駿平たちが江ノ島を調査しているのと同時刻。
野毛山。突如発生した異常寒波により果てしなく広がる雪原。
飛原了は、最後に背後を振り返った。
そこには、まるで凍りついたかのような松林が広がっていた。
そして再び前を向く。彼の横には、底の見えない峡谷が口を開けていた。二つの、さらに高い雪峰の間に挟まれるようにして存在する深い谷だった。
了は顔を上げた。
眼前の空は雪煙で白く霞んでいる。
その光景を見ているうちに、彼はふと昔の記憶を思い出した。
ある冬の日の午後。横浜海浜公園。
確か、クリスマスの少し前だった。
あの頃の彼は、一人の少女のために特別なクリスマスプレゼントを用意しようとしていた。
最高の雪景色を写した一枚の写真。
当時、海浜公園の海は一面凍りついていた。真っ白で滑らかな氷の上は、巨大なスケートリンクのようだった。
その上空からも、今と同じように雪が降っていた。
白鳥の羽毛のような雪。
それが、世界で最もロマンチックな景色を作り出していた。
あの優しい少女と一緒に、この世で絵の中にしか存在しないような美しい景色を眺めたかった。
だが、その機会は二度と訪れなかった。
了はバックパックからカメラを取り出し、部品を組み立てた。
そして周囲を見回す。
向かい側の雪嶺、その右側。
そこに適切な撮影ポイントを見つけ、シャッターを切った。
野毛山へ登って最初の一枚。
その瞬間だった。
隣の山に大量に積もっていた雪が、突然、滝のように山頂から崩れ落ちた。
舞い上がる雪煙。大量の雪が巨大な雪玉となって斜面を転がり、長い白い尾を引きながら、まるで彗星のように谷底へ向かって突進していく。
雪の彗星が谷底へ激突した。
雷鳴のような轟音が山中へ響き渡る。
了の立つ雪嶺まで、地面が震えた。
小規模な雪崩そのものは、了に大きな影響を与えなかった。
しかし、あの雷鳴のような轟音が、彼の神経を激しく刺激した。
そして、ずっと心の奥へ押し込めていた何かが、記憶の無意識から浮かび上がった。
あの1月1日の夜。駿平と電話で話す直前のことだった。
「うぅ……ああああっ!どうしてだよ!鞘香……どうして彼女が死ななきゃいけないんだ!あんなに優しくて、いい子だったのに……どうして彼女を奪うんだよ!」
暗い部屋。
了は真っ黒な窓の外を見つめていた。
そして頭を掻きむしり、膝へ顔を埋めた。
崩れ落ちるように泣き叫んでいた。
「もしできるなら……俺のすべてを差し出してもいい。鞘香をもう一度、生き返らせたい。鞘香に生きていてほしい。もう一度、会いたい……!」
すすり泣きながら、了は顔を上げた。
暗い天井を見つめる。
そこに存在するはずのない何かへ向かって、何度も呟いた。
「会いたい……会いたいよ……」
泣き疲れた身体は、さらに力を失っていく。
やがて、泣き声も呟きも止まった。
睡魔が神経を伝い、意識をゆっくりと侵食していく。
そのまま眠りへ落ちようとした――そのときだった。
半ば閉じかけていた了の瞳に、何かが聞こえた。
それは知らない女の呼び声。
誘い。
彼の心の底にある、強烈な願いへ応える声だった。
――彼女を生かしたいのなら。
「誰だ?」
了は疑問を抱いた。
同時に恐怖も覚えた。
こんな暗く、死んだように静かな場所へ、誰かが入ってくるはずがない。
それなのに、その声だけはあまりにも現実的だった。
「クスクス……」
疑念と恐怖が生まれた、その瞬間。
部屋の中に、細く、かすかな、どこか艶めいた笑い声が響いた。
了は声のした方向を振り向いた。
そこに少女の姿があった。
部屋の隅。現れては消え、消えては現れる。
その顔には、不気味でありながら、どこか見覚えのある優しい笑みが浮かんでいた。
「鞘香……!?」
ずっと心から離れなかった少女。その姿を見た了は、驚きと喜びに震えた。
だが、同時に怖かった。
これは幻なのではないか。
いつ消えてしまうか分からない。
それでも――
たとえ幻だったとしても、少しでも長くここにいてほしかった。
それだけが、彼がこの世界で人間として生き続けるための最後の支えだった。
そのとき。あの声が、再び了の頭の中へ響いた。
――彼女を生かせ。
「クスクス……」
鞘香は不気味な笑みを浮かべたまま、ゆっくりと消えていく。
姿は消えても、その声と面影だけは、了の心と記憶に深く刻み込まれた。
いつまでも消えなかった。
「鞘香は……本当に死んだのか?」
了は呟いた。
「違う。彼女は生きている。あんなふうに死んでいいはずがない……!」
重い現実の前で、失われていた何かが、執念のような形となって了の心の中で目を覚ました。
優しく自分の傷を手当てしてくれた少女。
静かに、悲しげな曲を奏でていた少女。
その面影が目の前に蘇る。
強烈な記憶は衝動へ変わり、了の瞳には赤い血管が浮かび上がった。
彼は突然、雪峰の奥を見つめた。
そして、カメラを手放した。
カメラは雪に覆われた草地を転がっていった。
――あの巨大な猟犬と遭遇したとき。
あの青い光を見た瞬間。
彼は再び、あの声を聞いていた。
『あの少女に会いたい』
その願いに応える声。
了の心の奥にある最も強い欲望を呼び覚ます声。
――彼女を生かせ。
――それが貴様の願いだ。
――余に従え。
――お前の心の本能に従え。
――そうすれば、その願いは叶う。
あのときも。
そして、それより以前も。
了はずっと迷っていた。
あれは本当に自分の幻覚なのか。
それとも心の奥に潜む得体の知れない何かが、自分を現実ではない深淵へ引きずり込もうとしているのか。
その恐怖があった。
やがて、あの光はいつの間にか、彼が持ち歩いていたバッグへ取り憑くようになった。
声とともに、時折、了の心の奥へ浮かび上がる。
了は、まず自分がかつて夢見たカメラマンとしての夢。
その最後の仕事を終えようとした。
そして、その後で声に応えようと考えた。
だから、ここへ来る途中、光と声を一時的に意識の奥へ押し込めていたのだ。
しかし今、その記憶が再び蘇った。
もう、現実の中で苦しみ続けることに耐えられなかった。
そのとき、青い光が、了の目の前に現れた。
吹雪の中で、見え隠れする。
まるで小さな炎のようだった。
「光……」
了は光を見つめた。
「もし駿平が、光によって自分がヒーローになるという夢を叶えたのなら……俺も、この光を使って鞘香を……」
そこで言葉を止める。
そして、確信したように呟いた。
「そうだ、そうだよ!これが俺の願いなんだ!」
心の奥底にあった願望が、限界まで膨れ上がっていく。
青い光もまた、明滅を繰り返す状態から、徐々に強烈な輝きを放ち始めた。
妖艶な花が開くように、青い光が広がっていく。
その中心。
そこには、一人の少女の姿が徐々に浮かび上がっていた。
「来い……光よ!」
了の瞳が、ますます強くなる青い光を反射する。
「俺の願いを叶えてくれ!」
青い光が膨張する。
そして――
すべてを明るい青の中へ飲み込んでいった。
荒れ狂う海のように。
了自身さえも、その光の中へ呑み込んでいった。
午後六時。
薄く雪の積もった平地に、一台の臨時レンタルのキャンピングカーが停まっていた。
白い厚手の防寒着を着た男性が、灰色の雲と吹雪に覆われた野毛山を見つめている。険しい表情には、山の天候を案じる色が浮かんでいた。
「うーん……救助隊にはすでに向かってもらっているが、これだけ風雪が強いとなると、何か起きないとも限らないな」
男性は外で冷たい空気を何度か吸い込んだ。医師である彼の身体が、ブルッと震える。
やはり車内へ戻ったほうがいい。そう考えて歩き出した、その瞬間だった。
「……ん?」
登山口。
吹き荒れる雪風の向こうに、何か人影が見えた。
こちらへ向かって歩いてくる。
医師が目を凝らした、次の瞬間。
突然、激しいめまいが脳を襲った。身体から力が抜けていく。それと同時に、内臓そのものが巨大な熱波の中でかき回されているような感覚が全身を駆け巡った。
視界が暗転する。
次の瞬間、医師はその場へ崩れ落ちた。
倒れた身体を、強烈な窒息感が包み込んでいく。
霞んでいく意識の中、医師は一つの音を聞いた。
まるで死の直前に見る幻のように。
それは、かつて聞いたことのある、とても馴染み深い曲だった。
やがて、その瞳から完全に生命の光が消えた。
そして、吹雪の中を歩いてきた人影が姿を現した。
もし医師がまだ意識を保っていたなら、間違いなく気づいただろう。
自分たちと一緒に来ていた、あの金持ちの青年だったと。
吹雪の中に現れた青年は、以前と何も変わっていない。厚い防寒着を身にまとい、無表情のまま歩いている。
ただ一つ。
大切な宝物のように持ち歩いていたカメラが、どこにも見当たらなかった。
そして、よく見るとその瞳の奥から、時折、青い光が漏れ出していた。
見る者に言いようのない不気味さと恐怖を感じさせる光だった。
青年は足元に倒れている医師の死体を見ても、何の感情も示さなかった。
ただ視線を横へ移す。そこには、吹雪の中からこちらへ歩いてくる、もう一つの人影があった。
輪郭から察するに、女性のようだった。
青年は微笑んだ。
瞳に宿る青い光。全身から滲み出る異様な気配。
それらが重なり合い、まるで歪んだ「幸福」を形作っていた。
やがて、空に響き渡る荘厳な聖歌に導かれるように、青年と女は穂高山の出口へ向かって歩き始めた。
二人の背中は、白い雪の彼方へと徐々に消えていった。