横浜病院・精神科病棟 病室03
ベッドに腰掛けた青年の身体を、中年の女性医師が丁寧に診察していた。
「はい。もう大丈夫ですよ」
医師は身体に取り付けていた治療器具を外し、点滴の針も抜いた。
「ありがとうございます」
了は、少し疲れたように微笑んだ。
顔色はまだ完全には戻っていない。それでも、少し前まで憔悴しきっていた姿と比べれば、見違えるほど回復していた。
「顔色もかなり良くなりましたね。あと一日もすれば退院できますよ」
「先生のおかげです。このところ、本当にお世話になりました」
「いえいえ」
医師は笑顔で答えた。
「今日はお友達が二人、お見舞いに来ていますよ。外で待っています。入ってもらいましょうか?」
「はい。お願いします」
その直後だった。
「ずいぶん元気になったみたいだな!」
病室の扉が開いた。
緑色のジャケットを着た駿平と、祥子が入ってきた。
「駿平……祥子!」
了の白い顔に、久しぶりに明るい笑みが浮かんだ。
そこにはもう、過去の出来事に押し潰されていた頃の暗い影はない。
本当に、立ち直ってきたんだ。駿平は嬉しそうに笑った。了もまた、昔と変わらない笑顔を返した。
「それじゃ、私は失礼しますね」
医師は二人に微笑み、器具を片付けて病室を出ていった。
扉が閉まると、駿平と了の間に、しばし沈黙が流れた。
だが、それも長くは続かなかった。
二人は、まるで昔の兄弟のように笑いながらこれまでの出来事を話し始めた。その様子を少し離れた場所から見つめていた祥子の口元にも、自然と柔らかな笑みが浮かんだ。
こんな光景を見るのは、ずいぶん久しぶりだった。
「まさか俺が眠っていた間に、そんなにたくさんのことが起きていただなんて……」
話を聞き終えた了は、驚きとともに呟いた。
「駿平も祥子も、あんな恐ろしい怪物に襲われたんだな。世の中本当に何が起こるか分からないよ」
そして、二人を見比べた。
「でも、二人とも無事だった。それが何よりだ」
ふと、了は首を傾げた。
「ところで駿平。なんだか今日、お前たち二人、いつもと違わないか?」
「え?」
「なんというか……妙に距離が近いような気がする」
祥子が駿平を見た。
駿平も笑った。
そして祥子は、そっと左手を見せた。
そこには、一組の銀白色の指輪があった。表面には、手を繋いだ男女の姿が小さく刻まれている。
「これは……?」
「私と駿平、婚約したの」
祥子が静かに告げた。
「そうなのか……」
了の顔に喜びが広がった。
「そうか!それは良かった……。鞘香が生きていたら、きっと喜んでくれただろうな」
「鞘香……」
その名前を口にした瞬間、了の表情が変わった。
言葉が途切れる。
駿平と祥子は、その瞳に一瞬だけ浮かんだ暗い影を見逃さなかった。
だから、何も言わなかった。
長い沈黙の後、ようやく了が口を開いた。
「駿平……覚えてるか?」
「何を?」
「桜が舞っていた、あの日だよ」
了は遠くを見るような目をした。
「俺たちは学校で、それぞれの夢を追いかけていた」
「もちろん覚えてるよ」
駿平は答えた。
「高校生の頃だ。卒業間近で、俺は学校のサッカー部で甲級リーグへの昇格を目指していた。祥子は弓道の大会で最高の成績を狙っていた」
そして、了へ目を向けた。
「お前は俺たちの一番いい瞬間を写真に残そうと、ずっと頑張っていた」
「そうだったな……」
了は静かに笑った。
「本当に、あの頃は楽しかった」
その言葉とともに、了の視線は病室の白い天井へ向けられた。
高校時代
歓声に包まれたサッカー場。
駿平が放ったシュート、好きなゲームから影響された通称「必殺!流星シュート」がゴールへ突き刺さった。
宙を舞うような強烈な一撃。ゴールキーパーが芝生へ倒れ込む。ボールは一直線にゴールネットを揺らしていた。
「入った!」
桜の花びらが舞い落ちるグラウンドで、了は必死にカメラのシャッターを切り続けていた。
駿平がゴールを決めた瞬間、彼自身も興奮のあまり両手を握りしめ、頭上へ掲げた。
「やったな、駿平!」
駆け寄ってきた了は、白いユニフォーム姿の親友を抱きしめるように祝福した。
これで駿平は、プロリーグへの道を掴んだのだ。
「そういえば、祥子はどうなったかな」
駿平が歩きながら尋ねた。
「もうすぐ弓道の大会だろ?」
「心配ないよ」
了は笑った。
「祥子なら決勝まで行くさ。練習場に行けば、いつだって一番熱心に練習してるだろ?」
「確かにな」
駿平も笑った。
「そういえば、お前の写真も上手くなったよな」
「え?」
「先週撮ってた横浜の海浜公園の写真、すごく綺麗だった」
「そ、そうかな……」
了は照れたように首を振った。
「俺は、まだまだだと思うけど」
「そんなことない」
駿平は真剣な目で言った。
「本当に上手い。もっと自信を持てよ」
「……うん!」
了は力強く頷いた。
その日の青空の下。芝生の斜面に寝転がった駿平は、両手を頭の後ろで組みながら、舞い落ちる桜を眺めた。
「そういえば、鞘香は何してるかな」
「いつも音楽棟の楽器室で練習してるじゃないか」
了が答える。
「モーツァルトみたいな音楽家になるんだって」
その声には、鞘香への憧れと、淡い恋心が滲んでいた。
「そうだな。鞘香は学校でもトップクラスの才能がある」
駿平は草を一本口に咥えながら呟いた。
「フルートも上手いし、ピアノも凄い。もしかしたら本当に、この世界で二人目のモーツァルトになるかもしれない」
「しかも女モーツァルト!」
「ははは!」
二人は声を上げて笑った。
その時、遠くの校舎から、微かな音楽が聞こえてきた。
ピアノ。
そしてオカリナ。
柔らかく、穏やかで、それでいてどこか切なさを帯びた旋律。
「鞘香だ」
「きっとそうだ」
二人は音のする方向へ目を向けた。
青空を白い雲が流れている。その向こうから降り注ぐ陽光が、音楽棟の窓を照らしていた。
あまりにも穏やかな光景だった。
「こうして見ると、俺たちも少しずつ夢に近づいてるんだな」
駿平が呟く。
「そう……かな」
了は笑った。
「いや、ちょっと違うだろ」
「え?」
「俺たちの夢っていうより、俺と鞘香と祥子の夢が近づいてるんだよ」
そして駿平を見る。
「だって駿平、お前は正義のヒーローになるんじゃなかったのか?」
「……」
「それなのに今はサッカー選手。しかも甲級リーグに行こうとしてる。下手したらプロになるぞ」
「う……」
「夢からどんどん離れてるじゃないか」
「お前……!」
駿平は頭を抱えた。
「まったく、よりによって今それを言うか!」
「ははは!」
「祥子が聞いたら、お前半殺しにされるぞ」
「それは怖えーな!」
了は笑い続ける。
「まあ……でも、確かにそうなんだよな」
少しして、駿平は真面目な顔になった。
「それに、実は京都大学の軍事系研究グループから声がかかってるんだ。近いうちに陸上自衛隊で実習を受けることになってる」
「本当か?」
了は驚いた。
「それは凄いじゃないか!そんな機会、誰だって簡単には手に入れられないぞ!」
興奮した了が、駿平の肩を両手で揺さぶる。
「おい、やめろ!お前が軍事系の道に進むみたいじゃないか!」
「俺は友達のことを喜んでるだけだよ!」
「じゃあ、祥子のところへ行こう!」
「おう!」
二人は笑いながらサッカー場を後にした。
⸻
同時刻――弓道場
紅白の弓道着に身を包んだ祥子が、静かに弓を引く。
放たれた矢は――
一直線に的の中心へ突き刺さった。
一本。また一本。
全てが見事に的中する。
「すごい……祥子、全然外さない」
「最初はもっと大人しい子だと思ってたのに」
「祥子が大人しい? どこが?」
「クラスの行事でも一番積極的だろ。特にデザイン系の授業なんて、誰よりも熱心だし」
「勉強もできるし、弓道も凄い。将来は流行の服を作るデザイナーになりたいんだって」
「でも、あんな子を嫁にできる男って、どんな奴なんだろうな」
「まだ彼氏はいないらしいけど……」
部員仲間達のそんな声が飛び交う中、最後の一矢を放ち終えた祥子は、額の汗を拭った。
真剣そのものだった表情が、いつもの柔らかなものへ戻っていく。
「凄かったな、祥子!」
突然聞こえた声。
祥子が振り返る。
人の間から、二人の青年が歩いてきた。
「駿平、了!」
祥子の顔がぱっと明るくなる。
「祥子、本当に凄かった」
了が、先ほど撮影した写真を確認しながら言った。
「特に射る時の迫力が凄い。さすが弓道部の主将だよ」
「ありがとう。でも、了の写真だって前よりずっと上手くなってるよ」
祥子は笑う。
そして、了の隣に立つ白いユニフォーム姿の駿平へ視線を向ける。
「予選、終わったんでしょう?」
「ああ」
駿平は頷いた。
「もうすぐ決勝だ。祥子も頑張って。俺もプロリーグで結果を出してくるよ」
「うん。頑張ってね!」
「任せて」
すると了が二人の会話へ割って入った。
「二人とも、早く鞘香のところへ行こうよ! 今日はいい知らせが二つもあるんだから、一緒にお祝いしよう!」
音楽棟・楽器室
様々な楽器が並ぶ部屋。
その窓辺に、桃色のワンピースを着た少女が座っていた。
鞘香だった。彼女は窓の外へ視線を向けながら、手にしたオカリナを吹いていた。
細い指が穴を一つずつ押さえるたび、旋律が柔らかく変化していく。
やがて音が止まった。
鞘香はオカリナを机へ置く。
そして頬杖をつき、窓の外を見つめた。
青空を舞う桜、流れていく白い雲。
風が吹き、彼女の長い髪が頬を撫でる。
その横顔には、どこか寂しげな表情が浮かんでいた。
背後で扉が開く音。
鞘香が振り返るとそこには駿平と祥子が立っていた。
「久しぶりだな、鞘香」
「鞘香、元気だった?」
「駿平、祥子」
鞘香も微笑む。
その直後。
「鞘香!」
駿平たちの背後から、カメラを抱えた了が勢いよく飛び込んできた。
「わあっ!」
鞘香を見た瞬間、顔を真っ赤にする。
だが
「うわっ!」
何かにつまずいた。
そのまま盛大に転倒する。
「……」
駿平と祥子は、笑っていいのか心配すべきなのか分からず、微妙な顔を見合わせた。
「了って相変わらず慌てん坊ね」
鞘香が立ち上がり、転んだ了を助け起こす。
その優しい仕草は、10年前、あの絵の具室で見せてくれたものとほとんど変わっていなかった。
「鞘香……」
了は呆然と彼女を見つめる。
「了、鞘香を見ると魂が抜けるんだから」
祥子が笑った。
「ち、違うよ! 嬉しくて……」
了は慌てて、駿平がプロリーグへ進むこと、祥子が弓道の決勝へ進んだことを鞘香へ話した。
鞘香は静かに頷く。
だが、その表情はどこか晴れなかった。
「どうしたの、鞘香?」
駿平が尋ねる。
「なんだか、嬉しくなさそうだけど」
鞘香は答えなかった。
ただ、机の上に置かれた一枚の書類へ視線を落とす。
それは――海外の音楽学校から届いた合格通知だった。
「これ……?」
了が手に取る。
「えっ……!」
その顔が驚きに変わった。
駿平と祥子も覗き込む。
三人とも言葉を失った。
そこには、パリでも屈指の名門音楽院からの入学許可が記されていた。
「凄いじゃないか、鞘香!」
了が喜ぶ。
「どうして俺たちに言わなかったんだ?こんな超名門に行けるんだぞ。夢に一気に近づけるじゃないか!」
鞘香は窓の外を見たまま答える。
「そうだね……」
その声は、夢を語る少女のものとは思えないほど寂しかった。
「夢みたい。こんなに近くまで来たのは初めて」
「じゃあ、どうして……」
「そこへ行ったら、ここを離れなきゃいけない」
そして、二人を見る。
「友達と離れて、知らない場所で暮らさなきゃいけない」
「でも、鞘香」
駿平が言う。
「一生会えなくなるわけじゃない。少しの間、離れるだけだろ? 帰ってくればまた会える」
「……未来のことなんて、誰にも分からないよ」
「鞘香……」
彼女の表情を見て、了は慌てて話題を変えた。
「そんな先のこと、今は考えなくていいって!」
そして笑う。
「今日はいい日なんだから。みんなで思い切りお祝いしよう!」
「そうだな」
駿平も笑った。
「うん」
鞘香も、ほんの少しだけ笑った。
校庭の芝生
四人は芝生の上に寝転がっていた。
陽光が降り注ぐ。
誰もが笑い、誰もが穏やかな時間を楽しんでいた。
しばらくして、が口を開く。
「なあ、覚えてる?」
「何を?」
「小学生の頃。あの階段で上級生たちと喧嘩したこと」
「ああ、あれか!」
了が笑う。
「あれは最高だったな!」
「あの後逆恨みして仕返しに来たんだよね」
「でも駿平が一人で全員ぶっ倒したんだよな」
了が拳を振り上げる。
「格好良かったよな!」
「その後は大人しくなったけどね」
鞘香も笑った。
「そういえば、あの時約束したよね」
祥子が身体を起こす。
「いつかそれぞれの夢を叶えたら、あの教室に集まろうって」
「その時、俺たちがどんな姿になってるかなんて分からないけどな」
了が言った。
「未来のことなんて、本当に分からないよ」
「でも、きっとは最高の写真家になってる」
駿平が言う。
「祥子は世界的なファッションデザイナー。鞘香は世界中に知られる音楽家だ」
そして、自分の未来について考える。
「じゃあ、駿平は?」
祥子が尋ねる。
「プロサッカー選手?それとも自衛隊員?」
「えっと……」
「それとも」
祥子が笑う。
「正義のヒーロー?」
「……」
駿平は頭を抱えた。
すると三人が一斉に笑い出す。
「ははは!」
「もう、その話はいいだろ!」
「でも」
了が笑いながら言った。
「たとえどんな未来になっても、あの約束だけは忘れないようにしよう」
「もちろん」
祥子が頷く。
「約束を破った人は、私が殴るから」
「祥子は相変わらずだね」
鞘香が笑う。
「それじゃ、決まりだ」
駿平が立ち上がった。
「もう一度、写真を撮ろう。この約束の証として」
「うん!」
三人も立ち上がる。
了はカメラを三脚へ固定し、自動撮影へ切り替えた。
四人は芝生の中央に集まる。
肩を寄せ合い、互いに笑い合う。
青空。
桜。
そして、暖かな太陽。
シャッターが切られた。
四人の笑顔が、一枚の写真の中へ永遠に刻まれた。
現在・横浜の病院。
ベッドの上で、了はポケットから一枚の古びた写真を取り出した。
何度も折り畳まれた跡がある。
震える手で、それを駿平と祥子へ差し出した。
「……!」
駿平は思わず、了の身体を支えようとした。
「無理するな。横になってろ」
しかし、了は首を振った。
「これが……あの時の証だよ」
写真を見つめながら、了は言った。
「俺は今までずっと持ってた」
そして、もう一枚を取り出した。
「それと……これ」
「これは?」
駿平が受け取った瞬間、胸が強く締め付けられた。
それは、彼自身が部屋に大切に保管していたものと同じ写真だった。
「覚えてるだろ?小学校を卒業して、同じ中学へ進学した時に撮った写真だ。あの芝生で撮ったんだよ」
駿平は写真を見つめた。
しばらくして、了が静かに口を開いた。
「Neighbours」
「……え?」
駿平が顔を上げる。
「昔、駿平がよく使っていた英単語だよ」
了は笑った。
「お前は言ってたよな。この言葉には、永遠に変わらない『友情』って意味が込められてるって」
四人が、どれだけ離れても繋がっている証。
その言葉を聞いた瞬間、駿平の胸に押し込めていた後悔が溢れた。
「……ごめん」
駿平は了の前へ歩み寄った。
「俺がもっと早く動いていれば……鞘香を救えたかもしれない」
「駿平……」
「俺のせいで」
「もういいよ」
了は静かに首を振った。
「俺も分かったんだ」
彼は穏やかに笑った。
「変えられないこともある。起きてしまったことはもう戻せない」
「……」
「だから、もう過去を責めるのはやめよう」
祥子がそっと了を支えた。
3人はしばらく黙っていた。
やがて、了が再び笑った。
「なあ……ここでもう一枚、写真を撮らせてくれないか?」
「え?」
「昔みたいにさ。それに駿平と祥子、まだ婚約記念の写真を撮ってないだろ?」
そして笑った。
「俺が撮るよ。もう一度、写真家になる夢を拾い直すためにも」
「いいね」
祥子が微笑んだ。
「じゃあ、世界一の写真家さんに、世界一綺麗な写真を撮ってもらおうかな」
祥子の瞳には、かすかな涙が浮かんでいた。
了はスマートフォン取り出し、撮影モードを起動した。
駿平と祥子が並んで立つ。
了はスマホを構えた。
その目は真剣だった。
駿平には、その瞳の奥に、かつての青年の姿が見えた。
写真家になる夢を追い、どんな一瞬も最高の形で残そうとしていた、あの頃の熱い姿。
そしてシャッターが切られた。
駿平は祥子と手を繋いだまま、了へ歩み寄った。
「見せて」
スマートフォンを受け取る。
画面を見ると、駿平の口元に自然な笑みが浮かんだ。
「……凄くいい写真だ」
駿平は、画面を見つめながら呟いた。
専門のカメラでもない。高価な機材でもない。
それでも、了には独特の写真を撮る才能があった。
かつて夢を追いかけ、必死に努力した時間は、決して無駄ではなかったのだ。
「本当に、上手く撮れてるよ」
駿平はスマートフォンを了へ返した。
了と別れ、駿平と祥子は病室を後にした。
扉が閉まる。
病室から二人の気配が消えた。
照明が落ちる。
ベッドに座った了は、しばらく扉を見つめていた。
そして――
その瞳から、先ほどまでの光が消えていった。
祥子と駿平を迎えた時の穏やかな笑顔も、もうない。
代わりに浮かんだのは、深い悲しみ。
暗い病室と同じように、重く、沈んだ表情だった。
「鞘香……」
震える声で、了はその名を呼んだ。
「鞘香……」
了は顔を伏せた。
「うぅ……」
そして布団へ顔を埋め、小さく嗚咽した。
もう、駿平や祥子の前では笑っていられる。
夢を取り戻すと口にすることもできた。
けれど、一人になった今、胸の奥に押し込めていた悲しみを抑えることはできなかった。
「……ふふ」
その時だった。
「ふふふ……」
どこからか、少女の笑い声が聞こえた。
「……?」
了は顔を上げた。
声のした方向へ視線を向ける。
病室の隅、照明の届かない暗がりに一人の少女の姿が、ぼんやりと浮かんでいた。
少女は、じっと了を見つめている。
そして――
笑っていた。
「……鞘香……?」