兵器庫の外に出ると、基地のグラウンドにはすでに多数の自衛官が集まっていた。
負傷者を運ぶ衛生班が慌ただしく行き交い、担架に横たわった隊員たちが次々と救護車両へ収容されていく。戦闘に参加した者たちの軍装は血と埃に汚れ、顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。
駿平は、その光景を黙って見つめていた。
先ほどまで兵器庫の中で繰り広げられていた戦闘が、まだ脳裏に焼きついている。銃弾を浴びても止まらず、鋭い爪で隊員たちを引き裂いていった巨大な猟犬。
そして、最後にこちらへ向けられた、あの青い光を宿した眼。
俺を覚えている。俺を知っている。
駿平は無意識に拳を握った。
あの怪物は、単に目の前の人間を襲っていたのではない。少なくとも最後の瞬間、駿平を見つめた眼差しには、明確な敵意があった。
「まさか、こんなことになるとはな。よりにもよって、本拠地にまで現れるとは……」
近くで、上級自衛官が苛立ちを隠さずに呟いた。
「こちらを完全に舐め腐っている。怖いものなしということか!」
「いったい、何が起きたんです?」
江国三尉が問いかけた。
彼のそばには市川も立っていた。負傷した身体をかばうように片腕を押さえながら、兵器庫の管理担当者へ厳しい視線を向けている。
管理担当者は居並ぶ自衛官たちを前に、緊張した面持ちで報告を始めた。
「兵器庫の巡回管理を担当する隊員の説明によりますと、本日午前10時、定例の地下貯蔵室の点検を行った際、319号室に異常が確認されたそうです」
「319号室?」
「はい。管理担当者が内部を確認しようとしたところ、直後に人の悲鳴のようなものが聞こえ、直後、貯蔵室の鉄扉が破壊され、あの巨大な猟犬型の怪物が出現したとのことです。その後、怪物は兵器庫内にいた隊員たちを無差別に襲い始めました」
報告を聞いた自衛官の一人が、眉をひそめた。
「ちょっと待て。319号室といえば、この間老衰で死んだ軍用猟犬を収容していた場所じゃないか?皆で葬式するために保存していた……」
「その通りです」
管理担当者が頷く。その場に、重苦しい沈黙が落ちた。
「……『変異源』が、こんなところにまで来やがったのか」
先ほどの自衛官が吐き捨てるように言った。
駿平は、その言葉に反応した。
変異源。
彼らは、あの巨大な猟犬を生み出したものについて、すでに何らかの情報を得ているらしい。
上級自衛官は周囲を見渡し、低い声で告げた。
「今回の件を受け、上層部から正式な指示が下された。何としてでも、あの怪物と、その変異源を完全に排除する」
「つまり、今後は公然と対処するということですか?」
別の自衛官が驚いたように尋ねた。
「ああ」
上級自衛官は頷いた。
「これまでは事実が公になれば大きな恐慌を引き起こし、市内で生活する住民にも深刻な影響を与える可能性があった。そのため、対処方針を決めかねていた。しかし状況は変わっている。すでに一部の人間が巨大怪物の存在を知っている。それに、このまま放置すれば自衛隊そのものにも甚大な被害が出る」
彼は兵器庫の方向へ視線を向けた。破壊された内部では、いまだに復旧作業と負傷者の救出が続いている。
今回の襲撃によって殺された者は少なくない。兵器庫の設備にも大きな損害が出ていた。
「それと、現場の調査結果について報告します」
調査を担当した隊員が一歩前へ出た。
「兵器庫内に残された地底の穴ですが、市内の大部分の地下通路へ通じていることが判明しました。あの怪物が地下を移動しているとすれば、市中心部の道路や高層建築物の地下から突然地上へ出現し、住民を襲う可能性があります」
「なんと厄介な……」
江国が表情を曇らせた。
地上であれば、部隊を展開して怪物の動きを封じることもできる。だが地下に潜伏する相手では事情が違う。どこから現れるか分からず、重火器の使用にも制約が生じる。市街戦ともなれば、住民を巻き込む危険も避けられない。
上級自衛官は、すぐに決断を下した。
「基地内の各部隊へ通達し、大型軍用機械を出動させる。特殊部隊を派遣し、目標が出現する可能性のある地下通路の出口をすべて封鎖しろ。その他の隊員は市内の警戒警備に当たらせる。警視庁にも連絡し、住民の避難と安全確保に協力してもらう」
「了解!」
自衛官たちが一斉に返答した。
「これより、市内全域の警戒態勢を強化する!」
命令を受けた隊員たちは、それぞれの持ち場へ向かって動き始めた。
その中で、上級自衛官の一人が駿平へ視線を向けた。
「ところで不動。あの『変異源』についてだが、上層部から情報を引き継いだと聞いている。何か分かったことはあるか?」
「はい」
駿平は静かに頷いた。
「この怪物と、その変異源である青い光については、研究班から報告を受けています」
「青い光……?」
「ええ。研究班の調査によれば、怪物の体内に存在する謎の光源と、10年前に相模湾で発生した大地震との間には、何らかの関連性があるらしいんです」
「何だと?」
周囲の自衛官たちが、一斉に駿平へ顔を向けた。
10年前の大地震。
相模湾を震源とする未曾有の災害は、沿岸部に壊滅的な被害をもたらし、数え切れない人々の命を奪った。復興を遂げた横浜の街にも、今なお震災の記憶と犠牲者への追悼が残されている。
その災害と、あの怪物の正体につながりがあるというのか。
駿平自身も、まだ確かな答えを持っているわけではなかった。
だが、陸戦指揮官の制服を着た上級自衛官は、意外なほど冷静だった。
「その件なら、私もここへ来る前に、研究調査を担当している専門官から聞いている。確かに、奇妙な点が多い」
「隊長も、あの怪物と神戸大地震に関係があると考えているんですか?」
その口調に含まれた真剣さと重さを感じ取り、駿平を含む多くの自衛隊員が考え込んだ。
そして彼らは改めて、あの神戸大災害が起きた前後の出来事を振り返り始める。
「相模湾地震……相模湾地震か。あの時の突然の震災は、政府にとっても警鐘になった。横浜を始め、関東圏の耐震建築を改めて見直し、強化するきっかけになったからな」
一人の自衛官が感慨深げに呟いた。
「そういえば、俺も思い出した」
先ほどの巡回員が突然口を挟んだ。。
「相模湾地震の時、被災地で生存者を探すために使われていたのも、あの軍用猟犬だった。当時、瓦礫の下から、生存している人間をかなりの数見つけ出した」
「そう考えると、確かに何か関係がありそうだな」
何人かが顎に手を当てる。
「それだけじゃない。当時、いくつか妙な出来事もあった。ただ、その後はいろいろな事情があって、詳しく調べることができなかった」
別の年配の自衛官が口を挟んだ。
「どういうことです?」
自衛隊員が彼を見る。その自衛官は、駿平へ視線を向けた。
「不動、お前も覚えているだろう。横浜で救援活動をしていた時だ。震災後、瓦礫を撤去していた途中で、一部の犠牲者の遺体が運び出された。そして、あるカトリック教会へ個別に送られ、そこで鎮魂のミサが行われた」
それを聞いて、駿平も記憶を呼び起こした。
「ああ……そういえば、そんなことがありました」
「当時、何人かの自衛官が俺たちに話しかけてきたんだ。新しくやって来たカトリック系の分派が、犠牲者のために死者の魂を弔うことができる。しかも費用はいらない、と」
その自衛官は続けた。
「後で調べたんだが、その遺体はすべて江ノ島へ運ばれ、そこで鎮魂のミサが行われていた」
「江ノ島?どうしてそんなところへ?」
他の隊員たちも疑問を口にする。
「そこも当時は奇妙に思った。ただ、その時はそれ以上気に留めなかった」
「江ノ島……」
黙って聞いていた江国が、突然口を開いた。
「それは、あの地震の震源地じゃなかったか?地震の後、地震観測センターが最終的に追跡した震源は、江ノ島だったはずだ」
「そうだな。今になって考えてみると、この一連の出来事には確かに何かがおかしい」
その場にいた多くの上級自衛官が、重い表情で呟いた。
一方、駿平は何かを考えながら歩き回り、自衛官たちの話を頭の中で反芻していた。
そして――。
あの時の記憶が、少しずつ蘇ってくる。
……
十年前――横浜
建物の瓦礫が積み上げられた道路で一人の青年が、大きな石板を一枚ずつ瓦礫の中から運び出し、別の場所に設けられた廃材置き場へ運んでいた。
青年はまだ若い。17歳か、18歳ほどに見える。
身につけているのは、陸上自衛隊の実習用の仮制服。
向こう側で瓦礫や砕石を運んでいる、同年代の若者たちも同じ服を着ている。
「これを運び終われば、こっちはだいたい片付くな。不動」
少し体格のいい自衛隊実習員が、一仕事終えた青年へ声をかけた。
「そうだな!」
青年――駿平は頷いた。
彼は、半分以上が片付いた瓦礫の山を見つめる。そこに埋まっていた遺体はすでに救援関係者によって運び出され、生存者たちも救出されていた。
駿平はその場にしゃがみ込み、しばし息を整える。
あの震災から、すでに十数日が過ぎていた。
マグニチュード7.3の大地震によって、横浜の主要交通網は大きく破壊された。救援物資を安全かつ円滑に届けるためには、自衛隊が道路を切り開かなければならなかった。
大地の震動はほとんど収まっている。それでも時折、余震が起きる。
今の彼らにできることは、壊れた建物の残骸を取り除き、さらに生存者を救出すること。
そして、瓦礫の下に埋もれた遺体を運び出すこと。
それだけだった。
「……あいつ、どうしてるかな……。祥子も、きっとそばについているんだろうな。鞘香の棺を守って……」
そう考えた瞬間、駿平は俯いた。
顔には暗い苦悩が浮かぶ。
あの青年の、憎しみに満ちた眼差し。
それが今も駿平の脳裏から消えない。
そして、あの優しい少女。
あまりにも鮮やかな生命が、目の前で消えていった。
「まだ、あのことを考えているのか?あれはお前のせいじゃない。自分を責める必要はない」
先ほどの自衛隊実習員が、穏やかな声で駿平を慰めた。
その口調は淡々としている。
まるで、その淡泊さによって、鉄のように変えることのできない現実を駿平へ伝えようとしているようだった。
「分かっている。できるだけ、この気持ちから抜け出すつもりだ」
駿平は腕で目元を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
その時、遠くから犬の吠え声が聞こえた。駿平と実習員が同時に振り向く。
「ん?」
そこでは、三名の自衛官が救助犬を連れて、瓦礫の周辺を捜索していた。
そのうちの一人が、すでに瓦礫を撤去した場所で足を止める。
砂と石板に埋もれた隙間。そこへ繋がれた救助犬が、興奮したように吠えている。
「おい、こっちだ!お前たち二人も、他の奴らも来てくれ!ここに人がいる!」
「おう!」
駿平と実習員は返事をして駆け寄った。
灰まみれの石板を一枚ずつ取り除く。白い粉塵が舞い上がり、二人の顔を覆った。
そして、瓦礫の中から二つの人影が現れた。すでに亡くなっている恋人同士だった。
死の瞬間まで互いに身体を寄せ合っていた姿を見れば、それが恋人同士だったことは容易に分かった。
駿平たちは二人の遺体を運び出す。身体には、もう温もりがなかった。
かなり長い時間、瓦礫の中に閉じ込められていたことが分かる。
「…向こうへ運んでくれ。遺体の搬送を専門に担当している連中がいる」
一人の自衛官が指差した。
「はい」
遺体を載せた台車を押していく。
やがて、自衛隊専用の輸送車が数台停められている仮設駐車場が見えてきた。
そこでは正式な自衛隊制服を着た隊員たちが、毛布をかけた担架を次々と車両の後部へ運び込んでいた。
そして合図を出すと、輸送車はその場を離れ、どこか分からない場所へ向かって走り去っていく。
「この遺体は、ご遺族のところへ運んで安置するんですよね……」
駿平は仲間とともに運んできた遺体を慎重に降ろしながら、走り去っていく自衛隊の輸送車を見つめて呟いた。
「誰がそんな暇なことをするんだ? 一人一人、家まで届けて回るなんて。まるで俺たち自衛隊が『遺体配達人』みたいじゃないか」
通り過ぎようとしていた別の自衛官が、大声で言った。
「え?」
駿平たちは、その声に驚く。
「遺体はまとめて神社かキリスト教会へ運ぶ。そこで専門の人間が名前を確認して霊牌を作り、亡くなった人の魂を弔う。その後、ご遺族の希望に応じて、それぞれの墓へ戻して埋葬するんだ」
「そうなんですか」
「人数が多いから、そのほうが処理しやすい。今回の震災じゃ正規部隊にはまだまだやることが山ほどあるからな」
自衛官はそう説明した。
駿平たちも頷き、それぞれの作業へ戻っていく。
その時、遺体の処理を指揮していたまた別の自衛官が、ふと思い出したように言った。
「そういえば、横浜で地震が起きたと聞いたあるカトリック教会の分派が、わざわざこちらへ来て、被災者のために祈りを捧げ、鎮魂ミサを行うらしい」
「そんな話があるのか?」
先程の自衛官が聞き返す。
「ああ。妙な連中だったよ。こっちが大変なことになっていると聞いて、わざわざ駆けつけてくるんだからな」
「どうせ関連費用を取って、一儲けしようとしてるんだろ。そんな連中、断ればいいじゃないか」
「ところが金はいっさい要らないと言っている。しかも、最高級の儀式で犠牲者の魂を弔うとまで約束している」
「そんな都合のいい話があるか? 遠く離れた土地の人間が、俺たちのことをそこまで心配するなんて」
「今は、いろんな場所で世界中の人間同士の繋がりがどんどん強くなっているんだ。なんていうか……ある若い奴が言っていた『ネイバース』みたいなものさ」
自衛官はそう言って、冗談めかして笑った。
「フッ……まあ、それにしても妙な話だ。それ以外に何か条件はないのか?」
「特に具体的なものはない。ただ、鎮魂のミサを行う場所が、この市内でも、国内のどこかの都市でもないらしい」
「じゃあ、どこなんだ?」
自衛官は、ある方向を指差した。
そして静かに、その名前を口にした。
「江ノ島だ」
「何?」
「俺もその名前を聞いた時は驚いた。本当なら、そんな馬鹿げた要求は断るつもりだったんだ。ところが、島には神の奇跡に関係する光があるとか、何とか……そういう話を熱心にされてな。仕方なく、一部のキリスト教徒だったご遺族の遺体を、あちらへ搬送することを許可した」
「二度とそんなことを許可するな!」
自衛官が厳しい口調で言った。
「俺たちの内部の問題だ。ましてや災害で亡くなった人たちの扱いに、他所の人間が口を挟むなんてことは許されない。侮辱に等しい」
「はい。分かりました」
その会話を、背後にいた青年――駿平は黙って聞いていた。
やがて瓦礫の整理を終えると、何も言わず別の場所へ向かい、再び作業に戻った。
……
――現在
「江ノ島……か」
駿平は小さく呟いた。
その瞳に、微かな光が揺れている。
「江ノ島の件は、ひとまず置いておこう。今は目の前の問題を片付ける。あの怪物――エレメント怪獣を見つけ出して、完全に倒すことが先だ」
皆が考え込む中、その場で最も階級の高い自衛隊長官が口を開いた。
その声は淡々としていた。
「了解!」
「うむ。今回、陸自全部隊の出動目的を、コードネーム『ハウンドオルガメント』を撃破することとする」
その隣にいた、制帽を被った軍官も続けた。
「全員、了解!」
陸上基地がコードネーム『ハウンドオルガメント』の撃破命令を下したのと時を同じくして、自衛隊最高指揮本部からも、淡路市・神戸市の各街区・道路を部分封鎖する命令が発令された。
その瞬間――。
横浜市全体が、巨大な混乱に包まれた。
その大部分を占めていたのは、住民たちの恐怖だった。
「現在、市内各道路の出入口は基本的な封鎖が完了しています。街中の店舗も営業を停止。残るのは、市内住民の適切な避難・収容です」
自衛隊によって封鎖線が設けられ、重点的に警備されている神戸市内の道路。
正式な自衛隊制服へ着替えた駿平は、同じ陸上自衛隊所属の隊員とともに、神戸市の封鎖状況を視察していた。
隣の隊員は手元の記録用端末へ、関連するデータを次々と記録していく。
「……分かった」
報告を聞き終えた駿平は頷いた。
そして黙って道路の反対側へ歩いていく。
しばらくして、駿平は寂しげに息を吐いた。
「10年後に、また横浜市がこんな大騒ぎになるなんてな……。世の中っていうのは、本当に落ち着かない」
彼の視界には、自衛隊によって封鎖された各交差点が映っていた。
そこには装輪装甲車、水陸両用強襲車、特殊部隊のLAV軽装甲機動車など、さまざまな陸上軍備が配置されている。
都市全体に漂う恐怖を抑え込むためだった。
人が集中している道路では、自衛隊員が絶えず行き交い、混乱し始めた秩序の維持に努めている。
さらに警視庁の警察官も治安維持に協力していた。
停止された交通信号機の下に立つ警官の一人は、封鎖線を越えようとして押し寄せる群衆へ向かって何度も大声で制止し、部下へ指示して混乱する住民たちを落ち着かせている。
避難状況は、決して順調とは言えなかった。
「こっちの視察は終わった。俺は北野町・山本通のほうへ行く。佐渡、お前も別の場所を視察してくれ。後で基地へ報告することになるかもしれない」
視察記録を終えた隊員が駿平へ声をかけた。
「分かった!」
駿平は我に返って答える。
二人は別れ、それぞれの担当区域へ向かった。
「この辺りは、もう特別に確認する必要はなさそうだな。自衛隊と警視庁の警官以外、人影もほとんどない」
駿平は一つ一つの道路を通り抜けながら、市街地までやって来た。
通行可能になった道路。すでに閉じられた店舗。静まり返った街。
それらを眺めながら歩いていた時だった。
ふと、見覚えのある人影が目に入った。
ある店舗の前で、黒い制服を着た警官が、店主らしい中年男性と話をしている。
店主はかなり感情的になっており、今にも警官へ怒鳴りつけそうだった。
だが、その警官の隣に立っていた、どこか品格を感じさせる別の警官が何かを話しかける。
店主はやがてため息をつき、車輪のついた箱を引きながらその場を離れていった。
「羽生警部……」
その店主を説得した警官を見て、駿平は目を瞬かせた。
声をかけようか。そう考えたが、しばらく迷った末、その考えを取り消した。
別方向へ向かおうとした、その時だった。羽生の視線が、ずっとこちらへ向いていることに気づいた。
目が合った。その瞳に、一瞬だけ何か異質な光が走った。
そして笑った。
「不動さん、こんにちは」
「羽生警部」
避けられないと悟り、駿平も頷いて応じた。
「こちらは?」
二人が挨拶を交わすと、黒い制服の警官が目の前の青年を見る。
駿平の自衛隊正式制服に気づくと、その目には戸惑いと同時に、わずかな畏敬が浮かんだ。
警官は羽生へ尋ねる。
「不動駿平。以前話しただろう。陸上自衛隊の隊員で、特殊事件を専門に担当している」
「おお……あの、一緒に仕事をしたことがある……」
「初めまして。よろしくお願いします」
駿平は友好的に頭を下げた。
警官も微笑み返す。だがその目に浮かんだ畏敬は消えていなかった。
そして一歩進み、駿平と握手を交わす。
駿平は改めて羽生田を見る。
「羽生警部も、今回は横浜市の治安維持の応援ですか?」
「そうだ。朝一で上から連絡を受けてな。公安部の刑事たちと一緒に出てきた」
羽生は頷きながら、どこか異質な視線で駿平を見つめている。
しかし駿平は表情を変えず、穏やかに会話を続けた。
「そうですか。時間が経つのは早いですね」
「そうだな。こんなに早く、また一緒に仕事をすることになるとはな」
羽生が笑う。その時、夕日の残光が街へゆっくりと差し込んできた。
黄昏の光が、静まり返った都市を斜めに染めていく。
「河口湖へ調査に行ったそうだな」
「はい……」
「向こうの警察も、観光客の失踪があの謎の怪物と関係していることを確認したらしい。それに、あの怪物もすでに倒された。回収された遺骸の一部から確認されたそうだ」
羽生が続ける。
駿平は頷いた。
その話はすでに聞いている。おそらく河口湖の警察が、切断されたあの怪物の脚を発見したのだろう。
「この怪物がどこから来たのかについては、警視庁内でもいろいろな推測が出ている。不動さんは、あの怪物がいったい……」
「それについては、俺にも断定できません」
駿平は羽生の言葉を遮るように、はっきりと言った。
「最終的な調査結果を見るしかない。今やるべきことは、何らかの原因で突然変異したあの怪物を見つけ出し、さらに調査を進めることです。それが今、最優先でしょう」
羽生は一瞬、言葉を失った。
その目に、先ほどまでとは違う評価の色が浮かぶ。
「さすが、後輩だ」
羽生は頷いた。
そして、以前江国から聞いた言葉を思い出していた。
――この青年の周囲では、いつも奇跡としか思えない不可思議なことが起きる。
――まるで、天に選ばれた人間のようだ。
――だから、できる限り彼を信じてやってほしい。
二人はしばらく話を続けた後、それぞれ別れた。
……
人のいなくなった街を歩く駿平。
「横浜市の住民はすでに避難が完了している。道路も片付いた。これなら、市内各所の地下を調査できる」
通行可能になった道路を見ながら、駿平は考えた。
ようやく、一時的に元の部隊へ戻って待機できる。
「駿平?」
その時。
背後から聞き慣れた、柔らかな声が聞こえた。
駿平が振り返る。
少し離れた道路の角。
閉店した店舗の前に、一人の女性が立っていた。
ピンク色のワンピースを着た祥子が、こちらを見ている。
「祥子。どうしてここに?」
歩み寄ってくる彼女へ駿平が尋ねた。
「数時間前、自衛隊が横浜を封鎖するって連絡があったの。私のデザイン店も休業になってしまったし、することがなくなったから、少し街を見て回っていたの。まさか、駿平と会うなんてね」
「そうだったのか」
「今の横浜市は、どこもみんな不安でいっぱいよ。謎の巨大怪物が実在すると確認されて、その情報が公開されたから。みんな、自衛隊や政府が何とかしてくれることを願っている。早く、あの怪物を倒してほしいって」
「うん」
駿平は強く頷いた。
「駿平……これから部隊へ戻るの?」
正式な自衛隊制服。そして、陸自特有の鉄帽。
祥子がその姿を見るのは久しぶりだった。
それだけで、周囲の空気まで一気に緊張したように感じる。
駿平と会った時にこれまで感じたことのない緊張が、祥子の胸の奥から湧き上がった。
「ああ。これから市内の全面捜索が始まる。俺も協力しに行かないと」
「私も一緒に行く」
「向こうは許可しないと思うぞ」
駿平は首を横に振った。
「ただ送るだけよ。私は今、あなたの婚約者なんだから。それとも自分の婚約者を部隊へ送り届けることまで、自衛隊は禁止するの?」
祥子の態度は、むしろ強くなった。
その言葉に、駿平は胸が熱くなる。
「……分かった」
太い手が、指輪の嵌められた祥子の手を握る。
掌に伝わる柔らかな感触。
二人は並んで、部隊のある方向へ歩き始めた。
……
「西側道路の封鎖区域、通行可能になりました!」
「関内・伊勢佐木町から元町、山手町・山手本通周辺の住民避難も完了! 全面捜索を開始できます!」
自衛隊による捜索線の前。
視察を終えた駿平たち陸自隊員が、自衛官へ報告していた。
「よし」
自衛官はゆっくり頷いた。
「ただし不動。厳密に言えば自衛隊は家族の同行を認めていない。特に任務中はな。今回だけだぞ」
やや厳しい口調。
駿平は後ろを振り返った。
祥子は両手に、さまざまな日用品の入った袋を持っている。
唇を結んだまま、何も言わない。
駿平は頷いた。
「分かっています。ただ、せめて避難区域までは俺が送らせてください。この周辺には、もう人が泊まれる場所もありませんから」
「急げ」
自衛官は頷いた。
「ありがとうございます!」
敬礼した後、駿平は祥子へ頷いた。
二人は自衛隊が厳重に設置した捜索線から離れていく。
その途中、駿平はすれ違う陸自隊員たちを振り返って見た。
彼らは通常の軍装備だけでなく、全員が一つの特殊な機器を装備している。
それは地雷探知機に似た金属探知装置だった。
地面へ向けられた先端には黒い円形のリング。そこからステンレス製の金属棒が伸び、背中に背負った小型バックパック型の装置へ接続されている。
さらに、これを携帯する自衛隊員たちは、ビデオテープほどの大きさの黒い箱も手にしていた。
その画面には波形が断続的に表示されている。
どうやら、何らかの波形表示装置らしい。
「……あれは」
奇妙な装置を見つめ、駿平は思い出した。
あれは地下を探査するための地中探知機だ。
オルガメントの体内に存在する、地震波と極めてよく似た異変源。
その特性を利用するため、レーザー・レーダー測量装置と地震波監視装置を改造して作られたものだった。
原理は単純だ。
探知機から地下へ不可視の電気パルスを照射し、内部の構造全体を走査する。
そのパルスが地下に存在する微弱な振動と作用し、レーダー装置が返ってきた信号――振動周波数を捉える。
それを振動波形として描き出し、さらに背中のバックパック型装置に搭載された地震波監視装置の波形と照合する。
もし一致すれば、手元の表示器に強い反応が現れる。
そこが、目標の存在する地点だ。
ただし、この探知機が発射する電気パルスはまだ試験段階であり、決して安定しているわけではない。
接触する振動があまりに頻繁であれば、どんなものでも干渉を引き起こしてしまう。
だからこそ、道路を歩く人間の数を極力減らす必要があった。
駿平は軽く頭を振った。
今考えるべきことではない。
祥子とともに、避難区域へ向かって歩き続けた。
……
「泊まれる場所も、もうほとんど残っていないみたい。自衛隊の地下捜索にも協力しなきゃならないし、市民の安全のためでもあるから」
誰もいない住宅街を歩きながら、駿平が祥子へ話しかける。
「うん」
祥子が頷く。
「そういえば祥子は、ずっとデザイン店の仮宿舎に住んでいたんだよな。家には戻っていなかったのか?」
「私の家は神戸地震で壊れてしまったから。それに、その後家族も神戸市を出ていったの。もう、この悲しい場所には戻りたくないって……」
「だったら、俺の家に住めばいい」
駿平は言った。
「ちょうど俺の家も避難区域の中にある。母さんも、きっと祥子が来てくれたら喜ぶ」
「それも、駿平が望んでいることでしょう?」
図星を突かれ、駿平はしばらく黙った。
そして、静かに頷く。
「……まあ、そうだな」
「じゃあ、行きましょう!」
祥子は笑顔で駿平の手を取った。
今度は祥子のほうが彼を引っ張っていく。
その姿は、まるで高校時代に戻ったかのようだった。
恋人になったばかりの男女。
二人は大股で並んで歩いていく。
二人の指で輝く銀色の婚約指輪は、この瞬間だけ、まるで恋人同士のペアリングのようにも見えた。
「母さん!」
扉を叩く。
扉が開き、母・由梨絵の姿を見た駿平が微笑む。
「駿平。祥子ちゃんも来たのね!」
由梨絵も嬉しそうに笑った。
「母さん、ちょっと外で事情があって。祥子はしばらくここに泊まることになった」
「あらそうなの?それなら本当によかった。祥子ちゃん、いらっしゃい!」
由梨絵の顔には満面の笑みが浮かんでいた。
その目には明らかな喜びが宿っている。
祥子は何と言えばいいのか分からず、ゆっくりと前へ出て頭を下げた。
「おばさま、しばらくお世話になります。ご迷惑をおかけしてしまって、すみません」
「何を言ってるの。迷惑だなんてとんでもない。私のほうこそもう嬉しくて仕方ないわ」
「母さん、祥子と中で話していて。俺はまだ用事があるから、すぐ出なきゃならない」
玄関まで入った駿平が、閉まりかけた扉を押さえた。
外を見る。
夜はすでに深まりつつあった。
その表情が、次第に険しくなる。
「どうしたの?また仕事?こんな時間なのに。それに、せっかく祥子ちゃんがうちへ来たのに……」
由梨絵はそこで初めて、駿平がずっと陸上自衛隊の軍装を着ていることに気づいた。
眉間に皺が寄る。先ほどまで満面だった笑顔にも、曇りが差した。
息子の言葉を快く思っていないことは明らかだった。
だが、彼女が言い終えるより先に、祥子が申し訳なさそうに手を上げて止めた。
駿平の真剣な顔。そこに浮かぶ、わずかな憂い。
祥子には分かっていた。
時間がない。彼は任務へ向かわなければならないのだ。
だからこそ、彼女は優しく言った。まるで遠くへ旅立つ夫を見送る妻のように。
「早く行って。気をつけてね」
「分かってる。祥子たちも気をつけて」
駿平は彼女へ優しく微笑んだ。
そして振り返る。
街路に残されたわずかな街灯の光を頼りに、陸自が封鎖線を設置している方向へ歩き出した。
その背中を、祥子と母・由梨絵は黙って見送っていた。
……
午後8時
探照灯によって照らし出された道路と街角。
陸上自衛隊の隊員たちは一列縦隊で各主要地点へ次々と集結していく。
そこで待機していた自衛官から指示を受けると、支給された振動金属探知機を手に街路を巡回していった。
その装置は、オルガメントの体内から放出される、地震波に酷似した周波数の振動を検出するためのものだった。
さらに各集結地点には仮設テントが設置され、その内部にはコンピューター端末と接続された波動レーダー検出システムも配備されていた。
それによって、横浜市地下の捜索範囲を拡大する。
自衛隊員が持つ振動金属探知機のデータも、ここへ送られ、コンピューターの画面に表示される。
専門の担当者が、そのデータを逐一記録していた。
静まり返った都市。
そこに響くのは、自衛隊員たちの規則正しい足音だけだった。
巡回する隊員たちの中にいる駿平は、果てしなく続く夜の大地と、微かな明かりだけを灯す建物を見つめていた。
かつて大災害に襲われた街。
その孤独と寂寥が、今も街全体に染みついているように感じられた。
風が吹き抜ける。
その風切り音は、まるで淡路地震で死んだ人々の魂の呻き声を運んでくるようだった。
建物の隙間を探照灯の光が照らす。
そのわずかな明かりの中に、駿平は10年前の災害が残した痕跡を幻のように見た。
思わず何度もため息が漏れる。
突然現れた巨大怪物と、あの地震が結びついているかもしれない。
そう考えるたび、脳裏には十年前の恐ろしい光景が蘇った。
駿平はそれらの思考を振り払う。
今は目の前の任務に集中しなければならない。
そして、仲間たちとともに探知作業へ加わった。
翌日――曇天横浜
「地下の振動周波数はどうだ?」
探知作業の監督に来た自衛官が、街灯の下で金属探知機を操作している隊員へ尋ねた。
「3~4ヘルツ程度です。かなり微弱ですが、まだ地震波と一致するレベルには達していません」
隊員が答える。
「本当にこの機械、信用できるのか? 別の振動が干渉していたらどうする?」
気性の荒い自衛隊員が苛立ったように言った。
「地上で干渉源になるような人間はすでに避難させています。工事も全て停止しています。それに現在検出されている振動と照合している地震波形は、当時の震災特有の波形です。通常なら誤検出はありません」
眼鏡をかけた自衛隊員が、手元の小型計測器に表示された微弱な振動波形を一瞥し、淡々と答えた。
彼は陸自の機器を整備・保守する技術者の一人だった。
この特殊な振動探知装置の内部構造と性能について、彼ほど詳しい人間はいない。
そのため、先ほどまで不満を漏らしていた隊員も、それ以上は何も言わなかった。
「しかし、突然現れた巨大怪物を相手に、これほど大規模な捜索をするのは初めてだな。今までこんなことはなかった」
「実は俺、時々思うんだよ。あの怪物が地下に潜んでいて、しかも体内に地震波と同じ周波数の振動源があるんだろ? まさか、またここで地震を起こすんじゃないだろうな」
「根拠のないことを勝手に言うな!」
視察を終えた自衛官が記録帳を閉じ、その隊員を厳しく睨んだ。
隊員はすぐに口を閉ざした。他の者たちも会話を止める。
「全員、作業を続けろ!」
自衛官は手を振った。
そして一人でその場を離れ、監視ステーションへ向かっていった。
残った隊員たちは互いに顔を見合わせる。
肩をすくめ、首を横に振った。
そして再び作業へ戻った。
自衛隊が地下探査へ全面的に投入されるようになると、各ステーションで監視を担当する陸自偵察隊員たちも、コンピューターに接続された複雑な高感度機器の調整を始めた。
画面に幾重ものレーダー波形が現れる。
調整作業を終えると、彼らはモニターの前に座り、何の反応も示さない平坦な波形をじっと見つめ続けた。
時間だけが過ぎていく。
だが、捜索は一向に進展しなかった。
各所に設置されたステーションの端末は正常に稼働している。
それでも画面上のレーダー波形は、いつもと変わらず静かなままだった。
自衛官が状況を確認しに来るたび、コンピューター画面の前に座る隊員から返ってくるのは、静かな首振りだけ。
報告を聞いた自衛官も頷くだけで、無言のままテントを出ていく。
そして空を見上げ、深いため息を吐く。
街角では、振動金属探知機を手にした自衛隊員たちが、同じ巡回作業を延々と繰り返していた。
「このまま続けて、本当に意味があるのか?」
長時間の探査に疲れた一人の自衛隊員が、とうとう口を開いた。
近くで探査していた隊員たちも、彼へ顔を向ける。
「もしあの怪物が、もうあの謎の赤い巨人に倒されていたとしたら……俺たちはここで無駄なことをしているだけじゃないのか?」
隊員たちは再び前を向いた。
誰も答えない。
ただ首を横に振り、手元の作業を続ける。
ただ一人――。
駿平だけは、その言葉を聞いた瞬間、短い沈黙に入った。
そして、ある瞬間。
ずっと手元の探知機と地面を見つめていた目が、ゆっくりと前方へ向けられる。
黒い瞳に反射する光。
その奥に、ごく微かな赤い光が混じっていた。
誰一人気づかなかった。
……
「もう六日か……」
部屋の隅に座った駿平は、窓の外を見た。
次第に暗くなっていく街。
駿平は顔を上げ、ため息を吐いた。
その声には、ここ数日ずっと胸の中に溜まり続けていた疲労が滲んでいる。
横浜市地下の捜索が始まって、すでに六日。
しかし、いまだに何一つ成果は出ていない。
その間、神戸市の地上構造に深刻な損傷を与える可能性を考慮しなければ、危うく大型掘削機を投入して市内地下を直接掘り返すところだった。
地下捜索が一向に進まないことで、避難区域の住民たちの不満も次第に膨れ上がっていた。
現在、横浜市の安全確保を担当していた自衛隊も、少しずつ封鎖線を解除している。
残ったのは、警視庁の警察官とともに市内の安全監視を担当する少数の隊員だけだった。
そのため、駿平にもようやく短い休息の時間が与えられた。
家へ戻ってきたのだ。
だが地下に潜み、行方をくらませているあの怪物に対する警戒を、駿平は一度も解いていなかった。
それでも、自分自身には何の手掛かりもない。
その時、玄関の扉が突然開いた。
ピンク色の服を着た女性が入ってくる。
祥子だった。
彼女は一目で、部屋の隅に座り、黙って考え込んでいる駿平を見つけた。
そして、見る者の心まで穏やかにするような笑顔を浮かべた。
靴を素早く脱ぐ。
手には、包装紙に包まれた何かを持っていた。
祥子はそれを大切そうに抱えながら、駿平のところへ歩いてくる。
「はい!」
「ん?」
差し出されたものを見て、駿平は首を傾げた。
よく見る。
それは一本のパンだった。
「駿平、ずっと何も食べていなかったでしょう?街の封鎖が解除されてから、一部のお店も少しずつ営業を再開しているの。近所でずっと探して、やっと閉店間際のパン屋さんを見つけたから、いくつか買ってきた。駿平が一番好きな味よ」
「ありがとう、祥子!」
駿平は祥子からパンを受け取った。
包装紙に触れる。
そこにはまだ、焼きたてのような温もりが残っていた。
そして、ほのかな香り。
その感触に、駿平の胸へ温かなものが広がっていく。
包装を開き、大きく口を開けてパンを頬張った。
夢中で食べる駿平を見て、祥子は小さく笑った。
自分もようやく、彼のために何かできた。
そんな気持ちだった。
「ねえ、駿平。私、ずっと一つ気になっていたことがあるの」
「……?」
「駿平には、あんなに不思議な力があるでしょう? だったら、どうして自分であの怪物を探してみないの?」
「……」
駿平は口元についたパンくずを拭った。
二本の指をこめかみに当てる。
そして再び沈黙した。
「どうしたの?」
「実は……ここ数日、何度も試している」
駿平の表情が次第に険しくなる。
「でも……どうしても見つからない。前に河口湖で起きた時と同じだ。あいつは神戸で、まるで最初から存在しなかったみたいに消えてしまった」
窓の外を見る。
すでに街は完全な夜に包まれていた。
「しかも今回は、前よりずっと徹底している。今になっても、俺はあいつの痕跡を一つも掴めていない」
「そんな……」
「……あいつは、前の出来事を経験して……さらに賢くなったんだ」
駿平は暗闇に沈んだ街を見つめながら、何かを考えるように呟いた。
「……あいつは、これまでの戦いを経験して……さらに賢くなったんだ」
駿平は、暗闇に沈んだ街を見つめながら呟いた。
河口湖での戦いを思い返す。あの時も、スパイダーオルガメントは突然姿を現し、駿平たちを襲った。そして、戦闘が終わるとまるで最初からそこに存在しなかったかのように痕跡を消した。
今回も同じ。自衛隊が大規模な捜索を行い、地下を隅々まで調べても、怪物の居場所は見つからない。駿平自身がネイバースの力で意識を集中させても、その存在を感じ取ることすらできなかった。
まるで、何者かが意図的にその気配を隠しているかのように。
「駿平……」
祥子が心配そうに声をかけた。
駿平はすぐには答えなかった。
自分の中に宿る赤い光。その力を使えば、普通の人間には分からない何かを感じ取れるはずだった。実際、これまでにも何度か、その力によって危機を察知してきた。
それなのに、今は何も分からない。
相手がどこにいるのか。何を考えているのか。そして、次に何をしようとしているのか。
手掛かりは、何一つなかった。
「大丈夫よ」
祥子はそっと駿平の隣に腰を下ろした。
「きっと、何か方法があるはずだから」
「……ああ」
駿平は短く答えた。
けれど、その目は依然として窓の外を見つめていた。
静まり返った横浜の街。その地下のどこかに、あの怪物が潜んでいる。
そして駿平は、まだ知らなかった。
怪物の行方を追うこの捜索が、自分自身の過去と、十七年前の大災害に隠された真実へとつながっていることを。
夜は、静かに更けていった。