江ノ島に到着した陸上自衛隊の装甲車は、島内の市街地から少し離れた地点で停止した。
15名の隊員が車両から降り、一列に並ぶ。肩には突撃銃。全員が自衛官の指示を待っていた。
「江ノ島は……表面上は特に異常がない。いつも通りだ。観光地としても、実に穏やかな場所だな」
自衛官は隊員たちを背にして歩きながら、周囲の空気を深く吸い込んだ。
「上がここを調査すると強く主張しなければ、最近発生している一連の怪物事件と、この島を結びつけることなど到底できなかっただろう」
「長官」
側近の一人が、いつまでも指示を出さない自衛官の隣へ歩み寄った。
「時間がありません。研究班もこちらの調査結果を待っています」
自衛官は頷いた。
そして表情を一変させ、15名の隊員へ向き直った。
「今回、江ノ島へ来た目的は、横浜周辺で相次いでいる一連の異常事件の調査だ。怪しいと思われる箇所は一つたりとも見落とすな。何らかの異常を発見した場合は、ただちに報告すること」
自衛官は、全員に配布された小型震波探知機を確認した。
「全員に小型震波探知機を配備している。なるべく単独行動は避けろ。そして、調査中は現地住民の生活を決して乱すな」
「了解!」
隊員たちは3つの班へ分かれ、それぞれ島内の各地点へ向けて進み始めた。
ところが、江ノ島での調査は思うように進まなかった。
今回派遣されたのは、陸上自衛隊の中でも特に偵察任務を得意とする精鋭たちだった。
にもかかわらず、島内の各地点をくまなく調べても、手にした小型探知機は一度たりとも反応を示さなかった。
駿平を含む隊員たちは困惑した。
機器に問題があるのか、それとも、この島には本当に何の異常もないのか。
それでも彼らは、当初の命令に従って調査を続けた。
やがて、一行は島内の施設が集まる区域へ到着した。
整えられた景観。手入れの行き届いた植物。潮風に混じって漂う花々の香り。
その芳香に包まれ、張り詰めていた駿平の心は一瞬だけ穏やかになった。
だが、それもほんの一瞬だった。すぐに警戒心が戻ってくる。
駿平には分かっていた。この穏やかさの裏側には、どこか危険な気配が漂っている。
まだ、気を抜いてはいけない。
同じ班の隊員と目を合わせ、互いに頷き合った。
そのとき、駿平は基地で耳にした自衛官たちの会話を思い返した。
記憶の断片が、突然、一つの場所へと繋がった。
「カトリック……」
駿平は小さく呟いた。
「……レクイエム・ミサ」
そうだ。
この島には、小さな教会がある。
もし死者のためにカトリック式の鎮魂の儀式が行われているのなら、可能性が高いのは。
「海の教会……!」
その名前が頭に浮かんだ瞬間、駿平は目的地へ向かって走り出した。
「震災で亡くなられた方ですか?ええ、確かにいました。ただ……そのほとんどは、この地域の方です。横浜から遺体を運んできて、ここでレクイエム・ミサを行ったという話は聞いていませんね」
教会の管理人は、事情を尋ねる駿平にそう答えた。
「そうですか……」
駿平は頷いた。眉間がわずかに寄る。疑念は、さらに深まっていった。
「では、遺体はどこに行ったんだ……?誰かが勘違いしているのか。それとも、そもそもそんな事実はなかったのか……あるいは、運搬の途中で何かあった?」
駿平は小声で呟いた。
「それにしても、この件で自衛隊までここへ来るとは。ご苦労様ですね」
管理人はそう言うと、少し笑った。
「それでは、ほかに用事がないのでしたら、私は失礼します。今日は比較的人も少なくて静かですし……よろしければ、この教会を少しご案内しましょうか?建設された経緯などもご説明できますよ」
「いえ、結構です。お誘いありがとうございます。ただ、こちらもまだ任務がありますので」
「そうですか。それでは、ご自由に」
駿平は軽く頭を下げ、立ち去ろうとした。
だが、教会の扉を出る直前、もう一度だけ振り返った。
教会内部。広間の装飾から全体の構造まで、すべてが異様なほど簡潔で、清潔に整えられている。
そして管理人の言葉通り、人がほとんどいない今は、静寂そのものだった。
静かすぎる。それが逆に、不気味だった。
駿平はわずかに歩みを止めた。教会の天井から差し込む十字形の影が、正面の壁へ投影されていた。
二本の小さなクリスマスツリーの影の間に、端正で神聖な十字架が立っている。
それを見つめた瞬間。駿平には、その姿が奇妙に歪んで見えた。
まるで――燃え盛る炎。
炎が揺らめくたび、その十字架の上に青い光が浮かんだ。
まるで、こちらへ向かって瞬きをしているようだった。
「うっ……!」
その瞬間、駿平は自分が海の中へ沈み込んでいくような感覚に襲われた。
燃え上がる死の海。
その中で、無数の亡霊たちが絶叫している。
震災で命を落とした人々。
彼らが、駿平自身を飲み込もうとしていた。
まるで、少し前に見た夢と同じだった。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
呼吸が激しくなる。
駿平が喘いでいると、教会の管理人の不審そうな声が聞こえた。
「どうしました?大丈夫ですか?」
その声によって、駿平は我に返った。
思考の深淵から引き戻される。
「……大丈夫です。大丈夫」
「顔色がよくありませんよ。少し休まれたらどうです? お疲れなんでしょう」
「いえ、大丈夫です」
駿平は何度も手を振った。
そしてもう一度、あの不気味な十字架を見た。
ここに長居してはいけない。
そう判断した駿平は足早に教会を出て、階段を上った。
教会を出ても、駿平の心は困惑の霧に包まれたままだった。
昼間の太陽の金色の光が、江ノ島の海辺に降り注いでいた。海風に揺れる木々と、陽光を反射する海面。穏やかな景色は、先ほど教会の中で感じた異様な気配など、初めから存在しなかったかのようだった。
駿平は南へ向かって歩きながら、別の班に所属する陸上自衛隊の調査員とすれ違った。
互いに軽く挨拶を交わす。
やがて、駿平は道路の入口へ到着した。そこには、今回の調査のために一時的に手配されたタクシーが待機していた。
駿平は後部座席へ乗り込んだ。
車窓から景色を眺めながら、頭の中では思考が波のように押し寄せていた。
探知機には、一度も反応がなかった。
あの青い光は、本当にこの島とは関係ないのか?
震災犠牲者の遺体についても、ただの推測にすぎなかったのか?
もしかすると、調査はもう終盤かもしれない。ここで調査を続けても、あまり意味はない。明日には横浜へ戻り、青い光の行方を探せばいい。
だが。
「……どうしても、何かがおかしい気がする」
駿平は小さく呟いた。
片瀬海岸にある教会。
あそこで感じた、あの強烈な違和感が再び蘇る。
まだ何か、見落としている。
タクシーは江ノ島から離れ、海沿いの道路を進んでいった。
やがて交差点を曲がり、島の周辺を巡る道へと進路を変える。
気づけば、二十分ほどが経過していた。
考え続けていた駿平の顔には、いつの間にか僅かな眠気が浮かんでいた。
少しだけ眠ろう。そう思い、目を閉じかけた。
その瞬間――
頭の中を、激しい耳鳴りが突き抜けた。
『駿平!』
ネイバースの声で眠気が一瞬で吹き飛ぶ。
「止めてください!」
駿平は反射的に運転手へ叫んだ。
タクシーが急停止する。訓練を受けた駿平でさえ、慣性によって身体が前へ持っていかれた。だが、そんなことを気にしている暇はなかった。
駿平は目を僅かに閉じ、体内に宿る赤い光から意識へ伝わってくる情報を感じ取った。
赤い光を帯びた瞳が、車窓の外に広がる景色を走査する。
そして、その視線が一つの場所で止まった。
江島神社
――古く、そして非常に有名な神社。
タクシーを降りた駿平は、その神社の入口まで早足で駆けていった。
正門の向こうを見渡す。
そこには、柵のように立ち並ぶ樹木に囲まれた古い社殿があった。
手元の小型震波探知機を確認する。
――やはり、反応はない。
それでも、体内で先ほど起きた激しい反応が告げていた。
「お前も感じたか?」
『ああ、間違いない。全てはここにいる。そしてそれは、私が追って来たものだ』
「お前が?」
「君も知っているはずだ。湖で意識を失っていた時、夢の中で」
思い出した。河口湖でスパイダーオルガメントと戦って意識を失った後、夢の中で赤と青の光流を見た。それと同じ感覚がする。
間違いない。
すべての秘密は、ここにある。
駿平はそのまま中へ入ろうとした。
「申し訳ありません。現在、江島神社では境内の一部で重要な改修作業を行っております。一般の参拝客の方は、こちらから先へお進みいただけません」
正門に立っていた二人の神社職員が、駿平を制止した。
駿平は正式な自衛隊の服装では動きにくいと考え、ジャケットと軍用ヘルメットをタクシーの中に置いてきていた。
今はグレーグリーンの半袖シャツ一枚。そのため、一見しただけでは陸上自衛隊の隊員とは分からない。
「突然お邪魔して申し訳ありません。ただ、こちらも任務中なんです。中へ入らせてもらえませんか?」
駿平は二人に身分証を提示した。
「自衛隊の方でしたか。しかし、それでも中へ入れるわけにはいきません。現在、内部で重要な改修作業を行っています」
「改修? こんなに古い神社を改修しているなんて、聞いたことがありませんが」
「これは神社内部の事情です。作業の邪魔をしないでいただきたい。これ以上騒ぎ立てるなら、そちらの上官へ報告しますよ」
妙に威圧するような口調だった。
駿平は怯みこそしなかったが、勝手に強行するわけにもいかない。
正門の外で、二人の神社職員と睨み合う形になった。
「何かありましたか?」
そこへ偶然通りかかった陸上自衛隊の隊員が、駿平の姿に気づいて近づいてきた。
事情を聞いた隊員は、どこか迷うような表情を浮かべた。
しばらくして、駿平へ小声で告げる。
「不動、ここには入らないほうがいい。ここへ来たときにも言われただろ。現地の生活を邪魔するなって。それに……こういう場所だ」
隊員は正門脇に立てられた看板を指差した。
そこには、目立つ文字でこう記されていた。
――魂霊安眠之地、切勿驚擾。
魂霊の眠る場所。決して騒がせてはならない。
駿平は何も言わなかった。
ただ、江島神社の門をじっと見つめていた。
その瞳には、複雑な光が揺れていた。
『ここで間違いないんだな?』
『そうだ。私が追跡していたものは確かにここに存在している』
探知機は沈黙したまま。だがネイバースは確かにここだと告げている。
そして、教会で目にした青い光と、燃え盛る死の海の幻影。
それらが何を意味しているのか、駿平にはまだ分からなかった。
だが、これ以上ここを離れるわけにはいかなかった。
そのとき、背後から声がした。
「不動、調査に戻るぞ。ここで揉めても仕方がない」
先ほどの隊員が促す。
駿平は返事をせず、もう一度、正門の奥へ視線を向けた。
体内の赤い光は、まだ静まっていなかった。
――ここにいる。
ネイバースの言葉が、意識の奥に蘇る。
そして、それはネイバースが追ってきたものだという。
駿平は拳を握った。ここで引き下がるわけにはいかない。だが、神社の職員を押しのけて進めば、調査そのものに支障が出る可能性もあった。
彼は門から目を離さないまま、静かに息を吐いた。