなものだし」
「祥子……」
「それから、病院へ行こう」
「病院?」
「了に会いに行くの。私たちが婚約したことも、伝えよう」
「……うん」
二人は顔を見合わせた。
「じゃあ、行こうか」